17.殺意に満ちた月光

 

 シャーのことも気になるが、ここでメイシアを見つけておいて流していくわけにもいかない。

 今回の一件は、彼女の出現から引き起こされている。いや、もっと根深いものはあるのだろうけれど、それにたどり着くには、彼女の事情から探らなければならない。

 シャー=ルギィズだってそう思っているからこそ、ジャッキールと並行して彼女を探していたのだろう。

 しかし、返す返すもアイードは、今、彼女を見つける気はなかったのだ。

 ただ、こんな夜に人気のない道で立っている女なんて不穏だなー、などと思って通り過ぎようとしただけだ。彼女が自分で否定していたが、確かに売春婦が客引きに人気のない道に立っていることもないことはない。貧民街では特にそうだが、ここは自分が知る限りそういう女はいない道だと思っていた。

 だが、万一そうだと厄介なので、アイードは目を合わせずに立ち去るつもりだったが、通りすがりに見ると、そこにいるのはまだあどけない少女。しかも、それが昼間に恋人と待ち合わせするような装いで、かわいらしく着飾って待っている。

 それだけでも妙なのだが、さらにおかしいのは彼女が腰に剣を提げているということだ。かわいらしい服装に不似合いなそれは、彼女に長剣の覚えがあるということを告げていた。これはいよいよもって尋常ではない。

 そんなこともあって、不審に思ったアイードは声をかけてみたのだったが……。

「あのー、えと……待ち合わせ、だっけ?」

 アイードはちょっと困ったあと、そう声をかけた。

「待ち合わせって、こんな夜更けに物騒だよなあ。誰を待ってるの?」

 メイシアはややいたずらっぽく笑う。 

「それは貴方でもいえないわっ」

「はは、手厳しいなあ」

 アイードは苦笑しつつ、ちょっと覚悟を決めて、

「君が待ってるの、ジャッキールさんだろ?」

 アイードが唐突に直球で名前をあげたので、メイシアが驚いて彼の顔を見上げる。

「それ、どうして……」

(まあ、いきなりこんなこというと、俺、どう考えても不審者だよなあ)

 などと考えつつ、アイードは彼女の不信感をなるべく取り除くべく愛想笑いをした。

「えっと、あんまり警戒しないでほしいんだけどさ。俺、ジャッキールさんと知り合いなんだよ」

「え、隊長と……」

「ああ、信じられないと思うけどさあ。それで、この間から君のことも探してたんだよ」

「あたしを? 隊長も?」

「ああ、ジャッキールさん、君のことを探し回ってるってきいてる」

 メイシアは目を瞬かせ、目の前の男が信用できるかどうか考えているようだ。アイードも無理に信用させるような話はしない。慎重に話を続ける。

「しかし、赤い看板の店かあ。実はお菓子と珈琲がうまいんだよな。ま、ここくる客はメシ目当てが多いんだろうけど、俺は断然昼下がりのお茶におすすめだね」

「そうなの?」

 急にそんな話を振られて、メイシアは戸惑い気味に話を合わせる。にやっとアイードは笑う。

「だってそうだろう? ジャッキールさん、あの人、メシより甘味がすきだもんな?」

 その情報を得た途端、メイシアの態度が少し変わる。

 ジャッキールが甘いものに目がないことを、知っているというのは、本当に彼を知っているからに他ならない。昔はよほど親しい人間しか、知らなかったことだ。

「そっか、本当に隊長と知り合いなんだ。そうなの、あたし、隊長からお手紙をもらったんだけど」

 そういってメイシアは手紙を取り出した。

「それにここで待っているようにって、指定されてたんだ」

「ははー、信用してくれたかな?」

 アイードはどうやら自分の思惑がうまくいきそうなのでほっとしつつ、

「ちなみに俺が教えてあげた店だからね。そこを待ち合わせ場所にするとか、ちょっと嬉しいんだけど。……でも、女の子呼ぶにはちょっと寂しいトコなの、あの人にしては変だな」

 といいつつ、アイードは再び上を見上げ、あ、と声を上げた。

「そういやそうだ。ココ、違うじゃないか」

「え? 何が?」

 独り言らしく呟くアイードを見上げてメイシアが小首をかしげる。

「え、ああ、ココ、赤い看板の店じゃないなあって思ったんだよ」

「え? 嘘。だって、ちゃんと連れてきてもらったし、ほら」

 と、メイシアは上を見上げて、ぶら下がっている看板を指さした。暗い中なので色ははっきりとはしないが、かすかに赤っぽい色が見える。それをアイードは一緒に覗き込んで笑った。

