溺れる灰
水園トッ去
第1章
1-1
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エリオットは居酒屋『踊る樽亭』から飛び出した。
帝国自由都市マリアノフの一画。貧困街カジート地区のルメールダニー通り。街灯のない道だった。衛兵もここにはやってこない。夜の暗さに灯るのは、点在する居酒屋、阿片窟、賭場、故売屋から漏れてくる明かり。
エリオットは走った。後ろからは強い足音。酔っ払いが追いかけてくる。
何かを叫んでいるのはわかった。追ってくる酔っ払いは呂律が回っていない。だが美しい言葉じゃないこともわかる。
脇の路地へ駆け込む。
「クソ」
エリオットは躓いた。骨になった死体。頭蓋骨が薄っすらとピンクに染まっている。阿片中毒者の証だ。骨が転がる。乾いた音。態勢を直して顔を上げると、黒猫が奥の壁に飛び上がり逃げていった。その下を見ると、三毛猫の死体。脇から血が出て内臓が散らばっていた。共食いをしていたのか。腐った肉と小便の匂いがまとわりつく。
「てめぇ、生意気こきやがって」
後ろから酔っ払いの声。
捕まった。後ろ襟を掴まれ、振り回される。エリオットは狭い路地の壁に打ちつけられた。
飲んでいたら言いがかりをつけられた。単なる酔っ払いだと思って適当にあしらおうと、手で払ったのがよくなかった。とりあえず店から逃げたが、結局この有様だ。
「俺をコケにしたな? おい?」
酔っ払いの男にしてみれば、憂さ晴らし出来るなら誰でもよかったのだろう。
「待て――」とエリオット。
殴られた。腹部に一発。体がくの字に曲がって浮き上がる。胃から飲んだエールが喉へ上ってきた。倒れ込むことは許されず前髪を掴まれて、顔を上げられると今度は平手打ち。冬の冷たさと衝突したような鋭い痛み。
運がない、と思った。反撃する気分じゃない。そもそもエリオットは弱い。
「悪かった――、謝るよ――」
エリオットは声を絞り出した。
「うるせぇんだよ」
喉輪を掴まれた。そのまま締め上げられる。
この辺りでは喧嘩で死ぬのなんて珍しくない。今夜、自分もその一員の仲間入りかもしれない。
助けて、が声にできない。
「おい、そこの木偶の坊」
女の声がした。どこからだ。男の向こうか――。
「なんだよ」と酔っ払いの男。
少しだけ喉を掴む力が弱まった。
「離してやれ」と女。
酔っ払いの返事を聞く前に動き出し、水面蹴り。倒れる酔っ払い。エリオットは解放された。
「この間抜けは私の客だ」
エリオットを指差して女がいった。女はアンナ・アリアス・ノラノ。「私の客に手を出されたら黙っちゃいられないな」
女性のわりには低い声。肩まで伸びている黒い髪と長い手足。右目の下に小さなホクロがある。格好だけみると白いシャツにズボン、革靴にナイフを腰から下げた男だった。
酔っ払いの男は立ち上がった。顔が怒りに満ちている。
「なんだ、お前、女か? それとも男か?」
「教えてやらなきゃわからないのか?」
酔っ払いの問いにアンナは答えた。アンナはこの界隈では男装の金貸しとも呼ばれている。
太い腕を振る。アンナは身体を傾けて避けると、間合いをつめ男の襟を掴み宙へ放り投げた。
「立てよ」
アンナが手まねきする。
酔っ払いは立ち上がり、痰を吐き捨てると、唸り声と共に突っ込んだ。アンナは宙返りをして、男をいなすと背後に降り立ち、とんと指で後頭部を押した。酔っ払い男は肘を振り回転し、振り向くと鬼のような形相に変わっていた。アンナは手の甲でその頬を軽く叩いた。
「舐めやがって」
酔っ払いがナイフを抜いた。
「いい心がけだ」とアンナ。「そうこなくちゃな」
酔っ払いが突き出すナイフをかわして手首を掴む。ひっくり返すようにして容赦なく捻ると骨が砕ける音がした。膝をついた酔っ払い男の叫びが続く。
「容赦しないからな」
顔面に拳をめり込ます。鈍い音がした。酔っ払い男は地面に倒れこむ。
「待て」
黒い影が地面にあった。エリオットは思わず声を出す。
アンナもその影に気づいたのか、倒れこむ酔っ払い男の首を掴んだ。
丁度、酔っ払い男の背中の下に、黒猫がいた。さっき逃げたやつじゃないか。どっかへ行ったと思ったが、この喧嘩を観戦していたらしい。
「猫が潰れるだろ、クソ野郎」
アンナが酔っ払い男を路地の外へ投げ捨てる。男は突っ伏したあと、ゆっくりと立ち上がり、そのままおぼつかない足元でどこかへ消えた。
「猫好きなのか?」とエリオット。
「嫌いだ」
アンナはいうが、黒猫は違うらしい。潰されるところを助けられた恩を感じているのかアンナの足へ擦り寄る。
「ほんとに嫌いなのか?」
エリオットがもう一度尋ねる。
「死ね」
アンナは舌打ちをしてから黒猫を肩に乗せる。黒猫もまんざらでないらしい。
「それで――、私の金はどうした?」
エリオットはアンナに借金をしていた。
だが返す金はない。
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