人生を賭けた交渉①
右手にはケーキ屋の箱。箱は少し早いハロウィーン仕様になっておりジャック・オー・ランタンが描かれていた。中身はガトーショコラが三つ、シュークリームが二つ、レアチーズケーキが二つ。多めに用意したのは色を付けておくことで後輩の心証を少しでも良くしておこうという魂胆だった。
引っ越してきたばかりの築七年の賃貸アパート『天馬荘』は大学から徒歩20分ほどの距離に位置している。天馬荘という名前の割に外壁は白ではなく赤褐色のレンガ模様。三階建ての鉄骨造になっており俺の部屋は三階の304号室だった。
さて、どうして俺が大学三年生の九月という中途半端な時期にここへ引っ越してきたのかといえば理由は単純だ。前に住んでいたアパートの一階に新しく事務所を作る計画が立ち上がり建物の改修が必要になったため大家から立ち退きを迫られたからだ。賃貸契約というのは案外借り手に有利なので弁護士に相談すれば立ち退きを取消しすることもできたかもしれない。しかしながら、俺はいちいちごねるのも面倒だったので大家の提示した条件を素直に呑んだ。引っ越しをしても利益はそれほどでないが損もしない悪くない条件だったからだ。こうして次なる住処として引っ越してきたのが天馬荘だった。
実のところ俺の住む304号室のお隣、303号室に後輩である明石涼子が住んでいるのは偶然ではなかった。明石涼子は大学陸上部の後輩で練習の時に顔を合わせる機会は多い。以前に陸上部の仲間と話をしていて、俺はふとした拍子にアパートの立ち退きを迫られている話をした。その時に「それなら私と同じアパートはどうでしょう? 隣の部屋が最近空き部屋になったみたいですよ」と厚意でそう言ってくれたのが明石涼子なのだった。
今にして思えば面倒臭がらずに弁護士に相談して立ち退きを断固拒否していれば良かったかもしれない。そうすれば引っ越し後の部屋の整理に付き合ってもらった義妹に『見られたくないアレ』を発見されて脅迫されることもなかっただろうし、当然ながら義妹との赤ちゃんプレイを明石涼子に聞かれることもなかったはずだ。
だがそれもすべて後の祭りだ。時間はこの世界に生きる我々にとっては不可逆なものであり、その不可逆性は某国際合意とは比べものにならないほど確かなものなのだ。
「ボクちゃんお部屋で赤ちゃんプレイをしていましたが、今のはなしです~」
という主張が通じるものならしてみたい。
だが、どう考えたって無理なものは無理だ。既に起こった出来事をやり直すことなんてこの物質世界に生きる俺たちにできることではないのだから。
俺は303号室の前で大きく深呼吸を三回してからインターホンを鳴らした。
『ピンポーン』という音が俺には処刑場の銃声みたいに聞こえた。そして、すぐに何やら部屋の中でごそごそと人が動く気配がした。不穏を告げる気配だった。玄関ドアへと近づいてくる住人が後輩とは違った人喰いモンスターではないか? という気さえした。
ドアが開き明石涼子がその隙間から顔を出すと、最初に彼女は俺の顔をじっと見つめてその後に視線をケーキ箱へと移した。そして水色のパーカーに青いキュロットパンツという出で立ちの後輩は不機嫌そうな声で「入って」とだけ呟いた。
ああ、完全に怒っていらっしゃる。
そりゃそうだろう。せっかく厚意で引っ越し先を紹介してあげたのに、その先輩が引っ越してきた翌日にいきなり隣で赤ちゃんプレイをおっぱじめればキレない方がおかしい。
俺は明石涼子から滲み出る不機嫌な圧力に気圧されながらも恐る恐る部屋へと足を踏み入れた。部屋へ入れてくれるあたり多少の信頼はしてくれているのだろう。俺は後輩の背中を追うように中へと入った。
明石涼子の部屋は綺麗に整頓されており女の子の生活空間というよりは仕事場という印象を思わせた。テレビは置いておらず作業机にはパソコンとプリンターだけが置かれている。ベッドはなく代わりに布団が部屋の隅に畳んであった。俺を部屋に招くためにわざわざ片付けた、という感じではない。床に物も置かれておらず綺麗なので日頃から掃除しているのだろう。
明石涼子はダイニングテーブルに座るように無言のまま視線で促し、俺は黙って椅子に座った。しばらく沈黙が続いたが俺の方が重い空気に耐えられずケーキ箱を差し出して口を開く。
「これが約束の品です」
明石涼子は「そう」とだけ言って箱を受け取った。
