(五)久留米 渚
優希から「今日は文香のためにお祝いをします!」という電話があった。
お金はあたしが出す! と豪快に宣言した彼女から一万円を手渡され、「これで大盤振る舞いだよ。渚は晩餐の準備をお願い」と。出前にすればいいじゃないか、とごねたら、「それじゃ愛が足りないよ」と叱られた。愛だの恋だの大嫌いだったくせにどの口がいうか、と内心で思ったが、それは言うだけ無駄で野暮だろうとも思った。折角彼女が愛に目覚めたのなら、その感情を尊重しようじゃないか。
それにしても一介の大学生が友達を祝うためにここまでの金をはたくだなんて太っ腹だな、とも思った。まあ、作家だから金はあるんだろう。
思えば、こうやって五人集まって飯を食うのは入学式の前日以来だ。あれからはお互い忙しくて、休日でも都合が合わないことが多かった。けれど夏休みは奇跡的に誰も実家に帰らないとかで、七月も終わるこの時期、急な呼び出しにもかかわらず、みんな集まって文香を祝おう、そういうことになった。
「今日は急な呼び出しだったのに集まってくれてありがと……んくっ」
晩餐が始まり、意気揚々とした調子で立ち上がった優希がそう言った。渚が作ったサツマイモの天ぷらを手づかみして口に頬張り、すぐに飲み込む。もっとよく噛んだほうが胃のためだというのに、いつかのトンカツを食べているときもこうだったし、きっと食べ急いでしまうのは彼女の癖なんだろう。
立ったまま二枚目に手を伸ばした優希を、美冬が叱る。
「なんでこんな変なタイミングで食い意地張ってるのよ」
「だって美味しいんだもん」
「言い訳にすらなってないからね。ユーキの挨拶が終わるまでじっと待ってる皆に申し訳ないでしょうが」
「そ、そうだよね。一人だけ先につまんじゃって、ごめんごめん」
まったく悪びれる様子がない優希を前に、美冬は苦笑いを浮かべた。颯馬は呆れた視線を向けているし、主賓である文香はどうにか頑張って「あはは」と口元に笑みを作っている。
「それでは改めて。今回こうしてお集まり頂いたのはですね……」
二枚目の獲物を掴み損ねた優希がそこまで口にして、急に「んー」と唸り始めた。名残惜しいのか、手についた油をぺろりと舐めながら、やっぱ違うな、なんて独り言のように呟く。
「どうした? いい加減待ちくたびれたぞ」
仕事疲れが
「やっぱ会の趣旨をあたしから言うのは野暮だわ。文香の口からお願い」
「そんな勝手な……」
唐突なバトンタッチに呆れ顔を浮かべつつも、主賓の文香が席を立った。ぎゅっと握った両手を胸元に当てて、大きく息を吸う。
「ええと。恥ずかしくて恐縮なんですが、この度、鳳凰文庫の新人賞で大賞を頂きました」
「おおっ」
「凄いじゃない」
颯馬と美冬の二人から自然と拍手が上がる中、渚は一人、ぽかんと間抜けに呆ける以外なかった。
いや、なんだ、それ。という衝撃で言葉がない。
「今日、編集者さんから電話があったの。未だに実感がないんだけど、本当みたいです」
「ということで、それがこの会の趣旨でーす!」
おどおどする文香が喋っている途中で、優希がたっと音を立てて立ち上がり言う。
今日のお祝いの趣旨。文香が作家としてデビューするから門出を祝おうじゃないか、と。
「こんな急だったのに集まってくれて、本当にありがとう」
文香が頭を下げた。その仕草に合わせたかのように自然と拍手が湧き上がる。渚も、唖然としながら周囲に合わせるようにして手を叩く。そこに、おめでとう、という感情を込めることができないまま。
「データはあるし、読んで欲しい気持ちは山々なんだけど、やっぱり書き直しは必要だろうから、ちゃんと本になってから献呈本を渡します」
「いつまででも待つから、そのときは一番に読ませてよね」
優希がはしゃぎながら文香に抱きついて、頬をすり寄せる。その光景をぼんやりと眺めながら、渚は自分で作った玉葱の天ぷらに齧り付く。口の中でさくり、と音がした。
なんだか、夢を見ているような気分だ。身近な人が、作家というあまりにも遠い存在になっていくのが信じられない。どっきり企画の映像作品なんじゃないかと思ってしまう。
そうしてみんなの歓迎ムードから弾き出されて感情が追いつけないまま動揺していると、来訪を告げる場違いな音が鳴った。
ここに来るような人は一人しか思い当たらない。「僕が出るよ」と告げた渚は、モニターホンを確認することもなく玄関の鍵を開けた。