「ははは、この店は赤い看板じゃなくって、もうちょっと黄色い色さ。って言っても、夜じゃ区別がつかない程度に赤いけどね。そうだなー、太内海たいないかいの沿岸でとれる蜜柑みかんみたいな、明るく強い色だよ」

「そうなんだ、暗くてわかんなかった……」

 メイシアは呆然とつぶやく。

「でも、太内海の蜜柑かあ。お兄さん、面白いたとえするのね。詩人さんみたい」

「そういわれると調子に乗りそうだな―。ああそうだ。ちなみにこっちのほうが昼飯の美味い店さ。そして、蜜柑の色と同じぐらい西の香りがする飯屋だよ。西の海にいたころを思い出すような、そういう飯屋でさ。ああ、それで、赤い看板の店は、もうちょっとここを進んだところだよ」

 アイードはそういって闇の先を指さした。

「そっかあ。それじゃ、隊長が来なくっても当然だよね。赤い看板のお店の方に行かなきゃ」

 メイシアは、納得したという顔になった。

「でもおかしいなあ。ネロはあたしよりこの街に詳しそうだったから、絶対間違わないと思ったのに」

「あれ、誰かに案内しにきてもらったのかい?」

「そうなの。待ち合わせ場所をいったら、ここだよって連れてきてくれたの。間違えちゃったのかなあ」

「間違えた……?」

 アイードは何か引っかかりを覚えて、片眉をひきつらせる。

 不意にぱしゃんと川の方で音がする。メイシアが反射的にそちらをむくと、アイードは冷静に言った。

「魚が跳ねたんだよ。ここには跳ねる魚がいっぱいいるからさあ……。って、あれ?」

 川面に視線を向けたアイードは、別のものに気づいた。向かい側に船が停泊している。しかし、それは昼間は見かけなかった船だ。比較的小型の船だが、何に気付いたのかアイードはやや表情を硬くする。

「あれは……」

「どうしたの? 船?」

 メイシアがその視線を追う。まるで闇の中に溶け込むように佇んでいる船だ。その上には旗らしいものがはためいていた。夜の闇に紛れて見えないが、月明りのせいかその旗だけが照らされている。

