ナナカマドの見えるころ

苅窪ダイスケ

第1話 通告

  「松野、ちょっといいか」

 始業開始15分ほど前に、すでに自席に着いて今日一日の仕事の段取りを始めていた松野優斗に、上司である佐藤が出勤早々に声をかけた。

 「はい。大丈夫です」

 優斗はすぐに返事をして席を立った。佐藤は、優斗のその姿を一瞬確認して、この時間であれば誰も出入りしない課の書庫に向かった。この二人が誰にも聞かせられない話を詰めるために使っている場所である。優斗は、佐藤の二歩ほど後ろを付いていった。

 (書庫なら重要な話だな)

 毎回のことだが、佐藤は「書庫に行こう」とは言わない。いつも「ちょっといいか」と書庫に誘う。その度に、優斗はある種の覚悟を決めながら佐藤に付いていくのが常だった。

 北海道庁地域政策局地域政策課。地方自治体としての北海道の政策推進の中枢である。佐藤は48歳にしてその課長のポストにいる。優斗は、34歳で政策調整係長を勤めていて、佐藤の直属の部下である。

 「人事がらみの話なんだが・・・」

 書庫の扉を閉めると同時に佐藤が言った。

 「この時期で気の毒だが、2週間後にお前に内示が出る」

 佐藤の言葉に、優斗は面食らった。つい先日、毎年6月初旬に札幌が観光客や出場チームでごった返す一大イベント、「YOSAKOIソーラン祭り」が終わったばかりである。道庁の定期の人事異動は、二ヶ月ほど前に終わっている。

 「どこ・・・、ですか?」

 行政マンにとって、人事異動は常である。そして当然ながら自分がその当事者となった時に一番気になるのは、次に自分がどこの部署に異動するのかということである。二番目に気になるのは、その部署の人間関係だ。その一番気になることを、優斗は担当直入に尋ねた。

 「教育庁だ。総務政策局の教育政策課。政策企画グループに新たに係長のポストを増設する。そこに行ってもらう」

 日本の行政組織というものは、上級組織の直接の指揮監督に服するよりも、日常的には同レベルの官房系統組織の濃密な統制に服している。つまり、行政用語で「原課」とよばれる産業、福祉、教育、建設、窓口などの特定の業務を担う部局は、直接的には「官房系」とよばれる総務、企画、財政、人事、政策推進などの部局の統制を受けているのである。

 優斗は今まで、都道府県庁、いや国の省庁でも共通だが、花形と言われる官房系統の畑を歩んできた。国立道帝大学の法学部を卒業後に上級職員として入庁し、総務部総務課、財政局財政課、人事局人事課、総務部知事室秘書課と順調に異動した後、32歳の若さで係長に昇進し、現在の地域政策局地域政策課の政策調整係長に異動した。道庁が進めようとしている政策を進めるため、議会や企業、民間団体はもちろん、道庁内部部局や、場合によっては関係する市町村の役所や役場と調整を進めていくのを主任務としている。32歳での係長昇進は最年少である。しかも官房畑を歩み続けている優斗に対する周りの嫉妬や妬みはひどかったが、その政策立案能力と調整能力の高さは評判となり、この若さでも強者が揃う議会野党議員との水面下での調整もそつなくこなした。知事の公約、知事の考えている政策を形にするために、時には越権と見られても仕方のない仕事の仕方をしてきた。しかし、その結果が、不定期の、しかも出先機関である教育庁への異動である。佐藤は、優斗の心情を察していると見えて、慎重に言葉を選んでいるようだった。

 教育庁は、現在の法律では首長からは独立した機関として扱われ、4年間で代わる可能性がある首長の考えに左右されないよう、一定の権限が移譲されている。そこへ異動するということは、外部への出向に近い扱いとなるのである。

 「教育庁ですか・・・」

 優斗はあからさまに落胆を見せながら呟いた。公務員である以上、人事は拒否できない。しかし、今まで官房畑を歩んできた優斗にとって、教育庁への出向は、左遷に近い異動である。

 「知事は、来年度から政策を大きく転換することは知っているだろう。北海道新幹線が落ち着き、高齢者福祉も根付いてきた。イレギュラーの災害対応は別にして、次は教育政策に舵を切る。そのための異動であって、仕事では何の落ち度もないお前を左遷するという意味は全くないぞ」

 佐藤は、優斗を励ますように言った。

 「北海道の学力を全国トップレベルにまで持っていく。しかし、教育は聖域だ。公立学校の教職員だけでも約5万7000人もいる。教育庁内部に政策を推進できる人物がいないと、いつまで経ってもあそこは変わらない」

