5.午後の秘密



 ほのぼのとしたよい香りが、ほのかな湯気と共に立ちこめる。ゆらゆらしていて、場違いにのどかなのだ。

「す、すまんかったな」

 ジャッキールは苦笑しながらお茶を淹れてくれた。

 ははは、などと珍しく笑い声をあげるジャッキールだが、この男がこういう笑い方をするときは、不都合なことをごまかす時である。

「いやな、その、暇にあかして遊んでいたところ、つい勝負事なこともあり、少々殺気立ってしまってな……」

 そんな言い訳をのべつつ、ジャッキールは二人に茶をさしむける。

「少々ねえ……」

 ゼダの持ってきた甘い茶菓子などをとりあえず広げたところで、シャーは何となく気が抜けてしまって、口の中に菓子を放り込んだまま呆れかえっていた。

「なんだよ、めっちゃ元気そうじゃないか」

 シャーがそういう感想を持つのは当然だ。

 珍しく寝間着姿だし、確かに多少はやつれてはいる気もするが、彼にしては顔色もそれほど悪くもない。大体、自分で湯を沸かして茶を淹れてくるぐらいなのだから、まあ元気。

「なんかさあ、食欲ないし寝込んでるって話だったけど?」

 ゼダに尋ねられて、ジャッキールは席に座りつつ答える。

「まあ、昨日まではあまり……。だったが、今日は気分も良くなってな。いや、このアイード殿の屋敷は、本当に快適で……。邸宅に小さな個人用の風呂まで設置されているし、今日は朝風呂に入ってさっぱりしたところ、実に体調も良くなり、食欲も戻ってだな。それなものでついつい暇に飽かして、蛇王なんぞの挑発にのってつい勝負をしたところ……」

 と、ジャッキールは、言い訳めいたことを言う。

「気分が良くなると、刃物持ちだす喧嘩するって、どういう……」

「い、いや、それは、その、奴が俺に喧嘩を売るものだからでだな」

「まあいいけどさあ。大人しくしてられると、それはそれで心配だし」

 シャーは紅茶を手にしながらため息をついた。

 紅茶の温かさが緊張を解きほぐす。何となくほっとしたところで、シャーは改めて彼を見やった。

「そーいや、頭切ってたけど、右目もなんか怪我してたの? なに、その包帯」

 ジャッキールは、頭から右目にかけて包帯を巻いている。あまり怪我は酷くなさそうではあるが、そこだけは目についた。

「ん? ああ、これか」

 ジャッキールは包帯に手を伸ばす。

「ちょっと額を切って軽く腫れてはいるのだが、怪我の方は大して……。それより、右目の方に薬の影響が残ったのか、少し光に過敏でな。室内ではいいのだが、眩しいのでついでに巻いて……」

「え、それ、大丈夫なのか?」

 ゼダが心配すると、ジャッキールは頷く。

「大したことはない。それに、お前達には話したことがなかったがな、俺は元から光に過敏なのだ。暗い所から明るいところに行ったときにすぐに対処ができない。これは、昔の古傷の後遺症らしくてな」

「ああ、そういえば。アンタが光が苦手ってのは、知ってたけど。そういう理由なの?」

「まあ、単にこの土地の陽光が強いということもあるが。ともあれ、主治医のルーナ嬢によると、それらの事情もあって右目の方が治りが遅いらしいのだ。大事ではないので、外してしまってもよいのだが……」

