金の庭に降る銀の雨

桜井今日子

きみがため 春の野にいでて 若菜摘む

「旦那様、お嬢様、お帰りなさいまし」

「ああ、ただいまタキ」

「いかがでございましたか?」

「有意義な会食だったよ。高林家とも仲良くやっていけそうだ」


 今日は春に執り行われる恵子の婚礼を前に両家の食事会が行われた。

 昭和14年、日中戦争がすでに始まり、一度は決まった第12回東京オリンピックを断念、開催地を返上していたが、まだ市民生活は深刻な事態ではなかった。


「それはようございました。お嬢様?」

「……」

「お嬢様? いかがなさいました?」

 女中のタキに話しかけられた恵子はハッと我にかえる。

「あ、あのね、とても美味しいお食事を食べすぎてしまったの。タキ、ごめんなさい。お夕食はいいわ。お部屋にいるわね」

 恵子は精一杯微笑もうとはするが強張った頬がそれをさせない。

「そうでございますか。少し顔色がお悪いのではありませんか?」

 体調だけでなく心情まで察せられまいと恵子は目を反らす。

「少し疲れたからお部屋で休むわね。お父様、今日はありがとうございました」

 振り袖のたもとを整えて恵子は父親の総一郎に礼をした。

「うむ」


 艶やかな晴れ姿の恵子を総一郎とタキが見送る。

「旦那様、お嬢様は何かございましたか?」

「ああ……」

 総一郎は恵子が嫁ぐ不安にかられているのだと思っている。

「嫁入り前とはああいうものかもしれないな。私だって娘を嫁がせる男親の悲哀を感じ始めたよ。タキ、書斎に酒を持ってきてくれ」

「確かにお嬢様が嫁がれるとこの家は寂しくなりますわね。御酒は少しにいたしましょうね。たくさん召し上がられますとお嬢様に叱られますからね」

「そうだな。しかしこれからは叱ってくれる娘もいなくなるのか……」

「御酒の量が増えそうで私もお嬢様から叱られそうですわ」

「参ったな」

 総一郎とタキがそんな会話をしているのを遠くに聞きながら恵子は階段を上り二階の自室へと向かった。







 ―― 養女 ――


 衝撃的な二文字だった。


 父の書斎に呼び出されたのは、会食の前夜のことだった。

「明日、先方に渡すものだ。目を通しなさい」

「はい、お父様」



 ―― 大正一二年十月二六日出生 父母木村正蔵・きぬ

 ―― 大正一四年十一月八日 藤崎総一郎ノ養女トス




「おと、う、さま……、これは、ど、う、いう……」

 恵子の動揺が心の鐘を鳴らす。

「うむ。今まで知らせていなかったのだが、そういうことだ。お前が2歳の時に引き取った」

 その二文字から目が離せなくなる。

「お前の父親は私の優秀な部下だった。震災で亡くならなければ、今頃は会社のひとつを任せていただろう」

 もちろんその二文字の意味は知っているが、心は(訳が分からない)と繰り返す。

「施設に入れるかもしれないと親戚達が言っていたのを私が引取り養女にしたのだ」

 嘘、でしょう? なにかの間違い、でしょう? 

「私も他の皆もお前を藤崎の娘として育ててきたつもりだ」

 お父様とお母様の娘ではない。お兄様の妹では……。

「貴子は娘ができると喜んでね。お前が来る前から女の子の洋服を買いこんで……」

 口元に手を当てる。その手が震えている。

「秀一郎にも兄妹ができて、明るいお前のおかげで我が家に花が咲いたようだった」

 震える手をもう片方の手で押さえ込んで感情が漏れ出ないように必死に堪える。

「事実を知らせたとしても、これからもお前は私達の家族であることに変わりはないよ」

 みんなは知っていらしたのよね。

「お前は誰からも好かれる性格だ。高林の家でも可愛がってもらいなさい」

 お兄様、知っていらしたのね。

「あの小さかった恵子がお嫁に行く年になるとは……」

 お兄様……。

「貴子が生きていたらどんなにか……」

 お、にい……

「恵子? 聞いているのか?」





「やーい、もらい子!」

「おまえ、もらい子のくせに生意気だぞ」


 戦争や震災で身よりが亡くなり養子となっている子は学校で冷やかしの対象だった。可哀想にとは思ったが、まさか自分がそうだったなんて思いもしなかった。


 この家では父も母もタキもそして兄も、誰もが家族のように接した。家族として愛した。恵子に引き取られた2歳の記憶はない。自分が「もらい子」だなんて一分いちぶも考えたことがなかった。疑ったことすらなかった。



