第6話ブローノイズ氏殺人事件
一台の蒸気ガーニーがスタックフィールド地区の下り坂を駆け、街道沿いに並ぶ株屋の看板を引きずり倒している。スタックフィールドはその名のとおり
グレース王女を取り逃がし、藩王の居所もわからなくなったウィンザー卿は、屋敷を出て闇雲に街道を走っていた。
ついに蒸気ガーニーは街道の角に立つ弁護士事務所の硝子窓を突き破り、聖メアリ広場へと飛び出した。スタートを切ったレース会場には鉄屑が転がるばかりである。
バンクしながら疾走する蒸気ガーニーを皆、驚きの目で見つめた。ガーニーの車輪は、木製に鉄を履いただけの簡素なもの。車体が傾くと、ぐしゃりと音を不穏な音を響かせた。
聖メアリ広場のアーシェ街の少女像の横で停止したガーニーから降りたのは、馭者であり長年執事を勤めてきたカーチスである。歪んだ車輪を眺めてため息を漏らした。どうやら蒸気窯から湯が漏れて、燃焼室に落ちたらしい。一つ間違えば、爆発を引き起こす参事である。
ウィンザー卿は羽目板の外れた後部扉を開けた。
火夫が足元を汚さないようにとステップにシーツを敷く。しかしウィンザー卿は一息に地面に飛び降りると、執事カーチスの横顔をオニキスのステッキで殴りつけた。
「ウィンザー家の紋章をボンネットに掲げたガーニーで街を走り散らすとは何事か」
カーチスは横殴りにされ、地面に転がった。
「……申し訳ございません」
口の血を拭う。カーチス自身も不徳があったことを認めていた。結局、夜討ちをしかけたにも関わらず、藩王もグレース王女も居所知れずのままなのだ。
「どのように私が貴様を急いたとしても、気品を失うことは許されない。品位とは無意識に備わってこそ価値を持つものだ。さっさと車を修理しろ」
丸石敷きの地面に膝をつくカーチスを一瞥すると、ウィンザー卿は手袋を嵌めた細指でハンカチを摘まんだ。オニキスのステッキについた血を拭い、聖メアリ広場の鉄屑に冷笑を浮かべた。
ウィンザー卿は蒸気ガーニーをこよなく愛していた。
発明だなんだと、鉄屑を持ち寄ってレースをやるこの街の空気にほとほと愛想をつかしていた。
そのとき彼の前を通りすぎる一人の老齢の男がいた。本国出向の伯爵家の家長に眼もくれていない。ウィンザー卿は自身の存在を無視されたことに眉をひそめた。
「お嬢様、お嬢様っ!」
慌てている、というよりは半狂乱に近かった。身なりの良い老齢の男は、聖メアリ広場の隅にある貸本屋に集まる人だかりへと走り寄り、中に詰める。
「なんだ、事件か」
「そのようでございますな。しかも……あれはどこぞの屋敷の使用人では」
「見覚えがある」
ウィンザー卿はわずかに蒸気ガーニーの個客室を横目見たが、貸本屋奥の路地裏へと歩きだした。
「旦那様?」
男の異様な慌てぶりが気になったのだ。しかもかの老齢の使用人、グレース王女の使用人ではなかったか。
野次馬の会話を察するに、殺人事件のようである。
老齢の男が藩王家の使用人であるなら、グレース王女を探しているはずである。
「小娘、屋敷から逃げる途中で事件に巻き込まれたか」
「とするならば、少々厄介なことになりますな」
「ああ。あの娘だけはなんとしても生け捕りにせねばならん」
ウィンザー卿は人だかりを押しのけた。初めて立ち入った路地裏の空気は、ウィンザー卿にとって耐えがたいものだった。
煤と汚水にまみれ、浮浪者がそこらに転がっている。加えて、混じる饐えた血の匂い。思わず、ステッキを拭ったハンカチで鼻を抑える。
ちょうど警察が遺骸の頭部を並べているところであった。老齢の男は必死になり、遺骸を確認する。そして、最後の、不気味に頭部だけを切り取られた顔を見つめると、血糊がへばりついた地面に崩折れた。
「……い、いない……よかった……」
しかし深いため息を吐くと、すぐに老齢の男はふらふらとグレース王女の名前を呼びながら人ごみをかき分けて聖メアリ広場へと消えて行った。
「グレース王女は未だ健在か」
ウィンザー卿はぽつりと呟いた。
そして彼はオニキスのステッキで地面を二度叩いた。その独特の不協和音を聞きつけたカーチスがウィンザー卿の口元に耳を寄せた。ウィンザー卿が密命を下す合図である。
「―――探せ。街のどこかにグレース王女の姿を見た者がいるはずだ」
カーチスは頷くと、蒸気ガーニーをダンザに預けて夕闇迫る街へと消えて行った。
