15.月下の邂逅

 彼と過ごした午後は、珈琲と甘いお菓子の香りがした。


 文字を教えてもらっていた時に、あまりに眠くて彼が目を離したすきに眠ってしまったことがあった。

「ローゼ、こんなところで寝てはいかんぞ」

 遠くで彼の声が聞こえてきた。眠気覚ましにと珈琲と茶菓子を用意してきたところだったらしく、隣で珈琲の豊潤な香りがした。

「んー、たいちょー、今日は勉強、もうむりー」

 寝ぼけながらそう答えると、彼が困っている気配がした。

「仕方がないな。昨日は夜更かししていたのだろう」

 彼はため息をついて、起きる気配のない彼女をそっと抱きかかえて寝台に連れて行ってくれた。

(なんだか、お姫様になったみたいだなあ!)

 彼女はやや狸寝入りをしながら、ゆらゆらと揺られていた。甘い香りが室内に立ち込めていて、こんな穏やかな時間は本当に幸せだと、彼女は思っていた。

 昨晩、確かに彼の言う通り、彼女は夜更かしをしたのだ。

 けれど、それは、彼のせいだ。彼は昨日、夜遅くまで帰ってこなかった。彼女はそれをずっと待っていたので、夜更かししてしまった。

「隊長のせいだもん。夜更かししたのは」

 ぼんやりとそういいかえすと、

「そうだな。すまなかった」

 彼はまじめにそう謝ってくる。そんな生真面目さが、メイシアには好ましかった。

 けれど、そうそうのんきな状態ではないのは、彼女もなんとなくわかっていた。彼が夜遅くまで帰ってこなかったのも、会議に参加しているからで、それは戦況が良くないせいだ。今日は特に何もないということで、彼は昼には帰ってきたけれど。

 そんな彼自体が疲れているのも知っていた。そのうえで、自分に付き合ってくれているということも知っていた。それはわがままだとはわかっていたけれど、彼の好意に甘えてしまっていた。

(今日は隊長がいてくれるから、とても安心)

 それはささやかな幸せだった。奴隷娘だった彼女にとって、たとえ一時のものだったとしても浸りたい幸せな夢だ。

 戦況が悪くなれば、前線で戦っている彼だってどうなるかわからない。彼はとても強かったけれど。

 昨日は夜遅くまで心配していた。そんなこともあってか、その日は昼だというのにぐっすり寝てしまった。



「エーリッヒ、どうするつもりだ?」



 不意にザハークの声が聞こえて、彼女は目を覚ました。

 ザハークがやってくることは珍しいことではない。彼はあまり人間関係を築くのが得意でないから、部屋を訪れてくれるのはザハークぐらいなものだ。彼は彼女にも親切にしてくれた。

 それなもので、彼女は眠い目をこすりつつ起き上がった。ザハークと話をするのも、楽しいからだ。

 しかし、その日は部屋の前でふと足を止めてしまった。自分のことを話している様子だったが、部屋の中の空気が、不穏に重いようだった。

「娘の奉公先が見つからないのか?」

 ザハークの声が重かった。

「ああ。今朝、連絡を受けたのだが、どうもうまくいかなくてな……」

 そっと部屋の中を覗き込む。真剣に話をしている彼らは珍しく彼女の気配に気づかなかった。

「家事手伝いなどの口はないことはないのだが、彼女は料理や裁縫が得意なわけではないから、どうしても下働きとなるのだが……。ほとんど奴隷と変わらなくてな。条件がどうしても合わん」

