34『河岸を変えれば敵も変わる』

「さて……まず、私と芳也の最大の違いは、すべてのきっかけとなった君への投与を悔いているかどうかだ」


 目の前でカップが立てる湯気を僅かにも乱さない静かなその声は、言外に院長が過去の行いを悔いている事を示していた。


「芳也は一度決めた目標を変えることは決してない。そして、自分の行いを否定することもしない」


 さりげなく三吾がこちらに向けてきた視線を目の端で捉える。俺が『ここまで奴に協力しておいて今更何を!』とでも怒鳴って食って掛かるとでも思っていたのだろうか。

 しかし実際の所はというと、重々しく切り出されたその一言になんらリアクションを返すことはなかった。

 状況をみればわかることだ。どこかで思想の相違が生じたからこそ今こうして社長を除いた3人がここにいるわけだし、何よりそこを疑っては全てが終わってしまうからだ。暫くの間を以って三吾が警戒を解いて視線を外すと共に、院長は再び口を開く。


「私は彼と違って凡庸だ。そこまで自分の生き方に確信を持てる人間ではない。君が息を吹き返した時は達成感に包まれもしたが、時を経るとともにそれは後悔に変わって行った。自分が協力し、芳也の背中を押したことで、実験の名のもと少なくない命が失われている。それが、被験者自らリスクを知った上で選んだものだとして、何も感じないほど強くはなかった」


 その言葉で思い起こしたのは、やはり鏑木の顔だった。机の下で握る拳が、ぎしりと音を立てる。


「研究の途中離脱は許さないと言う啓示に私は、研究に変わらず手を貸す代わりに『防止薬』の開発を申し出た」

「防止薬……?」

「投与した薬品の副作用を抑える薬品のこと」


 耳慣れない単語に聞き返す俺に、三吾が横から補足を付け加える。風邪薬に対する胃薬、というアレだ。


「そうだ。仮に完成したとして、蘇生薬がもたらす副作用は人体への影響と言う点でも、社会的にも到底看過できるものではない。例え催眠効果がなくとも、蘇生薬を持つ人間に支配されてしまうほどにな。進行による暴走も勿論だが、先だって人の肉を欲する欲求を解消させない限り、対症療法すらままならん」


 頷きを返す。継続した服用を怠った場合に起こるあの苦痛が耐えられるものでないことは身を以って知っている。それを和らげるための唯一の手段が、ヒトの肉の摂取となれば、それはほぼ不可能と同義だった。結局は自分が死に向かうと知りながらも三吾社長の掌で踊るしかない。


「それでよく、自己責任なんて言ったもんだな……」


 この間のやり取りを思い出し、俺はほとんど無意識に毒づいていた。


「そこも包み隠さず説明はする。私が防止薬を開発している事を付け加えてな。だが奴はあくまで『重篤な副作用が起こる可能性がある』という表現に止め、防止薬の開発がどこまで進捗しているかは巧みに隠し……予期しない結果をも自分の良いように扱う」

「彼はそういう男です」


 院長の言葉の続きを三吾が引き継ぐ。その声には少なくとも好意的とは受け取れないほどの棘が覗いていた。

 ――そういえば。すっかり意識していなかったが、彼女は三吾社長の実の娘のはずだ。それがなぜここにいるのだろう。その上父親の研究に異を唱える院長の側に付いている。


「彼女がここにいるのにも、むろん理由はある」


 院長が告げる。俺が彼女へと視線を移したのに気付いたのか。


「どうして――」

「あなたに言う義理はない」


 疑問を浮かべる俺の口をぴしゃりと遮るように、三吾の声が刺さった。取りつく島もないとはこのことだ。更に俺が何か返す前にさっさと視線を外してコーヒーにミルクを落としている。


「私達への不信から勘ぐりたい気持ちはわかるが、聞かないでやってくれないか。彼女とて単なる不親切で教えないわけでは無い」


 

 苛立ちを溜め息に変え、短く吐き出す俺を窘めるように院長が間に入る。

 頭の中でこうなった奴の口を割らせる労力を計算した後、諦めて湯気の消えかけているコーヒーを口に運んだ。彼はそれを承服と受け取ったようで、幾分固さを失った口調で続けた。


「すまないな。それに――」


 だがそこで彼は珍しく顔に若干の迷いを浮かべ、言葉の先を一度飲み込む。


「それに?」


 俺がその先をせっつくと、院長は三吾と幾度か目配せをしたようだった。この続きが俺の信頼を得るために渡せる情報かどうかを天秤にかけているのか、もっとほかの理由なのかはわかりようがない。


「彼女の事情が口に出せない理由は、君自身にもある」


 院長は口を開くことを選んだようだが、それは俺に信用ではなく更なる混乱を招くだけに終わった。

 彼女がここにいる理由が、俺に関係している……?


