7.業深きエーリッヒ
「ふぇっくしょん!」
ジャッキールの部屋は非常に綺麗だというのに、なぜかシャーは二、三回くしゃみをしてしまったものだった。香辛料を茶に振りまいたわけでもないのに、一体なんだ。
「なんなんだい、もう! 誰かオレの噂話でもしてるのかなー」
シャーは何度目かのくしゃみをして、鼻の下をこする。
「エーリッヒの部屋なら埃もないのにな」
「えへへー、かわいい女の子にされてる噂なのかね。それなら大歓迎だけどー」
シャーはそういってお茶を飲んだ。
目の前にはいつの間にか焼き菓子が増えていて、温かい二杯目か三杯目のお茶が
(
シャーは、無邪気にもぐもぐ甘い菓子を食べながらお茶を飲んでくつろぐザハークを見上げた。彼の買ってきた焼き菓子にはいろいろな種類があり、小麦を固めて焼いたクッキーのようなもの、パンに近いもの、木の実をつぶして焼いたものなどがあった。どれも甘みが強いが、なかなかうまい。ただボロボロと崩れやすいのだが、膝の上に落ちたそれをザハークは容赦なく床の上に払い落とす。シャーとしてはその辺が非常に気になる。
「うむ、この菓子、なかなか美味だが随分崩れやすいな。俺の部屋で食べてなくてよかった。エーリッヒの部屋ならエーリッヒが綺麗に掃除するだろうしな」
「えー、そんなこと言ってていいの蛇王さん。ダンナ、めっちゃ怒りそうだよ」
あまりにも無責任な言葉にシャーがそういうと、
「最初はしまったなーとは思ったが、まあ、どうせアイツ、ひとかけら落としても烈火のごとく怒るんだろうし、どうせ怒られるなら、一つもたくさんも一緒だろうと思って開き直ることにした」
そんなことをいけしゃあしゃあというザハークである。
「それもそうだけどさ」
ついでに巻き込まれそうなシャーは、それを思うとちょっとげんなりしてしまうのだ。ジャッキールの説教を聞かされるのはうんざりだ。
「で、さっきの話に戻るんだけどさ」
と、シャーは話を戻した。
「ダンナとは、最初出会った後も、何回か戦ったんでしょ?」
そうきかれて、ザハークは、おうとうなずいた。
「もちろんだ。だが、まぁーめぐりあわせが悪いというか、同じ雇い主に雇われたりすることも多かったし、うまく敵味方に分かれても邪魔が入ったので、結局勝負がついていなくてだな。まあ、決着がついていたら、今こうしているわけもないのだが」
ふとザハークは思い出したように付け加えた。
「あ、もっとも、将棋やカードなら勝敗がついてるぞ。実は俺の方がちょっと勝ってる! というか、一昨日も勝ったぞ。はははー、奴は勝負の仕方が真面目すぎてなー」
ザハークが無邪気ににこにこ笑って、得意げにいった。シャーは、へえと相槌を打ちながら、
(ジャッキールのダンナ、その辺で何気に負けが込んでるの、ものすっごく気にしてそうだな)
と漠然と思った。
ザハークは武術に関してもそうだが、何事に対しても天才肌だった。特に努力はしていないように見えるのに、たいていのことは何でもこなしてしまう。シャーからしてみれば、ジャッキールも十分に天才なのだが、彼は努力もする真面目も真面目な秀才タイプであるので、ザハークのようないかにも天才肌の男にはコンプレックスを抱いてしまっているのだろう。
ジャッキールが妙にザハークにはツンケンしているのは、そういう事情もあるのかもしれない。しかも、ジャッキールがそんな風な態度をとったところで、ザハークの方はたいして気にしていない。
(マジメなダンナとしては、そりゃー打つ手ないだろうねえ)
何せ、ジャッキールは精神的な部分を含めると、シャーにすら負けているのだ。一回負けたことを引きずっているからこそ、彼は今ではシャーに味方してくれているのかもしれないのだが。