 彼は首を振った。

「しかし、一度、ローゼは奉公先から帰ってきてしまったことがあるからな。彼女に合った仕事でないといかんのだが……」

「それもそうだな」

 と、ザハークはため息をついた。

「しかし、これ以上戦況が悪くなると、あの娘を連れ歩くのはこれまで以上に大変だ」

「わかっている」

 彼は少しいら立ったように言った。

「だが、なんの保証もなくあの娘を放り出すことはできない。元手を渡したところで、まだ子供だ。解放奴隷とは名ばかりで、結局どうなるか」

「それもそうだ」

 そして、少し考えた後、ザハークは言った。

「エーリッヒ。こうなったら、あの娘に剣術を教えてやれ」

「何?」

 彼が顔を上げてザハークをにらみつける。

「あの娘がそう望んでいたことだし、あの娘には合っているように思う」

「何を!」

 彼はあからさまに嫌悪に顔を歪めた。

「あの娘にそんなことはさせられん! 剣術で身を立てたところで、カタギの仕事など回ってこないだろう!」

 彼はやや興奮気味になっていた。

「お前も言っていたではないか! あの娘を俺たちと同じような道に引き込んではならんと」

「だが、そうでなければ、実際問題、身を売るぐらいしかないのだろう?」

 ザハークに静かに言い返され、彼はぐっと詰まった。

「どうせそのように言われたのだろう? それぐらいしかないと。あの年齢の娘が、たった一人で放り出されて、できる商売などたかが知れている」

「それは……」

 そう指摘されて、彼は苦しげな表情を見せていた。

「それだけはさせられん。一度引き上げておいて、また沈めるような真似は……」

 彼は深くため息をついた。

「一度助けたのだから、俺には彼女の行く先まで面倒を見る責任がある」

 しばらく無言におちたあと、彼はつづけた。

「護身術だろうが、多少の覚えがあれば、他のことができなくても雇い口はある。それはわかる」

 しかし、と彼はため息をついた。

「俺は、……ローゼに人を殺して欲しくない」

 彼は顔を伏せて呟いた。

「俺は、血を流すことでしか何かを守ることができない。自分だろうが他人だろうが、結局、血を流すことしかできないのだ。そんな俺のような人間の教える剣術など、たかが知れている」

「だが、彼女がそう望んでいる」

 ザハークがそう畳みかけると、彼は蒼白な顔を引きつらせてうつむいた。

「わかってはいるのだ」

 彼はぽつりと吐き出すようにつぶやいた。

「……こんな稼業をしていて、長生きできるはずもない。特にお前と違って俺はな。いつ死ぬかどうかもわからんのに、このままでいいはずはない。早く、彼女が一人で生きていけるように道を示してあげなければならない」

 ただ、と彼は言った。

「俺も、ローゼが可愛いのだ」

 ジャッキールは苦しげな声で言った。

「彼女と一緒に過ごす日はとても幸せだった……」


 その日は気づかれないようにそっと部屋に戻った。

 狸寝入りしたつもりだったのに、涙が止まらなくて気づかれないようにひっそりと泣いていた。

 涙はしょっぱくて苦かった。部屋に満ちた甘い香りでも、消すことができないほどに。

 本当は知っていた、彼がどうして剣を教えてくれたのか。

 何故彼が疲れた顔をして、「剣術を教えてやろう」といったのか。

 ――けれど、気づかないふりをした。

 あれは、夢だと思うことにして、彼女は忘れたふりをした。

 それに気づいたことを知られたら、多分、隊長は壊れてしまうし、それに彼女も堪えられなかった。



 彼と過ごした午後は、甘い香りに満ちていた。けれど、本当は知っていたのだ。

 それは、現実の悲しみを隠すための甘さなのだと。

 みんな、その苦みを隠したくて、嘘をついていた。



 *

 

 人差し指と親指でつまんだ、食べかけのお菓子をふと見やって、メイシアはため息をついた。

 甘い香りが、なんとなく昔のことを思い出させる。

「隊長は、あたしのこと、すぐにわかるかな?」

 そういってぽいと口の中にお菓子を放り込む。

 先ほど買ってきた新しい服に着替えていたメイシアは、お菓子を食べつつ装飾品を選んでいると、ふと扉をたたかれた。

「はーい、誰?」

 来るとすれば宿の主か、アーコニアぐらいか。どちらにしろ、リリエス=フォミカの関係者になるが、ほかにも得たいのしれないならず者が泊まり込んでいるのを知っているので、メイシアも多少は警戒している。

「こんばんは。リリエス様のところのもんだけど、ちょっと話いいかな?」

 と扉の向こうから聞こえてきたのは男の声だ。

 さすがに能天気なメイシアでも、夜にいきなり男が部屋に訪れてくると多少は警戒する。

「リリエスのところの人が何の用?」

「ちょっと、聞きたいことがあってさあ。ニアにちょっと話きいてて……」

「ニアちゃんの知り合い?」

「そーだよ。まあ、知り合いっていうか、仕事上では相棒みたいなとこもあるかな?」

 アーコニアとは同年代なこともあってか、多少気心が知れる。

 そっと扉を開けてみると、そこには背の高い青年が突っ立っていた。年齢は二十歳前後といった感じだが、それにしても表情があどけない。

 日焼けした褐色の肌だが、髪の毛は若いのに白っぽく、みつあみにまとめておろしている。目が大きくて童顔だが、顎には白いひげをたくわえていた。意外と男前だが、何となく、軽い感じの青年だ。どことなく、アーコニアとは似通った雰囲気がある。兄妹というほど似てもいないが、同じ民族なのかもしれない。

