『離群索居』

 ――38度3分。

 体温計に並ぶ数字を目にして、一際くらりと揺れる頭に手を当てる。


「美影……大丈夫?今日は休んだ方が……」


 熱のこもる息を吐くと同時にリビングに繋がる引き戸が開き、そこから美恵が心配そうな顔を覗かせてきた。


「そうしたいのは……山々だけどね……今日は、出席必須の……授業あるから」


 寝間着の袖で額の汗を拭い、上気する顔を歪めて無理矢理笑顔を返して見るものの、正直なところ全身を支配する倦怠感とのどの痛みに、声を発するのも億劫であることは否めない。


「でも……」

「今日さえ行ければ、明日は土曜日だし……美恵こそ……あんまり寝てないんじゃない?」


 言葉の機先を制し、枕元にあるシーリングライトのスイッチを押す。

 戸の向こうから漏れる光では分からなったが、明りに照らし出された美恵の目元には、コンシーラーでは隠し切れないほど深い隈が影を落としていた。

 が大学に通い始めてから1年と少し、ここまで体調を崩したのは今日が初めての事だった。美恵を演じた大学生活が意外な程順調に進んでいたことが、却って気の緩みに繋がったのかもしれない。

 とはいえ弱音を吐いても何の解決にもならない。なんとかベッドから這い出ようとする私の眼前を、美恵の掌が塞いできた。指の隙間からは美恵が空いた左手で端末を操作し、スケジュール帳に落とした視線を忙しなく左右させているのが見える。


「……よし、今日は私が学校に行こう」

「ダメだよ!」


 やがて思い至った様に決然とした口調と共に、美恵が端末を懐に仕舞う。それが耳に届いた途端反射的に叫び、体は節々の痛みも関せずベッドから飛び起きていた。


「そんなことで美恵の予定を圧迫なんて……」

「『そんなこと』じゃないよ」


 遮る美恵の口調には、確かな怒りが込められていた。剣幕に勢いを殺され、再びずるずるとベッドに沈み込んでいく私に向かって美恵は続ける。


「今日は経過観察が主だから、指示は電話ですればいいし。第一、ここで無理して長引いたらそれこそ研究が遅れちゃうよ」

「う……」


 私に布団を掛けなおしながら、噛んで含ませるように向けられる正論を前に、反論が浮かぶはずもない。それに止めはしたものの、正直この体を引きずって大学へ行き、すべての授業の内容を正確に聞き取れる自信は全くなかった。


「……いいの?」


 しばらく考えた末に出た声は、我ながら驚く程弱々しかった。

 掛け布団から顔だけ出して尋ねる私によし、と短く返し、美恵は再びリビングへと戻っていく。


「これ、ベッドの脇に置いておくから、喉渇いたら飲んで」


 感覚としてはそれこそ一瞬で戻ってきたように思えたが、その間に意識が飛んでいたのかもしれない。

 再び姿を現した美恵の服装はすっかり別の、有り体に言えばめかし込んだものに変わっており、右手には表の自販機で買ってきたものと思われるスポーツドリンクが握られていた。


「別に、着替えることもなかったのに」

「せっかく外に出るんだもの。正直少し煮詰まっていたから、気分転換も兼ねて」


 ――ちょっと派手すぎかな?

 ペットボトルの蓋を捻りながら訊ねてくる彼女に、思わず苦笑を返す。


「いつもの私からすればちょっとね……カーディガンなら、もう少し落ち着いた色のが」


 じゃあこれは変えよう、と私のクローゼットを開けて物色を始める美恵。その背中からでも伝わる意気揚々とした様子に、自然とおかしさがこみ上げる。


「これでどう?」


 ややあって体に纏う色を赤から薄いグレーに変え、美恵がひらりと身をひるがえした。モデル気取りのターンも彼女に掛かれば本物以上に様になる。気を使っているのか全面には出さないものの、やはりその心中は思いのほかはしゃいでいるようだった。


「うん、私っぽい……

「どっちかな。じゃあ、行ってきまーす」


 ちゃんと寝てるんだよ、と玄関先で再度念を押し、美恵が引き戸の向こうに消えていった。ややあって耳に届いた鍵のシリンダーを回す音と同時に、急激に意識がぼやけ、頭の中がぐるぐると回り始める。

