『Can't Help Falling In Death』
――やってもうたがな。
などといくら悔やんだところで、時計が逆しまに動くことはない。
だんだん息が浅くなっていくのは、逃げの一心で火をつけてはガンガン吸い込んでいるニコチンの作用ではなく、無言の時間に比例して重さを増す、針の
あぁ、だめだ。
マイクを指先で押さえながら立ち上がり、さっきのウーロン茶を取り出す。加速度的に乾いていく口のせいだけじゃない。このまままんじりともしないままいると、本当に動けなくなりそうな錯覚に耐えられなくなったからだ。
一気に飲み下し、残り半分を切ったボトルを戻そうとして、結局テーブルへと持って戻る。
……というか、このままガチャ切りされてもおかしくない。
そうなれば一巻の終わり。さっき頭の中に投影した一志の非難は現実のものとなるだろう。それも冗談めかしたディスではなく、
『お前の迂闊な失言で、喫煙所サボりトリオも解散だ』
とかそういう感じのガチな軽蔑。思い浮かべていた奴のまなざしも、いつの間にか薄ら笑いではなく酷く冷めたものに変っていた。
こと考えがそこに至り、じとりと背中に嫌な汗が伝う。考えなしの愚行の結果、俺のもとを去るのはひとりではないかもしれない。誰とも顔を合わせずことばも交わさないまま、ただ学校に向かって講義を受けて家に帰る。上っ面だけ見ればあのふたりと出会う前の生活に戻るだけのそんな変化が、今の俺にはとてもじゃないが耐えられない仕打ちに思える。
そうしていた時間の方がずっと長かったはずなのに。
あのふたりと出会ってから、独りというものにめっきり弱くなってしまったのかも知れない。
――何か言わなきゃ、ホントにこのまま終わっちまうぞ。
強く下唇を噛み、無理やりに息を吸い込むが、ごめんなさいの一言がどうしても吐き出せないでいた。逡巡とかそういうものは毛頭ない。10:0でこちらに非があるのは明白だ。ならば理屈も何もなく、先輩が溜飲を下げるまでただ謝るしかない。
そう頭ではわかっているのだが、いざやろうとするとこれが喉から出てきてくれない。失言の後すぐさま詫びを入れられれば良かったのだが、こうも長い間黙りこくる展開が続いた果てにいきなり謝るというのは、頭の中で上手な言い回しを考えて結局浮かばなかったと取られそうで、それが躊躇いに変わって口を止めていた……いや、それすらも逃げや言い訳の理由付けかもしれない。
何か、何かタイミングをくれ。
自分の内面すら正確に捉えれなくなってきた頭が、必死に何かのきっかけを欲する中、もはや環境音を垂れ流すだけのラジオと化していたスピーカーが、小さな咳払いを捉えた。
「……すんっ」
とうとう泣かせてしまったか。続いた小さく鼻をすする声に全身が総毛立つ。
しかし聞こえてきたのはその一度きりだったあたり、単にビル風に体を冷やしただけらしい。かれこれ話し始めて20分、黙ってからは5分は経過している。
「ごめん。寒いよな」
「謝るの、そこですか」
それは俺もそう思います。ハイ。
その声は決して赦しを施すものではなかったが、すぐさま
「でも、無理もないですよね」
続いて聞こえてきのは自嘲を交えた、どこか捨て鉢にも思えるような文句。
掠れ気味な声の調子も相まって、一縷の希望を抱いた胸は再び猛烈に嫌な予感に襲われる。
「男の人ってそういうところ、すごい気にするっていいますし……軽蔑されても――」
「いや違うって!」
消えかけのロウソクみたいに先細っていく先輩の声に、思わず口元までマイクを近づけて鋭い叫びを被せてしまった。
乱暴なやり口であることは重々承知している。だが迂闊な言葉選びによって抱かせた最悪の誤解は、こうしてでも完全な否定の意思を示しておかなければいけなかった。
そんなことで先輩を皮肉ったり、ましてや嫌悪を示すために電話を掛けた訳じゃない。ここで一瞬でも間を開けてそんな疑念を差し挟まれるのはごめんだ。それじゃ先輩のの中で俺がただの底意地悪い奴に成り下がってしまう。
そう考えるだけで背筋が震えた。
「俺は、全然気にしない」
――バイクだって新車より誰かが大切にした中古車の方が調子がいいなんてよくある話だし。