 彼はメイシアを見ると、無邪気に笑いかけてきた。

「あ、そういや、俺、ちゃんと自己紹介してなかったよな。実は一回会ってるんだけどー」

「あ、覆面の人だったりした?」

「あっ、そーそー。リリエス様の護衛してるときは、そういうかっこのが多いからさー。俺はネリュームっていうんだけどさー。みんなからはネロって呼ばれてるから、そう呼んでもいいよ」

「ネロね。あたしは、知ってると思うけれどメイシアよ」

「うん、知ってるよ」

 意外に性格は悪くなさそうだ。リリエスのところの部下は、どちらかというとツンと澄ましたものが多いが、彼は割と愛想が良いのでなんとなく親しみやすく、警戒心を解きやすい。

 とはいえ、あのリリエスの部下なので、メイシアもさすがに全面的に信用したわけではないのだが。

「けれど一体何の用? 聞きたいことって何?」

「いやさ、ニアにきいてたことなんだけどさ。あ、今時間あるかな?」

 と言いかけたとき、ふと廊下の方が騒がしくなった。バタバタと何人かの男たちが走っていく。メイシアはきょとんとした。

「どうしたのかしら?」

「ありゃあー、失敗したかな。招待すんの?」

「招待?」

 メイシアに聞き返されて、ネリュームは、思わず慌てて首を振る。

「んー、リリエス様んトコロの話。ちょっと招待したい客がいるらしいんだけど、連れてこられなかったのかなあ?」

「リリエスのことなら、あたしにはあんまり関係ないわね」

 メイシアはため息をついて、改めて机の上に出していた装飾品を見やった。

「実はあたし、今日お約束があるの。それで、今は準備中だから、あんまりゆっくりお話しできないのよ」

「約束?」

「そう」

 メイシアは装飾品をながめる。

 旅の身のメイシアは、それほど持ち物をたくさん持っているわけではない。本当に欲しくて買った髪飾りや首飾りなども入っているが、その中にひときわ古ぼけた壊れた髪飾りが混じっていた。そして、それはメイシアが一番大切に持っているものだ。貝殻がついていたが、ほとんど取れてしまっている。ただ、残った貝殻はまだキラキラしていた。

 メイシアはそれを見つけて手に取った。

「これをくれた人と会うんだけど、さすがにこんなに壊れちゃったらつけられないなあ」

「そっかそっか、そういや、会う約束あるんだっけ……。えっと……」

 ちょっと気まずい顔をしつつ、ネリュームはきょとんとする彼女に向き直った。

「えっと、俺、実はその人のことを聞きたいなあとおもって、やってきたんだけどさ」

「その人? 隊長のこと?」

 メイシアがきょとんとして小首をかしげると、ネリュームは深々とうなずいてにこにこ笑った。

「そうそう、ちょっと色々聞きたくってさあ」

 ネリュームはにっと笑った。

「その人、すっげーカッコイイってきいてさ?」

「それは間違いないわ。隊長はすごくかっこいいのよ」

「やっぱり? へへ、俺、実は興味あるんだよね? よかったら、その人の話聞かせてくれないかな?」

 なんだかわからないが、ちょっと変わったところがある。ただ、アーコニアやリリエスよりは、裏がなさそうだし、ジャッキールのことを褒められてメイシアだって悪い気はしない。

「うーんそうねえ」

 まだ待ち時間まではちょっとある。

「それじゃあ」

 さすがにジャッキールだって、今はまだ待ちあう場所にいないだろう。少しぐらい、話につきあってあげるか、とメイシアは思ったものだった。



 *



 月がのぼり、夜道は明るく照らされる。

 シャーは再び河岸の方への道を歩いていた。

「まったく、何やってんだよ! あのオッサンは!」

 シャーは、苛立ちながら夜道を小走りで急いでいた。

 アイードと一緒に酒場に戻った時、リーフィは入り口でシャーを待っていた。

 メイシア=ローゼマリーを待っているジャッキールと会ったというリーフィだったが、何故か浮かぬ顔をしていた。

「ジャッキールさんがまだ来ないの」

 と彼女は言ったのだ。

 確かに、それはおかしなことだった。あの男の性格を考えれば、約束した以上は必ず酒場にやってくる。

 シャーとアイードが酒場についたのは、ちょっとした妨害もあったことなので、すでに月が昇り始めたころだった。ジャッキールは日没までは待つだろうが、それ以降は待つことはないだろう。となると、寄り道しなければシャー達より早く酒場にいるはずだ。あまりにも時間がかかりすぎている。