 とジャッキールは、少々気まずそうに言いつつ、

「いや、そんなに心配されているとは思わなくてな」

「今のダンナみても心配しないけど、当日のアレ見たら心配するって」

 シャーは、やや恨み言っぽくいって口を尖らす。

「そ、それはすまなかったな。しかし、このような見舞いの品など、お前も気を遣うことはなかったのに……」

「そんなの構わねえって。寝込んでたのは寝込んでたんだろ。顔色やっぱりよくないし、もうちょっと休んでた方がいいと思うぜ」

 何気なくゼダが優しいことを言いつつ、あ、と声を上げた。

「そういえば、カワウソ兄さんから預かってたのあったんだった」

「あ、あれか。そういや忘れてたぜ」

 と、シャーは後ろに置いたまま忘れていた、例の籠を取り出した。

「なんか、アンタに食わしてやってって、カワウソが」

「アイード殿が?」

 小首をかしげつつ、ジャッキールはその籠をのぞき込み、そして、おお、と声をあげた。

「これは、あの有名店の……っ! 手に入りにくいはずなのに!」

「有名店なの?」

「そうだぞ。ここの果実の甘煮ののった焼き菓子は天下一品だといわれていてな」

 ジャッキールはそういいつつ、さっそく籠から菓子を取り出して皿に盛る。

「しかし、流石はアイード殿。ありがたい」

「ふーん」

 シャーもゼダもそんなには甘味に興味はない。やたらアイードをたたえつつ、目をキラキラと輝かせるジャッキールをしり目に、二人は既に広げてある菓子をかじりつつ、紅茶を啜っている。