 それは、四本の短剣を意匠に持つ旗だった。

「あの形、”紅い貴婦人”だ。まさか……」

 ぽろっとアイードがそうつぶやき、アイードはふとメイシアの方を見る。なぜか彼女は青ざめた顔で、その船を凝視していた。

「ど、どうしたんだい? メイシアちゃん」

「あの、旗……」

 メイシアは、記憶をたどりながらつぶやくように言った。

「あたし、あれを、見たことがあるわ……。でも、なんだか、怖い。怖い……って、それだけ覚えてる……」

「え?」

「どうしてだろ。ほかに何も思い出せないのに、なんだか、すごくあの旗を覚えてる気がする……」

 メイシアは硬い表情のままそうつぶやく。

「もしかして、君……、昔、太内海の……」

 アイードがそう言いかけたとき、突然、向こうの方で叫び声があがった。

 メイシアは瞬時にそちらを振り向いた。何かもめごとでも起きたのか、複数人の男の声がする。

「どうしたんだろ? 赤い看板の店って、こっちだったよね? 隊長?」

 アイードの返事を待たず、メイシアは走り出す。

「あ、ちょっと! 待ってって!」

 おいて行かれてアイードは、慌てて追いかけようとしたが、ふと背後から声が飛んできた。

「あ、あいつじゃねえか? さっきから俺たちまいてやがったの?」

「話し声がするから来てみれば。赤毛のヤツだったら、例のヤツかもしれないぜ?」

 がやがやと雑談しながら、男たちがかけてくるのがわかる。アイードはもはや振り向かない。

「うわあ……、なんなんだよ、本当」

 アイードはため息をついて額に手を置いた。

「俺は暴力も嫌いだし、忙しいっていってんのに……。ったく、いい加減にしねえと、将軍としてここの河岸ごと一気に掃除すんぞ。あの野郎~~」

 げんなりしてそうつぶやいた後、ため息をもうひとつつく。そして、額をおさえた手をそのままするりと下げて右ほおの傷に触れた。

「まったく」

 指の間からちらりと背後を見やり、アイードは静かに呟いた。

「俺がいつまでも温厚だと思ったら大間違いだぜ」



 *



 激しい応酬が続いていた。

 何度も打ち合い、力いっぱい叩き伏せ、流す。

 かすかに顔を傾けたシャーの左ほおのすぐそばを、鋭利な刃が通り抜け、冷ややかな風を感じる。そのまま体を倒すようにしながら相手の懐に潜り込み、突きあげる。

 が、ネリュームもその辺は用心していたのか、深追いせずに身を引いて避け、体勢が不利と考えたのか、そのままさっと飛びずさり距離を取る。

「へへへー」

 上がった息を軽く息を整えつつ、ネリュームが笑いかけてきた。

「見かけによらず、意外と怖いことするんだなあ」

「お前に言われたくねえよ」

 シャーの方も息が上がっている。予想通りだが、ネリュームとかいう男、甘い態度からは想像できないほど強い。シャーも息を整えているが、ネリュームの方が先に整え終わって身を起こす。

「そっかなー。俺はどっちかというと外見通りじゃん」

 そっけないシャーにネリュームはにっこり笑いかけるが、ふいに眉根を寄せて表情を曇らせる。

「んでも、困ったなあ。こんなに時間かかると思ってなかったから、ちょっと予定外」

「何が予定外だよ? お前みたいなやつにこの後の予定なんざあ、ねえんだろ?」

「いやあ、結構色々あってさあ。……下手したら、もうそろそろ来ちゃう……」

「誰がだ?」

「誰って、それは、ホラ、あんまし教えられないっていうかさー」

 ネリュームは相変わらず軽い口調でそう言いつつも、困った顔をする。

「俺、こう見えても親切のつもりなんだ。最大公約数で幸せな人が増えるようにって思ってるだけなんだけど……」

 と考えた後、

「ま、ってことで、早いこと死んでくれない? いい加減困るんだよねっ!」

 いっそ軽薄な口調でそういいつつ、ネリュームは、だんと石畳の道を蹴り上げる。相変わらず踏み込みが早く、一瞬でシャーの眼前に白銀の光が迫ってくる。

「テメエの事情なんぞ、知ったことかよ!」

 シャーは斜めに剣を切り上げてそれを一蹴し、反撃に出る。袈裟懸けに鋭く切り込むと、ネリュームの曲刀がそれを弾く。が、シャーも一撃では済まさない。そのまま続けて攻撃に入る。

「あーあー、せっかくアンタの”タメ”を思っていってあげてるのになあ」

「誰の為だよ、行くぞッ!」

 一瞬ネリュームがバランスを崩したスキを狙って、シャーは振りぬいた刀をそのまま返して切り上げる。が、すんでのところでネリュームは素早く返し、胴を狙うそれを軽く弾いた。

(やっぱり、コイツ、口は軽いがそんなに甘い相手じゃねえな)

 シャーは、一度距離を取りながらそんな風に認める。

 しかし、何故相手は勝負を急いでいるのだろう。

 この男の性格からすると、戦いを楽しんでいるようで、別に急ぐ理由などなさそうなのに。誰かがやってきてはいけないので、などと彼はいうけれど、一体だれが来るとでも?

「それじゃ、今度は俺から! 今度で終わりにするからさっ!」

 ネリュームがふいにそう言って笑った。そのまま飛び込んでくるのだとシャーは確信し、攻撃を受ける体勢を作ろうとしたが、そのとき。

 ふっと、何か別の冷たい気配のようなものを感じて、シャーはぎくりとして動きを止めた。

 それはネリュームも同じだったらしく、彼の方もぴたりと動きを止めている。

 そして、ちょうどシャーが向いている先、彼はわざわざ振り返り、それを確認していた。

 冷たい、しかし、獣のように重く鋭く空間を支配する殺気のようなもの。しかし、その気配は、シャーには覚えがある。

「……しまった。時間切れちゃったじゃん」

 ネリュームがぽつりとつぶやく。

「いけませんね、ネロ。単独行動はいけないといっていたはずですが」

 闇の中に複数人の人影をみとめ、シャーはそちらに視線を移す。

 覆面を被った黒ずくめの男たちのほかに、少女らしい背の低い華奢な影が一つ。そして、その中央にすらりとした女性的なたたずまいの人影が一つ。

 その傍に背の高い男が一人いるらしいが、覆面をかぶっていて、こちらも顔が見えない。

 月明りで中央にいる中性的な人物の容貌が見えてくる。男なのか女なのか、一瞥してはっきりしない人物だが、声色はどちらかというと男だろう。貴族然とした人物だが、落ち着きが妙に不気味だ。