 佐藤が「あそこ」と言った教育庁は、その5万7000人の教育公務員である教職員を抱えてはいたが、実は一部の人間が牛耳っている封建的な社会が形成されている。

 「腹をくくってくれ」と佐藤は言った。「腹をくくってくれ」という言葉は、佐藤が部下に決断を促す時の口癖だ。公務員は、上司の命令には明らかな法令違反がない限り従わなければならない。しかし、命令として嫌々やらされる仕事と、命令を受けた上で自ら進んで物事に当たるのとでは、成果に雲泥の差がでる。佐藤はそれを心得ていて、部下に主体的に決断を促すのである。

 「わかりました。何年計画ですか?」

 優斗は覚悟を決めた上で、さらに尋ねたのだった。佐藤はまた、部下に仕事を任せる時に必ず期限を切った。だから部下たちは、自ずと最初に期限を尋ねるのが常だった。

 「お前が作る学力向上対策の制度が、くまなく道内の学校に行き渡るための設計に2年間、そしてその制度が根付くまでに2年間、合計4年間で完成を目指す。それが終わったら、うちの課の企画係長で戻す」

 佐藤は、現在優斗が勤めている政策調整係長という職より2つ上席の係長職で戻すことを約束した。もし本当にその係長職に40歳前に就くことができれば、異例のスピード出世である。

 「ただし、ルートに戻すためには条件がついている」

 一呼吸置いて続けた佐藤に、いよいよ優斗は我慢の限界が超えたように食ってかかった。

 「課長、ちょっと待ってください。公務員である以上異動は拒否しません。今まで通り、知事の政策実現に全力をあげることも約束します。しかし、戻すために条件をつける人事なんて聞いたことがありません。誰の意志ですか?」

 当然優斗は納得できていない。この唐突の人事異動も釈然としなかったが、それ以上に、出向させた自分を既定の人事ルートに戻すために条件を付けてくるなど、道庁の人事では前代未聞である。

 「この異動は、知事の直々の意思だ。4年後、38歳で地域政策課の次席係長で戻すということは、それなりのルートだということはわかるだろう。当然、お前の身辺も綺麗にしておく必要がある。」

 (そうか、そっちの話だったのか・・・)

 優斗の仕事は、時に荒削りと言われ、強引だと言われてきたが、着実に成果を上げてきたことは多くの人が認めるところだ。しかしプライベートでは、多くの女性と肉体関係を持つ、堅い仕事と言われる公務員からは想像のつかない生活を送っていた。

 「どこまで、掴まれているんですか?」

 優斗は焦っている自分を認識していた。そういうプライベートの生活スタイルは、仕事に悪い影響を与えないように最大限注意を払っている。「金銭問題と女性問題は、公務員の命取りになる」という父の言葉を教訓としていたから、仕事に女性問題を持ち込まないことはもちろん、職場には絶対にバレないようにしていた自信があったからだ。

 「人事課長、俺、それから人事係長の工藤は把握している。しかし、ただの女性にだらしない職員だという認識はしていない。医者ではないから詳しいことはわからないが、お前、性依存症を疑った方がいいんじゃないか?」

 (依存症?薬物とかギャンブルとかアルコールなら聞いたことがあるが、異性関係に依存症なんてあるのか?)

 優斗は、この話の流れについていけず絶句していた。そんな優斗の様子を見ながらも、佐藤は話を続けた。

 「これは話してもいいと言われたから言うが、人事課長は昔アルコール依存症の診断を受けて、治療を受けた経緯を持っている。今では完璧に克服しているが、人事課長が酒を絶っているのはそのためだ。人事課長が、信頼できる病院を紹介してくれている。すぐにでも受診して、善後策を考えた方がいい」

 今の人事課長は、かつて優斗が秘書課の係員で、佐藤が秘書課長補佐だった時にその課長だった人物で、その時に一緒に仕事をしていた。人並み外れて頭のキレる上司だったが、課の歓送迎会や不定期の飲み会でも決して酒を口にしなかった。それが、そういう経緯があってのことだったとは初耳だった。

 佐藤はチラッと腕時計を見た。もうすでに、始業開始時刻をゆうに過ぎていた。

 「いいか松野、ルートに戻るための条件とは、それまでに身辺を綺麗にしておくというものだ。もちろんお前は独身だから恋愛は自由だが、今の相手の中には夫と子どもがいる女もいるだろう?そういう遍歴は、将来必ずお前の足を引っ張ることになる。だから、教育庁に出向しているうちに、身辺整理をすることだ。そのために、人事課長が勧めてくれている病院を受診して善後策を考えるんだ」

 今日も、ありふれた一日の始まりのはずだった。しかし今、優斗は自分を取り巻く状況の変化に何とか追いつこうと頭の中を整理することで手一杯という感じである。何とか平静を装い、いつものように佐藤の二歩ほど後ろを歩きながら自席に戻った。

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