第45話【暗い海】

 突然のヒナからの電話に、急いで車を走らせた。

「今、駅にいます。来て。」

 夜遅く、いきなり街に帰って来たヒナに、ただ事じゃない何かを予感した。


 あれは、まだ肌寒い雨の降りしきる夜だった。

泣きながら「もう頑張れない」と言ったヒナを助手席に乗せ、一緒に夜の海を眺めていた。やっとの思いで絞り出せた言葉は、「そっか」の一言だけだった。


 今までどれほど耐えて、無理をして来たか。俺はよく分かっていた。ヒナがこの街を出る時、「辛かったら帰ってこい」と言った自分に対し、逃げるように街を後にしたヒナに何も思わなくはなかった。そうして、その日がこうやってやって来たのだ。今目の前で泣くヒナに何もしてやれない自分が悔しく感じた。

 本当ならば、ここで男らしく『守ってやる』くらい言ってやれたら良かったのだろう。あんなに想っていたのに。俺自身に、この先を考える気力すら、もう残っていなかった。本当にこの世界から消えてなくなってしまった親友のことを思い浮かべ、暗い海を二人でひたすらに見続けた。車のカーステレオからは心地よいジャズが流れる。ハンドルにもたれかかり、ヒナに目を合わせることは出来なかった。


「ねぇ、秋月。一緒に死のう」

 そう言い始めたのはヒナからだった。泣き疲れて、腫らした目で真っ直ぐこちらを見ていた。その目は冗談なんて通じず暗く澱んで真っ黒で、俺よりも向こうのもっと遠い場所を見ていた。柊也が死んでから、生きる意味を失ってしまった俺にとっても、その言葉は今より楽しい場所へ行けるような、そんな言葉にも聞こえた。車を降り、また泣きそうな顔で「じゃあね」と言うヒナを強く抱きしめた。最後まで、「一緒に生きよう」という言葉はどちらからも出なかった。


 湿気混じりの空気がやけに肌に付く5月の夕暮れ。

そういえば、柊也の最後の声を聞いたのもこんな日だったなと思い浮かべる。一緒に海を見た日から年度が変わり、途端に仕事が忙しくなったヒナを想う。声が聞きたくなり電話をすると、仕事の話をしてくれた。なんだか楽しそうな話に、その一瞬だけは違う自分でいられた。まるで高校時代に戻ったかのような幸せな時間だった。

 ヒナとの電話を終え、静かな空気が広がる。俺の前にはあの人同じ、真っ暗な海が広がっていた。


 ヒナは、いつだって自慢の親友だった。それは、柊也も同じだった。


 高校最後の年の半分を不運な事故によって失ったヒナにとって、その時間は忘れたいものに違いないだろう。

それでもいつか、笑って思い出せる時が来てくれたら。高校最後の日。そんな願いを込めてヒナに一枚の写真立てを渡した。自分たちが一番楽しかったときの写真を。また、自分たちを思い出してほしい。あの楽しかった毎日を。


 高校一年、ヒナと初めて話したあの朝の日。

あの時から自分の時間はとっくに君のためにあった。俺の生きる意味は君だった。


 小さな包みをポストに投函し、車を走らせる。

君には今、支えてくれる人がちゃんといるみたいだから。先に行くとするよ。

あれから10年。君はちゃんと幸せになれる、俺の知らない場所で、また昔みたいに笑って過ごして行くんだ。だから、俺たちの分も、幸せになって。


 携帯電話で短くメールを打つ。

『君のことが好きだよ』


 深く、目をつむった。

 

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