 彼らの冷めた視線にも負けず、ジャッキールはきらりと目を輝かせながら、小瓶を取り出した。

「そして、有名なのがこのシロップでな。これが、また、実に甘くて美味いのだ。これはさっそくかけねばな!」

 ジャッキールは小瓶を傾けて菓子にかける。とろとろとしたいかにも甘そうな蜜が、既に甘そうな菓子にまんべんなくかけられていく。

「この、実に美しい蜜の色。芸術的だ。それを惜しげもなく、惜しげもなく、こんなにかけられるなんて……。ああ、こんな風に追いがけもできるなど、なんと贅沢か……」

「うわああ、……頭痛くなりそう」

「ああ……、既に十分甘そうだったのによ」

 うっとりするジャッキールに対し、二人はやや引き気味だ。

「なんだ、お前達。今から切り分けようと思っていたのだが……。甘い物は嫌いか?」

 シロップを全部使い切ってしまってから、ようやく、彼らの冷たい視線に気づいたのか、ジャッキールがそう尋ねてくる。

「いや、嫌いじゃないけど、いいよ」

「俺も。甘いの、色々食ってるし」

「いいのか、置いておくと、きっと全部食ってしまうぞ、俺が」

 ちらちらっと菓子を見やりつつ、ジャッキールが尋ねてくる。

「いや、全部食っていいよ。そんな甘いの。見てるだけで頭痛くなるし」

「うん、ダンナにって言ってたし。ほら、そんな有名店だと、一個丸ごと食えるのって滅多にないことだろ。食っちゃったら?」

 ゼダとシャーにかわるがわるいわれて、ジャッキールがやや真剣な顔になる。

「い、いいのか。いや、本当に……」

「いいってば。この機会にどうぞ」

「そうそう。病み上がりなんだし、栄養つけて」

「そ、そうか。そ、それなら、い、いただこうかな」

 やや気まずそうにしつつも、もはや嬉しそうなそぶりが隠しきれていない。

「いいから、早く食べろよ」

「そ、そうまでいうなら、いただこうかなー」

 そわそわしつつ、とりあえず四分の一に切る。そして、菓子をうまくシロップがこぼれないようにしつつ、口の中に放り込む。

 途端、ひっそりと眉間のしわが緩む。

「どうなのダンナ?」

「これはもはや、芸術の域」

 と一口食べ終えていいかけたものの、ふと真面目な顔をして、

「いや、食いながらしゃべってはいかんし、深く味わえないので、貴様らちょっと黙っていてくれないか。一人で楽しみたい!」

「え、あ、それほどなんです?」

 シャーは思わず気おされる。

「ま、まあ、いいよ。好きに食べてて」

 そういって手を振る。

 集中できないらしいジャッキールは、敢えて彼らから少し離れた椅子に座って、そっと菓子をほおばりつつ甘味に酔いしれているようだった。

「う、嬉しそうだな」

 唐突に無言におちて、もぐもぐしているジャッキールを眺めつつ、ゼダがぼそりと呟く。

「何となく頭の上に花畑広がってる感じ……」

「ああ、こんな幸せそうな顔見たのはじめてだ……が超不気味だ」

 シャーが冷めたことをいいながら、紅茶を啜る。

「まあ、そうだけどさあ。オレ、久しぶりにすげえ善行を積んだ感じがするわ。いや、今日はいい事したなあ」

「善行ねえ」

ゼダがしみじみと頷いているのを、シャーは呆れた様子で見てため息をついた。

ジャッキールは、すでに二切れ目に突入している。どうも二人に呆れられていることは気づいていない様子だったが。

「ん?」

 ふと、何を思ったのか、ジャッキールはちらりと窓際に目を向けた。しばらく目を細めてそちらを見たのち、彼は菓子を飲み込みながら軽く目を開いた。

「おっと、きゅうにさむけが」

「甘い物食いすぎたせいじゃない?」

 ジャッキールがふいにそんなことを言ったので、シャーは冷淡に突っ込む。第一、妙に棒読みっぽく白々しい。

「そ、そんなわけないだろう? いや、本当に寒気がだな」

 ジャッキールはそう言いつつ、

「何か上着を取ってきてくれないか? アイード殿の箪笥から借りてきてほしいのだ。衣類の類は、使ってもよいといわれていて……」

「えっ、そんなの自分でとってくればいーじゃん」

「病み上がりなのでなー。それに、アイード殿の衣裳部屋は離れにあるのだなー」

 そっけないシャーの言葉に、ジャッキールが珍しくやや頼むような口調になる。

「彼は衣装持ちなので、探すのが大変だ。しかも伊達男なので派手なのが多い。俺でも着られる黒っぽい地味な奴で、なおかつ大きめの上着を探さなくてはならない。病み上がりの俺には辛い作業なのだなー。寒気も頭痛もひどくて……」

「甘すぎるもの食いすぎたからじゃねーの? 頭冷やせば治……」

「病み、上がり!」

 追い詰めたところ、ギラッとジャッキールの目がシャーを睨みつける。どう見ても病み上がりの男の視線ではない、が、急にこれが来ると怖い。思わず引いてしまうシャーだったが、ふとそれを見ていたゼダがなだめるように言った。

「まー、それもそうだなあ。この屋敷地味に広いし、あの兄さんも衣装持ちっぽいし。かわいそうだし、さがしに行ってやろうぜ」

「え、でも……っ」

「んじゃ、ちょっと行ってくるぜ」

「ちょっ、何す……」

「いいからいいから」

 ぐいっとシャーを引っ張って、ゼダは半強制的にシャーを外に連れ出す。

「離れだからな! あと、俺はアイード殿より背丈があるし、色は絶対に黒にするのだぞ! 地味な奴だぞ!」

「わかってるって!」

 そう確認すると、部屋の向こうからそんなゼダの声が聞こえる。その距離をはかって、ジャッキールはふとため息をつき、半分残した菓子を皿ごと籠の中に入れた。

「さてと」

 ジャッキールは左手で近くに立てかけていた剣を手に取る。

 すっと目を細めつつ、ジャッキールは窓の外を改めて睨みつけた。じりっと親指で押して剣をかすかに抜きながら、右手を柄にかける。

「そこの窓に隠れている男。いるのはわかっている。誰に話があるのか知らないが、俺が代わりに聞いてやろう」

 彼にはまだ少し眩しい昼間の陽光。それが差し込む窓に、かすかに見えていた人影がじわりと揺れた。




「なんなんだい、一体」

 廊下でシャーは不機嫌になる。 

「まーいいじゃねえか。たまには、甘やかしてやるのも」

 ゼダがそんなことをいって宥める。

「なんだよ、急にいい子ぶりやがって。すっげー棒読みだっただろ」

「だからじゃん。嘘の苦手なあのダンナがそこまでして、静かに一人でお菓子食いたかったってことだろ。あの面だし、人気店の菓子とかさ、一人で買いに行くの無理じゃん。しかも念願の独り占めなんだし、病み上がりの時ぐらい優しくしてやろーぜ」

