『テルミーアバウトユアセルフ(18)』

 振り返りたくない過去をえぐり出すという行為は、いつだって鈍痛と苦みを与えてくる。それを日に2度も味わうのは結構な苦痛だった。

 同じ傷のリピート、あたかものこぎりの往復。

 だが慣れというのは恐ろしい。あるいはもはや痛みを感じるところが麻痺していたのかもしれない。どちらにせよ、皮肉にもそのおかげで嗚咽おえつつっかえる事もなくつらつらと話せていたと思う。

 幼いころからの小さな挫折の積み重ねが、自分の価値を削り取っていったこと。

 そうしてやせ細っていく自尊はやがて舞台の真ん中に立つ気概も失い、いつの間にか端役に徹するようになったこと。

 その中でどうにか見つけた隙間での生き方を、たった今他の誰でもない、自分を生み出した者によって切り捨てられたこと。


「許せなかったんだ。俺を丸ごと無意味だってまとめた親父の言葉が、一緒に一志や先輩も嘲ったみたいで」


 ――嘘だ。

 全てを吐き出し終えた最後に、敷地の奥まで届くほどに声を張り上げた理由を訊ねられて、噛みしめる歯ぎしりに悔しさを滲ませる……そんな自分を、心の隅に居座る冷めた目を浮かべたもうひとりの自分が即座に否定していた。

 あの時はそんな事考えちゃいなかっただろう。ただただ並びたてられる根も葉もある罵声の数々に耐え切れなくなっただけだ。

 それを今になって、まるでふたりのために義憤に駆られたかのような動機を後付けする理由。そんなものひとつしかない。

 だ。


「……」

「達也?」


 後悔と情けなさにまたも挟まる長い沈黙。もう合間を埋める飲み物も残っていないし、雨の音は長く続き過ぎて、ノイズとしての役柄すらとっくに失っている。

 だが今更口をつぐんだところで、もう吐き出してしまった言葉をなかったことにできるわけではない。

 無様な吐露の返礼として、先輩からこんな自分と特別な関係にある理由――いうなれば、そこに確かな価値を見出してくれているかどうか――をまだ教えてもらっていない俺は、あさましくも自分の望んだ答えが返ってくる可能性を少しでも高めるために、好感度を稼ぎに走ったのだ。


 俺にも見い出せていない、俺にしかない価値。それが大切だからこうして横に座って耳を傾けている。


 それ以外の答えを聞いてしまえば、すでに限界まですり減っていた自分がついに消えてしまいそうな気がしたから。

 そんなもので答えを変えるほど、彼女は単純じゃないと知っているはずなのに。 


「そういうこと、か……あなたと美影、やっぱり似てる。


 雨雲の向こうで陽が落ち始め、失われていく明るさを補うように自販機のバックライトと屋根のLEDが灯る。暗さでおぼろげになっていた確度を取り戻した輪郭で、先輩は再び小さく笑った。


「え?」

「貶められた自分は何者にもなれない、そう思い込んでる。自分が必要か不要かすらもわからなくなって、それで誰かに『そんな貴方でもここにいていいよ』とか『それでも私にはあなたが必要』って言ってほしいんだよね」


 やさしく、わかりやすくならされた表現が、その柔らかさと裏腹により鮮明に俺の本心と求めているものを浮き彫りにしていく。

 同時にそれは、私は言外に全てを見通しているという宣言でもあった。縋りつく先を見つけた希望と期待を前に、俺はただ頷く事しかできない。


「……だとしたら、私はそれに半分も応えられない」

 

 しかし顔を上げ、再び合わせた視線に突き刺さったのは、彼女が再び浮かべた『あの』眼だった。

 いつの間にか笑みが絶えたその顔が戴く、氷雨にも劣らない冷たさを帯びた瞳に晒され、体の内側から僅かに残った体温が容赦なく奪われていく。


「まずね、私には達也のお父さんの言い分が全部間違っているとは言えない」


 受け入れられない、受け止めきれない言葉が、まるで物理的な衝撃すら伴っているかのように視界をぐらりと揺らした。


「どう、して」


 そのたった4文字ですらつつがなく絞り出せない。そこまで混乱する俺に、先輩はただ無情だけを乗せた声を続ける。


「ごめんね、その場限りの慰めとか、得意じゃないんだ。それに、本当の事を言ってくれたのに嘘で誤魔化ごまかすのは、たとえそれが耳障りのいいものだとしても、正しいやり方じゃない」


