14『友をたずねて3,4里』
帰りの足で賑わうホームに立って電車を待ちながら、端末を開いて何度目かになる着信の確認をする。当然のように何の変化もない着信履歴の左上で、デジタル時計が小さな文字で19時を回ったことを告げていた。
やはり会社を出てきて正解だった。この調子だと今日中に奴から連絡が来るかどうかも怪しい。
(帰ったらもう一度白石さんへ電話してみるか)
端末を閉じてポケットへと滑らせ、代わりに駅前のコンビニで買った緑の小瓶を取り出して、片手でスクリューを捻じった。
『間もなく2番線、電車が参ります。白線の内側にお下がりください』
一息に中身を喉へと流し込むと同時に、合成音声の無機質なアナウンスと共に、夕暮れ時の街を照らすライトが一足先にホームへと滑り込んできた。
(タイミングが悪いな……)
空になった瓶を手の中で遊ばせながら、階段の脇に備え付けられたゴミ箱へと目をやる。俺の後ろに人は並んでいないし、今から捨てに行けない距離ではないが、ドアが閉まる前に戻れるかどうかと言われれば微妙だった。かといって空き瓶を手にぶら下げたまま満員の電車に乗り込むのも考え物だ。
などとあれこれ考えているうちに電車はホームに入ってきて、その速度を急激に緩めていく。
――ぱっと捨ててきてしまえ。
意を決して速足でゴミ箱に向かい、瓶を放り投げる。中の空き缶とぶつかり合うがこん、という音と、電車のドアが開く音が重なった。
(大丈夫だ。間に合う)
少しだけ歩を早めて電車から降りる人の波を逆行する。迷惑だという事は承知しているが、ラッシュの時間帯とはいってもここはターミナル駅でもないので、身体が当たらない程度の隙間は余裕で開いている――
「痛っ」
と思ったのだが。改札に向かう人並みの中の一人が俺の肩にしたたかにぶつかってきた。
「す、すいません」
お互いの足が止まるほど派手にぶつかったので、とりあえずは謝りながら振り向く。しかし相手の方はよほど先を急ごうとしているのか、返礼もせずに歩き出そうとしていた。
(……マナーのない奴だな)
いつもなら舌打ちの一つで済ます所だが、疲れによる苛立ちもあった。乗る電車を一本遅らせてでも、せめてぶつかってきた輩の顔を拝まない事には腹の虫が収まりそうにない。
階段を駆け下り、周囲に目を配る。
(あのストライプの奴だ)
一瞬にもかかわらずシャツの柄を記憶できたのは幸いだった。俺の通ってきた南口を抜けようとする、そのやや猫背がかった背中を追いかけ、肩口を強く掴み掛かった。
「おい!」
人にぶつかっておいてその態度はないんじゃないのか。そう続けようとした俺の言葉は、振り返ったことで初めて見えたその顔によって喉に押し戻された。
顔だけじゃない、短く刈り上げた髪に太い眉。耳に光るピアス――
「鏑……木?」
その名がポロリと俺の口から洩れると、その虚ろな瞳に一瞬だけ驚きの光が灯った。
こけた頬には無精ひげが生え、シャツの襟や裾には汚れの筋が走っている。まさか金曜から着替えていないのか、どう考えてもまともな環境にいたとは思えない。
「お前、今まで一体――」
そう問いかけた直後、鏑木は掴んでいる俺の腕を振りほどきて猛然と走り始めた。いつの間にか俺たちを囲んでいた野次馬の数人を跳ね除け、辺りに悲鳴が巻き起こる。
すぐさま後を追おうと駆け出したものの、鏑木はそのくたびれた容姿からは思いもつかないほど軽やかに改札を飛び越え、駅員の制止も聞かずになおも加速した。
「くそっ」
このまま見失っちゃ意味がない。懐から定期を出してリーダーに叩きつけたがゲートは開かず、代わりに鳴り響いた無機質な機械音に、ターゲットを変えた駅員がすっ飛んで来る。
「今の方、あなたの知り合いですか?」
それでも目線は奴を追い続けたものの、すぐにその背中は人並みに消えて行ってしまった。改札の前で立ち止まったのを見て歩を緩めながら問いかけてくる駅員に、俺は力なく頷くことしか出来なかった。
とりあえずは清算を済まして駅の外へと出て、端末を手に取り、会議が終わっている事を祈りながら発信ボタンを押す。
発信先はもちろん課長だ。しかし焦りも虚しく5つコールを数えたところで留守番に切り替わってしまった。俺は嘆息を一つついて残すメッセージを練る。
「お疲れ様です。石井です。会社の最寄り駅の下りホームで鏑木を見つけました。今から追いかけるんで。また連絡します」
気持ち口早に喋って通話を切った。こんなもんでいいだろう。改札で揉めた顛末を残すには留守電の受付時間は短すぎる。俺は懐へ端末を戻し、鏑木の消えた方向を見据えた。
とにかくこのまま帰る訳にもいかなくなった。何とかして奴を見つけなければ。幸い走って行った方向にはバスターミナルもタクシーの停留所もない。
(しかしなんだってあいつはこんなところに)
というか、挨拶もなしに逃げるってのはなんなんだ。何らかの事情で家に帰れずにあの様だったとしても会社の近くまで来ているなら、顔くらい出すのが心配している者への筋ってやつだろう。
(――ん?)