「本当だわ。せっかくリリエス様が、ちゃんと見世物として準備したっていうのに、それをぶち壊して、どういうつもり?」

 少女がネリュームを責めるようにいうが、リリエスと呼ばれた男はくすりと笑って彼女を止める。

「ニア、それぐらいにしておきなさい。お客さんも来ていますし。それに、ネロがこういうことをしでかすのは、予想済みでしたから」

「あわわ。すみません、リリエス様」

 やや怯えつつも、大して反省していない様子でネリュームが答える。ネリュームは、まだシャーがいるのに曲刀を鞘におさめてひょこんと頭を下げた。

「いや、そのっ、でも、どうせだったら、三白眼のヤツは俺がつぶしといたほうがはやいっかなーって……」

 ネリュームが言い訳をすると、アーコニアがきっと彼を睨みつけた。

「本当に、ネロって余計なことばかりするんだものね」

 ネリュームは、うるさいなーと小声で呟きつつ、彼らの方に歩いていく。シャーがいることを忘れたかのような態度で、いっそのこと拍子抜けしてしまいそうだ。

 一人、彼らと対峙する形になったところで、リリエスはシャーににこやかに笑いかけた。

「お待たせしました。あなた、シャー=ルギィズさんですよね。ふふふ、存じておりましたよ。私は、リリエス=フォミカと申しまして、ネリュームは私の配下なのです」

「リリエス? ふうん、随分ご挨拶だな。大体、なんでオレの名前を知ってる?」

 シャーは警戒を怠らない。ネリュームのような強力な部下をやすやすと御しているこの男、見かけに騙されてはいけない。

「何故とは? それは存じ上げておりますとも。私共はそもそもは、あなたが持っているかもしれないという、とある持ち物に興味がございましてね……」

「持ち物?」

 と言われてシャーには、心当たりがあった。

「雇い主のお名前は言えませんが、そもそもは、その持ち物をいただきたいと思って、各所協力のもと、あなたと接触しようと思っていたのですが……。うふふ、先ほども失敗してどうしようかと思っていたのです。想像以上に素直な方ではないようで……」

(エルリークの指輪か? 総司令の指輪を、オレが持ってるって踏んでる? ……ということは、女狐の配下の連中と組んでいるのはコイツら?)

 シャーは考えを巡らせながら、敢えて余裕の表情を浮かべた。

「持ち物ね。こんな浮浪の生活してるオレに、ろくな持ち物なんかないんじゃねえ? 人違いも甚だしいってもんさあ」

 シャーは、ふと思い立って付け加える。

「さては、メイシア=ローゼマリーをたきつけてるの、あんただね?」

「ふふふ、さて、どうでしょう。あなたを付け狙う傭兵なんて沢山いますよ。”エーリッヒ”だってそうだったじゃないですか?」

 シャーは、いよいよ警戒しながらリリエスを睨みつけた。

「ジャッキールのこと、知ってるんだな? 今、どこにいるんだ!」

 リリエス=フォミカは、鬱蒼と微笑む。

「うふふ、微笑ましいですねえ。あの狂気の男のことをこんなに心配してくれる、かわいい弟分がいるなんて……。本来の依頼の目的はあなただったのですが、その過程でエーリッヒの存在を知れたのは僥倖ぎょうこうでした。まさか、彼が自分と敵対する立場のはずの男と、そんなに親しくしているとは思いませんでしたが……」

 とリリエスはくすりと口元を覆い、きらりとシャーを睨みつけた。

「けれど、困ったものですね。彼は血塗れの戦場で狂って身を滅ぼす様がいかにも美しい生き物だというのに、あなたは彼を堕落させてしまう」

「堕落? オレが?」

「街で穏やかに過ごすなど、彼にとってただの堕落です。彼は、戦場でこそ輝く生き物なのですよ」

「何がだよ。こういう生活を決めたのはダンナ本人だぜ!」

 不気味に輝く瞳で睨みつけられ、シャーは妙に気おされつつも言い返す。

「そりゃ、ここにいると気が抜けすぎてる気がすることもあったけどさ。でも、ジャッキールだって破滅したいわけじゃないんだ! テメエが勝手にダンナの価値なんて決めるなよ!」