そしてウィンザー卿自身は路地裏の奥へと足を踏み出したときである。背後から声をかける者があった。
「ほうこれはこれは、ウィンザー卿ではないかっ! かようなところでどうしたのだ」
振り向くと、そこいいたのはこれ見よがしに褒章をつけた軍服姿の男が立っている。馴れ馴れしい口の利き様に不快感を覚えるも、自身その顔にまるで覚えがない。とはいえ、いきなり爵位を聞くのも無礼に当たる。
元々、ウィンザー卿の曽祖父は潜りの商人で違法交易によって財を成したいわゆる新藩成金である。それゆえ、ウェインスタならばウィンザー卿よりも爵位の高い貴族を探すのは難しいが、本国へ行けばいくらでもいる。
しかも今は産業博覧会の真っただ中であり、各国から諸侯らが馳せ参じているのである。特に軍人は戒律があり、爵位もややこしい。むげに扱えば、自身の立場を怪しくする可能性もあった。
それを思えば、無闇に相手を詮索するよりは相手に合わせる方がよかろうとウィンザー卿は不承不承、言葉を返した。
「いえ、どうも人殺しがあったようで……」
「それでこの人だかりかね。どうだ、少し見ては行かないか」
「見る、というのは」
「ウェインスタの策謀家として名を馳せたお主だ。智謀のウィンザー、探偵のウィンザーと言えば、社交界で知らぬ者はおらぬくらいだ。今回の出向はブロー・ノイズ氏を捕まえることでね、しかし如何せん私は知略というものがない。そこでお主に手がかりを見つけ出して欲しいのだ」
軍服の男は靴底を高らかに鳴らしながら路地裏深くへと入っていく。パブリックハウス手前が最も血だまりがひどく、遺体の残骸が積み重なっている。血だまりが固まっているのはおそらく、排水溝が詰まっているせいであろう。
「事件、と言いますと。この殺人がそのブローノイズ氏という輩の仕業だと」
「そう。ブローノイズ氏による殺人事件だ。機械いじりの好きな職工だけを狙うという奇妙なやつでね。君も聞いたことくらいあるだろう」
「いいえ。存じ上げませんな」
「ほう。なら、ブローノイズ氏の現場が今回が初めてかね。どうだね、これが異常者でなくてなんと言うのだ」
「たしかにひどいものですな」
軍服の男は血だまりの中に何かを見つけてへどろごと掴み上げた。路地裏には他に三人ほど軍服の若者がいる。彼らは男のことをローディック中佐と呼んだ。
士官学校を出てすぐに大戦を経験したウィンザー卿の階級は尉官である。軍務上は自身の方が格下であった。つまり、多少なりとも向こうを立てる必要がある。
「不気味な殺人が続いているというので、本国から特務でやって来てみれば……。藩王、グレース王女、シン藩王家の食客であったサッスーロの三人が昨夜行方知れずとなったというではないか。この殺人事件と何か関わりがあるのだろうか。どう思われるかな」
「その最後のサッスオーロという者は?」
「気になるかね?」
「ええ」
「サッスオーロという者はアスヴァルの独立を裏で指揮していたという男だ。彼には本国も目をつけていてね。表向きは商人だが、なかなか厄介なやつだ。それがどうやらシン藩王の政治顧問についていたらしい」
「シン藩王の? 初耳ですな」
「シン藩王国の執政官であるウィンザー卿も知らぬこと、とは。なにやら裏がありそうだな」
ローディック中佐は、赤いへどろを手中で転がしている。やがて、樽に入れた水が運び込まれ、中佐が中に腕を突っ込むと、へどろの中身が姿を現した。
「……薬莢であったか」
「シン藩王様とグレース王女様はまだ見つかっておらぬようですな」
「ああ。見つかっておらん。考えられるのは、シン藩王は機械王と謳われたお方、ブローノイズ氏に命を狙われたか、はたまた―――クーデターと観る向きもあるようだ」
「クーデターですか」
「どちらにせよ厄介だ。幸運にも産業博覧会中のこの喧騒。藩国民が気づく前にけりをつけたい」
「そうですな。さっそく、我が私兵を手配いたしましょう」
ウィンザー卿は平静にわずかな動揺を加えながら、言葉を吐いた。藩王への離心を悟られてはならないよう細心の注意を払う。
「もし仮に藩王に何かあれば一大事だ。本国の連中とて無関心ではいられまい」
「内乱か戦争か。15年前に逆戻りですな」
「ああ。何としても藩王の命を守らねばならん」