 念のため、シャーも先程ジャッキールがいたという女の子たちの多い商店街の方を一回りしたが、すでに人気はなく、当然、ジャッキールがいる気配もなかった。

「っていうからには、そのメイシアって子の待ってるトコに行くのが一番早いんだろうけどさ」

 とシャーはブツクサ言いつつ、なんとなく焦りを覚えてもいた。

 リーフィは、その後、酒場でメイシアらしい娘を見たと言っている。

 シャーがあった彼女の特徴とあった同じ年頃の娘なので、その可能性は高そうだった。メイシア自体はそれほど目立った特徴のある娘ではないのだが、あの年ごろで一人で出歩いている旅行者風の姿をしていて、帯剣している娘はさほど多くはない。

「彼女よりも、もっと気になるのは彼女を呼びに来た女の子の方なの。なんだか、嫌な予感がするの……」

 リーフィはそういって、壊れた髪飾りを差し出した。ジャッキールが同じようなものを持っているのを見たというのだ。

「こんなものはありふれているわ。偶然ならいいのだけどね。ただ、シャー、気をつけた方がいいわ」

 リーフィの言葉を思い出しつつ、彼女から預かった例の壊れた髪飾りを取り出してみる。リーフィが布袋で包んでくれているが、そこから出してみると月明りでかすかにきらめいた。

 ジャッキールの趣味はよく知らないが、確かにあの男が女の子に買い求めるならこのようなものかもしれないな、とは思わせた。派手で洒落たものではなくて、むしろ素朴なものだったが、光を当てればきらめいて清楚な綺麗さがある。彼が贈り物として買い求めたのなら、これが壊れて手元にあるのは由々しい事態だった。

 メイシア=ローゼマリーは、帰りに運河に沿った並木道の店の場所を聞いたらしい。ということは、そのあたりで待ち合わせをしているとか、宿が近いとか、なんらかの繋がりがあるということだ。それを聞いたシャーは急いで様子を見に行くことにした。

 リーフィはザハークが店に来てからの方が良いのではないかといったが、なんとなくシャーにも引っかかるところがあった。これは早くいかなければ危ないのではないのか、という気がした。

「大丈夫。ちょっと様子見に行くだけだし、オレ一人で行ってくるって」

「そう。でも心配だわ」

「あ、だったら、俺が一緒に行きましょうか? またあいつらがいると危ないですし」

 アイードがそう声をかけてきたが、シャーは思わず渋い顔になった。

「アンタがいるとかえって心配だよ。っていうか、そんなに時間あるなら、なんか役に立つ情報手に入れるとか、援軍読んでくるとか、リーフィちゃん守るとかなんとかしてくれない? ”店長さん”」

 アイードは少しむっとした様子になったが、特に反論しない。アイードとリーフィはどういう経緯でか、元から知人らしいのだが、彼女が果たして彼がアイード=ファザナー将軍だと知っているかどうかはよくわからない。アイードは自分ほど真剣には正体を隠しているわけでもなさそうだが、アイードはため息をついて肩をすくめた。

「それもそうですねー。俺はしがない喫茶店店長なんで」

 そういうアイードを置いて、シャーはここまで来たわけだが、幸いというかなんというか、ここに来るまでには先程の刺客にもう一度襲われることはなかった。

(むしろカワウソ兄さんがいたから、襲われたんじゃね……)

 そんなことを思いつつ、角を曲がろうとしたとき、ふいに人気のないはずの道の前方に誰かがいた。

「っと!」

 ぶつかりそうになって慌ててかわす。

「何者だ!」

 前にいたのは二人組。しかし、その一人が声を荒げて剣を抜こうとしたのがわかって、シャーは思わず後ずさる。しかし、

「マクシムス、よしなさい」

 ふと穏やかな声が後ろにいる男を制した。男はまだシャーの方を睨んでいるようだったが、主人にそう言われて剣を収める。

「これは失礼をいたしました。先を急いでいたものですから、気が付かなかったのです。どうかご容赦ください」

 主人らしき男は、そういって物腰柔らかく頭を下げる。

「あ、こちらこそすまなかったね。オレも少し急いでいて、不注意だったんだ……」

 月明りで明るいとはいえ、容貌まで簡単にわかるほどではないが、どうやら相手はきちんとした上等な衣服をまとった中年の男のようだった。それなりの身分がある人物らしい。そんな人物が伴を一人だけ連れて夜歩きとはなんだろう。