そこまで考えた時、頭の中で何かが噛み合う、カチリという音がしたような気がした。
土日も会社に出ていたはずの課長は鏑木の姿を見ていない。
だとすると奴は今日、何らかの事情があってここに来る必要が出来たのではないか。そして、俺の知る限り実家の遠いあいつが目標とする場所など一つしかない。
(会社に戻ろう)
駅を出ると外はもう夜と言って差し支えないほど暗かった。帰宅のラッシュもひと段落つき初め、会社とは反対側のタクシー乗り場では運転手が車を止めて談笑している。
どうする。車で先回りするか。1日の疲れもあるし正直歩きたくはない。
そんな考えが頭をよぎったがすぐに打ち払った。仕事熱心とは程遠い俺がタクシーで会社にとんぼ返りしたころを見られれば、そこからいらぬ詮索をされる可能性がある。それに何より道すがらに奴を見つけたとして、車に乗っていてはすぐに捕捉できない。会社の近くで逃げられたとなれば、もしかしたらもう会社へは近づかなくなる危険もある。
とりあえず、この駅からの通勤ルートをなぞってみよう。
俺は辺りに気を配れるように速足で、まばらになり始めた帰りの人波を逆行していった。
※ ※ ※
途中幾度か脇道を入っては戻りを繰り返し、普段通勤するより30分程時間を掛けて会社まで戻ってきたものの、鏑木の姿は一向に見当たらなかった。あるいは気づかないうちに、どこかで追い越してしまったのかもしれない。俺に見つかったことでここに来ることを諦めた、という線はできれば考えたくなかった。
再び汗でじっとりと湿ったシャツに気持ちの悪さを感じながら、俺は会社名が刻まれたモニュメントの前で腰を下ろす。
「くっそ、あいつどこにいるんだ……」
ひとりでに愚痴をこぼす口はカラカラに乾いている。が、帰りがけに買ったテュエ・リベは駅のホームで呑み干してしまったので、今現在喉を潤すものを持ってはいない。
(もう一本買っておけばよかったかな)
僅かな後悔を覚えながら会社の入り口に目を向ける。あまり利用したことはないが、エレベーターホールの脇に自販機があったはずだ。
――いやいや。俺が誰かに見られるリスクを冒してまでモニュメントの前に陣取る理由を思い出す。
もしもどこかで鏑木を追い越してしまっているならここで辺りを見回しながら待っているのが一番だ。道路の角に位置するこの会社の敷地で交差点を見渡せて、かつ向こうが気づく前に素早く死角に隠れることができるのはここだけだ。
もしドアの近くに陣取ったとして、このモニュメントから会社の入り口へは完全な一本道なので、奴を見つける前に自分の存在に気付かれてしまう。そして、ここで逃げられてしまっては今度こそどこに行くか見当がつかなくなるだろう。
少々荒っぽいが、鏑木がこちらに気付く前にふん捕まえるしかない。となればこの位置以外候補はないのだ。
(とは言ったものの……)
他の会社の人間に見つからないように時折身を隠しながら待つこと二十分、不運にも今日は夜も温度が下がらない様子で、汗が引く気配は一向に無かった。おまけに月末が近く予想より結構な人数が残業しているようで、木陰とモニュメント間の往復運動をせわしなく行う羽目になってしまった。
そして、相変わらず鏑木の姿は見えない。
(あかん、腹まで減ってきた……)
そうこうしているうちに腕時計に目を落とすと、既に20時を回っていた。加えてこれだけ動き回っていれば空腹を感じるなという方が無理な相談だった。会社の窓から漏れる灯りもだんだんと減ってきて、今では営業部と未だ会議が終わらない役員室がある階だけがぽつぽつ光っているのみとなっている。
鏑木が会社に真っ直ぐ来ているなら、とっくに姿が見えてしかるべき時間だ。一瞬、俺が来た時にはすでに中に入っている可能性も考えたが、課長からの連絡がないところを見るにそれはないだろう。
(やっぱり)
駅でのひと悶着を思い出す。あの時点でここに来ることを諦めてしまったのだろうか。なるべく考えないようにしていた観測が鎌首をもたげてくる。
もう一度会社の入口を一瞥する。受付嬢も帰った今では人影もない。このまま待つにしろ諦めて帰るにしろ、体が早急に水分を求めている事に変わりはなかった。
(何か飲む間にこなければ、帰るか……?)
流石に我慢の限界だ。パッと買ってパッと戻ればいいし、何より折衷案としてはちょうどいい落としどころに思える。
丁度一人エレベーターから出てくるのが見えた。さっきまでと同じようにやり過ごして、足早に入口へと向かう。
手早く自販機にコインを入れ、ミネラルウォーターのボタンを押す。無意識に一瞬、自分の目が緑色の瓶を探していたが、生憎と取り扱ってはいなかった。自社製品なのになんだよ……
相変わらず辺りに人の気配はない。エレベーターもこの階で止まっている事を確認してスクリューを捻る。
「ふぅ」
――美味い。喉を流れる水分が体の隅々にまで染み渡るような気がした。一気に4分の1ほど飲み下してようやっと一息つく。
さて。気を取り直して元の場所へと戻ろうと再びキャップを締め、振り返って歩き出そうとした矢先、折角切り替わった胸先に早速暗雲が立ち込め始めた。
「げ」
「あら」
ひとりでに顔が引きつる。切れ長の瞳を僅かに丸くしてこちらを見返して来たのは、仕事を終えた様子で階段から降りてきた三吾だった。
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