「それって」

「今、話せるのはこれだけだ」


 思わず口から出た疑問の声を、院長の冷徹な口調が遮った。三吾も相変わらず目線をこちらに向けることなく、大量の砂糖とミルクで泥水のような色に変わったコーヒーをすすっている。


「とかく、彼女にも彼女の思惑があって私に協力し、それを成し遂げる上で君が命を落とすことを良しとしないから助けたのだ。そこは事実として信用に足ると思うが、どうだね?」


 院長の言葉尻に付帯した疑問文は、俺が納得する落としどころを提起しているようだった。


「こちら側に来ることになるとは予期していませんでしたけど」


 若干尖った三吾の声が続く。仲間という表現は意地でも使いたくないようだった。

 確かにあの晩、彼女がただの善意で、それも容易に入手できるわけではない人の肉を使ってまで俺を助けたとは思えない。その裏には彼女の利となる理由があってしかるべきだろう。

 しかしその利がなんなのか。これも訊いたところで答えはしないだろうし、万一答えが返ってきたところで、抱いている不信が晴れはしないだろう。


「それで、あなたたちがその、防止薬だかを開発しようとしているのは解ったけど、俺は具体的に何をすればいいんです?」


 それなら話を先に進めた方がいい。そう思い直して空になったカップを置き、ソファに沈める腰の位置を直しながら尋ねる。


「基本的には今までと変わらない生活を送ってもらって構わない。会社に戻るというのなら話もつけておこう。ただ、美恵君と同じように定期的にバイタルデータを取る為、こちらに顔を出してほしい。そして、それに当たって日常でのテュエの摂取は控える事」

「なら、禁断症状はどうするんです?」


 それはつまるところ、人の肉はどこで手に入れるのか?という問いだったが、それをストレートに口に出すことはどうにもはばられた。

 あの晩はそれがなんであるかわからずにきわめて乱暴な方法で食わされたが、それを意識的に食べなければならないとなれば当然抵抗は感じる。

 そんな俺の躊躇を読み取ったのか、院長はコーヒーで口を湿らせ、若干の間を持って話を改めた。


「……ところで、先月の3日にあった死体遺棄事件は覚えているか?」


 忘れるわけがない。ヤクザの仕業だと笑っていた友人が犯人だったのだから。


「鏑木から訊きました。被害者も治験の参加者だったんでしょう。体に残った試製薬の情報を他社に売ろうとして始末されたって」

「それは鏑木君の立てた仮説だ。真実とは異なる。被害者はもとより唐津の手先だったのだ」

「唐津課長の?!」

「ああ。唐津は彼を使って試製薬を闇に流していた。君に起こったような『真の効果』までは知らせていないから、恐らく人を操り人形する効果と強力な依存性のある麻薬とでも誤解していたのだろうな」

「それを私たちに疑われる段になって、慌てて鏑木さんに薬を大量投与し命令を上書きしてまで、彼を始末した」


 三吾が後を引き継ぐ。その冷たい口ぶりは、彼の浅はかさに抱く不快を唾棄だきするものだった。


「無論、我々は最初から全て知っていたがね」

「ならどうして止めなかったんです。それがなきゃ、鏑木だってもっと生きられた!」

「それも啓示の命だ。こちらが手を煩わせずに研究の多様性を助長してくれる、と言ってな」


 糞っ。俺は毒づいてテーブルの足を蹴る。


「……話を戻そう。彼によって我々の手を離れた試製薬は初期型、第2期型合わせて30本。初期型は君を除いて効果が確認できていない失敗作だから、現在捕捉の出来ていない被験者は少なくともその半数以下となる」


