『延頸挙踵』
「痛たた……」
ペットボトルのキャップひとつ捻るだけでも、張った右肩が悲鳴を上げてくる。屋上を吹く寒風で冷やされれば尚更だった。抵抗を諦めない蓋に顔をしかめる私を見て、三吾が横から手を伸ばしてくる。
「はい」
有無を言う暇もなく手からかすめ取られたペットボトルが、口を開けて返って来る。
「……ありがと」
「3日でどれだけ通ったの?」
受け取りながら礼を返す私に笑いながらそう言って、三吾が先に腰を下ろす。
彼女が射撃場に付き添ったのは院長と顔合わせした時の1度きりで、毎回着いてくることはなかった。だが特段運動の習慣がない私が筋肉痛に苦しむ様を見れば、通い詰めていることくらいは用意に察することが出来たのだろう。
「毎日。大体日付が変わるくらいまで」
「やり過ぎ。その内両腕で太さが変わっちゃうよ」
答えがツボに入ったように破顔する三吾を見ながら、論を返さず隣に座る。
リアクションこそ大袈裟だが、あながち大袈裟な指摘とも言い切れない。それ程までに案内された射撃場は理想的な場所と言えた。
レンジは当然ひとつしかなく、備わった採点機は公式大会で用いられている最新式。人の目に限らず、集中を邪魔するものを徹底的に廃した黒一色の内装。照明すら光源が視界に入り込まないようにLEDを埋め込むという細やかな配慮までなされていた。
そして何より――
「あの人、とあなたのお父さん、だっけ」
「美恵」
口にした呼称が気に入らなかったのか、サンドイッチを運ぶ手を止めて口をはさむ三吾に思わずため息が出た。
「……美恵のお父さんだっけ、一体何者なの?建設中の病棟の下にあんなもの作るなんて、公私混同どころじゃないでしょう」
何より驚いたのはそのロケーションだった。
病棟の裏手にある工事中のフェンスを潜らされたときは何事かと思ったが、そんなものは序の口に過ぎなかった。基礎工事すら終えていないその奥に階段が隠されていて、あれだけの設備を備えた空間が地下に広がっている――など、誰がそこまで思い至るだろう。
「土地はもともと伯父さんのものだからね。あ、設計はうちのお父さん。結構子供っぽいところあるから、あの人」
「回答になっていないと思うんだけど。趣味の為にどれだけ掛けるのよ……」
「……まぁ、単なる射撃場って訳でもないんだけどね」
その言葉に要領を得る事が出来ず、そのまま続きを待つ。しかしそれ以上詳細を話すつもりはないのか、買ってきた昼食を食べ終えるまで、美恵は無言を保ち続けていた。
「ねぇ――」
「そういえば、そんな遅くまで練習して、迎えは大丈夫だったの?」
意を決して切り込もうとした私の口を遮り、しかしゴミをビニール袋に纏める傍らといった散漫さでそんな些末な疑問を口にする三吾に眉根を潜める。
「駅からはお母さんが迎えに来てくれてたよ」
逸れた話題に肩をすくめ、彼女に倣ってゴミを片付けながら答える。あくまで今の私にはこれ以上を語る気はない、ということか。
心の中でもう一度溜め息を吐き、袋の口を縛って手元からを顔を上げる。
格子に切り分けられて広がる、抜けるような冬空。
そこで初めて気が付いた。今、私たちが座っているこの位置は――
「さて、あれから5日経ったわけだけど……」
一瞬心の中を読まれた心地がして、思わず立ち上がる。そうして手摺の上まで上がった視界に広がる景色はあの日、私が飛び降りようとした時に見たものと同一で、遅れて腰を上げた三吾の立つ位置もまた、私を止めた時と寸分とも違っていなかった。
「まだ、死にたいと思っている?」
三吾の口調が僅かに温度を落とし、その顔から常に浮かべている微笑みが消えた。大勢に囲まれているときには決して剥がさないその仮面を外し、ただ瞳の中央に私を捉えている。
私はすぐ返答を返すことが出来なかった。確かにあれから5日――それどころか、実質的に彼女が動いたのは3日に過ぎなかったが、それだけで私を蔑む目は排除された。
打ち込んでいた射撃も最高の環境で続けることが出来るようになった。
母は迎えの車の中で初めて出来た友達の事を矢継ぎ早に訊いてくる。その声は長い間聞いた覚えのない弾みを含んでいて、それに答える事も苦痛ではなかった。