「おおっと。モニターの確認もなしに玄関を開けるなんて不用心だなぁ、まったく」
扉を開けた先にいた野村は目を丸くしていた。頬が少し赤い。暑さで火照っているわけではなさそうだ。
「だってこんな時間帯にこの部屋に来るの、野村さんくらいしかいないじゃないですか」
「ま、その通りだけどねー」
少しふらついた足取りでサンダルを脱いだ彼女が、よろよろとした足取りで廊下を歩く。危なっかしい足取りだけに、いつ倒れても支えられるよう渚は管理人の後ろにひっついた。
「どうもどうも。みんな、お疲れ様」
「あ、管理人さん。どうも」
丁寧に挨拶を返した文香に、野村は「やあやあ」と軽い調子で返事をする。
「早速で悪いけど、ちょっと一服するね。酔いが回って吸いたくなっちゃった」
席につかずそのままベランダに向かった野村がベランダの窓を開ける。「久留米くん、ちょっときな」と手招かれ、渚も外に出た。ベランダに出て行くのは躊躇われたけれど、野村の据わった目がそれを許さないと言外に語っていた。
ほぼ無風といっていい真夏の空気が頬を撫でる。適度にクーラーの効いた部屋の中とはうって変わった熱帯夜だ。昼よりは和らいだけれど、湿った暑さが不快だった。
野村が早速に煙草を取り出し、火を付けて口にくわえる。
面倒な酔っ払いの目の前で元カノに振られて、それが最高だ、とゲラゲラ笑われた記憶が蘇ってくる。今度はなんだろうか。ここ最近は不幸もそれほどないはずだが。
「どうしたんですか、突然」
渚はベランダに出て、部屋の中を振り返った。白いレースのカーテン越しに見える光景。寿司と冷や麦をつつく三人が、文香を囲んでいる。
「君と話がしたいと思ってね」
「僕よりも、まずは文香じゃないんですか」
「いいや、いいんだ。私が話をしたいのは久留米くんだから」
「どうしてです?」
「一番気楽に色々と話せるからさ。それだけこのアパートでは特別だってことだよ。誇りに思いなさい」
彼女の言葉に、渚は強烈な違和感を覚えた。違う。僕にはなにもない。凡人な自分には、誇れるものも自慢できるステータスも、なにもない。誇りなんか持てるわけがない。
「特別なのは僕じゃないですよ。作家なんて肩書きの前では、塵屑も同然です。ただの田舎者を買いかぶりすぎですって」
「そんなことを言ったら、久留米くんだって彼女たちを特別視しすぎなんじゃないのかな。作家なんて、大したもんじゃないんだから」
酔っているからだろうか、あっけらかんと断言する野村の態度に渚は驚く。けれど、空を見上げて煙を吐く彼女は、不思議と冗談や嘘を言っているようには見えなかった。
「才能がいる。努力とか、感性とか、そういうものを常に問われる。世間だと、決まってそんなことを言われるのが作家だよ」
でもね、と彼女は強調する。それは本質でも真実でもないと否定するようだった。
「実際のところは違う。作家は、この世界を回すための歯車にはなり得ない。どれだけ頑張ったところで豊かにできるのは人の心であって生活そのものではないし、小説を書いても腹の肥やしにはならない。なにか素晴らしいものを発明できるわけでもないし、文明が進むこともない。まあ、誰かのためになるってことを誇りに思わないとこんなことやってらんないけどね」
「それでも、文香や優希は凄いです。僕にはできないことができる。それは純粋に羨ましい」
「じゃあ君は、生涯ずっと小説家であることに耐えられる? 不安定な収入と重苦しいまでの期待と尊敬の入り混じった感情にあてられながら、地獄の底で悶えるような生みの苦しみの中でずっと机に齧り付いて片時も休めない。そんな生活を望むかい?」
「そ、れは……」
「羨ましい、ということと、それになりたい、ということは別物だから。ちょっといまの質問は意地悪だったね」
渚は言葉に詰まる。それは野村の問いに対する答えのようなものだった。
「歯車を回す人とそれを支える人ってのは、アリとキリギリスみたいなもんさ。社会の歯車に組み込まれている人はきっちりと働いて決まったお給料を貰い、きちんと生計を立てられる。でも、キリギリスはそうもいかない。自分には才能があるんだからこれで食っていきたいという欲に取り憑かれてしまう。そして、才能の上に胡座をかくと、いつかしっぺ返しがくる」
「……だいぶ改変してますよね、その話」