 父は仕事は厳しいが、家庭では穏やかだった。恵子の我儘はたいてい聞いてもらえた。

「旦那様はお嬢様にはお弱いですからね。お嬢様からおっしゃっていただけるのが一番です」

 タキは事あるごとにそう言った。

 医者からは酒を控えるように言われているのにさほど酒量を減らそうとしない父をたしなめるのが恵子の役目だった。会社では社長である総一郎のひとり娘としての特権だと思っていた。


 母の貴子はいつでも優しく美しかった。恵子も母のように綺麗な女性になりたいと子供心に憧れた。

「本当に女の子は可愛らしいわね。何をしても愛らしいわ」

 そう言っていつも微笑んでいた。今も生きていてくれたなら、タキと嬉しそうに花嫁衣装を見立ててくれるのだろう。


 兄は……、

 幼い恵子の世界の全てだった。恵みの雨を恵子の心に降らせてくれた。

 学校へ上がってからも放課後は一目散に秀一郎の部屋へと帰ってきた。秀一郎が学生だった頃は帰宅もまだだったが、それでも恵子は少しでも早く会えるよう秀一郎の部屋で、ふたりの庭で、兄を待ち続けた。

「見て、お兄様。淡い紫色うすいろがとてもきれい」

 秀一郎が早く帰ってきた日は恵子の心は鞠のように弾んだ。

 夕暮れの茜色に染まる庭で、白緑びゃくろくの雨降る秀一郎の部屋で、絵を描き、花を愛で、他愛もない話をし、恵子は秀一郎にまとわりついてはしゃいだ。


 タキ。母を亡くしてからは文字通り母親代わりとなり見守り、女性としての躾をしてくれた。

「お嬢様」

「お嬢様」

 藤崎の実子である秀一郎へのそれと全く変わらない態度で接してくれた。


 お父様。お母様。お兄様。それからタキも。本当の家族のように扱ってくれた。それはきっとこの先も変わらないのであろう。

 孤児になった自分は施設に送られる可能性もあったであろうにこんなに温かな家庭で何不自由なく幸せに育ててもらった。養女だなんて知ることもなく過ごしてきた。これは稀なことだと思わねばならない。どれだけ感謝しても足らないだろう。



 それでも、ふと不埒な考えが頭をよぎる。


 血が繋がっていないと知らされていたら。

 自分が養女だと知っていたなら。





 この気持ちを伝えることはできただろうか。

 恋しい人と結ばれる未来はあっただろうか。


 でも、と思考を止める。


 あの秋、数ヶ月前の晩秋のあの午後。

 絵を描いてもらっているときに不意に感情が高まり、兄妹の禁忌を超えてしまってもいいと瞳を閉じたときも秀一郎は何もしなかった。口づけられてもいいと思ったのに。口づけて欲しいと思ったのに。そう思って目を閉じたけれど、秀一郎にはくすりと笑われただけだった。

 やっぱり私では子供なんだ。お兄様は可愛がってはくれても妹としか見ていないんだと、あのとき嫌という程思い知らされた。


 けれども真実を知った今、わかってしまったことがある。血の繋がりがないことを知っている秀一郎にとって、自分は女性としてはおろか妹としても見られていなかったということを。



 今まで堪えていた感情が涙とともに溢れ出る。知らず声も漏れる。


 兄妹だから諦めたのに。無理矢理心に蓋をしたのに。完全に自分の片恋だった。優しく接してくれたのは可哀想な「もらい子」だったからだ。


 もうずっと好きだった。

 それが「恋」というものだと知る前からの兄への想いだった。

 いつも見上げていた。

 いつも憧れていた。

 微笑みかけてくれる優しい瞳。

 話しかけてくれる温かい声。


めぐみ

めぐみ


 特別な名前呼び名で呼んでくださったのはなぜ?