 ――だから、容赦しないって言ったんだけど。

 そこで初めて、先輩は付け加えた一言の真意を口にした。だがそれがこの残酷な結果の前振りであったと今更明かされたところで、それこそ俺には何の慰みにもならない。

 返す言葉にきゅうする……という以前に、失意で頭が全く働かない俺に向かって、先輩は静かに続ける。


「お父さんが訊きたかった事、もっとシンプルに、改めて訊くね。達也は将来、どうなりたい?何をしたい?どんな自分になりたい?その為に今の環境……大学とか、自由な時間とかさ、ちゃんと整えて、使えてるって言える?」


 この質問において、無言は全面的な肯定を意味する。それが解っていてなお、唇はただ震えるだけで意味のある何かを発することはなかった。

 当然だ。頭の中に材料がなければ、口から出るのは白い息だけに過ぎない。


「私に訊かれても答えられないってことは、お父さんに威圧されたから言えなかったわけじゃないよね……それ以前に、多分自分が一番わかっているでしょ?」


 返って来る答えが分かりきっていて、それでもなお確かめるような口調で向けられた問いに、すぼめた肩がびくりと震える。

 もう止めてくれと叫びたい気分だった。だがそれを実行に移す猶予も与えてくれないまま、先輩はもう答えを聞いたていで機械的に話を進めていく。


「普段あそこまで口の回る達也が、お父さんにそれだけ言われて反論のひとつも出来なかった時点で、どうしようもなく認めてしまっている……俺には何もないって、そう思っていることをさ」


 そこで言葉を結び、軽いため息を吐く先輩が、まるで患部への切開を終えた医者のように見えた。つまりこれで終わりではなくこれからが本番、えぐり出す摘出する苦痛が始まることを意味している。

 とてもじゃないがもう青息吐息の身に、それも麻酔もないまま耐えられるもんじゃない。


「そこまで、言うならさ」


 新たなメスが身を走る前に、先手を打って先輩の口を制する。

 そもそも、俺は人格や行動原理の矯正を求めてここに来たわけじゃない。 

 そうさ、訊きたいのは異口同音の説教じゃないんだ。


「どうして、先輩はそんな俺と……俺と――」


 迂回に迂回を重ねたが、それこそが核。

 無価値と断じられたこの身に、それでも必要とされている確かな理由さえ見つかれば、俺はそこにこそ価値を見出して、また前を向く事が出来るはずだから。

 だが、単にブレた話の軸線を元に戻したいだけなのに、問いを最後まで投げかける事が出来ないまま喉が詰まる。

 続けるはずだった「付き合っている」あるいは「好き合っている」という類の言葉。だが先輩が俺じゃなく親父の言に同意したことで、それが自分の中でだんだんと確かさを失ってきていたのがその一因だった。


「うん……元々の理由から、順を追って話そうか。私ももう、隠すのは嫌だし」


 ――ごめんね、達也。

 続けられた目的語を持たない謝罪に、胸の中が猛烈な勢いで暗雲に覆われていく。ここから俺が望んでいた方向へ舵を切られるといった展開は、もはや望むべくもなかった。

 だがそれでもと、祈るような思いを捨てきれないまま、閉じた口の中でただ歯を食いしばって続きを待つ。

 そんな俺から視線を外して先輩は椅子から立ち、目を瞑ったまましばらく天井を仰いでから、ゆっくりと口を開いた。


 





「私には






 必要。

 それさえあればと求めていたキーワードだったはずなのに、それが形作ったものは今日で一番の殺傷力を誇る刃だった。

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