序章 4 求める者


 白衣を着てキーボードを打つ姿というのは、研究所という場所においては極自然に見受けられるものだろう。白衣の胸ポケットに掛けている身分証には「滑川京果なめかわきょうか」の名前、所属、顔写真、そして良くあるICチップも埋め込まれている。

 この研究所に限らずだが、今時、身分証を首下げ式にしていないのは珍しい。彼女は、首から下げた方が煩わしいと思うほうであったので、いつも胸ポケットにクリップしている。

 京果はこの研究室では異彩を放っていた。その科学者としての能力も踏まえてだが、見た目もだ。

 アッシュグレーに綺麗に染め上げ、肩まで伸ばしたストレートヘアー。その隙間から見える、両耳で合計7つあるピアスの群れ。元々目鼻立ちが良い方だが、アイプチとカラーコンタクトで彩られた目は、色々な意味で惹かれるものがある。

 昔に流行ったヴィジュアル系ロックスタイルに近い。

 その割に、白衣の下の服装は単なる灰色のスウェットというアンバランスさ。萎びた商店街の片隅にある、老人一人でやってそうな店で購入したと思わせる代物だ。だが、ヨレヨレという訳でもなく、まだ綺麗であり清潔さは有る。

 そんな彼女は、今どき珍しいワイヤードのイヤホンで、お気に入りの曲を聴いていた。胸ポケットに入れた音楽プレーヤーに山ほど入れてる一昔前のビジュアルバンドの曲。

 曲のリズムに合わせて軽く頭を揺らしながら、キーボードを軽快に叩いていく。傍から見れば、いわゆる音楽ゲームをやってるようにも見える。

 ここが個室であれば誰も気に留めなかっただろう。だが、欧米の大手IT企業などとは違い、ただでさえ狭い大阪市内、さらに予算の問題、急遽設立された組織というのも合いまり、評価の高い研究者と言えども個室は与えられてない。

 幸いにもこの大阪分室には在籍者もそう多くはなく、これもまた欧米型といえないまでも、パーティションで区切られたパーソナルスペースは確保できている。

 コの字に区切られているが、背中側はがら空きだ。

 なので、通りすがりに彼女を見て、ため息を漏らしながら歩いていく所員の姿も珍しくない。

 隣のブースに居る掛川かけがわふみは、その例外となる。京果とはこの大阪分室に来る以前からの付き合いで、彼女の身の成りや所業にはすっかり慣れている。

 ふみは椅子を引いて、そんな京果を見ながら声を掛けた。


「京果、乙-6255のファイル持ってる?」

「んー、今送る」


 イヤホンを外すことなく京果は答えた。音楽を聴いてるとはいえ、かなり控えめな音量で済ませているらしい。彼女曰く、脳内にクラブ並のアンプがあるから必要ないとの事だ。

 なので、日常会話にも支障はない。むしろ京果の視力と聴力は、一般よりもやや上回っている。彼女自身は非能力者であるが、それらがある意味、超能力的とも言えるだろう。

 ふみは受け取ったファイルを眺め、あとは単純作業であると判断すると、世間話を始めた。

 周りに所員の姿はない。それどころか一部の照明が落とされており、この施設に残っているのは、ここに居る二人と、恐らく室長、居てもあと数人といった所だろう。時計を見れば、既に午前二時を回っている。女性同士でしか話せない事も、今なら周囲に気兼ねせず会話できる状態だ。

 しかし、ふみの口から出たのは、その手の話ではない。


「ねー、京果。聞いた? あの話」

「んー? 室長の白髪が7.2%増えたってやつ?」

「ちゃう。でも遠くも無いか」

「室長が帰れなくなってからの話っしょ?」

「まぁせやね。厳密に言うんならその原因やな」

「何ぞ分かったん?」


 この二人の会話もまた、知らぬ者が居れば違和感を覚えただろう。

 関東出身の京果は関西弁ではなく、単なる崩れた日本語だ。ふみの影響も若干あり、所々関西弁のイントネーションが混じる。

 対してふみはネイティブではあるが、関東に所在する研究所勤務時代の影響もあり、真っ当なネイティブからすれば違和感がある喋りになっていた。


「新種」

「ん?一体何の事じゃ」


 京果はキーを打つのを止め、イヤホンを外す。胸ポケットからプレーヤーを取り出し、ボタンを押してから机に放り投げた。


「だから新種。見つかったかもって」

「話が見えん。巨人の話かえ?」

「そう、奇行種とか……って、ちゃうわ!」

「ならちゃんと説明して下せぇよ」


 五日前。普段はスリッパで所内を歩き回る事だけが仕事であった室長が、突然靴に履き直し、バタバタと走り回った後、部屋にロックを掛けて閉じ篭ってしまった。時折、夜中に出ている事もあるようだが、昼間も含めてその日以降、彼の姿を見たものはほとんど居ない状態だという。