「それで本国はブローノイズ氏を追っているのですな。たしかに、世界に名を馳せた機械王であるシン藩王がブローノイズ氏に命を狙われる可能性は高い」
「それを今捜査しているところだが……この現場、おかしなことに気づかないかな、ウィンザー卿」
しかしウィンザー卿にとって殺人現場の路地裏はただ人の死体が血だまりの中に浮かんでいるだけである。シルク製の手袋を嵌めた手で顎を触りながら考え込むと、ローディック中佐は軍人らしい快活な笑みを見せた。
「はっは、やはり殺人現場は慣れておらぬようだ。よう見てみるがいい。遺体はすべて刃物で切り刻まれている。しかし現場に薬莢が残っていたということは……」
ローディック中佐はさきほど見つけた薬莢を掌に転がした。
「同じ現場でまったく別の事件が起きている、ということですかな」
ほう、とローディック中佐は目を細めて唸った。ウィンザー卿はわずか10秒程度で考えたことを事務的に伝えた。
「わざわざ狭い路地裏に標的を連れ込んでいるところを見ると、ブロー・ノイズ氏はよほど用心深い性格のようです。血量から推察するにこれらの遺体は現場ではまだ生きていた。わざわざ同じ現場で何十人もの血を抜くためにここで刺し殺した可能性が高いでしょう。しかも産業博覧会で人が犇めき合う白昼での事件。気絶させて運ぶことは不可能と思われます」
「なるほど」
「おそらく、ブローノイズ氏とは狂人の類ではないでしょう。甘言を弄し、標的を丸め込んだ上で路地裏へと引き込むだけの知能がある。しかも殺されたのは、詐欺師まがいの者が入り混じる発明家と職工たち。騙し騙されることに慣れた彼らを相手に十有余に及ぶ殺人をなんなく完遂する知能犯。これがブローノイズ氏の姿と言ってもよい。そして、彼は武器に鋭利な刃物を使っている。銃弾は彼に抵抗した職工の者だとするならば、不可解な点が一つあります。そこまで路地裏に被害者を引き込む術を知っているブローノイズ氏が、わざわざ相手が銃を抜くほどの距離を取るとは思えないのです」
「ということは、ウィンザー卿はブローノイズ氏の事件の他に、別の事件が起きている、と」
「はい。職工らを殺したのはブローノイズ氏で間違いないでしょう。しかし、銃弾を放ったのはまったく別の時間で起きた。凝固した血だまりに上についた足跡、削げ落ちた煤が遺体の上に落ちているところや壁の真新しい傷などを見ればさらに可能性は高まる。遺体が転がる現場で銃撃戦が起きた可能性が……」
「ほう―――」
「しかも、銃弾を放った者がつけたと思われる、血だまりについた足跡を見るに時間はブローノイズ氏による殺人が起きてから2時間後と言ったところでしょうか」
「根拠は?」
「血の凝固です。ねっとりとした土のような状態で血だまりを踏んでいる。これはおよそ2時間ほど立って起きるものでしょう」
「お見事。さきほどは無礼を申し上げてしまったようだ」
「なに。これくらいのことなど造作もないことです」
ローディック中佐は軍服のポケットに薬莢をしまった。ウィンザー卿の推理を聞いて、満足気にポケットから金細工が施されたシガーケースを取り出し、黄燐マッチを擦った。
ウィンザー卿は根っからの煙草嫌いである。立ち上る紫煙を忌々しく睨みつけながら、しかしどこか違和感が残ったままだった。
自身の推理は概ね正しいかろう。たまたま標的ではない人間が現場に居合わせ拳銃を撃った可能性もある。しかし遺骸に埃が溜まっていることや凝固した血に残った足跡から、おそらくブロー・ノイズ氏が現場を離れたあとーーー半時以上経過した後で銃撃戦が起きたことは間違いない。
しかし何かを見落としている。そんな不安が消えなかった。
そのときウィンザー卿の背後に近づくものがいた。
肩越しに声をかけたのは、息を荒げたカーチスである。耳元で声を引き絞る。
「藩王を見た者がいました。使用人ギルドの老人です」
「行方は」
「わかりませぬが、どうやらカーレースに参加したようです。おそらく、集団に紛れて他国へ逃げる手筈なのではと……」
「よくやった。車をここへ運べ」
まだ車輪が歪んだままの車体である。
運べとは聖メアリ広場の中央、アーシェ街の少女像脇からこのサウステン大通りの路地裏まで押して来いということだ。巨大な蒸気窯を持った類を見ない特一級車輌である。押せと言われて、易々と動くものではない。一瞬、言葉を詰まらせたカーチスであったが、主人に顎を下げて再び走り去った。