本来、明石涼子は口数が少ない女の子ではない。だから彼女の態度が余計に恐ろしかった。明石涼子は高跳びの選手でスタイルも良く美形だ。シャギーボブの黒髪が良く似合っておりセクシーな切れ目は印象に残る。ブスが怒ると滑稽ですらあるのだが美人が怒ると心底怖い。美人は敵に回したくなかった。
明石涼子は箱を開けて中身をみると、ふ~ん、とつまらなそうな反応をした。だが彼女が無表情を装っているのは俺にも分かった。目元と眉がわずかに喜んでいたからだ。お菓子を多めに買ってきたのは正解だった。甘いお菓子が嫌いな女の子はそうはいない。好物を前にして明石涼子から放たれる無言の圧力が少しだけ弱まった気がした。
「紅茶かコーヒー、どっち」
どうやら飲み物を用意してくれるらしい。俺は少し迷ってから、コーヒー、と伝えた。明石涼子は電気ケトルに湯を沸かしてドリップコーヒパックを白のカップにかけてお湯を注いだ。目の前で明石涼子がコーヒーを用意する姿を眺めながら、台所に立つ女の子の後姿っていいよなぁ、と思う。陸上で鍛えているだけあって下半身のラインが綺麗だ。キュロットパンツの下から盛り上がったお尻がキュッと締っているのが分かる。これでエプロンを着けてくれたのなら若妻感がでて更に良さが際立つだろう……
しばらくこの光景を眺めていたいなぁ、などと考えていた俺は本来の目的を思い出して視線をテーブルへと戻した。
あんな醜態を晒したばかりなのに女性の後姿をうっとり見つめる視線に気づかれたらとても不味い。女性は野生動物のように男の視線に敏感だ。下手な真似をして今よりも更に好感度を下げるわけにはいかない。
明石涼子はコーヒーを用意し終わるとカップをソーサーに乗せて俺と自分の席に置いた。白いお皿にはガトーショコラがのせられている。お皿とケーキは白人と黒人の恋人同士みたいに仲良く調和していた。
「で、何か言うことは?」
真正面に座った明石涼子は悪戯をした悪ガキを問いただす教師みたいな口調でそう言った。しばらく俺は黙った。彼女の言葉に対して俺は第一声を決めかねていたのだ。
『無様な赤ちゃんプレイを聞かせてしまってごめんなさい』
などとは、さすがに恥ずかしすぎて言えなかった。そんなことを言おうものなら次は羞恥プレイが始まってしまう。今でも十分に羞恥プレイな気がしなくもないがこれ以上恥ずかしいのは勘弁して欲しい。あまりにも居たたまれない。
「ちゃ、ちゃうんです」
それが俺の第一声だった。間の抜けた声がダイニングに響いた。我ながら見事なほどに情けない声だった。散々悩んで導き出した第一声がコレだったことに間違いなく俺が一番失望していた。
「違うって、何がですか?」
一体、何が違うというのだろう? 義妹とバブバブしていたのは事実なのだ。しかし冷静に考えれば今ここで事実を伝える必要はない。今ここでしなくてはいけないのはダメージを最小限に抑えることだ。
「あ、あの子はエッチなお店の子じゃないんだ。だからいかがわしいことはしていない。性的な行為はなかったんだよ」
俺はそう言い訳をした。嘘は言っていない。裸で抱き合ったり、キスしたり、胸を手で揉んだりといったエッチな行為はしていない。グレーゾーンだが黒ではないはずだ。
しかし、俺の言い訳に対して放たれた明石涼子の言葉は的確だった。
「そうでなくても、十分いかがわしいでしょう?」
その通りだった。とても良い指摘だった。
ここが大学で俺が教授だったら「いいポイントです」と褒めていたところだ。
『ママーだいしゅき~』『おっぱいおいちぃでしゅ~』等の明石涼子に聞かれたセリフは客観的に考えて十分にいかがわしかった。それと比べれば、普通に愛し合う二人の性行為の方がどう考えても真っ当だ。
明石涼子はハァと溜息をつくと呆れたように言った。
「で、あれは誰なんです。まさか本当にお母さん、というわけではないんでしょう? 彼女ができたという話は聞いてませんが、まさか本当に彼女でもできたんですか?」
そう問い詰められて俺は返答に困った。
義妹です…… と本当のことはあまりに答えづらい。血がつながっていないとはいえ、妹と赤ちゃんプレイをする兄というのは聞こえが悪すぎる。義妹をママと呼ぶ兄。どう考えたって変態だ。ならば、どうせ変態と思われるくらいなら少しはマシな変態だと思われたい。
「あの…… あの人は。その、出張・癒し屋さんです」
とっさに俺はそんな嘘をついた。