 三日前には突如、この研究所に大量の医療機器が搬入され、二人が居るこのフロアの上、つまり七階に持ち込まれた。その上、エレベータは六階までしか使用できなくなり、六階より上は立ち入り禁止になっている。階段や七階のフロアには公安の人間が配備され、厳重に警備されているらしい。

 元より七階より上は空室だけだったので問題は無いが、急な事に戸惑っている所員も多い。

 事情を知る者は居ないようで、肝心の室長は籠りっきり。内線にも出ない、というよりは通じない。恐らくケーブルごと引っこ抜いたのだろう。


「へぇ、内線も、とはねぇ。っつかさ、いい加減 “室長” って呼称、やめね? ややこしくてたまらん」

「しゃぁないやん、おかみの事情ってやつや」


 国立能力研究開発機構アマック、基礎研究大阪分室。

 ビル一本丸ごと国が借り上げている研究所。にも関わらず、大阪支部とかではなく分室扱いだ。

 なので、この施設の長も『室長』と呼称されている。本来であれば『所長』になる筈だった。

 そんな設備があるビルの看板は空白のまま。郵便受けには小さく『能研・大阪分室』とだけ書かれている。

 少なくとも表向きは予算を掛けていないように見せ、箱物行政の結果、と思われないようにしている。政府は世間体を気にしているのだろう。が、実際、予算が無いだけのように思える。

 それでもまだ、大阪の中心で築三十年ちょっとの比較的綺麗なビルを、安く借りれたのは僥倖だろう。

 予算は多くないものの、福利厚生の部分ではそれなりに環境が整っていた。

 このビルには宿泊できるような設備はないが、仮眠室の代りとして、近くのビジネスホテルの二室ほどを借りれるようになっている。その都度、空いてる部屋を使うので連泊はできない。


「んで? 新種てのと何の関係が?」

「そうそれ。文字通りの意味や。七階に運ばれたの、今までとは違う能力の持ち主じゃないかって噂」

「だから新種? ちと人道的に問題がある表現じゃね?」

「ほとんどの噂ってのは、それ自体が非人道的やんか」

「まぁ、ね。んでも何か、その表現は口にし辛いなぁ」

「さよか」


 京果はすっかり作業を止め、口に指を充てて考え込んだ。


「んー、ニュータイプってのは?」

「昭和か」

「なら……ニュージェネレーション」

「懐メロか」


 遂にふみも作業の手を止め、親友兼共同研究者の貧困な発想に頭を悩ませる。

 二人は能力研究において多くの研究論文を仕上げ、実力も認められている。論文の執筆自体はふみが熟しているが、発想や実証については七割くらい京果の成果だ。

 そんな明晰な頭脳の持ち主である京果は、スウェットの下に手を突っ込み、ぽりぽりと腹を掻きながら、残念な姿と発想を披露している。

 同性の友人としては嘆かわしい、とふみは溜息を吐いた。


「んー、パーソナルデータは?」

「全部秘匿、というかデータすら一切無し」

「そっかぁ……なら新人ちゃん、で」

「はぁ、もうそれでええわ」


 ふみは目頭を押さえ、机の上で冷めたコーヒーを手に取る。危うくコンタクトが外れそうになるが、手で顔を覆い、それを食い止めた。

 仕事モードが抜けたのか、京果は再び机に向かうつもりはないらしい。椅子の上であぐらをかいて、子どものように体を揺らしている。三十路を越えた女の行動ではない。見た目だけなら二十半ばで通じるのだろうが。


「で、その新人ちゃんがどしたん?」

「どうもこうも、話はそれっきりや。オチは無いで」

「さいですか」

「新種、もとい。新人ちゃん、かぁ」


 能力者かどうかは、国の検定を通過した専用デバイスと専用アプリケーションの組み合わせで行う。

 能力者からは固有の脳波パターンが見られる。通常の医療脳波計でも分からなくはないが、常人には無理だろう。他の脳波異常と区別する為に綿密な計測と、専用の関数処理を通して検証しないと分からない。