「ローディック卿、お話が」
「ローディックでいい。爵位は肌に合わん」
中佐は煙草のフィルターを指で潰しながら根元まで吸い上げた。まるで下級労働者のような吸い方だ、とウィンザー卿は眉を顰めた。貧した頃の癖というものはそう治るものではない。
しかし自身のそういった詮索癖もまた、商家の出を露わにする悪癖である。貴族の間柄に持ち込まれるものではなかった。
「ではローディック中佐殿とお呼びいたします。藩王の居所が判明しましたぞ」
「ほう、王はどちらへ」
ウィンザー卿は喉の奥で笑みを噛み潰しながら言う。
「しかし、藩王らしいですな。どうやら我々に黙って博覧会のレースに参加したとのことです」
「はっはっは、さすが機械王と呼ばれたお方だ。噂には聞いていたが、なるほど。たしかに蒸気街ウェインスタの王に相応しい」
「今は機工都市ウェインスタ、と」
「そうであったな。蒸気の時代は終わりつつある」
中佐は憚らず腹の奥から笑い上げた。
「しかし王の御身に障りがあってはいけません。中佐殿、そこで折り入って頼みがございます」、顎を救い上げるようにして、中佐は「ほう」と両眼を見開いた。
「特務中であることは承知でありますが、そちらの軍隊をいくらかお借りしたい。王の危急であります故……」
ウィンザー卿の申し出には気の逸りがあった。彼の目的は藩王を捉え、この国に政変を起こすこと。そしてグレースを新しき女王に立て、自身はその隣に座り、藩王国を手中に収めることである。
誰の入れ知恵か知らぬが、藩王がレースに乗じて亡命し、そのすべてが明るみになれば自身が本国に敵対する腹積もりと取られても仕方がない。ウィンザー卿は面に笑みを作りつつ歯を軋ませた。
もし仮に王に亡命を許し自身が成り代わったとして、早急に国体の立て直しを図ることができても本国は藩王国の数十倍の国力を持つ。
勝算はないに等しいのだ。
しかし諦めるのは尚早。内心呆れ返りながら王の余技の始末に奔走する執政官程度の役割を演じていれば、捉える機会はあるだろう。ウィンザー卿はそう踏んだ。
すでに秘密裡に藩王府、諸庁舎、公的機関はすべて制圧済みである。
だが当のローディック中佐は思いのほか決断に難渋している。
「ブロー・ノイズ氏の逮捕に人員を割いておるからな」
「しかし中佐殿、危急の時ですぞ。藩王国も動いております。そもそも、ブローノイズ氏が職工と発明家を標的にしているとしたら、藩王こそ最も命を狙われるお方でしょう」
ウェインスタを機工都市と呼ばれるようになったのは、藩王の発明の数々があったからこそ。標的を明確にしているブローノイズ氏に最も狙われるべきは藩王でなのである。
「ふむ……しかし軍人として任務を果たさねばならん」
だが中佐は未だに渋面を崩さない。先に痺れを切らしたのは、焦るウィンザー卿であった。
「では一つ、ゲームをしませんか」
「ゲーム、とは?」
「私は藩王様の安否をいち早く確認したい。そちらはブローノイズ氏の逮捕。この任務を入れ替えてどちらが早く達成するか競うのです。社交界では自身の妻を一日入れ替えるという遊びが流行っていましてな。その真似事というわけです」
「なるほど。たしかに軍を動かして王を守るのは軍人である私の得意分野。そしてさきほどのように知略を使って殺人犯を推理することならばそちらの得意分野だ。互いに最も力を発揮できる任務につとめようということでもあるわけだな」
「当然、そういう向きもあるでしょう」
「気に入ったっ! それは面白そうだ」
「では、藩王様を追うために中佐には我が私兵艦隊の人員をお貸しいたします。蒸気列車ならば、レース車輌よりも早くオータムフェローにつくでしょう」
「よいのかな。そこまで私に加担しては少々、こちらに有利に思えるのだが」
「藩王様の無事は私も願うことでありますから。それに私は―――」
言って、ウィンザー卿は人差し指で頭を指差した。
「頭を使うことくらいしかありませんから」
ゲームのルールを互いに確認し終えたときに修理済みの蒸気ガーニーが路地裏と大通りを挟む歩道に乗りつけた。
「しかし音に聞こえるウィンザー卿の精鋭を指揮できるとはこれは楽しみだ」
ローディック中佐は腹から笑い声を上げた。