 お兄様の「特別」だと思っていたのに。

 お兄様の「特別」になりたかったのに。


 お兄様。

 お兄様。


 薄紅色の桜が舞う爛漫の春を

 淡い紫色うすいろ紫陽花あじさいが透ける夏を

 緋色のもみじが燃える鮮やかな秋を

 椿が落ちゆく密やかな冬を


 紫丁香花らいらっくが咲き誇り

 百日紅さるすべりが謳い笑い

 金木犀きんもくせいが匂い放ち

 常緑の松が見据え見護り見届ける


 すみれ躑躅つつじ紫陽花あじさい

 桔梗ききょう撫子なでしこ、百合、朝顔

 秋桜こすもすに萩、曼珠沙華まんじゅしゃげ

 椿も牡丹も水仙も


 咲いては散りを繰り返し

 ふたりの歳月を豊かに彩り

 いくつもの幸せな季節を

 この庭で過ごしてきた。



 ◇◇◇

「そうしていると絵本の中の外国のお姫様みたいだよ」

 ふたりで花冠を作った。紫陽花のつるで輪を作り、淡い紫色うすいろの紫陽花の花を挿していく。紫陽花姫は微笑みながら一本の紫陽花を王子のシャツの胸ポケットに挿し入れる。

「だったらお兄様は王子様だわ。綺麗なお顔をなさってるんですもの」


 煌めく初夏の眩しい庭でそんな遊びをしたのはいつのことだっただろう。

 ◇◇◇



 あの頃まで時を遡ってこう言ってはいけないだろうか。

「急いで大きくなるからお兄様のお嫁さんにしてくださらない?」

めぐみが大きくなるまで待っていてくださらない?」

 お兄様がもしもいいよとおっしゃってくださるのなら、お父様にもお願いに行く。血は繋がっていないのだからいいでしょう? お父様が縁談を考えてくださる前だからいいでしょう? 恵子のお願いを叶えてくださいませんか?

 お兄様だけが好きなのです。

 お兄様が憧れなのです。

 お兄様と生きていきたいのです。


 そんな風にあの頃言えていたなら、私は今こんなにも心を裂かれるような想いをしなくてもよかったのでしょうか。




「恵子さん、どうしました? あまり食べていらっしゃらないようですが?」

 食事会で婚約者の高林正雄が恵子に話しかける。

「……」

「恵子」

 父が促す。

「あ、失礼いたしました。少し緊張してしまって」

 目の前の会席料理にほとんど箸もつけず、皆の会話にもろくに応じず、恵子の意識はもやの中を彷徨っていた。

「お嫁入り前はいろいろと不安がお有りでしょうけれど、安心して高林にいらっしゃいな」

 白茶の訪問着姿の正雄の母が語りかける。

「お義母様ありがとうございます」

 正雄も言葉を継ぐ。

「そうですよ。私も秀一郎に言われましたよ。恵子さんを幸せにしなかったらお前を殺しに行くと。僕も命は惜しいし、友人を敵に回したくはないですからね。殺されないように大切にしますよ」

 その名前が出ただけで心臓を爆撃されるような痛みが走る。

「おお、これは物騒だな、ははは」

「いや、これは愚息が失礼いたしました」

「今日はお目にかかれなくて残念でしたわ。美男子でいらっしゃるお兄様に」

「突然用事ができたとかで、誠に申し訳ない」

 食事会の日の朝、滅多に外出しない秀一郎が美術学校の友人に会わなければならなくなったと出かけていった。

 恵子はひとり胸をなでおろしていた。自分と婚家との会食で秀一郎に立ち会われるのは辛かった。ましてや婚約者は秀一郎の友人である。

「これからは親戚同士、両家がますます親しくさせていただけますな」

「春が待ち遠しいですな」

 父親達の会話が恵子の心を壊してゆく。

 ジリジリジリと警報が頭の中に鳴り響く。


 ◇◇◇

めぐみ、雨が降ってきたからもう入りなさい。風邪をひいてしまうから」

「大丈夫よ。お兄様。私、健康だけがとりえですもの」

「花の世話ならまた晴れた日にすればいいのだから」

「あのね、美子ちゃんのお父様がお医者様なの。美子ちゃんにお願いして聞いてもらったの。この黄鳥瓜きからすうりの種が咳のお薬になるんですって。これでお兄様の咳も楽になるといいのだけれど」