「それにしたって、わざとらしいし、結局脅迫してくるし、なんなんだよ」

 シャーはちっと舌打ちする。

「ったくさ、人に心配かけてたくせに、つくづくのんきなオッサンなんだよな」

 屋敷はさほど大きくはないとはいうものの、二階建てでいくつか部屋がある。厨房などがある一階の勝手口から離れにつながっており、少し小ぶりの建物があった。

 アイード自慢の白亜の建物は、相変わらず妙に小洒落ていて、あの男が好んで準備したのかと思うと、ちょっと腹が立つ気すらする。

「第一、なんで衣裳部屋が別棟にあるんだよ」

「さあ、どうなんだろうな。ほかの部屋にも服ぐらい入れてるんだろうけど、ここって別荘っていうし、どっちかてえと倉庫なんだろ。あのカワウソ、無駄に洒落てるからなあ」

「その辺もちょっとムカつくけどな」

 先ほど、そのアイード=ファザナーと会話したことを思い出し、シャーは少し複雑な気持ちになる。

 あの男のあの態度、今思い出しても、現実だったのだろうかと少し不安になるほどだ。それほど、彼はいつもの彼とは別人で、そして、理解しがたい。

 そうこうしている内に、彼らは別棟に入っていた。二つほどの部屋に分かれており、確かにその一つに家具が詰め込まれている。

 箪笥を開けてみると、確かにアイードのものらしい服があれこれと入っている。

「こうしてみると、アイツ結構派手好きだな。渋い色もないことないけど、原色系……」

「ダンナが倉庫指定したわけが分かる気がする。手近にある衣装が原色で派手すぎて着れなかったんじゃね?」

「なるほどね。しかも、色は黒指定だったからなあ」

 確かに派手な色の服を着ているジャッキールというのも思い浮かばない。あまり似合わないような気がする。

「まあ、これだけあれば渋いのもあるかなー」

 がさがさと二人は衣類をあさり始める。しばらく、探しているうちにどうにか、地味な色でゆったりした上着を見つけた。ジャッキールは確かに上背があるので、少し余裕のある上着の方が都合がよいので、広げて確かめてみる。

「んー。これでいいか。黒いし、でかいし、何とかなる……」

「あれっ、なんだこれ?」

 シャーが上着を確認していたところ、奥の方を探していたゼダが怪訝そうに声を上げた。

「なんだ?」

「いやさ、ここ、鍵がかかってて……」

「鍵だ?」

 シャーも気になって覗き込む。そこには壁にはめ込む形でクローゼットが作られていたが、鎖が張られ錠前がかけてあった。

「ったく、こういうことされてると嫌でも開けたくなるんだよな」

 シャーは、ふと懐をさぐって針金のようなものを取り出し、さっそく錠前を手に取った。

「おいおい、大丈夫かよ、そんなことして」

「こういうことする奴が悪いんだよ。大体、こーゆーとこに隠してあるのって、大体、春画本とかそういうのじゃね? 草食動物のフリして、むっつりスケベとかそういうオチなんだよ」

「まあ、そうかもしれないけどさあ」

 ゼダは肩をすくめるが、なんとなく興味はあるらしく積極的には止めない。

 シャーが何度かカチャカチャと針金を動かすと、錠前は苦もなく開いた。

「大体、本気で隠すつもりならこーゆー怪しいトコに入れないほうがいいってハナシだぜ」

 シャーは鎖を外すと、取っ手を手にして開いてみる。ほこりの匂いがして、その中には大きな箱が一つだけ入っていた。

「衣装箱?」

 それは船乗りが使う衣装箱のようなものだ。とはいえ、アイードはかつて船乗りだったと自分でもいっているし、実際彼の経歴では北部の島に”留学”していたことになっているのだから、こういうものを持っていてもおかしくはない。