まだ海上貿易に賊は尽きない時代であった。それゆえ、商人ともなれば傭兵を雇うか、自身で艦隊を組織し、対抗することが常である。
特に違法貿易を行うウィンザー卿の私兵艦隊の兵士は屈強であると有名だった。
中佐は煙草を吐き捨てた。
「さて、ではゲームの始まりだ。私は部隊を分け、私はオータムフェローへと向かうとしよう。検問でも張ればすぐに藩王も捕まることだろう」
「中佐殿自ら陣頭指揮を執ってくださるとは。有り難い限りです」
聞いてすぐさまカーチスを呼び、ウェインスタ市外れ、ウッドフォード駅に私兵の参集を命じた。
そしてオニキスのステッキで軽く石床と衝くと、ローディック中佐に「私はガーニーにて王を追いかけます。中佐殿、助力感謝いたしますぞ」と礼を述べた。
「なに、そちらもブローノイズ氏の件、重々頼んだぞ。こちらも昇進がかかっておるのでな」
中佐に微笑み、蒸気ガーニーに乗り込もうと振り向こうとした。が、そのとき。
―――なんだ、これは。
足元に転がる、煙草の吸殻があった。血にまみれているが、たしかに煙草である。血の滲みから凝固が始まる前に捨てられたもの。しかしさきほどローディック中佐が捨てた煙草とは別の物だが、ブランドが同じだ。
焦げ茶のフィルターにハーヴェストプランタ社製の刻印、貴族の中でも洒落者が好む珍品である。ウィンザー卿は現場に残っていたわずかな違和感を突き止めた。それは例え吸殻といえども、路地裏に貴族の事物が混じっていることであった。加えてローディック中佐は見た目、軍人然としている。洒落者の逸品を吸うような人間には見えなかった。
ふと、ローディック中佐が軍兵に呼ばれて後ろを振り返った。そのときに、さきほど中佐が捨てた吸殻と、現場に残っていた血のついた吸殻の両方をハンカチに包んだ。
思い出せば、路地裏の人だかりに気づき、二人は共に足を踏み入れたはずである。それから、彼が煙草を吸った場面は一度きり。それよりも前に、つまり殺人が起きてウィンザー卿が現場を見るまでの間に珍品の煙草を路地裏で吸った人間がいる。
いや、むしろ同一人物の可能性を考えるべきである。ウィンザー卿はちらりとローディック中佐を見やった。
―――中佐は以前に殺人現場にいたのか。
わずかな疑念をフロックコートの内ポケットに忍び込ませると、蒸気ガーニーのステップに足をかけ、客車に乗り込んだ。
(まだわからぬ、が……)
ウィンザー卿はシルクのアンチマカッサル(座席のカバー)に首を委ねると眼前の道路を睨んだ。そしてポケットに手を触れて、疑念について考えるのであった。
レース参加はウィンザー卿にとって思いもよらぬことであった。だがしかし、まだレシプロごときに負けぬ大出力を誇る車輌である。ウィンザー卿の乗る蒸気ガーニーはおそらく、まともに走る車輌の中で唯一の外燃機関である。燃料を燃焼させる機関をエンジン内部に持たず、巨大な蒸気窯を車体の後部に備えている。火室に石炭が次々にくべられ、煙突部や安全弁、機関の隙間から蒸気を吹きだしている。
いわゆる蒸気時代の遺物。しかしウィンザー卿は蒸気ガーニーをこよなく愛していた。
「妙なことになった」
蒸気ガーニーを運転する執事カーチスにぽつりと呟いた。
「私には旦那様が楽しんでおられるように見えます」
「ああ。少しばかりゲームの約束をな」
そしてウィンザー卿は、さきほど交わしたゲームのルールをカーチスに説明した。
「それはそれは。早くブローノイズ氏を捕まえなければなりませぬな」
しかしウィンザー卿はその言葉を鼻で笑った。
ウィンザー卿にとってブローノイズ氏などどうでもよいことであった。
「バカを言え。そんなことはどうでもいい。藩王を捕らえる人間が増えたのだ。それだけで充分なのだよ。それが例え愚鈍な軍人であってもな」
「なるほど、それで妙なお約束ごとをされたのですな」
「ブローノイズなどという異常者を相手にしている暇はない」
「たしかにそのとおりでございます」
「もしローディック中佐が藩王を捕まえたときは―――殺せ」
「はっ」
ただ藩王と王女グレースを捉え、かの王が発明した永久機関によってウェインスタを比肩なき強大国へと押し上げる。それが彼の掲げる野望であった。
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