シャーもついにザハークにつられて焼き菓子に手を出した。もうどうせジャッキールに怒られるのだろうから、この際なら食べてしまおう。
「でもさあ、それじゃあ、こんなとこで穏やかに生活してるのって、二人にとってどうなのさ。お隣さんになっちまったら、戦いづらいんじゃない? ダンナもここじゃすっかり気ィ抜けて、なんかしらねえがガキのお守りしてるぐらいだし、そんなの見たら蛇王さんもやる気なくすでしょ?」
そりゃあ、毎日将棋やらカードやらサイコロやらで賭け勝負はできるかもしれないが。
シャーからみれば、あのジャッキールがこのぬるま湯のような日常で、お花を作ったり、子供に勉強を教えたりしながら平穏に暮らしているのは不満だった。あの血に飢えた男は一体どこにいったというのだ。ジャッキールは、シャーが一目置いている数少ない男だというのに。しかし、シャーが尋ねても、ザハークは特に気にしていないような顔をしていた。
「ははは、まあ、今は戦うべきではないと、言われているようなものだろう。今までと同じだ。別に敵に回らない間は、無理に勝負する必要はない。それに、奴はかつて俺と別れた時よりも、どうやら正気に戻っているみたいだからな。……奴のことはいずれは殺すつもりだが、楽しみはどうせなら長くとっておいた方がいい」
ザハークは、目を伏せてニヤリとする。
「奴がこの街で穏やかな生活をしているのは、俺からすれば奇跡のようなことだ。奇跡なのだとしたら、これもまた神の思し召しというものだろう?」
「ど、どういう意味さ?」
シャーは、引っかかりを覚えて尋ねた。
「いやさ、さっきも確かに言ってたけど、……ダンナ、そんなにやばかったの?」
「ああ。……お前の大東征の時分は特にな。最後に会った時の状況を知っているだけに、生きていたとしても、正気を保っていないだろうと俺は思っていた。だから、この街で出会ったときに奴が正気でないなら殺すつもりだった。それで俺は、奴がこの街にいる噂を聞きながら、自分から探すことはしなかったのだ」
ふっとザハークは少し自嘲的に言った。
「……正気でない奴を殺しても何の自慢にもならんが、会えば本人の為にも殺さねばならなくなる」
シャーは黙ってザハークを見上げていたが、少し考えてから尋ねてみた。
「蛇王さんはさ、どうしてダンナがあんな風になったか知ってるの?」
ザハークは少し含み笑いを浮かべた。
「俺も聞いただけだ。本当かどうかは知らん」
そういって彼は、何の感慨もないような顔でつづけた。
「エーリッヒは、宮仕えをしていた。見栄えが良く頭も良く腕も良い奴は、当然将来を嘱望された武官で、隊長としての地位が約束されていた。しかし、そういう者は得てして他人の嫉妬を集めやすいものだ。しかし、あの男はああいう性格でな。お前も知っての通り、自分には厳しい反面非常に他人に甘い。しかも、そのころの奴は、人を疑うということを知らなかった」
「……裏切られたのかい? 本人から、ちょっとそういうことは聞いたことある……」
シャーが尋ねると、ザハークはかすかにゆがんだ笑みを浮かべてそれを肯定した。
「戦場で。意図的に情報を与えられなかった奴の部隊は、孤立して囲まれてしまった。しかし、多勢に無勢ではどうにもできず、部下は目の前で倒れて行った。やがて残った奴も、頭を……」
シャーは、真面目な顔で黙っている。
「……その後どう切り抜けたかわからんが、奴は奇跡的に一命をとりとめた。しかし、以降、奴は戦闘時の狂気に悩まされるようになった。それが頭を強打したせいなのか、それとも地獄のような場所に置かれたせいで精神に異常をきたしたのか、それとも戦場の悪霊が取り憑いたのかは誰にもわからん」
ザハークは苦笑した。