 気にはなったが、シャーも今は急いでいるので、とりあえず会釈して先を進む。しかし、すれ違った後、ふと、男が声をかけてきた。

「お待ちください。何か落としましたよ」

「え?」

 振り返ると、男はしゃがみこんで落としたものを拾ってくれた。従者らしい青年がともしびを彼の足元に掲げた。それで男の容貌がシャーにもわかる。やはり、貴族然とした人物だ。

 男は布袋から出た髪飾りを手に掴んで持ち上げる。ともしびに貝殻がキラキラと光った。

「あ、ああ、すみません」

 シャーはそう言って受け取ろうとしたが、ふと男が言った。

「貝殻の髪飾りですか……」

 彼はふいに目を細めた。

「私の知人もかつて、このようなものをもっていましたね。妹にやるつもりで持っていたのだと言っておりましたが……」

 彼は顔を上げてシャーを見上げ、男は優しく穏やかな笑みを浮かべた。

「きっと大切なものでしょう。今度は落とさないようにお気をつけてお持ちください」

「あ、ああ、ありがとうございます……」

 思わず敬語になるシャーに、男は、では、といって軽く会釈をする。従者がちらりとこちらを見たが、すでに敵意はなく、そのまま二人は角を曲がって去っていった。

(どっかの貴族みたいだけど……。誰だ?)

 自分みたいな浮浪者同然の人間にも、偉ぶらないであいさつができる。貴族の中でもちょっと特殊で、多分親切な人物だ。シャーは貴族、特に古参の貴族とは、ほとんど顔を合わせていない。向こうも知らないがこちらも知らないので、彼が誰であるか突き止めることはできそうにもなかったが。

「あ、いけね。オレもいそいでたんだった!」

 思わず先程の男について考えそうになっていたが、シャーは慌てて先をいそぐことにした。 



 繁華街からも離れた川沿いの寂しい路地に、一台の馬車が泊っていた。

 明るすぎる月の光を厭うように、それは陰になる場所に潜んでいた。そして、そこに素早く乗り込んだ二人の男も、また月の光を厭う様子だった。

「参られましたか」

「お待ちいただいたようで恐縮です。ダインバル卿」

 若い従者を引き連れた小太りの男は、そういって恭しく中で待っていた者に挨拶をした。

「本日は良い月夜ですが、少し私には明るすぎましてね」

「まったくです。こんなところで待たされるとは思いもよりませんでしたよ」

 相手の男も同じような年齢の中年。二人とも上等な衣服を身にまとっており、一目で高貴な身分なのだと知れる。

「ははは、それは申し訳ございませんでしたね、ダインバル卿。私はこれでもお尋ね者ですので、外出には時間がかかるのですよ。特にこんな明るい月の夜は、いつにもまして暗い夜道を選ばなければなりません」

「そういえばそうでしたな、ラゲイラ殿」

 名を呼ばれて、彼、ジェイブ=ラゲイラは、柔和に笑う。

「しかし、何も話をするなら、もう少しちゃんとした場所でも」

「貴方のお持ちのお店ですか? 失礼ですが、私はどうもああいう若い女性のいる華やかなお店は苦手でしてね。それに、貴方のお店があるのは、あのカタスレニアという繁華街でしょう?」

 やや不満そうな彼に、ラゲイラは申し訳なさそうにいいつつも、

「あの場所は奇妙なところです。場末の繁華街のようでいながら、その実、内乱後に貴族たちが面白半分に出資してできた店がところどころにあるという」

「しかし、誰が出資しているのかは、ほとんどわからないことが多い。私の店だとは気づかれないのですがな」

「ははは、実はあまりあそこには近づきたくない事情がありましてね。それに、実はあのあたりにラダーナ将軍の出資している店もあるのではという噂を、小耳にはさみましたもので……」

「まさか」

 彼はあざ笑った。

「あの朴念仁に限って、そんなはずもないのではないのでは?」

「さあ、噂は噂です。根も葉もないこともありますが、逆もまた然り。あの辺りは渾沌としていますから……確証はありませんがね」

 薄笑いを浮かべつつ、ラゲイラは告げる。

「それよりも、もう一つの事情の方が深刻でしてね。少し苦手な男があの辺りを根城にしているという噂を聞いておりまして……。まあ、できれば近づきたくないのですよ、今は特に」