 それをとりあえず引っ張り出すが、開けようとしたところ、また鍵がかかっていた。

「何だよ。えらく厳重にしてあるなあ。そんなにヤバイ趣味の春画でも入ってんのか?」

 シャーが呆れ気味にそんなことを呟くが、だんだん彼の方も真剣な顔になってきていた。

 春画本などと戯れたことはいってはみたが、ここに収まっているのはそんなものではないのではないか。そんな予感がしはじめていた。

 あの男が、ここまでして封印してあるものだ。一体何だというのだろう。

 ゼダの方も、どうも真剣な顔になっている。彼もそうした予感を感じているようだった。

「開けてみようぜ」

「ああ」

 ゼダに言われてシャーは、鍵穴に針金を入れる。少し苦戦したものの、どうにかカチャリと音が鳴り、鍵の外れた気配があった。

 シャーとゼダは顔を見合わせると、衣装箱の丈夫な木製の蓋を開ける。かすかに防虫剤の香料の香りと、海の香りがするようだった。

 部屋の窓から差し込む陽光は、過去に封じられた衣装箱の中のものを色とりどりに輝かせて、彼らの前に示していた。



 *



 連れられてやってきた庭園は、見通しの良い場所だった。

 高級住宅街の中にある、リーフィも知っている庭園で木陰が多く涼しい。行楽に向いており、平日でも人出がそれなりに見られる。

 中央には噴水が設置され、緑と色とりどりの花の中で青い水が流れるのは、楽園を想起させる美しいものだった。

「ちょうど今、いい具合に花が咲いてるからよ」

 ギルと名乗った画家だという男は、リーフィにそういって目を細めた。

 リーフィはこの男の正体を当然知らないが、口の悪さとは裏腹に、所作などから彼が高貴な身分の人間だということは確信していた。崩してはいるが、ふとした時の所作が優雅ではあるのだ。

 そのリーフィをしても、まさか彼自身が先王の弟、悪名高いギライヴァー=エーヴィルとは思いもよらなかった。ギライヴァー=エーヴィルは不良王族として名高い反面、こんな場所に出てくるような気軽な男でもないし、第一、彼に絵画の趣味があることはほとんど知られていない。リーフィが気づかないのは当然のことだ。

「それじゃあ、その花の咲いているところで描こうか。そこで座っててくれるか」

 ギライヴァーの指し示す方向には、休憩用の椅子がいくつか置かれている。

「ここ?」

「ああ、そうだな。ただ座ってるだけなのも何だし、ちょっと髪の毛に手を当てる感じで……。ああ、そういう感じ」

 ギライヴァーは手早く画材を広げて準備をしながら、リーフィに指示をする。

 長い髪を流すように右を向かせ、左手で髪を、右手を椅子につかせて彼は頷いた。

「よし、いいぜ。綺麗だぜ、リーフィ。そのままでいてくれよ」

 不意に自然にそんな殺し文句をいいながら、しかし、ギライヴァー=エーヴィルには、あまり下心を感じなかった。

 いつの間にやら彼は筆をとっていたが、それを走らせながら彼女を見るギライヴァーには、今までの不良貴族の気配が薄れている。

 先程までのどこかやる気のない、投げやりな雰囲気はなりをひそめ、背筋を伸ばしてキャンバスとリーフィを交互に見やる。

 しばらく静かな時間が流れていた。

 昼下がりの穏やかな陽光。風が緑を揺らす音、噴水から流れる水の音。遠くで子供の声が聞こえている。

 穏やかな時間だ。リーフィにとっても、少し不思議な時間だった。絵のモデルになっていて、緊張感を感じるはずなのだが、それでもどこか穏やかで落ち着いた空気が流れている。

(この人、やっぱり、絵には真剣なのね)

 その眼差しを目の端で確認しつつ、リーフィはそう思った。先程、道端でいきなり自分を呼び止めたときと同じだ。

 しかし、それはとても真摯なものだったが、同時に穏やかな視線でもあった。交友関係の広いリーフィには絵描きの知人もいないことはないが、モデルをしていてここまで落ち着くのも不思議だった。彼自身は少し狂気を感じるほどの情熱を絵に捧げているようなのに、どうしてだろう。

(なんだか不思議な人……。悪い人ではなさそうだけれど……、何故か気になる……)