「だが、それは奴にとって悪いことばかりでもなかった。エーリッヒの本来の性格は、戦場で生きるには甘すぎる性格だった。繊細で優しすぎ、相手に慈悲をかけ、他人を無条件で信用するいい奴だった。しかしな、貴様も知っているだろうが、戦場ではいい奴ほど先に死ぬ。だが奴は狂気に陥ることで、冷徹さと厳しさを手に入れた。奴の狂気は戦場で奴を生き延びさせ、奴に鬼神のような強さを与えた。奴もそのために失ったものを埋めるかのように、強さと死に場所を求めて戦場を
そして、とザハークは目を細めて天井に目をやった。
「それを自覚すればするほどに、奴は強さを渇望するしかない。そして、強さはより奴を狂わせる。戦場に立ち続けることは、奴にとって良いことではなかった」
*
その日は、ひどく暑い日だった。
シャルル=ダ・フール王子の七部将を投入した大東征に反応し、リオルダーナ側は、事実上王太子であった戦王子と名高いアルヴィン=イルドゥーンを西方に差し向けていたが、それだけではザファルバーンの勢いを止めきれなくなり、リオルダーナ国王の親征に至っていた。
リオルダーナ国王本人が参戦することにより、アルヴィン=イルドゥーン自身周辺の権力闘争も悪化していた。そして、アルヴィン王子がひときわ目をかけていたジャッキールも、好むと好まざると当然それに巻き込まれていった。彼はその当時、アルヴィンから自分が王になれば将軍にしてやる、だから自分のもとに仕えろと口説かれていたところだった。
ジャッキールは、今のところはその話を固辞してはいたのだが、彼にも出世欲がまるでないわけではなかった。そもそも、例の事件で道を外れなければ、ジャッキールはエリートとして兵士を率いている立場の人間だった。それがあの一件から居場所をなくして戦場をさまよいだし、普通の生活ができなくなってしまい、こうして傭兵に身をやつしているだけで、彼とてもっとまともな生活をしてみたいとは思っているし、軍人として人の上に立つのは彼にとってもひそやかな悲願ではあったのだ。しかし、ジャッキールはどうしてもアルヴィン=イルドゥーンの考えに同意できない部分があるらしく、非常に慎重になってもいた。
だが、その話は、アルヴィンに古くから仕えていた者たちには面白くない話だった。新参者で、しかも時折狂気をのぞかせる彼に、自分の地位を脅かされるのではないかと、彼らはさまざまにジャッキールを攻撃するようになった。そして、アルヴィン周辺の権力闘争が悪化したことで、ジャッキール自身も命を狙われる危険があった。
そんな折、ジャッキールを追い詰めるかっこうの口実ができたのだった。
それは、ビシェッツの戦いの後のことである。ビシェッツでは、敵将、
それに対して、わざとではないのか。敵と通じていたのでないかと、讒訴(ざんそ)するものが現れた。
ジャッキールは、それについて言い訳はせず、何も語らなかった。ジャッキールが、あの
アルヴィンはそんな
彼に刺客が向けられたのは、そんなある日のことだった。
それは、激しい戦闘の後だった。
そのころのジャッキールは、精神的に不安定な状態だったと記憶している。戦闘自体も激しくなっていたが、彼には責任と重圧がのしかかるようになり、さらにここにきての周囲からの突き上げ。ジャッキールが荒れるのも仕方がなかった。その為に、戦闘中に狂気に陥ることが多くなり、本人も何をやったのか覚えていないこともあるようだった。その反動で、戦闘後に放心状態となっていることも珍しくもなかった。
おそらく、その日も彼はそういう状態だったのだろう。燃え尽きたように膝をついて、彼は肩で息をしていた。ぜえぜえと荒い呼吸の音が聞こえ、地面を見る目はどこか虚空を眺めるかのようだった。
そんな彼に近づくものはいない筈だったが――。