「わかったよ。ありがとう。でも続きはまたにしよう。いいね?」

「少しくらい濡れたって平気なのに……」

めぐみ

「はぁい」


 秀一郎の部屋で濡れた髪や洋服を拭いているうちに、秀一郎は温かい紅茶を淹れた。

「あの黄烏瓜ね、夏には白い可愛らしい花を咲かせるんですって。楽しみよね」

 ふう、と紅茶を冷ましながらその湯気越しに恵子は秀一郎に微笑みかける。

「そう」

 秀一郎もティーカップを手に取りながら恵子の仕草や言葉に目を細める。

「お花も楽しめて、実がなって、種がお薬になるなんてすごいお花ね」

 お兄様の淹れてくださるお紅茶が一番美味しいわとこぼれるような笑顔の恵子。

「調べてくれてありがとう。めぐみ

 そう特別に呼んでくれることが恵子にとっては嬉しくてならない。

「どういたしまして。お兄様のご病気がよくなるのならなんでもするわ」

 私の丈夫さを分けて差し上げられたらいいのに、とまた恵子は微笑む。

 お兄様の喜んでくださることならどんなことでもしてさしあげたい。

 お兄様の辛さや苦しさをなくしてさしあげたい。

 お兄様には穏やかに過ごしていてほしい。

 お兄様と楽しく一緒に暮らしていたい。

 お兄様に微笑みかけてほしい。

 めぐみって

 お兄様だけが呼ぶその名前でいつまでも呼んでほしい。

 ◇◇◇


 部屋の硝子窓がカタンと鳴る。冷たい雫が一滴、二滴落ちてきたようだ。灯りをつけていない部屋をいっそう暗い影が覆う。窓の向こう、眼下に秀一郎の部屋と春を待つ庭。秀一郎はまだ戻っていないらしい。

 化粧台の引き出しから櫛を取り出す。誕生日に絵が間に合わないからと、秀一郎に贈られた黄楊つげの櫛だ。その櫛を両手で握りしめる。頬を伝う涙がその櫛をも濡らす。握りしめた櫛を額にあてる。あの日秀一郎が震える指で触れてくれた己の額。


 お兄様。




 お兄様。


 連れて逃げてはくれませんか?

 貴方さえそばにいてくれるのなら何もいらない。

 どこか私達を知る人のいないところへ連れ去ってくれませんか?

 この抑えることのできない想いを憐れだと思ってはくれませんか?

 私に触れてくれませんか?

 抱きしめてくれませんか?

 好きだと

 愛していると……



 そんなことは無理だと、到底叶わないことだと、恵子は思っているそばからわかっていた。

 兄の自分への気持ちは同情でしかない。

 父に恥をかかせる。泥を塗りつけるような真似だ。育ててもらった大恩ある父にそんなことはできるはずもない。

 高林家にも失礼極まりない。

 正雄にも裏切り行為だ。



 視線を自分の膝元に移す。京友禅の大振袖。御所車に四季の花が咲き乱れる豪華な手描き友禅の一品物。帯は西陣織の吉祥文様。母の貴子が恵子の為に生前に用意していたものだ。贔屓にしていた呉服屋を呼び寄せ仕立てさせた。本当に我が娘にしてやる親としての最大限の振る舞いであり、愛情である。



 とめどなく溢れる涙をどこに隠せばいいのだろう。

 舞い狂うさくら吹雪のようなこの想いは鎮められるのだろうか。


 冬の終わりの冷たい雨が硝子窓をたたく。

 名残の雫が窓を伝って流れていく。


 お願い。止まないで。

 私の嗚咽を消してください。

 誰にも聞こえないように。

 涙は滴に溶かしてください。

 誰にもわからないように。


 いつかは止んでしまう雨のようにこの涙が枯れることはあるのだろうか。

 泣き声を漏らさぬように半手拭はんかちを口に押し当てる。



「すごい! お兄様は魔法使いね!」



 お兄様。

 魔法使いのお兄様。


 お願いです。

 もう一度色水遊びをしていた頃に戻してください。

 花冠の庭に帰してください。

 明日なんて連れてこないでください。

 お願いですから。

 お願いですから、

 さくらの花咲く嫁ぐ春なんて






 永遠にやってこないようにしてください。


 お兄様。


 お兄様。






~ 恋しくて とめど流るる 涙雨

     君想う夢 さくらにも似て ~



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