出張・癒し屋さんなんてビジネスが実際にあるのかどうか俺は知らない。もしもなければ、俺は今ここで新ビジネスをでっち上げたことになる。だが、その嘘がバレる可能性は低い。存在するものを証明することは簡単だが、不在の証明は困難だからだ。一般的に『悪魔の証明』と呼ばれるやつである。
「何ですか、その出張・癒し屋さんって」
「あの…… 女の子を呼び出して膝枕とか耳かきとか…… そういう事をしてもらうサービスのこと……です……」
説明してしまえば、結局それはヌルいデリヘルみたいなものだった。
デリヘルとはすなわちデリバリーヘルスのことで日本語にすれば『健康のお届け』である。日本語ならとても健全なサービスっぽく聞こえるが、実際には『エロのお届け人』でありお金でエッチな癒しを提供してくれる大人のサービスことだ。
お金を払って癒しを求める男というのはやはり女性からみれば最低野郎に違いないのかもしれない。だが義妹にバブバブよりは多分マシだ。
「つまり、お金を払って膝枕をしてもらってバブバブした。そういうわけですか」
「はい」と俺は自白する犯人みたいにそれを認めた。
すると明石涼子はニヤリと口元を三日月形に歪めると絶対零度の声色で、
「先輩の変態っ」と言った。
背筋がゾクっとするような言い方だった。
明石涼子はジト~ッとした目つきで俺を見下すような視線を送っている。
その視線を受けた俺は、あっ、ヤバい、と咄嗟にそう思った。ヤバいと感じたのは目の前の明石涼子が本気で怒っていたからではない。デジャヴを感じたからだ。
その視線と口調が『見られたくないアレ』を発見した時の雛姫に似ている気がしたからだ。
「つまり先輩はマザコンというやつなんですね?」
明石涼子の口調は妙に嬉しそうでサディステックだった。
ネズミをいたぶるネコのように残酷な遊びを楽しむ響きがあった。
「いえ、厳密にはちょっと違うかと……」
「何が違うんですか? だってバブバブってしてたんでしょ?」
「同い年くらいの若い子に甘えるのが好きなだけで、実際の母親に甘えるのが好きなわけじゃないんです」
俺がそう言うと明石涼子は少しだけ考えるような素振りをして「そうですか」と言った。
「でも先輩は赤ちゃんになるのが好きなんですよね?」
「き、嫌いじゃない、かな?」
俺は認めた。積極的に好きなわけではないというニュアンスを含んだ言い方のつもりだったのだが、おそらく後輩には伝わっていない。物事を正確に伝えるというのは案外と難しい。多分、彼女は俺がバブバブってするのが大好きくらいに思っているだろう。
「ふ~ん。なるほど、なるほど。嫌い、じゃないかぁ」
あれ、なんだこの流れは。不味くないか?
なんだか俺には明石涼子が怒っているというよりは、この状況を心から楽しんでいるように見えるのだが…… まるで俺の弱みを握ったことが凄く嬉しいかのように……
「ところで先輩はどうしてここに来たんですか?」
「どうしてここにって、今日の誤解を解くため、だよ」
「誤解を解くためですか。まぁ、そうでしょうね。でも一番の目的は私の口止めじゃないんですか。だって先輩。他の人に知られたくないでしょう?」
「そ、そりゃ。誰にも言わないでくれるのなら……」
「先輩、人に口止めさせるのに一番有効な方法って知ってますか? もちろん、死人に口なし、というやつ以外ですよ」
明石涼子は右手と左手の指先を合わせながら上目遣いでそう言った。まるで俺を試すかのように、見定めるかのように彼女の瞳は俺を見ていた。俺は平静を装いつつも動揺を隠しきれている自信はなかった。
「……誠意というヤツですか?」
俺は口止め料のことを婉曲的に指してそう尋ねた。
「あはははははははははははは」
明石涼子はその答えがとっても愉快だという風に笑った。笑いながらおもむろに立ち上がると彼女は俺の背後に立った。そして俺の背中に抱き着くようにして両腕を肩にかけてきた。彼女からガトーショコラの甘くてビターな匂いが漂って俺の鼻腔をくすぐった。俺は後輩の美人に背中から抱き着かれているにもかかわらず、生きた心地がしなかった。
「違いますよ、先輩。口止めさせたいのなら、その相手に共犯者になってもらえばいいんですよ」
瞬時に俺は彼女の言葉の意味を察して真っ青になった。きっと、大人しく口止め料を払えと言われた方が俺はまだ冷静でいられただろう。
なんという厄日だろうか。俺は今日という一日だけで可愛い義妹と綺麗な後輩の二人から脅迫されている。
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