3. ホチキスは引き出しの奥に
習得した超記憶術はすぐに大活躍をした。大学のテストや、就活で行う学力診断はもちろんのこと、面接でも記憶済みの問答集がだいぶ役に立った。記憶力が良くなるだけで、僕が感じていた他者への劣等感はほとんどなくなっていた。
何もかもが好転するのではないか、そんな風に思い始めていた頃に、僕はその噂話を知ってしまった。それはセミナー受講者のうち、何名かが衰弱死をしたという根も葉もない噂だと思っていた。千代子が衰弱してから、僕はこの未完成な能力を不用意に使い続けることの恐怖を知ってしまった。
きっかけは彼女のご両親の死だった。旅行先で交通事故にあい、即死だったらしい。葬儀には僕も出た。千代子は顔面蒼白で、言葉らしい言葉も交わすこともできなかった。僕にできたのは抱きしめることだけだった。
最初に違和感を感じたのは、葬儀が終わってから少し後のことだった。家から出ることがほとんどなくなった千代子の元を訪ねたときのことだ。千代子は就職に向けて家を出ていて、世田谷で一人暮らしを始めていた。
「久しぶりだね。元気だった」と千代子はいって、僕を部屋に通してくれた。1DKの部屋の隅にはまだダンボール箱が積まれていた。「片付いていなくてごめんなさい。まだ引っ越してきたばかりで。今、コーヒーを淹れるから、適当に座っていて」
やかんからゆっくりとお湯を垂らしてコーヒーをドリップすると、部屋には芳しい香りが部屋を充していった。
「心配になって来たんだ」と僕は言った。
「いつまでも落ち込んでいられないよ」実際、その時の千代子の顔色は血色も良く、心配をしていたのが馬鹿らしいぐらいに思った。「もう大丈夫。それにお父さんもたまに会いに来てくれるからね」
お父さんもたまに会いに来てくれる。それが何を意味するのか、僕には最初わからなかった。お父さんはお亡くなりになったはずだ。死者が見えるようになったのか、或いは。言葉の断片を拾っているうちに気づいたのは、彼女が現実を自分の都合の良いように書き換えて認識しているということだった。
「お母さんのことは残念だったけれど、お父さんが生きていてくれたので本当によかった。二人ともいなくなっていたら私はどうして良いかわからなかったと思う」
僕にかけられてあげられる言葉は少なかった。違うよ、千代子、もうお父さんも存在していないんだ。きっといつかはそう教えてあげなくてはならないのだろう。ただ、今このタイミングで彼女がその辛すぎる現実に耐えられなかったどうするか。
その後、千代子はお父さんと一緒に過ごす時間を増やしていった。それらの時間は、彼女自身の身体にも嘘をつき続けることになったらしい。実際に食事をとるよりも、父と食事をとる夢をみることを彼女を選択し続けて、衰弱し、病院に運ばれた。
一週間経っても、一ヶ月経っても、快復の兆しはなく、夢とも現ともつかない拡張された現実の中で、彼女は父との夢を見続けた。超記憶術の呪縛から醒めたのは、死に際のほんの一瞬だった。それは凪のような、とても奇妙な静けさの中でのことだった。
「お父さんも、お母さんももういなかったんだね」何かを悟ったかのように千代子は言った。その頃にはもう彼女の腕には余計な贅肉も筋肉もついていなかった。頬も痩せこけていて、本当に生きているのかどうか判断がつかないこともあった。
「やっと戻ってこれたんだね」と花瓶の水を取り替えながら僕は言った。
「長い夢を見ていたような気がする。今はとても寂しい」と千代子は言った。「それまで絶対に間違いではないと思っていた現実が、ふるいにかけられた後みたいに綺麗さっぱりに消え去るの。この世界に自分だけが取り残されて、その他の何もかもがなくなってしまったみたい」
「僕はずっと君の帰りを待っていたよ」
それを聞いて、彼女は儚げに微笑むのだった。思わず死を意識してしまうような力ない表情だった。
もっと早く記憶術のコントロール方法を会得できていれば、彼女がここまで衰弱することはなかったと思うし、命が奪われることもなかったのだと思う。何もかもが遅すぎた。或いは早すぎた。僕にできることは何もなかった。
「なあ、今のうちに話しておきたいことがあるんだ。超記憶術は未完成な力だ。使いこなすためにはあと2つの技術を習得しなければならない」
一つは、現実と記憶の違いを見分ける能力で、そしてもう一つは記憶を深いところに追いやる能力だった。その二つが身につけられない場合に、人は夢と現実の境目がわからなくなり、夢に食い殺されて死ぬ。それが僕の出した結論だった。
「なるほど」と千代子は頷いた。「それはどうやって身につけたら良いの」
「残念ながら、夢と現実の境目は当人には意識することができないらしい。周囲の人間からのフィードバックを受けることでしか判別はできない。ただ、記憶を深いところに封じる方法については、なんとなくやり方が見えてきている」
「教えて」
「まず全ての記憶が、机の引き出しに入っているとイメージするんだ。引き戸は複数あり、君にはどこに何が入っているのかが明瞭に理解できている。その中からホチキスを見つけるのが超記憶術だ。そして次に、普段使わない一番下段の机の奥の方にホチキスを仕舞い、一番下段の引き出しに鍵をかけることをイメージする。僕の場合には、それで意識せずに思い出すことを制御できるようになった。これが忘却術」
千代子はその術を、その場で習得した。しかし、すでに彼女の心と身体は限界だった。一週間もせずに息を引き取ってしまったのだ。
僕は千代子の最後を、引き出しの奥の方にしまって、鍵をかけた。
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