阿伽陀って、妙薬のことだよね

 




「陸、まだ居たの」


 食堂で呑気にコーヒーを飲んでいる陸を見つけ、亮灯は言った。


「ドラマだと捕まったら、すぐ居なくなるのにね」

と言うと、陸の前に座っていた志貴ではない若い刑事が苦笑いしていた。


「現場検証があるんだって」

と言う陸に、ふうん、と言ったあとで、


「でも、ちょうどよかったわ。

 貴方は二、三日前から此処に泊まっていたのよね」


「そうだよ。

 ウォーキングしたかったし。


 早希が知ったかぶりが出来るように、この辺りのこと、調べておいてって言うから。


 あとちょっと、結婚前に羽根を伸ばそうかなあって」


 あ、と言い、付け加える。


「女の子に声かけるためじゃないよ」


 聞いてないし、と思った。


「それで、浅海さんとは、何処で死体の運搬の話したの?」


「樹海歩いてるときにだよ。

 ちょっと来てくださいって言われて、遊歩道外れようとするから、びびったけどさ」


「美少女の頼みは断れないわよね」


 そうなんだよー、と陸は笑っている。


「……私なら、この男のために、宿泊費、出さないわ」

と呟く。


「陸は此処で食事してたのよね」


「他に何処にも行けないじゃない」

と言う陸に、まあ、そうか、と思った。


 車で来ていなければ、気軽にこのホテルからは出られない。


 周りは樹海だ。


「聞いてみるんだけど、最初の、二日くらい。

 誰が食堂に居た?」


「え?

 ああ。


 客?」


「……客もスタッフもよ」


 驚いたことに、陸はあっさりその質問に答えた。


「陸、凄いじゃないの」

と言うと、


「記憶力はいいんだよね。

 思考力はないけど」

と笑顔で言う。


 いや、威張るところではないが、と思いながらも素直に感嘆し、礼を言う。


「見直した?」


「うん。

 いや……貴方が凄いのはわかってたわ」

と言うと、そう? と不審げに眉をひそめる。


 とてもそのような態度に見えなかったからだろう。


 いや、そんなことはない。


 わかっていた。


 だって、陸は私の本名を知っているのに、一度も亮灯と呼んでいない。


 志貴のように最初から緊張感を持って、この場に望んでいるわけでもないのに。


 誰でも一度はうっかりミスしそうなものなのに。


 人前でなくとも、深鈴と呼べと言ったら、陸は、あれから、一度も間違えずに、深鈴と呼んでいる。


 志貴が亮灯と呼んでいるときもつられずに。


「ありがとう、陸」


「いやいや。

 じゃあ、お礼に、僕らにいい弁護士紹介してね」


 はいはい、と言って、刑事に頭を下げ、その場を離れる。


 周囲を見回した。


 志貴が城島と笑いながら、壁にかけてあるボウガンを見て、なにか話しているのが見えた。


 手招きすると、さりげなく、こちらに来る。


 笑顔だった志貴だが陰に入ると、その笑顔を止めてしまった。


「来て」

と志貴の方から、亮灯の手を引き、二階の志貴の部屋へと連れていく。


「あのね。

 今更かもしれないけど、私たち、他人のふりしてないと」


「もう知り合ったでしょ。

 阿伽陀先生の助手として」


 そう志貴は素っ気なく言う。


「ねえ、亮灯。


 君に言われてから、僕は出来もしない犯罪を犯そうと頭の中で何度もシュミレーションしてみてたんだよ」


「なんで、貴方がシュミレーションするのよ。


 殺すのはわたしよ」


 譲らないわよ、と言うと、

「いや、そこを譲って欲しいわけじゃないんだけど」

と言った。


 っていうか、出来もしない犯罪って。


 高校生だった私を襲ったのは、犯罪じゃなかったのか、と思う。


「でも、今なら楽にやれそうな気がしてる」

と志貴は言った。


「君が僕を裏切るのなら、僕は今すぐ、犯罪者になるよ」


「なんの犯罪を犯す気よ。


 犯罪者になるって。


 志貴、恨みもないのに、悪いことなんてできないわよ」


「恨みならあるよ。

 君に裏切られた」


「……まだ裏切ってないわよ」


「まだって言ったね。


 これから裏切るかもしれない。


 君、僕より、阿伽陀先生の方が好きなんじゃない?」


 言われた瞬間、志貴の靴を踏みつけていた。


 だが、志貴は動じない。


「阿伽陀って、不死になったりするありがたい妙薬のことだよね。


 僕にはとってもありがたくもない薬だけどね」


「え」


「阿伽陀先生は、君の目を覚まさせようとしている。


 君を、ずっと囚われていたあの事件現場から、現実へと引き剥がそうとしてるんだ。


 犯罪者になっていい。


 君と一緒に落ちていっていい。


 君と僕だけの世界に、他のなにもいらないんだよ」


 僕らは犯罪でつながっている、という彼の腕に、

「志貴」

と触れると、志貴は軽く腰を屈め、唇を重ねてきた。


 が、すぐに離れる。


「志貴!」

と外から中本の声がした。


「はい」

と志貴は外にも聞こえるように返事をする。


 いつものように快活に。


 極普通の聞き分けのいい好青年のように。


 少し怖いと思っていた。


 この志貴の二面性がーー。






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