アリとキリギリス。将来への危機に備えを怠ると、いざというときに困って身動きができなくなるから、日頃からアリのようにせっせと先回りをして行動しなさい、という教訓じみた話のはずだ。
「キリギリスって、見えない所でアリ以上に頑張らないと冬を越せない生き物なのよ。作家も同じ。人並みに頑張っている程度じゃいずれ食えなくなる。求められていることを理解して、自分の強みで世界に訴えていく。それが続けられないなら、死んでいくしかない。そういう世界で生きてる」
作家、と聞いたら、反射的に「凄い」と感じてしまう職業の一つだ。本を出版するというのは、それほどまでに遠い世界。渚には憧れを抱くことと見上げることしかできない、手の届かない場所。
だから、その場所に立つ人の努力すらも見えないのだろうか。僕の気付かない所でずっと書いてきた文香も、血の滲むような挫折や苦労を味わってきたのだろうか。
野村が、ふーっと白い息を吐き出す。もやもやとした煙が夜空に紛れていく。
「一作目はまだいいにしても、二作目以降は、素人が書いた本ではなくて作家が書いた本になる。新人という免罪符はなくなる。作家というステータスが重荷になる。それを背負って先に進めるか、立ち止まってしまうか。書き続けて飯を食えるだけの金を稼げるか、そうじゃないのか。そういう瀬戸際の連続に立って生きていくしかない世界で、どこまで戦えるか。それがすべてよ、作家なんてね」
そう言って野村は虚空に向けていた視線を渚に向けた。気怠そうな瞼の奥にある瞳から強い意志を感じて、渚は息を飲む。
「彼女が立ち止まってしまいそうになったとき、その背中を押せるのは君しかいない」
「えっ」
「クリエイターはクリエイターを後ろから支えてやることはできないからね」
しんみりとした野村の言葉で、渚は先日のことを思い出す。
優希はスランプに陥った美冬を助けなかった。あれは優希自身の性格もあるのだろうけど、彼女は支えるべき友人を突き放してしまった。
相手の力を認めているからこその、美冬への態度だったのだろうか。あれがいわゆる叱咤の表現方法だとしたら、崖から子を落とす獅子のような手厳しさだ。自分ができないのは自分が悪い。だから自力で這い上がれ。そういう一種の愛情表現だったのだろうか。
そういう伝え方しかできないのだとしたら、優希という人間――クリエイターという人種は、ひどく不器用だ。
「例えば優希。彼女の場合、お互いに競い合いながら伸びていくことが、支えるってことと同義だから。一友人として作家である愛生さんを支えるなんてことは十中八九できないのよ。売れたら売れたで互いに嫉妬もするでしょうし。きっと、美冬もそう。藤代くんの場合はどうしても編集という立場が邪魔をする。だから、久留米くんだけは、ちゃんと愛生さんを見ていてあげてね」
「僕には重たすぎますって。付き合ってるわけじゃないんですから」
「だったらせめて、おなじ屋根の下に住むもの同士、困った時には助けてあげてよ。あの子は優希と違って、世間の期待に押しつぶされちゃうような気がするから」
そういう可能性を人質に取るのは卑怯だ。文香ならあり得るな、と想像ができてしまう。
「できる限りのことはしますよ。友達、ですから」
そう、友達だから。対等な関係だからこそできることがある。それが必要ならいつだって手くらい貸してやるつもりだ。
「その言葉を聞けて安心したよ」
ふっと微笑を浮かべた野村が新しい煙草に火をつけ、部屋の中ではしゃぐ三人を感慨深い眼差しで見つめて言う。
「久留米くん。ここに入居するときに自分でなんて言ったか覚えてる?」
「あの面接ですか? いや、あの時は緊張しっぱなしだったんで、質問も含めて頭からごっそり抜け落ちてます」
「そっか。忘れちゃったか。でも、私はしっかり覚えてるわよ。作家を身近に感じる瞬間があるんだ、って言葉」
「……ああ、そういやそんなこと言いましたね」
思い出した。
作品を読んでいるときに誤字や脱字を見つけると作家も人の子なんだと安心するときがある、なんて随分と失礼なことを言ったもんだった。
「久留米くんの言うとおり、所詮、作家も人の子よ。悩むことなんか山ほどある。ただね、いかんせんプライドが高すぎる。だから、人に頼ったり頼られたりするのに慣れてない」
「……なるほど」
確かにその通りなのだろう。優希も美冬もそういう付き合い方は苦手そうだ。
これから先、ここでの生活は思いやられるな。
