さよならにはまだ早い

岩本ヒロキ

第1話 先輩との夜

 目が覚めた時には、先輩の姿はなかった。


 昨日は僕らが部署に配属されて、三ヶ月がたった金曜の夜だった。先輩が「二人で飲みに行かないか」といきなり誘ってきたのである。男としては期待しないでもないが、なんのせ先輩である。いつもの慰労会という定期的な飲み会ですら一杯目から日本酒を頼む先輩に何が期待できるだろうか。


 "同い年の上司"については正直、最初は戸惑った。会社に入って最初のオリエンテーションで僕の指導員として紹介されたのは、一つ間違えれば折れてしまいそうな、そんな女性だった。

 僕の指導は先輩と同期の城崎さんという男性がする予定だったそうだ。その頃の先輩は辞表をなかなか受理してもらえず渋々仕事をしていたそうだが、そんな中で城崎さんが僕を先輩に押し付けるような形で会社に留まらせたのである。


 先輩は優しかった。けれど、よく悲しそうに笑った。

 仕事終わりの先輩の帰宅列車を待つ間に飲む缶コーヒーが日課で、その時間だけ、仕事以外の話をした。僕自身もいつの間にかその時間が楽しみになっていた。


 そのたわいも無い会話の中で知り得た話。先輩の地元は、僕の母方の祖母と同じだった。実は家も近く、祖母の葬儀の際に会ったことがあったそうだ。毎年夏に行っていた、あの何もない川の流れる田舎町。


「敷島君。来週からは私の仕事、引継ぐから。充分教えたし、もう大丈夫だよね?」

 居酒屋を出た帰り道、真っ黒な長い髪を夜風に流しながら先輩は言った。

「急に、ですか。」

「うん。言えなくてごめんね。やっと辞表受け取ってもらえたの。」

 立ち止まる僕の足音が聞こえたのが、少し前を歩く先輩が立ち止まり振り返る。

「悲しい顔しないで!念願叶って辞めるんだから。今日は私の新しい門出と、敷島君の独り立ち記念の飲み会だよ。さ!次はどうかな?今日はまだ、こんな先輩に付き合ってくれる?」


 悲しそうに笑う先輩を見て、僕は思わず今まで僕らの間にあった距離を詰めるように、その数歩を駆け抜けた。

「敷島君?」

 酔った勢いだろう。きっと明日には僕も先輩も。いつものように忘れるだろう。そして、何もなかったかのように1日1日が移ろいで行くはずだ。

 僕の腕の中に小さくおさまる先輩は、僕と初めて会った時よりも幾分も小さく感じた。

「先輩、仕事辞めてどうするんですか。」

 先輩の両腕が僕の背中に回されるのを感じる。今日は珍しく先輩も酔っているのだろうか。


「もう一度、会いたい人がいるの。」




 お酒の強い先輩に合わせたからだろう。目が覚めた時には、あれからの記憶がなく、自分の部屋の玄関先のマットの上で着慣れたスーツのままで寝ていた。

 手には充電の切れた携帯電話と、金色の鎖が巻きついていた。


 よくよく見るとそれは、先輩がいつも着けていた水色の星型のネックレスだった。


 飲み会の時はいつも羽目を外しがちな僕を城崎さんを始め同期や色んな人が家まで介抱してくれた。きっと昨日も僕よりもお酒の強い先輩がここまで連れて来てくれたに違いない。手の中におさまるネックレスを見つめ、昨日の先輩を思い出す。次に会えるきっかけが出来たと内心で小躍りしながら二日酔いの身体で部屋に入り、携帯電話を枕元にある充電器に刺した。

 スーツの上着をハンガーにかけ、台所に水を取りに行くなり突然携帯電話が鳴り出す。一瞬何が起こったか分からず水の入ったコップを片手に立ち尽くす。電話の呼び出し音だと気付いた時には、音は止まっていた。無くなったネックレスの件で先輩がお怒りなんだと心を落ち着け、謝罪文を頭に書き連ねる。この度は誠に…この気持ち悪さは二日酔いなのか罪悪感なのか。


 急いで部屋に戻り、枕元にある携帯電話を手にする。着信が18件。あまりにも多すぎる。けれど、驚かされたのは件数だけではない。その履歴がほとんど城崎さんからなのだ。当の先輩からは1件もない。


「やっと繋がった!敷島、今まで何してた!今、お前のアパート下なんだが、山脇が遺書残していなくなった。何か知らないか?最後に一緒にいたの、お前じゃないのか?」


 気がつくと僕は部屋を飛び出していた。

手の中に握られていたそのネックレス。心当たりはない。けれど無我夢中だった。まだ伝えきれない事が沢山ある。今までの御礼も言えてない。あんなに悲しそうに笑う先輩を守りたいと思った、なんて、僕の稚拙な久しぶりの感情だって。


 記憶の最後の先輩の言葉が蘇る。

『会いたい人がいるの』

誰に会いたかった?そいつに会いに行ったのか?そいつは誰だ?知りたい…

 

 アパートのエントランスから道へ飛び出した僕は、道路の向こう側に立つ城崎さんに駆け寄ろうとした。無我夢中になりすぎていた。


 右から来ていた車に気付けなかった。






 目が覚めると僕は、オレンジ色の光の中にいた。身体中が痛い。

 やっとの思いで身体を動かす。案外簡単に仰向けになった僕の目の前に広がるのは見慣れた天井だった。戻ってきた思考回路でここが何処かを必死に考える。上半身を起き上がらせ周りを見渡すとそこは、夕日が差す祖母の家の居間だった。


「冬至、ただいまぁ。今からご飯するねぇ」

 居間の隣の玄関から聞き慣れた声が聞こえる。あれは忘れもしない、僕が19歳の時に突然の病で亡くなった祖母の声だ。

 頭が混乱する。寝起きの身体に鞭を打つように居間から飛び出し祖母を追いかける。


「ん?ごめんねぇ。ご飯今からやし、まだ待っててなぁ。怪我かい?ほら、この通り。少し骨にヒビが入ってただけやったよぉ」

 台所でこちらを振り返り左手を上げる祖母に違和感は無かった。当時のままだ。


 玄関のチャイムの音で我に帰る。

「冬至、悪いけど出てくれない?」

 軽く頷き台所を出る。先ほど目が覚めた居間の前を通り抜け、そのまま玄関へと向かう。家の間取りも、なにもかもが僕が最後に祖母の家を訪れた10年前そのままだ。


 玄関に立ち、僕はある事に気付く。過去に戻っている事。そしてもう一つ。祖母の家の位置などを詳しく覚えていた先輩に感じた違和感。まさかとは思い、玄関先に立つ人影が鍵のかかっていない引き戸を開けるのを見つめた。


「鈴子さーん!ヒナだよー!怪我どうー?」


 ほんの数時間前まで一緒にいたではないか。あんなに一緒にいて、今更気付けないなんて事はない。靴下のまま玄関を走り、扉に手をかけこちらを不思議そうに見つめる彼女を抱き寄せ、その長い髪に顔を埋める。


 僕の腕の中で驚いた様子で微動だにしない10年前の先輩からは数時間前と同じ匂いがした。


 そしてもう一つ分かった事。それは、今が"もう1つの選択肢だった人生"だということ。



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