 思った以上に体が参っている様だ。歪む視界の中、何とか手元のペットボトルを手繰り寄せ、喉を潤す。

 そのキャップを締めるたかどうかも分からないほどすぐに、意識が暗く落ちていった。






 ※      ※      ※






「ん……」


 再び目を覚ました時、窓から差し込む日は既に傾き始めていた。

 体を左に捩じり、枕元の端末を見やると午後2時半。実に7時間以上も眠り込んでいたことになる。

 それでも体を包む怠さも熱もほとんど変わっていないことが、今朝美恵が下した判断の正しさを伝えてきた。心の中で改めて礼を述べる。

 大人しくもうひと眠りした方が賢明か――ひとまず端末を戻そうとして、そこでメール受信を知らせる通知ランプの光が目に入った。

 美恵からだ。展開すると体調を気遣う文面に続き、台所に私が目覚めた時に食べるようにお粥を炊いてあることと、院長に頼んで薬を送ってもらったから昼にはポストに入っていること。そしてその3つのセンテンスと同じくらいの分量で、初めて足を踏み入れたキャンパスへの驚きと興奮が綴られていた。

 周囲には普段と変わらない三吾美恵として振る舞わなければいけない分、表に出せないその感動を伝えたかったのだろう。予定を曲げさせてしまった手前、せめて楽しんでくれているようなら何よりだ。

 メールを読み終える頃には眠気が引き、代わりに腹の底がくぅと音を立てた。パジャマの上にもう1枚羽織ってベッドを降り、ふらつきながら小さな雪平鍋の置かれたヒーターのスイッチを押し込む。

 そのついでに玄関に向かって郵便受けを開けると、そこには2つ折りの紙が添えられた小さな包みが入っていた。

 几帳面に処方箋を添えてくれたようだ。薬の種類と飲み方が印刷された紙の下に、院長の直筆で『余計な心配をせずしっかりと体を休めるように』と書かれていた。

 ――至れり尽くせりとはこのことか。

 申し訳なさと感謝を半々に抱きながら包みを手に取ると、キッチンから鍋が湧くふつふつという音が聞こえてきた。

 温め終えた鍋を片手にリビングへと戻る。蓋の脇から漏れ出る湯気の、僅かな梅の香りが鼻をくすぐり、空っぽの胃を急き立てて来る。そのせいかテーブルの前に腰を下ろす寸前まで、茶碗を持って来忘れた事に気付かなかった。

 ……食器は、いいか、直で。

 誰に向けるでもない苦笑と浮かしかけた腰を戻して蓮華れんげを手に取り、僅かに色の付いた粥を掬い上げ、息を吹きかけて充分に冷ましてから口に運ぶ。舌にもたらされる柔らかな触感と優しい塩気に、鍋はあっという間に空になった。


「……ふう」


 薬を飲み終え、少し落ち着いた心地で一息吐く。

 直ぐに薬効が出るわけではないことくらいは分かっているが、それでも心なしか少し体が楽になった気がする。そうしてわずかに明瞭さを増した意識が、今は部屋に戻った沈黙を無駄に感じ取っていた。

 ――テレビくらい買っておけばよかったか。普段はお互い勉強や研究に追われ、余暇と言えば眠る前の僅かな時間だが、それも美恵と話していれば不足することもなかった。急にぽかんと空いた時間の埋め方が分からず、ひとまずベッドに戻った私は、横たえた体で何の気なしに端末をいじりながら、はたと気付く。

 ……そういえば、最近実家に電話をしていない。

 最後に連絡したのは期末試験の終わる前だった。三吾社長はケアをしてくれると言っていたものの、留年の通知が親の手に渡っていない確信が得られない事を理由に、それっきり途絶えたままでいつのまにか6月も1週を終えようとしている。

 そろそろ初夏を迎えようかというころ、ここまで実家から何の沙汰もない事を思えば、如才無く手を回してくれたのだろう。

 ――それが全くの嘘で、本当は学校にすら行かず、あまつさえ顔に面影すら残っていないと知ったら、やっぱり怒るのかな。

 久々に生まれた1人の時間と、輪郭を失っていく思考がそんなことを思い至らせ、指は液晶に表示された数字の上を訥々と踊っていく。

 電話帳を呼び出すまでもない、記憶に染み付いた番号の羅列を前に、自分でも半ば気づかない内に端末を耳に当て、無機質な呼び出し音に聞き入っていた。

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