 ダインバルはため息をついて、仕方がないという様子になる。

「それはそうと、今日貴方をお呼びしたのは、計画の打ち合わせのほかにも、少し尋ねたいことがあったからでしてな」

 ダインバルがそういうと、ラゲイラは小首をかしげた。

「はて、どのようなことでしょう?」

「なにやら、河岸の方が騒がしいようでしてな。アイード=ファザナー将軍の手のものが何かを調査しているとの話を聞いています」

「ああ、そのことでしたか。確かに、アーヴェの海賊に協力はしてもらっていましたよ。陸路よりは警戒が薄いので、人員の運び込みについてはね。しかし、すでに人員の確保は終わっています。彼らは別のものを運んできて、ファザナー将軍に目をつけられたのでしょう? ファザナー将軍は海賊には手を焼いていて、海賊達かれらとは因縁がありますから」

「運んできたものが問題なのです」

 ダインバル卿はやや声を高める。

「なにやら東方の怪しい者たちを呼び寄せているそうではないですか。ラゲイラ殿は、もとより東方に詳しいと聞いているが、もしや彼らは……」

「これはこれは人聞きが悪い」

 ラゲイラは苦笑する。

「ダインバル様がおっしゃっている輩についてはもちろん存じています。その筋では有名な輩ですからね。しかし、彼らを雇ったのは私ではない。私が雇うには、少し危険が高すぎます。何をしでかすかわからない者たちですから。……どこかのもの好きが横やりを入れたのでは?」

「それならよいのですが……。それに、彼らがとある男を捜しているとも聞いていましてな」

「ああ、何やらその話は聞いていますよ。浮浪者同然の厄介な男でしょう? 今は逆に私は彼に手を触れたくないのです、厄介ですから」

「いえ」

 とダインバルは、ふいに意味ありげに視線をやる。

「彼らが捜しているもう一人の男が、私には少し気になるのですよ。貴方もご存じのはずの男です」

「もう一人? はて? どなたでしょう。まるで見当がつきませぬが」

 ラゲイラが怪訝そうに眉根をひそめると、ダインバルは続けていった。

「彼らが捜しているのは、異国出身の傭兵でしてな。長身痩躯の美男子だが薄気味悪い男なのだと」

 ダインバルは明らかに何らかの意図を含めて彼をちらりと見やる。

「そして、先の暗殺事件に関わっていたという噂を聞きましてな」

 ラゲイラはふと冷たく笑い、組んでいた指を組み替える。

「そういえば、ダインバル様も”彼”とは面識がございましたかな? かつて、彼には様々なところに護衛として同行してもらっていましたので……。彼が王都に戻ってきたらしいことは、なんとなくは聞き及んでおります。しかし、今回の件とはまるで関係はございません」

「しかし、ラゲイラ卿は、その男に裏切られたのでしょう?」

 畳みかけるようにダインバルが尋ねる。

「あの輩がその男を狙っているのなら、貴方の報復かと思っておりましたよ」

「ふ」

 ラゲイラは鼻で笑って、顔を上げてダインバルを見る。静かに、しかしその目はある種の威圧をたたえていた。

「あの男は、ただの傭兵。私が払った金銭に対しての働きは十分いただきました。それだけのこと。第一、一介の傭兵の彼の行動に恨みを抱いて刺客を派遣するほど、私には余裕はありませんよ。そんなことより……」

 と、ラゲイラは柔和な表情を装いつつ、かすかに口の端を歪めた。

「ダインバル様は、何故、どこからその情報をお聞きになったのでしょうか。てっきり、かの輩は、とある物好きの”ご婦人”の関係者にやとわれているのではと思っておりましたが? よもや、ダインバル卿はあの方と何かお話でもなされているのですか?」

 そう突っ込まれて、ダインバルの表情がかすかに変わる。ラゲイラは冷たい表情でそれを見やったが、ごまかすように笑った。

「はは、冗談ですよ」

 ラゲイラは、すでに元の表情に戻っていた。

「しかし、ダインバル様がそんなにも情報通とは、この私も存じておりませんでした。今後も何か変わった情報をご存じなら、是非ご教授いただきたいものです」

 ラゲイラはそれでその話を打ち切った。

「それでは、”計画”についてお話をいたしましょう。夜が更けるのは早い。夜の明けるまでに、姿を消さねばなりませんからね」

 

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