 この固有脳波パターンは、『能力者固有の基本パターン』と呼称されている。お役所仕事の成せる技だろう。科学や横文字に疎い政治家連中を納得させる為、何のひねりもない直喩的な表現に留まっている。

 ロマンティストが多い科学者・研究者連中には不評だ。中には個人で厨二病的な呼称を使っているのも居るようだが、結局公式文章になる時に、この呼称へと変更されてしまう。


「さて、掛川君」

「はいはい、何ですか滑川先生」


 ふみは気晴らしにと噂話を持ちかけた事を後悔していた。作業に集中する事を諦め、左手にコーヒー、右手でキーボードを叩くき、耳は京果に向ける。

 先に話を投げ掛けた責任上、京果の話に付き合う事にした。


「現在見つかっている能力者基本脳波パターンは何種類じゃ?」

「一つだけよ。認定アプリも、今の所それしか対応してない」

「さらに、現在知られている中で、能力者が“発現”できる効果の種類はいくつある?」


 能力者による魔法とも超能力ともいえる物理効果。日本では先の理由で分かりやすく「発現」と記される。海外では「エフェクト・アクティベート」となっている。

 日本のお役所理由のお蔭、さらに日本語特有の曖昧な表現が、他国との連携を取るのに邪魔になっており、逆に言えばそれが機密保持にも役立っている部分ではある。

 ふみが本来得意とする生体科学分野でも、能力関係の件に関しては、研究所や国に対して使う文章に、ドイツ語やらラテン語は一切出していない。分かりやすさを重視する為と情報保持の為だ。

 おかげで専門用語の表記も、日本語のみでの表現に慣れてしまっていた。


「効果は二つだけ。厳密には四つ」

「ふんむ」

「一つは物体移動、駆動系ね。超能力で言うと限定されたサイコキネシスってやつかしら。これの強・弱の区分けで二つ」

「甲種、乙種でしゅね」


 将来的には国家資格にでもなるのだろうか、と思わせるようなクラス別けだ。法文化するのに楽なのかもしれないが、こういう所だけ役所関係の茶々入れは早い。


「もう一つは振動系やね。熱振動として作用する力。今の所振動作用を加える方向でしか実証できへんかったから、人間電子レンジってとこやね」

「丙種、丁種でち。今の所、強効果となる丙種は確認できてないでちね」

「いちいち語尾をアレンジするんはやめや。丙種は逆作用、つまり冷却も可能な人、と一応定義されとるけどね」

「観測するまでは断言できないけど、もしそんな人が出てきたら……場合によっては熱力学第二法則が崩れるよ。マクスウェルの悪魔が、ついに降臨したことになるね」


 京果はふざけるのを怒られてやめたのか、態度が一変して表情も硬くなる。それとも自身で発言した内容が内容なだけに硬くせざる得なかったのか。

 ふみにとって物理系は得意ではないにしろ、基本的な部分は知識として頭にはある。相手が言わんとしてる事は理解してるが、余計な口を挟まず、京果に話を促す。


「仮に物質冷却の能力が発現した場合、どうなるのかな? 周囲の影響は?」

「正直、想像つかんねぇ」

「物理作用の方法は? ペルティエ効果? 冷媒も半導体もどこから? まさかレーザー冷却? 単分子レベルよりマクロで?」

「臍で茶が沸く話ね」

「サティエンドラ・ボースが坊主になるレベルよ」

「またしても革命ね」

「マイレボリューション」

「懐メロから離れんしゃい」


 ふみはとうとう作業の継続を諦めた。空になったコーヒーカップの中身を、再び埋めるべく席を立つ。

 いつもであれば、ものぐさな京果が「私のも」と言わんばかりにカップを差し出すのだが、今日は珍しく同じように席を立ち、ふみに付いてきた。

 歩きながらふみは回答を続ける。


「本題に戻せば……区分けは四種やけど、現象観測ができたのは三つやね。正直、これ以上増えてほしくないんやけど、私らに与えられた仕事は、まだ観測されてない他事象の有無と検証なのよね」