「価値? ふふふ、あなたのような男が、彼にどれほどの価値を見出せるとでもいうのです? けれど、まあ、ちょうど良い。本当は、メイシア=ローゼマリーと彼を先に会わせようと思ったのですが……」

 ちらりとリリエスは目配せをする。後ろにいる配下の者が、隣に立っていた背の高い男の覆面を外す。突然に月明りの下にさらされて、その男はかすかに呻いて、一瞬びくりとしたが、身じろぎしただけでそれ以上反応しない。

「ネロが妨害したのも何かの縁。先にあなたとの方がよさそうです。もっとも、お話はできないでしょうけれどね」

 月明りの下にさらされた蒼白な顔の男は、いつもよりさらに生気を失って見える。端正な顔をしているだけに、今は人形のようですらあった。しかし、その正体はすぐにわかる。

「ジャッキール……!」

 と、シャーは思わず呼びかけたが、彼の様子が尋常でないのもすぐに悟っていた。目の焦点が合っていないし、シャーの声に反応する様子もない。

「お前ッ、一体ダンナに何したんだ!」

「うふふ、すこーしお薬を試させてもらっただけですよ。舌の下にねっとりと、私のとっておきのお薬を……、だから即効性があるので、もうそろそろ効いてくる筈なんですけれどねえ……、ちょっと刺激が必要でしょうか?」

「リリエス様」

 そばにいたアーコニアが、後ろのものから手渡された火のついた松明をリリエスに渡す。

 ばっとそれを掲げると、それに照らされたジャッキールが怯えたように反応する。

「エーリッヒ、彼、顔見知りでしょう?」

 炎を突きつけられると、ジャッキールは顔を覆うようにしながらその光を避ける。はぁはぁと獣のような荒い息が聞こえる。

 松明を持った手とは別の手で、リリエスは彼の頭をつかみ、ぐいとシャーの方に向けた。

「まあ、今のあなたには理解できないでしょうけれど……。いつもこうなると、相手が誰だかわからなくなりますものねぇ」

 獣のように火に怯え、ジャッキールは光から顔をそむける。

「いいですか? 暴れたいでしょう? 彼と、遊んでもらいなさい。エーリッヒ」

「ッ……」

 ジャッキールは剣を提げているようにみえたが、刀身だけ抜き取られていたらしく、配下が彼に剣を握らせる。それをぐっと彼が握ったのが見えた。

 その瞬間、ジャッキールの目が唐突に見開き、妖しく光った。

 シャーはぞっとして、思わず後ずさった。

「……ちょ、ちょっと、待て……よ……」

 この目は、だめだ。ジャッキールがこの目をしている時は、触れてはいけない。シャーはそう経験上知っていた。

「ま、待て……! おい、ジャッキール! 何を……!」

 抜き身の剣を握ったまま、ジャッキールが彼を睨みつける。シャーの握っている光る刀身に反応するようにして、ふらりと一歩歩み寄る。慌てて刀を隠そうとしたが、すでに遅い。

「オ、オレだよ、シャーだよ! ダンナ……! わかんねえのか!」

 そう呼びかけながら、わかるはずがないのもわかっていた。こうなってしまうと、相手の見分けがつかなくなることがある。今まででもそうだった。しかし、そのときでも会話ぐらいはできたのだ。今は、ただ獣のように自分を見ているだけ。

 絶対に見境がつくはずもない。

 月光に照らされて、ジャッキールの目が爛々と燃え上がるように輝く。そして、その瞳に映っているのはほかならぬシャー本人だ。

 そんな様子を見やりながら、ひそやかにネリュームがため息をつく。

「だから言ったのになあ。大人しく殺されておいた方が、みんな幸せだったんだけどなあー」

 頭上に輝く満月に照らされて、すでに理性を失ったジャッキールの狂気は常に増して殺意という形で増幅されている。

「エーリッヒは、満月の夜が苦手ですから……」

 リリエス=フォミカは他人事のように微笑んだ。

「せいぜいお気をつけなさった方がよろしいですよ」

 ジャッキールの殺気が支配する、冷たく熱く、そして重い月光の世界に、リリエス=フォミカは今から始まるだろう戦闘に想いを馳せ、満足げに陶酔した表情を浮かべた。

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