 ここまで聞いて、彼が何故今この話題を出したのか、その理由が見えてきた。そしてその答えは恐らく、俺の最も忌避するところ――


「君の大きな役目のひとつは、症状が進行して自制を失った彼らを始末することだ」


 ……やはりか。俺たちが症状を抑えるための人肉はそこで得るというわけだ。


「結局、人殺しの加担か」


 前提がそうである以上、避けては通れない道であるのは薄々感づいていてはいたが、心のどこかで命を奪う以外に道があるんじゃないかと言う淡い希望を抱いていた。

 例えば、全く同じ組成成分を持つ人工肉を食べるとか、それがだめならせめて自然死した人間のものを用いるとか。


「症状が進行した被験者が一様に人の肉を求めると解って、私も新たに死人を増やす以外の道を模索したよ。だが現段階を以って、死後硬直が始まる前のいわばもの以外では、進行を食い止めることも、飢餓感を満たすことも出来てはいない。酷だが、今は割り切ってほしい」


 無慈悲に現実を突き付けられて言葉を失う。今まで自分を最優先に生きてきたとて、こればかりは天秤にかけるおもりのレベルが違った。自分が生き延びる為に他人を殺すのか。

 俯き黙りこくる俺の頭上から、三吾の温度を感じさせない視線と声が降り注いだ。


「……どうせあなたはもう何人も殺している。今更拒んだところでそれが変わる訳じゃないのに」


 その一言がまるで質量を持って肺腑に突き刺ったかのように、俺は短く息を絞り出した。ただの夢だと思っていたモノクロの風景。もう幾度そこに自分が立っていたのかは分からない。

 例え操られていたとしても、それが全て現実のものとするならば――。


「美恵君」


 それまで静かに俺を見ていた院長ですら思わず声を出す程の冷徹な声。その制止も構わず彼女は続けた。


「それでも嫌なら私がやる。貴方はただ黙って口を開けて待っていればいい……これなら意識が無かった方が、まだ幾分役に立った」


 端々に多分な苛立ちを孕んだその文句は挑発か。思わず腰を浮かせて声を荒げる。


「あんたドライってのにも程があるぞ。人を殺すんだぞ?即決できなくて当たり前だろ?!」

「私には何を犠牲にしてもやらなければならないことがある。前にも言ったはずだけど」


 食って掛かる俺にも全く動じる事のない、三吾の決然とした言葉と表情は、言外に何を言っても無意味であることを語っていた。そこまで強烈に彼女を動かすとは、一体何なのだろう。


「……君が決断するまで、君自身が手を下すことを強要する気はない。だが、今までも君と美恵君の2人でその任に当たってきた。君が動きを抑えて、彼女が止めと言った具合にだ」


 三吾が言葉を切ったタイミングで院長が切り出した。彼にとって三吾の切り出した『1人でやる』という決意は到底承服しかねるものだったらしい。

 常に沈着を保つ彼にしては珍しく、彼女への心配と気遣いを多分に伺わせている。


「それを彼女単独で行うとなれば必然、危険に晒されるリスクが増してしまう。防止薬の完成には君も美恵君も失う訳にはいかないのだ」


 あくまで研究を完成させる為、ということか。それにしてはその視線が気世話無く俺と三吾の間を往復している。


「別に私は――」

「せめて、暴走した被験者の動きを抑える程度には協力を願えないだろうか?」


 なおも抗弁を立てようとする彼女を遮り、院長は俺に折衷案を申し出た。ここにきて三吾にも院長にも若干のを感じるが、やはり俺にその原因を推し量れるわけもない。


「……一度暴走してしまえば、もう元に戻る手段はないんですか?」

「ああ。少なくとも防止薬が完成するまではな。よしんば完成したとしても、完全に進行してしまった症状を回復させられる保証はない。治療薬はそれを踏み台にして改めて研究することになるだろう」


 一度完全に発症してしまえば、どの道人の肉を摂取できずに死ぬか、もしくは欲求のままに人を殺すかしか道はない、という事だ。

 ……確かに、俺が助力を拒んだところで何も変わりはしないだろう。そして、拒んで三吾が1人矢面に立ち、抵抗にあった末に殺そうが逆に殺されようが、どの道俺に全くの責任が存在しないということにはならない。


「……直接止めを刺すのは絶対にしませんよ」

「そう言ってくれると助かる」


 僅かに安堵の表情を浮かべ――すぐに元の鉄面皮に戻ったが――礼を述べる院長とは対照的に、三吾は一度鼻を鳴らしただけだった。


「対象を捕捉出来た際は別途連絡する。適宜美恵君と合流して事に当たってほしい」


 納得出来ない事、未だ見えて来ない事は山ほどあるが、座して死を待つだけの状況を脱するにはここを飲み込まない事には始まらない。

 僅かに下唇を噛む俺が首肯を返し、院長は大きく頷き、三吾は相変わらず不愉快そうに視線を逸らした。

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