「見えないものを見ようとして――」

「望遠鏡も顕微鏡も要らんわ。そのうち能力者が勝手に発現してくれるやろ」

「だと楽だけどねぇ。けど被験者が言うには……我々的に表現すると、物理現象に近いものを頭の中でイメージして、デバイスで増幅させてやっとこどっこいしょ、って事でしょ? 実際、中学や高校で習う物理の知識を、彼方に飛ばしちゃった子とかは発現出来ないし」

「古来から魔法使いと言われてた人々は、今でいう科学者や化学者だったって事よ。何事も科学的知識が必要っていう査証ね」


 結局、部屋の隅にあるコーヒーベンダーの前での立ち話になる。既に互いのコーヒーを淹れ終わり、心地よい暖かさがあるそれを口で楽しみながら会話を続ける。

 いままで座り続けていた反動もあり、この立ち話は暫く続きそうだ。

 京果はここに来てから二杯目のコーヒーを注ぎ、会話を続ける。


「で、丙種能力者の発見は、今の所絶望的。で、我々きゃわたん博士チームが次に目指すのが――」

「なんやねん、そのチーム」


 実際二人は美貌の持ち主だ。京果は派手目ではあるが顔も整い、体の線も程よく細いスレンダー美人。ふみは清楚系グラマラス美人。細い、とは形容し難いが、凹凸がしっかりとしたスタイルだ。黒のタイトスラックスに白シャツ、それと白衣の組み合わせはまさに美人博士という表現が良く似合う。


「我々きゃわたんはかせちーむが目指してるのはぁ」

「はいはい。流体力学系よ」

「えぇぐざくと――」

「言うと思ったわ。ロシアで発見されたという話もあるようやけど、これもまた噂の域を出ぇへんね」


 今のところ、公式文書、特に政治家向けの書面では、この未発見の現象と能力については定義されていない。

 ふみが今進めている研究ノートには、仮に壬種・癸種と定義している。偶然にも今までのクラス分けが十干の意味に何となく対応しているからだ。

 ――ここまでくると、魔法使いというよりは陰陽師ね。

 ふみはそう考えるが、言葉を続けた。


「専門である医療系でも流体は扱うけど、うちにぁ専門外やね。定理や法則に埋もれて死にとうない」

「専門外なのは私もよ。餅は餅屋に任せればいいべ」

「まぁね」

「更に言えば、未観測事象の検証なんて、どっかの猫ちゃんみたいなのは棚上げ。重要なのは現時点で観測されてる事象の傾向から、推測すること」

「それは探偵の仕事では?」

「私らも探偵だよ、ある意味」


 少し足に疲れを感じてきたのか、京果はコーヒーを持ちつつ軽く屈伸をして、席に戻っていく。ふみはそれを追いかけた。京果は視線だけをふみに向けて、言葉を続ける。


「噂話とは別に、おそらく流体系があるって予想の根拠、話したっけ?」

「いんや、まだやね」

「古来、東西関わらず水流系の伝承や神話って多いでしょ?」

「海を割っただの、川の流れを変えただの、雨を降らせたとか?」

「そうそう。中国や日本でも水流ならぬ水龍の昔話は各地にあったりするね」

「――あんたまさか、そんなオカルティックな根拠で?」

「半分冗談で半分本気」


 京果は椅子にしっかりと座りこむと、足と腕を組んで研究者らしい雰囲気を醸し出した。さっきまで椅子の上で胡坐をかいていたガサツ女の姿はそこにない。

 それに倣うように、ふみは椅子のアームに肘を立て、顎を手に乗せながら京果に続きを促した。


「現状では、デバイス無しでの能力発現はできてない。仮に聖書や伝承の時代に、デバイスに類するものがあったとしても規模が大きすぎる。根拠としては薄いのは認めよう」

「まぁそうやね」

「だが、規模が大きいのは単純に噂や伝言ゲームみたいに、途中で情報が歪んだ可能性が大きい。一方、タイムマシンでもない限り、元となる情報が少なすぎて検証も不可能。事象の有無は不確定だ」

「……そうね」

「デバイスの役割は単純に言えばアンプリファイヤー、単なる増幅器だ。ソースが無ければ意味を為さない。この場合のソースって何かな?」

「脳波」

「イエス。能力者の基本脳波パターンには一定法則があるのは周知の通り。けど今はまだノイズも多く不安定さも増して、正確な検出はできていない。恐らく検査漏れしている能力者も多いだろう」

