98『蛮勇引力』

「いらっしゃいませー」


 音もなく開いた自動ドアの奥から、溌溂としたバイトの女の子の声が響く。

 壁のメニューに目を滑らせる俺から2歩分遅れて、後ろからもう一度入店を歓迎する挨拶が聞こえた。

 席をぐるりと見渡すと、昼時という事もあってかそれなりに埋まり始めている。サンドイッチ、パンケーキ、コーヒー。注文する傍から手際よく作られ、会計が終わるころには下敷き大のトレイに整然と並び終えていた。手渡された軽めの昼食を手に案内された席は、偶然にもというべきか以前航空会社に電話した時に使った窓際のテーブルだった。

 椅子の数では4人掛けだが少し手狭なその一角にポケットから出した端末を放り、隣にトレイを置いて座る。向かい合った曇りひとつない窓の外では、昼時を迎えて少しだけその数を減らした車と人がのんびりと流れていく。平日が少しだけその慌ただしさを潜める時間、自然とひとつあくびが出た。

 目尻を擦る。出来るなら食事もそぞろに残った休憩時間で昼寝でもしたいところだが――


「今日はそうもいかない、と」


 呟いてサンドイッチを片手に端末をいじりだす。午後からは課長と一緒に営業ルートの打合せ。決め事にはさっき見せられたエリア、つまり鏑木から引き継いだ場所以外の検討も行う予定が入っている。さすがに予習全くなしの空手で向かうのは気が引けた。

 ……とは言っても。

 一応別のウインドウを開き、住宅地図と照らし合わせてみる。面積だけ見れば倍以上に広がった俺の担当エリア。土地柄こそ栄えているとは言い難いが、これだけ広ければ数えきれない程度には薬局だったり病院だったりは存在している。

 いや、この広さをひとりで抱えるなんて、どう考えても無理があるだろう。課長も「一緒に頑張ります」なんて言ってはいたが、困惑の色を隠しきれないその顔からは、たかだかひとり分手が増えたところでどうにもならない事が如実に伝わってきた気がした。

 

 ――どうしたもんかな、こりゃ。

 十中八九、この無茶ぶりの下手人は社長だ。かといって彼が俺に多大な期待を寄せているとは思えない。となればそこ以外でなにがしかの意図が込められているとは思うが、それが具体的に何なのかまでは考えが及びっこなかった。

 そうして10分弱、ひと口齧ったきりのサンドイッチの存在も忘れて顔に皺を寄せて唸っていると、隣のテーブルからカップの入ったトレイを置く控えめな音が耳に届く。

 その音に集中を切られた気がして、内心舌を打ちながら端末から顔を上げる。混んできたとは言えまだ席に充分余裕はあるというのに、わざわざ隣に来ることもない――


「ちょっと、いい?」


 なるほど、向こうにはわざわざ隣に座る必要性があった、というわけだ。目線を向けた先で椅子を引いていたのは三吾の令嬢だった。

 思わずあたりを見回す。同僚や上司の姿はない。ならばここでは仏頂面でこちらを睨んでくるこの女性を『月島美影』として接して問題はないだろう。

 

「……どしたんです?院長から連絡でも入りました?」


 こちらの問いかけに答える前に、彼女は目線を外さないままミルクのたっぷり入ったカフェオレをひと口含んだ。いくら外見が瓜二つでも彼女の事だ、美恵と違って恐らくマドラーに抵抗を覚えるほど砂糖をぶち込んでいるだろう。

 だが喉を鳴らしてこちらに目線を合わせた彼女の顔は、苦みをたっぷりと帯びたものだった。

 

「午後から、何とかして仕事抜けられない?」

「は?」


 思ってもみなかった誘いに声が上ずる。それが俺の容量の得なさを如実に表しすぎていたらしく、美影さんは苛立たし気にひとつ息を吐いて続けた。


「奴の居所を探るの。呑気に仕事してる場合じゃないことくらい、わかるでしょ?」


 恐らく意識はしていないだろうが、声のテンポが普段よりずいぶんと速い上、興奮からかトーンも高い――明らかに、気が急いているのが見え見えだった。


「……仕事してる場合じゃないとは、優等生の美恵さんらしからぬ発言で」

「茶化さないで」


 なるほど、こりゃわ。

 その予感も浮かんだ反論も、今は一旦保留。わざと見せつけるようにゆっくりサンドイッチの残りを頬張りながら、敢えて黙ったまま続きを待ってやる。


「カダーブルが出た事はもう社長も知ってる。目下彼の『草』が追跡してるって話だけど……絶えずその行方を捕捉し続けられているわけじゃないらしいの。タイミング窺っている間に足取りが掴めなくなる可能性だって、充分にある」

「それ、院長には?」

「もちろん言った。今朝もね。でも相変わらず『タイミングを待て』の一点張り……どうしてそこまで呑気でいられるのか」


 その頭の中が理解できないとばかりに、美影さんは奥歯を噛む。だが俺にはその心理がよくよく伝わってきた。それは今の彼女を見れば誰もが同じ危惧を抱くからだろう。


「ってえとこれから院長たちのサポート無しで、俺とアンタだけで奴を追うってことになりますよね」


 ゆっくりと、噛んで含ませるようにこちらも声のトーンを下げる。物騒な話を周りに聞かれたくないというのもあるが、それ以上に自分が何を言っているか、彼女に自覚させる必要があった。

 はたしてそれが功を奏しているのかいないのか。残念ながら迷いなく首を縦に振る彼女の反応からは窺い知れなかった。


「……それ、相当リスクのある選択だってこと解ってます?」

「承知の上よ。取るべき時にはリスクも許容しなければ、得るものも得られない」

「俺にはどうやったって、2人とも無事なまま奴を倒せるビジョンなんざ浮かばねえですけど」


 今俺達が倒すべき相手は、あらゆる意味で感覚が鋭敏だ。浮足立った隙を見逃すほど甘い相手ではない。

 半ば薬の衝動に理性を奪われてなお、こちらの尾行を察知した上逆手に取る手管。今思えば、あれは獣が危機を逃れるため、誰に教わるでもなく用いる――途中までわざと足跡を残し、ある地点で木に飛び移るなりして途絶えさせ、追跡者を攪乱するってやつ――それを獲物をおびき寄せる罠に転用してみせたものだった。

 それは知性ではなく、いわば狩りの本能がもたらした機転。彼女が奴と対峙した時間は俺より短いかもしれない。だがハンターとしての力量が単独でこちらを上回るという事実を肌で感じるには十二分だったはずだ。

 それを悟った上でまだ、美影さんは準備も半端なままに追い込みを掛けようとしている。つまるところ、その心は――


「……どちらかが無事なら、美恵は生き返る。私の目的は、達成できる」


 それ見ろ。捨て身というのもおこがましいわ。

 美影さんは自分が見せた覚悟に圧倒されているとでも思ったのだろうか。こちらが向ける半眼に込めた呆れにもまったく気づかない様子で、なんならその顔にどこか満足げなものさえも伺わせていた。

 目的を前に焦る自分の熱に浮かされてる、とでもいうべきか。とてもじゃないけど今の彼女に背中なんざ預ける気にならない。

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