第3相
12『いつもと違う朝』
「……はよーございます」
週明け。デスクを回りつつけだるげに挨拶を述べて、だらだらと席に着く。今日は朝からどうにも体が重いし、あちこち筋肉が悲鳴を上げていた。
(おまけに――)
ジャケットを背もたれに掛け、鞄を机の脇に置いて右腕に目をやる。今年は衣替えが早くて助かった。外はまだ上着を纏うにはいささか暑さが残っているが、ワイシャツの長袖が一体どこでつけてきたか見当もつかない爪痕のような傷を隠してくれている。
欠伸を噛みしめて首を回す。目覚め始めた意識の中にはっきりと残る原因不明の不快感。例の如く、今日はあの不気味な夢を見た翌日だった。
(相変らず、内容はもう忘れたけど……)
ふと隣に目をやると、いつもは資料やら書類やらが山積している鏑木の机が妙にすっきりしている、というよりも何も出ていないことに気付いた。珍しい、遅刻かな?
「石井」
それと同時に背後から課長の声が掛かる。しまった、挨拶を適当にし過ぎたか。朝から面倒な小言は御免被りりたいのだが。
不承不承振り返ると、そこには説教を用意しているといった面持ちからは程遠い、何か気を揉んでいる様子で落ち着かない課長の姿があった。
「はい、なんでしょう……?」
その表情に俺まで怪訝な気持ちになりながら机に駆け寄ると、課長は組んでいた手を解き頭を掻きながら口を開いた。
「お前、鏑木を知らんか?」
「……はい?」
質問の意図をわかりかねて間抜けに返事を返すと、課長は辺りを見回し近くに聞き耳を立てている人間がいないかを確認して、更に距離を詰めてきた。
「……いや、土曜の朝からあいつと連絡が取れんのだ。おまけにこの時間になっても会社に電話ひとつ寄越さない。あいつはお前と違って上長の電話にはどの時間でも出るし、ましてこの時間になっても遅刻の連絡を寄越さん奴ではない。お前と違って」
心配しているのはわかるが、二度ほど漏れた本音に突っ込みたい気持ちを抑えつつ、続きを待つ。
「鏑木と一番親しいお前なら何か知っているんじゃないかと思ってな」
「そう言われましても……」
課長は社内での俺らのやり取りを見てそう思ったのだろう。事実鏑木と俺は頻繁に食事や酒を共にしたりはする。しかしそれは会社の帰りのついでというだけであり、母親の世話もある彼とそれ以外で親交を深めた覚えがない。それどころかプライベートなメールのやり取りすらも、休日には全くと言っていいほどない。
「そうか。もし鏑木から連絡が入ったら教えてくれ」
「はぁ……」
俺が返答に窮しているうちに課長は頭から手を離し、深いため息と共に話を締めた。生返事を残して席に戻り、改めて鏑木の机を見やと、備え付けられているファイルボックスが空になっていた。
妙だ。常に複数の案件を抱えている彼は、顧客情報はともかく資料すらも完全に片づけて帰ることは少ない。どうせ翌日にはまた同じ資料を開くことになるのだ。完璧超人の三吾を除き、成績をまともに稼いでいる営業の机は皆似たり寄ったりな状態だった。
(だとすると、あいつは前もって今日は来ないつもりだったのかな)
にしたって上下関係が絶対の体育会系である鏑木が、上司の連絡を完全に無視するというのはおかしな話だろう。
「うーん……?」
いくら頭を捻ったところで納得できそうな仮説は出ず、諦めたところで朝礼を始める声が掛かった。
※ ※ ※
結局、鏑木は終業のチャイムが鳴っても会社に姿を現す事は無かった。午後になってからは周囲にもこの異常さが伝わったようで、誰もがデスクを通るたびに彼の机を一瞥して複雑な顔を浮かべている。それほどまでに皆が鏑木の無断欠席という事態が異常であると感じていたのだろう。
無機質にコピー機から吐き出される紙束から目線を外して懐から端末を取り出してみても、鏑木からの着信の知らせは相変わらず表示されない。
「結局、来ませんでしたね」
コピーが終わった会議用の資料の束を課長に渡しつつ、なんとなく話題を振ってみる。
「ああ、あれから相変らず連絡もない。何か妙な事に巻き込まれてなければいいが……」
俯いたその顔を上げないまま、普段辣腕で知られる課長に似つかわしくない、暗い面持ちで呟く声を返してきた。
彼も人の子ということだろう。行方知れずの人の身を案ずる、まともな大人であればごく当たり前の事なのだが、普段仕事上だけの、それも穏やかともいえないやり取りばかりをしている課長が見せるその一面は、俺にはやけに新鮮なものに思えると同時に、何故だが安堵にも似た心地を覚えていた。
「……自宅に連絡は?」
だからだろうか、話題を続けるという選択肢を取った俺に、課長は面を上げて驚きを交えた表情でこちらを見てきた。途切れると見るやさっさと去って行くとでも思われていたのだろうか。まぁ、普段のやり取りからそう判断するのも無理はないが。
「お前も鏑木の家の事情を知らない訳じゃないだろう。一応、朝礼前に携帯に掛けた後と昼前にも掛けてみたんだが、な」
ああ。心中で納得する。彼の母親は自宅で療養しているものの、自力で電話を取れる程の元気はない。朝礼前では介護士はまだ鏑木の家に到着する前だろうし、昼前では通院のため家には誰もいない。それ以外の時間は――課長自身忙しくて連絡を取る暇がなかったといったところか。
「あの、夕礼終わったら俺が電話してみます」
なぜもっと早く提案しなかったのか。自分に対する苛立ちを感じながら進言すると、課長はすぐにうむ、と頷いてから続けた。
「頼む。俺が連絡したいのは山々だが、生憎この後直ぐに役席会議に出なきゃならん。動きがあったらまず俺に教えてくれ」
自分に、と念を押したのは、万一のことがあった場合余計な混乱を広げない為だろう。首肯を返しながら席に戻る。いつも以上に夕礼が早く終わってくれることを願いつつ、俺はもう一度端末に目をやった。
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