「逆に僅か数年で、ここまで来れたのが奇跡やん。しかも官僚主導の元でね」

「そうだね」


 京果も両手を広げておどけてみせる。一瞬、その話で脱線しそうになるが、それを喉の奥へしまい、京果は本題を続けた。


「面倒なので、この基本パターンの呼称をエプシロンとしよう。いや、エプシロン・コプト、としようか」

「唐突ね。脳波の基礎律動における周波数帯の区分け?」

「厳密にはノー。だからエプシロン波、とは言わないでおく。周波数帯の区分けは?」

「低い方からデルタ、シータ、アルファ、ベータよ」

「ここで言うエプシロンは周波数帯そのものではなく、検出された基本パターンの集合体だと思って貰っていい。だからエプシロン・コプト」

「コプトって?」

「ギリシャ文字の亜流みたいなものだよ。ボクの予測、いや限りなく勘に近いが、それによると基本パターンはあと二つ、もしかしたら三つあるかもしれない。なので3つの予約語を選んだ」

「三つ?」

「コプト、ゴート、ルーン」

「何故その三つ――いや、分かったわ」

「ほぅ?」

「あんた、最後のルーンが使いたかっただけっしょ?」

「大・正・解っ!」


 今度はふみが肩を竦める番になった。仕方ない。科学者はロマンティストが多いのだから。


「魔法、超能力、陰陽……色々あるけど、ボクは魔法派でね。魔法といえば、やはりルーンでしょ」

「分かったから話を戻して」

「ちぇ。とにかく、基本パターンであるエプシロン・コプトしか存在しないってのは早計なんだ。ええと、説明が面倒なので、AR拡張現実グラス付けてくれないか」


 初期の頃に比べれば随分解像度が上がり、視野の自由度も上がった眼鏡型のAR拡張現実デバイス。一般にも普及しつつあるが、デザインで好みのものが見つかる程、種類は多くない。

 ふみは眼鏡をかけるのが好きではない。だからこそ普段からコンタクトを使っているのだが、この場面では仕方ない。机の上の隅に避けていたARグラスを手に取り、顔にかける。

 京果は既にARグラスを付けてこちらを見ていた。眼鏡をかけた京果の顔は、より中性的で凛とした雰囲気が増す。同性でも心が動かされるような顔立ちだ。

 特に今のような真面目な会話をしてる時は、男前といえる。また彼女の一人称も『ボク』に切り替わり、幼いのか大人なのか、男性なのか女性なのか分からなくなる所が、不思議と魅力的に思えるのだ。


「少し釈迦に説法な話になるが、ボクも整理しながら話したいので付き合ってくれ」

「いい……わよ」


 ふみは思わず言い淀む。京果の顔を見て頬に熱を感じたのは、空調の所為にしたいところだった。小さく咳払いをして、誤魔化すようにARグラスの位置を直す。


「今見えてるのは、ある被験者の脳波だ。パターンとしては見飽きてるだろうがね。さて、基礎律動の周波数帯は?」

「下は1ヘルツから20ヘルツくらいやね。20ヘルツからは可聴領域になるし、28ヘルツからはガンマ波扱いやで」

「通常であれば、二十一個のセンサーから脳波を得るよね。今では簡易的にはなるけど、“BATERデバイス”のお蔭でワイヤレスイヤホンの形でも、片半球エリアだけだがフォローできるようになった」

「せやけど、定期検査では今でもヘルメット型やん」

「そうだね、無論その方が精度が上がる。さて、より視覚に訴える為、時間軸を圧縮したスペクトログラムで見てみよう。何か見えてくるかい?」


 ふみにしてみれば、表示形式が変わっただけにしか見えてこなかった。よくあるMBFA法(Multi Bandpass Filter Analysis)を使ったDSA(Density Modulated Spectral Array)表示だ。