渚は嘆息しながら、暖かい空気に包まれている部屋の中を見る。
だらしない服装の金髪女にわしわしと頭を撫でられている主賓が「やめてってばぁ」なんて柄にもなく大声を出して、力のない抵抗を試みていた。その様子を微笑ましげに眺めている二人は、マイペースにお茶を啜っている。
「僕もあんな風に幸せになりたいな」
「切実さが伝わってくるね」
「悪いですか」
むっとして野村を睨め付ける。すると彼女はおどけるようにして「いやいや、悪くないよ」と頬を緩めながら首を振った。
「でも、待ってるだけじゃ幸運は巡ってこない。掴んでいかないとね」
「そっすね。その通りです」
「でもまあ、久留米くんは微妙に不幸なのが持ち味なんだけどね」
「その持ち味、本当にいらないんですけど」
自分がどうなれば幸せになれるのかは分からない。それでも、行動しなければ何も変わらない。不幸なまま行動しなければ、不幸の中を堂々巡るだけ。
でたらめに計画性もなくこの数ヶ月を過ごし、毎日をそこそこに満足するための散発的な行動ばかり積み重ねてきた。その結果が、渚のいる場所だ。なんの変哲もない日常。東京に出てくる前から、なにかが劇的に変わった、という実感もないまま、自堕落に過ごしているような気がする。
だから、文香が遠くに感じる。比較すればするほど自分という存在が矮小なものに思えてならない。
「世の中には色んな人間がいて、様々な個性がある。お互いに譲歩と牽制をしながら生きているんだよ。学ぶことは多いし、考えなきゃいけないことも沢山ある。時間のあるうちに色んな人と出会って、価値観に触れて、大いに悩めよ、若人」
一回り長く生きている先達に肩をばしばしと叩かれながら、渚は「ええ、まあ、そっすね」と適当に返事をした。
大いに悩んでいるし、思うところだって沢山ある。こんな人間に囲まれて、自分のこれからを考えないほど抜けた人間じゃない。
自分にできること。自分がしたいこと。そんなもの、急に考えたところで見つかるわけがない。でも、視界に映る皆はずっと先を見据えて生きている。そういう所だけはずっと大人で、少しだけ憧れてしまう。
こいつらと一緒に過ごしていれば、いずれは何か見つかるのだろうか。自分がしたいこと。やっていきたいこと。そのきっかけを、どこかで。
「……僕も、部屋に戻ります」
「私はもう少しここに残るよ。ああ、そうだ。気が向いたら私のところに来てって、優希に伝えておいて」
「うす」
部屋に戻った渚は野村の言づてをそのまま優希に伝える。すると優希はこれまでのはしゃぎっぷりとは随分と落差のある平坦な声で「分かった」とだけ言いベランダへ出て行った。気が向いた、とは見て取れなかったけれど、それは僕が気にすることではない。
優希が座っていた席の隣に、渚は腰を下ろす。文香の真向かいの場所。彼女が顔をあげて「お帰り」と言う。その顔は程々に上気していた。
「結構な長話だったね。なにを話してたの?」
「人生はまだまだこれからだから頑張りたまえって格言をもらってきた」
「なんだか小難しい話をしてたんだね」
「いやいや、そんなことないよ」
それから渚は姿勢を正してまっすぐに文香を見つめる。文香も動きを止めて、どこか困惑した面持ちを浮かべた。
「そ、そんな改まっちゃって、どうしたの?」
「ああ、うん。さっきは驚きで言葉がなくて言いそびれちゃったけど――」
対面にいる文香が渚と同じように背筋を伸ばした。これだけ距離が近くてどこまでも等身大な彼女が、広い世界に踏み出していく。その背中を見送ることしかできないけれど、だからこそ、まだ近くに感じるこの場で言っておかないといけない言葉がある。
「小説家デビューおめでとう。影ながら、応援させてもらうよ」
「うん。ありがとう、渚くん」
色々な壁にぶち当たって、その壁を壊すためにここに戻ってきたときに、きちんと隣に立って彼女を支えてあげてほしい。へこたれて踵を返してきたときも、日常を取り戻すために帰ってきたときも、変わらずに彼女の側にいてあげて。
野村に頼まれようがそうでなかろうが、友達として支えてあげようっていうこの気持ちだけは本物だ。できるかぎりのことはやってやろうじゃないか。そういうのは嫌いじゃない。
情けは人の為ならず、巡り巡って己がため。
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