認めざるを得ない。私を取り巻く世界は劇的に変わった。その事実を否定する要素はどこにも見当たらない。
「でも、死ぬ理由がなくなっても、生きる理由が出来たわけじゃない」
だが、私は素直に頷くことが出来なかった。
それは長い間私を
呟いた口を閉じると、視界が独りでに足元へと落ちていく。これだけお膳立てをされておいてなおも下を向く私を今、三吾がどんな表情で見ているのか、それを窺い知ることは出来ない。
しばらく、風が通り抜ける音だけが耳に煩かった。
「私にはね、自分の意思がないの」
やがて頭上から降ってきたように聞こえた、私への同情でも憐憫でも、叱咤でもないそんな言葉。弾かれた様に顔を上げた私の目に映ったのは、普段の彼女におよそ似つかわしくない、頼りなく伏し目がちな顔だった。
「ううん、もっと正確に言うと、自分の意思を押し通す力がない。誰かに臨まれなければ碌に動くこともできないんだよ」
自嘲気味に語る彼女が脇へと流す視線に、あの時の言葉が蘇る。
『出来るよ。貴方が望んでくれれば』
私はそれに否定を返さなかった。彼女に縋りたい気持ちが確かにあったから。
人並み外れて察しのいい彼女の事だ。言葉にしなかったその思いをくみ取り、自身への願いとして受け取り、そして動いたのだろう。
「みんなが頼ってきた。私は全てをこなしてきた。こなせてしまった」
あの日教室で幻視した、
王は市井から寄せられる請願を叶え続けることで、その地位を確たるものとしていく。
同時に、絶える事なく寄せられる望みを叶え続ける事でしか、自らが王であり続ける事は出来ない。
そんな終わりのない尽力には『自らが王でありたい』という意志の強さが不可欠だ。三吾も当然、それを持ち合わせていると思っていた。
自らを称える周囲の眼に苦笑を返しながらも、心のどこかでは上に立つ自分を受け入れている――
「いつからだったかな、自分は望まれる側の人間であって、望む側には立てないって自覚したのは」
だが、それは私の大きな勘違いだった。
それは能力であったり、生まれであったり、気質であったり……三吾は周囲との圧倒的な差によって王に成らざるを得なかった。
いつでも、どこでも。恣意的な言い方をすれば、周囲によって王へと祭り上げられていた。
「周りに期待しない、っていうこと?」
収まる気のない玉座に延々と据えられれば、そう感じるのも当然の帰結と言えた。予想通り三吾は「かもね」と短く言葉を切り、手摺に肘をついて、遠い冬の空へと目を向ける。
「人に頼るときって、自分じゃどうにもならないことを解決したいときでしょ?私に頼ってばかりの人たちを頼っても、力にはならない」
論理としては正しい、しかしそれは私をして、あまりにも寂しいと感じてしまう思考だった。
私だって、周囲を期待できない苦しみを知っている。だが、期待に応え続けた代償としてもたらされる、並び立つ者がいないが故の孤独は、私が味わっているものとは全く違う意味合いを持つのだろう。
「そんな話を、どうして私に」
対極にいる……否、5日前まで対極にいた私には、その心地が理解できるはずもない。三吾とて重々分かっているはずだ。
「知ってる?戦う本能を持っているはずの生き物が争おうとしない時っていうのは、既に優劣がついているからなんだって」
返ってきた答えに要領を得ず黙り込む私に、彼女は続ける。
「あの廊下ですれ違った時、私を見る目を見て思ったの。美影なら私が頼っても応えてくれるかもしれないって」
「私も頼った側の人間だよ」
肯定することにもはや戸惑いはない。彼女に救われたからこそ、私は今ここに立っている。
「うん、だからさっき、すぐに返事をしたならこの話をするつもりはなかった。あの戸惑いがまだ膝を折っていない、私を見上げていない証拠だから」
そこに来てやっと、三吾が私に望んでいたものが分かった気がした。
思い返せば出会ってからずっと、私に向かって言動の端々に表していた。
彼女は『対等』を欲しがっていたんだ。
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