「なんも?」

「だろうね。これはあくまでも脳波というソースに過ぎない。さて、次の被験体のを見てみよう」

「個体差はあるけど、ほぼ同じやね」

「そうだね。だが、周波数帯域を大幅に広げてズームバックしてみよう」

「真っ黒だわ……いえ、上の方にピークがあるわね」

「二本見えるかな?」


 ふみは空中に指差し、ARグラスの淵にあるボタンをクリックする。するとその2本の線の部分に表示がズームされた。


「2.4Gと3.4G? なにこれ?」

「ブルートゥースと移動体通信、つまり携帯電話の周波数だよ」

「はぁ……せやけど脳波には関係ない、というか全然エリアがちゃうやんか」

「直接にはね。これもたまたま計測器が拾い上げたものでノイズに近い。フィルタリングのバグだろう。でもこれは材料の二つ目に成り得る。さて、次の材料は」


 今度は京果が空中で手を振り、画面をスワイプさせる。


「人によっては嫌悪感が出るから音波にはしないけど、これは21kHzのスペクトログラム。可聴領域の少し上だが、人によっては感じ取る事のできる音だね」

「まぁね。稀ではあるけど一応実証はされてるわ」

「で、もうひとつ。これが隠し味」


 更に京果がスワイプすると、新しいグラフが重なるように表示された。

 単なるモザイク状の形状しか見えないが、一定のパターンがあるようにも思えるグラフが写っている。


「何これ?」

「謎のノイズ。これについては正直、私にもお手上げ状態。でも、これはここに“在った”んだ」

「んー、まぁ続きをどうぞ」

「いよいよ料理の開始さ。これらの材料を合成し、ボク編み出した関数に組み込み、それをベースに拡散フーリエ変換で調理する。すると」

「滅茶苦茶やないの」

「さらにさらに、時間軸の分解能を上げて細かく刻み、この関数をはめると……」


 次々にスワイプさせては表示を重ね、目前がグラフと数式で埋められていく。恐らく最終出力と思われるグラフが一番真ん中に表示された。


「ん?……え?……おぉ!?」

「創作料理の出来上がりさ」


 落書きにすら見えなかったグラフが、仕上がり時には明確な一定パターンを描いていた。


「ちなみにこれ、非能力者、とされている被験体のデータね」

「は?」

「能力者のデータで同じ料理を施したのがこちら」

「なっ!」


 パターン自体に差異はあれど、似通った法則性で変動していた。

 だがふみには何かが引っかかっていた。


「ちょい待ち!」

「何かな?」

「非能力者のデータって言ったけど、最初に見た一人目と二人目の比較では、差異はほとんどなかったやん!」

「当然だね」

「何でよ!」

「だって最初のデータも非能力者のだから」

「え?」

「誰も能力者の被験体データなんて言ってないよ。一人目も二人目も非能力者さ」


 京果は立ち上がり悪役のように顔を歪ませて笑い、おまけに「じゃーん」と口で効果音まで付け加えてきた。


「つまりボクらは、目の前で犯人を取り逃がしていたという事だよ、明智クン!」

「一般人を犯罪者扱いすんなっつーの!」

「まぁまぁ。実際、この変則性を追いかけていけば別能力の人が見つかるだろうし、検査アプリの段階で能力も判明。未解明な能力もある程度予想できるって寸法さ。もちろん、発現時の観測データとの組み合わせが出来ればって話だけど」