ついでに思い浮かんだそんなブラックユーモアは、この場で最も発揮してはいけないセンスだろう。余計な思考を喉の奥へと押し込み、先輩の返しを待つ。
反省が活きた。
「本当に?」
「いや、初めてじゃなかったのはお互い様だもの」
探るような声にも決然と返し、その場を仕切り直す。
「つうか、そういうのってなんで女の子の方が悪く言われんのかね」
さっき思い浮かんだジョークはここで出すべき喩えとして最悪の類だったが、主張の内容自体にウソはない。
経験があるかないかというシンプルな問いにおいて垣間見える、そういったある種の信仰に疑問を覚えていたのは確かだ。男の方は逆に経験がなければバカにされる。
そもそも、そうした鏡合わせのレッテルは誰が得するもんなんだろう。
たびたび奴を叩き台に出してしまうあたり自分の交友の狭さに泣けてくるが、一志は交際相手がお手付きかどうかを(主に妄想の中で)結構気にする方だった……というか、奴は元々ニュートラルな思考の持ち主だったが、俺と知り合った少しくらいからその手のゲームにドハマりしたがゆえに毒された感もある。
「まぁ、そこに自嘲を含んでいるあたりあくまで芸風のひとつってだけっぽいし」
――あるいは一志自身も経験がない分、単に公平感への憧れを抱いたままなのかもしれないけど。
というのはさすがに蛇足が過ぎる。ともあれそんな具合の主張を掻い摘んで話し、
「……本気で嫌う材料にしている奴なんてそうそういないべや。意外って言ったのはあくまで、先輩あんまりそういう事に馴染みがない印象持ってたってだけ」
さりげなく結びに自分へのフォローを付け加え、誤解を解いてやる。
これでどうだ、と伺う様子に唾を飲みこむ程度の沈黙が挟まり、やがて失意の溜息とはまた違う緩やかな吐息が聞こえてきた。同時にスピーカーから放たれていた無言の圧が少し収まった気がして、厳らせていた肩が落ちていく。
崖っぷちから一歩戻れた、か。勝手に話の付け添えにしてすまん一志。今度はもっといい店で奢るから。
「私の早とちり、でしたね」
「いや、そう受け取られても仕方ないよ。そんくらい言い回しが悪かった。そこは本当に謝る」
ごめん。
長い回り道を経て、やっと喉奥に張り付いていた言葉を外へと出す事が出来た。そのままずっと詰まっていた息をすべて深く吐き出した肺に覚えたのは、僅かに尾を引く息苦しさとそれよりずっと大きな解放感。窒息直前で水面から顔を上げられれば、こんな心地を覚えるのかもしれない。
「……次からは気をつけてくださいね?」
それは先輩なりの気づかいか。冗談めかしたその文句に終わらなくて済んだという実感が沸き上がり、張りっぱなしだった背筋がベッドへ沈みこんでいく。
「あー……良かったぁー許してもらえて」
「大袈裟じゃないですか?」
苦笑を交えた先輩の声に今度は顔のこわばりが緩んでいき、それと同時に何故か突然鼻奥につんとした痛みが走った。
「って、マジか」
「どうしました?」
「あぁいや、なんでもない」
訝しむ先輩に笑ってごまかしながら、空いている左手でガシガシ顔を拭うと、ちょうど目尻を往復していた中指の先に、わずかだが確かに濡れた感触が走った。
……今一瞬、泣き入りました自分?
先輩の言う通り、いくらなんでもオーバーに過ぎるだろう。嫌われなかったってだけで――
あれ?
そもそも俺は一志と美恵先輩、あくまで3人の関係が終わらない為に四苦八苦していたはずだった。
それがいつのまにか、ただ『先輩に嫌われなくて済んだ』って事への喜びにすり替わっている。いや、すり替わっているというより、今になってそいつが随分と前に来ていた。
一晩共にした事で俺の中で意識が変わったのか。
いや、あれは多少の流れと据え膳感こそあれ、あくまで偶発的なものだった。現に夜が明けて帰ってからひと眠りするまで、今後の身の振り方ひとつに延々悩んでいたはずだ。
もしかして、俺は。
「……でも、私も良かったです。誤解したままにならなくて」
「あ、え、何が?」
自分でも気づいていなかった感情の奥底へ図らずも手を掛け、頭の中が再びこんがらがっていく。そんな状態で先輩が番えた次の矢の存在に気付ける訳もなく、愚かにもすぐさまに訊ね返していた。
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