 そんな風に考えていると、不意にギライヴァーの声が聞こえた。

「ちょっと休憩するか? だんまりも疲れるしさ」

 ふとみやるとギライヴァーは、絵を描きながら苦笑していた。

「お前も疲れただろ。一旦休憩だ。ははは、俺もしばらくぶりに真剣に描いたら疲れちまったわ」

 ギライヴァーがそういうので、リーフィも軽く姿勢を崩す。

「悪いな、ずっと黙ってて。初対面で、こんな黙ってたら、気まずいだろう」

「いいえ。それだけ真剣に描いてもらっているということだから……」

 リーフィはくすりと笑った。

「先ほども言ったけれど、貴方が真剣に絵を描かない人なら、ここについてきていないわ」

「それはそうだな。俺みたいな奴だと余計そうだろう」

 ギライヴァーは自嘲する。

「でもいい場所だろう? リーフィにはぴったりだ。綺麗なニンゲンは綺麗な場所で描かなくちゃな」

「お世辞でもうれしいわ。けれど、本当に、今はちょうど花盛りなのね。ここは、前に来たことがあるの。相変わらず、とてもきれいな場所だわ」

 リーフィが目を細めていう。

「普段から遊びに来ているのか?」

「まさか。ここは貴族の方々が多いから……。私のようなものはおいそれとは入れないわ」

 リーフィはかすかに首を振り、

「ここで貴族の方々の主催で、催し物があることがあるでしょう? 私、一度だけ、そこに呼ばれたことがあるの。その時に、この公園に入ったのよ」

「ってことは、リーフィは、舞踊もやるのか?」

「あら、よくわかったのね、ギル様」

 小首をかしげたところで、彼は微笑した。

「はは、まあな。お前、なんかするときの動きがいちいち綺麗だから、そーじゃねえかなあってさ」

「そんなことで言い当てられたの、初めてだわ。私、酒場で働いているから、踊り子だってわかる方はいるのだけれど」

「ただの酒場の踊り子じゃねえんだろ。ここで開催されるようなトコに呼ばれるってことは、それだけ上等じゃないと呼ばれないってことだぜ。でもまあ、俺が気づいたのはそういうことからじゃねえんだけどな」

 彼はため息をつく。

「餓鬼のころの知り合いがさ、よく踊ってたんだ。聞いてみると舞姫として才能のあった娘でよ、俺の目の前でよく踊ってくれてた。ちょっとその娘に動き方が似てるかなって思ったんだ。上品で優雅でさあ」

 ギライヴァーは目を伏せた。

「そいつもきれいな娘でなあ……。そいつが踊ると、周りがすげえキラキラしていたよ」

 そう言って彼は少し黙り込む。彼の思い入れのある様子に、リーフィがそっと尋ねた。

「その方はギル様の?」

「いいやあ。本当に餓鬼のころの話だから。俺が餓鬼じゃなかったら、かっさらいにいったんだけどな。世の中うまくいかねえって……」

 ギライヴァーは少し寂しそうにそういうと、過去を振り切るかのように顔を上げていった。

「さて、悪いけど、もうちょっと頑張ってくれるか?」

「ええ。大丈夫よ」

 リーフィがそういって、先ほどと同じ姿勢を取ろうとしたとき、不意にギライヴァーが筆を持ったまま立ち上った。

 彼はすっとリーフィの隣に立つ。彼は少し険しい顔をしており、何か緊張感があった。リーフィがどうしたのだろうと思っていると、彼はついと表情をやわらげてリーフィにいった。

「もうちょっと手は上の方がいいかな。ああ、それぐらいだ。すまないな」

「あら、ごめんなさい。これぐらいかしら」

「ああ、十分だ」

 ギライヴァーは笑みをみせ、それから振り返った。

 リーフィから少し離れたところに茂みがある。ギライヴァー=エーヴィルはそのちょうど間に立っていたが、振り返った瞬間、笑みを消して睨みつけた。

 ギラリと殺気を放ちながら、”それ”を見た瞬間、茂みの向こうで何かが萎縮した気配があった。

 リーフィに見せないようにしながら、彼は右手の筆を茂みに投げつけた。かすかに悲鳴のような声が上がり、がさがさと何かが去っていく気配がした。

「どうしたの、ギル様。何か物音が?」

 流石にリーフィが気づいて、怪訝そうに彼に尋ねた。

「ああ、大丈夫」

 ギライヴァーは、振り向く。その時はすでに、先ほどの表情を消していた。

「野良犬がいたみてえでさ。追い払ったから大丈夫だぜ。それじゃあ」

 ギライヴァーはそういって定位置に戻る。

 再び、その場に穏やかな時間が流れ始めていた。が。

「野良犬っつーか、飼い犬か……」

 ギライヴァーは、ほとんど聞こえない小声でつぶやいた。

「どこの”狗”かまるわかりなんだよ。間に入った時の反応見てると、俺には手出しできねえらしいが。あのド変態野郎」

 ギライヴァーは、気怠くため息をつき、”それ”に聞こえるように、しかしリーフィには聞こえないように気をつけて、ちッと舌打ちした。

「あんまり舐めてると、潰すぜ」

 

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