ええっ!? 無視ですかっ?
幕田も此処に泊まることになったので、晴比古たちは幕田を部屋に連れて行き、休ませた。
志貴は地元警察に話を訊きに行き、俊哉は新田に首根っこつままれて、帰らされた。
「入浴券買ったんだから、俺もお客様っすよ~っ」
「もう風呂入っただろ、帰れ」
とやり合いながら。
菜切もようやく仕事に戻り、晴比古はひとり、状況を整理するかと、ロビーの片隅にある今どきの小洒落たマッサージチェアに腰掛けた。
眼下に広がる緑を眺めながら、考え事をしていると、風呂上がりの深鈴がやって来た。
晴比古は暑いので、とりあえず、浴衣を着ていたのだが。
深鈴もまた浴衣だった。
高校の修学旅行のとき、風呂上がりの女子たちが色っぽいから覗きに行くという阿呆な友人たちに連れられ。
彼女らが通る売店の前を意味もなくウロウロしていたことを思い出す。
……今、湯上がりの深鈴を見られただけで、此処に来た甲斐があったな、と思ってしまった。
なんも変わってねー、あの頃から、と思う自分の心の内にも気づかずに、深鈴は微笑み、
「先生、そうしてると、文豪みたいですね」
とよくわからないことを言う。
なんでだ。
此処が避暑地のような宿だからか?
深鈴の中で、昔の文豪はそういうところで着物で執筆していたイメージなのだろう。
しかし、何故、俺が文豪……。
報告書を書くのでさえ面倒臭い人間なのに、と思いながら、
「お前の文豪の基準はなんだ、深鈴」
と問うてみた。
すると、深鈴は少し考え、
「着物が似合って。
少し渋めで知的なイケメン、ですかね」
と言う。
着物じゃないのだが。
この浴衣が丁子染めのような渋い色だからだろうか。
「……イケメンでない物書きはどうなる」
「文豪じゃないんでしょう」
……無茶を言うな。
だがまあ、男前かどうかはともかくとして、一本芯の通っている人間はいい顔をしている。
そういう意味でも志貴は男前だな、と思う。
方向性は常に妙だが、何事にも迷いがないから。
深鈴が一番、事件は二番。
大丈夫なのか、刑事として、と思いながら、もう何年もつきあっているはずの恋人と嬉しそうに話す志貴はなんだか可愛い。
……相手が深鈴でなければ、もっと素直に応援できるのだが。
「ところで、先生、なんであんなこと言ったんです?
どんな結果になるかわからないなんて」
その台詞を聞いたときから、彼女の中では引っかかっていたのだろうが、ようやく二人きりになったので、訊いてきたようだった。
晴比古が黙っていると、
「先生、もしかして、もう犯人、わかってるんじゃありません?」
と深鈴は言う。
晴比古は溜息をつき、立ち上がった。
「犯人は知らない。
深鈴、座ってみろ。
気持ちいいぞ」
そう言い、マッサージチェアを勧めたが、深鈴は、ええーっ? と眉をひそめる。
「私、肩とかこらないんで、そういうのくすぐったいだけなんですよー」
まあ、こいつ、姿勢がいいしな、と思った。
姿勢がいいと肩がこりにくいというから。
「とりあえず、さっき言ってた殺人犯の話が気になるな。
志貴が警察から帰るまで、そっち調べてみるか。
早く解決しないと、長逗留になってしまう。
年寄りから余分な金貰うのは気が引けるからな」
と言うと、そうですね、と深鈴は笑った。
殺すべきか。
殺さざるべきか。
それが問題だ――。
先生は幕田さんのところに様子を見に行ってしまった。
部屋でくつろいでいるところに女が行くのも悪いしな、と思った深鈴は遠慮し、ひとり自室に戻ろうとしていた。
廊下の両側にはずらりと部屋に並んでいて、窓はない。
古い蛍光灯の灯りは少し薄暗かった。
菜切に聞いた話や、夕暮れの仏像群を思い出した深鈴は、突き当たりの白い壁の前に、勝手に怖い幻を見る。
ぞくりとしたとき、
「亮灯!」
といきなり誰かが自分を呼んだ。
いや、誰かって。
あの人しか居ないのだが。
晴比古先生には、亮灯と呼ぶことは禁じているし。
振り返ると、案の定、志貴が嬉しそうに手を振り、こちらに来るところだった。
どうやら、警察から戻ってきたようだ。
一応、此処では部外者なので、どの程度の話が聞けたのかはわからないが。
「もう~、志貴ったら」
此処で亮灯と呼ぶなと文句を言おうとした深鈴の手を取り、志貴は言う。
「大丈夫?
晴比古先生になにもされなかった?」
いきなり、それか……と苦笑いしながら、深鈴は、
「志貴。
誰が聞いてるかわからないのに、その名で呼ばないでって言ったじゃない」
と
「大丈夫。
誰も居ないよ」
と志貴は廊下なのに、抱き締めて来ようとする。
駄目よ、と押し返そうとする自分に、
「なんのために僕が此処まで来たと思ってるんだよ」
と志貴は文句を言ってくる。
そういえば、志貴は、事件のために来たわけでも、仏像を探しに来たわけでもなかったな、と気づいた。
「僕は亮灯に会いに来たんだよ。
なのに、なに?
なんでそんなにつれないの?
やっぱり、僕より、晴比古先生の方がよくなった?
わかったよ。
今すぐ、晴比古先生を殺してくるよ」
「待ったっ、志貴っ」
志貴は、つらつらと言ったかと思うと、すぐに
迷いなくやるっ。
この人はやるっ。
深鈴は慌てて、志貴の腕を掴んだ。
「志貴、いつも言ってるでしょ。
私が好きなのは志貴だけだって」
「ほんとに?」
とすぐに足を止め、振り向いた志貴に、深鈴は、あれ? なんかはめられた? と思った。
「じゃあ、今すぐ、此処でキスしてよ」
そう志貴は言ってくる。
えーと……。
「早く。
十秒以内にしなかったら、晴比古先生、殺すから」
この人、刑事の自覚はあるのだろうかな?
「大丈夫。
晴比古先生でも解けないトリック使って殺すから」
もう考えてある、などと物騒なことを言い出す。
「いやあの、その場合、先生殺されてるから、謎解かないわよね。
っていうか、いつも謎解いてるの私で、先生、犯人見つけてるだけなんだけど」
もう~、しょうがないなあ、と言いながら、志貴の腕に触れ直すと、志貴が笑う。
こういう顔は好きなんだけどな、と思いながらも、廊下なので照れてキスなど出来ない。
そもそも自分からすることなどあまりないし。
「ほら、亮灯。
10……」
きゃああああああっ。
階下から悲鳴が聞こえてきた。
えっ? 今っ!? と思いながら、
「志貴、悲鳴が」
と言ったのだが。
「9……」
ええっ?
無視!?
「誰かっ。
誰か来てっ」
バタバタと人が走る音がする。
「8……」
「志貴っ」
「どうしたっ!?」
と下から聞き慣れた声が聞こえてきた。
ああ、先生がもう行ってる~っ!
「7……」
「わかったっ。
もうっ、わかったからっ」
軽く背伸びをして、少しだけ志貴の唇に触れてみた。
すぐに離れたので、怒るかと思ったが、志貴は、それだけで満足したようで、
「早く行こう、亮灯」
と手を握ってくる。
いやだから。
貴方ですよね。
貴方が引き止めてたんですよね~っ、と思いながら、深鈴は志貴に手を引かれ、階段に向かい、駆け出した。
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