「能力判定!?」

「少なくとも最初の一つはスパコン必要だけどね……許可が下りれば、だけど。ん? どったの?」


 見ればふみは椅子の中で震えていた。その表情は京果からは見えていない。

 ふみは勢いよく立ち上がり、思い切り京果に指差した。まるで挑戦を叩きつけるように。


「京果! 何で今まで隠してたんよッ! 私が預かった資料にはそんな事書いてなかったやんか!」

「え、だってぇ……」


 京果は探偵スタイルから乙女スタイルに切り替え、胸の前で人指しゆびをこすり合わせてもじもじしている。


「何よ!」

「だって、さっきできたばっかだもん」


 てっきり作業を中断したままかと思いきや、ちゃっかり自分の仕事は仕上げていたのだ。

 対してふみの仕事は中断したままな上、しかも今の話では膨大な検証データと整理、そして文面化、簡素化と山のような作業の布告でもある。

 京果の手を払いのけ、その体格に合わさった豊とは言えない胸の膨らみを、片手でワシ掴みにした。


「あんたねっ!」

「わー!乳もげるぅ!」


 刹那、ドアが盛大に開かれ、その付近に設置されたキャビネットの窓枠が震えた。ふみと京果は文字通り飛びあがり、顔は怯えの色に染まる。

 二人は立っていたがパーティションの所為で誰が入ってきたのかは分からない。だが足音は派手に鳴り響き、急激に二人へ近づいてきた。

 パーティションの切れ目にようやく表れた人影は、少しやつれた室長だった。


「話は聞かせて貰った! 人類は滅亡する!」

「な、なんだってー!」


 思わず条件反射的に、美人姉妹は声を揃えて叫んだ。







 紛いなりにも国立研究所の、支部とはいえそこの長が使うには質素すぎる執務室。入口から見て左右に立ち並ぶ本棚なんてものは存在しない。ただ窓を背にしてある事務机。それもあからさまに中古品。京果とふみが肩を寄せ合って座っている来客用ソファも、所々綻んでいる有様だ。

 室長は机の上に肘を立て、顔の前で手を組み、二人を睨むように覗き込んでいる。サングラスを掛けていれば様になっただろうが、残念ながら彼も裸眼だ。

 ふみとしては、京果から流体系に関わる話まで聞き出せなかった事を、こうして落ち着いてから思い出して後悔する。今となっては聞き出せる雰囲気ではなかった。

 暫く沈黙が続いていたが、最初に声を出したのは京果だった。


「所長、もとい室長。7.2%という数字の根拠は知りませんが、ほんとに白髪増えましたね」

「なんだその数字は。儂も知らん」


 室長は室長で、二人の方からこの五日間についての問いが出てくるものだと構えていたのだが、肩透かしで終わった。


「まぁいい。ではさっきの話だが――」

「どこから聞いてました?」


 流石、能研の中でも指折りの才女。話が早い。ガードを固め過ぎた自分を、室長は少し恥じた。

 だが自分に降りかかった状況が状況だけに、焦りもある。


「殆ど最後の方だけだ。料理とやらの最後の方くらいかね。儂は廊下で聞いてただけだし、ARも見てないから、実の所よく分かってない」

「成程、把握しました」


 京果も少し気分を取り直し、室長の方へ体を向け直す。


「ここの所の騒ぎの件、聞いても恐らく答えられないでしょうから、私の方からは何も聞きません」

「……そうか」

「では話しの続きを。結果から言うと、能力検査における新アプローチを見つけました。残念ながらまだ検証母数が少ないので確証はありません」

「ふむ」

「希望的観測ですが、上手くいけば取りこぼしの能力者はもちろんの事、今まで見つけられなかった新能力の発見に繋がります」

「……だといいな」


 室長はそこで言葉を区切り、椅子に深く腰掛ける。そして天井を見上げながら、暫く熟考している様子だ。

 彼はそれとなく口を開けて頬に手を添え、ゆっくりと撫で上げる動作を繰り返しながら、時折「あー……」と声を漏らす。

 京果はそれを大人しく見つめていた。

 ここに来てからほとんど口を開かず、やりとりを聞く事に徹していたふみは、そんな二人の様子を交互に見渡した。

 室長とは、大阪分室が出来てからの付き合いだ。数年にも満たない短い期間ではあるが、室長と京果は馬が合うようだと感じ取っている。

 以前にも似たような場面を見た覚えがある。今の状況のように切羽詰まったものではなかったが、素晴らしく会話のテンポが良かったのだ。

 余分な物が無いのは、傍から聞いていても心地よさを覚える。


「スパコンは必要かね」

「いえ、現時点ではまだ要りません。代りに人材が必要です」


 打てば響く、とはこの事だろう。暫しの静寂が終わり、会話が続けられる。


「どんな人材だ?」

「我々が使用しているアプリケーション群に使用されている言語に精通している開発者で、かつ物理と医学、そして能力に一定の知識を持つ者です」


 ふみはその言葉に、肩を微動させて反応する。京果の方へ体ごと視線を動かしたが、京果の反応は無い。京果は無表情のまま、室長の視線を正面から受けている。


「能研のエンジニアでは駄目かね?」

「荷が勝ちすぎます。私の方で条件が合致する人材に、伝手があります」

「外部か? 公安の審査は入るぞ?」

「構いません。良く知っている人間ですし、彼からは何も出てこないでしょう。シロです」

「ほぅ?その自信の根拠は?」

「彼は……私の元恋人、になりそこねた人です。私を信用して下さい」


 ふみも良く知る人間の事だった。ふみは思わず手に顔を埋めて、大きな溜息を吐いた。


――これは少々、厄介な事になるな、と。





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