ザハークはジャッキールより撤退がはやかったので、その時少し離れたところで涼みつつ休んでいるところだった。いつでも自由気ままな彼は、そのままごろっとうたた寝でもするのかという風情であったが、その時に向こうの方で声が上がった。騒いでいる様子なので、喧嘩でもしているのかと思った彼は暇つぶしにぶらぶらと歩きだしてきていたが、人だかりの向こうに異常な殺気を感じて、刀の柄に手を掛けながら慌てて駆け寄った。
「おい、どうした!」
向こうから逃げてくる男をとっつかまえて、ザハークはぶっきらぼうに尋ねる。
「い、いや、た、隊長が……!」
そこまで言いながら、怯えた目で向こうを見る男を放り出すようにして、ザハークは舌打ちして人を割りながらその中心に躍り出た。
地上のものを焼き尽くすような日差しが、その男の右手の剣を異様に輝かせていた。獣のような息遣いが聞こえるようだ。
すでに彼の足元に一人、二人と男が転がっていた。
男たちはそれぞれ剣を握っているようだったが、ジャッキールに襲われて防衛の為に抜いたのではないだろう。
あの状態のジャッキールが錯乱し、彼から手を出したのなら、いきなり剣を抜いた筈だ。ジャッキールは剣を抜くスピードが凄まじく速く、相手が剣を完全に抜く前に斬り捨てることができる。男たちが剣を抜いているのは、男たちの方が先に剣を抜いたということを示していた。それに一人の男の剣には、ぬるりとした緑の液体が滴っている。
ザハークはジャッキールが現在おかれている状況も知っているので、すぐさまその男たちが刺客であるのには気付いていた。
「誰の指図かしらんが、それなら殺されても仕方がないな」
ザハークは冷淡に言いつつ、ジャッキールに視線を向けた。
はぁはぁぜえぜえと、彼にしては珍しく、危うげに息が乱れていた。視線は地面の方に向いていたが、焦点が合っていない。彼は右手に剣を提げたままで、視線を時折さまよわせているのは、次の敵を探しているからのようだった。
「エーリッヒ、刺客はもう倒しただろう? そこまでにしておけ」
そう声を掛けながらも、さすがのザハークもこれはマズイと思ったものだった。
ザハークは今まで幾度となくジャッキールと対峙している。
冷静なままのジャッキールと戦ったこともあれば、狂気に彩られた彼とも戦ったことがある。しかし、まだ彼がニヤニヤしながら戦場の興奮に酔っている時はいいのだ。そういうときのジャッキールはひたすらテンションが上がっていて、やたらと笑い上戸になり、余計なおしゃべりをするものである。そして、その状態からは意外と冷静な彼にも戻ることもできるし、時間を掛ければ落ち着いてもくる。厄介な存在ではあったが、話し合いで解決することが不可能でもないし、理性的な受け答えもできる。
しかし、今日の彼は無言でニヤリともしない。ただ危うい感じに息を荒げ、どこか怯えたような視線をさまよわせながら、剣を引きずるようにして周囲をうかがっている。そんな彼を見たのは初めてだ。そして直感で気付いてもいた。
こういう状況の時の彼は、危険すぎる!
「刺客に襲われた程度で、そのザマか? いくら暑い日だといっても、冗談にもほどがあるぞ」
ザハークは苦々しく言い捨てた。
その声に反応したのか、ジャッキールの顔が彼に向いた。そして、その瞳がザハークを捉えていた。
その目は怯えているようでもあったが、同時に凄まじい殺意に彩られたものでもあった。ザハークの姿を捉えた後、かすかにゆがめられた瞳は、『敵は殺す』と告げているようだった。
今の彼には、目に映る者すべてが敵に見えているのに違いなかった。重傷を負った戦場でそうであったように、敵を殺さなければ生き延びることができないと彼は追い詰められているのかもしれない。そうした状態の彼からみれば、堂々と目の前に立ちはだかるザハークは、彼の殺意を呼び起こす存在でしかない。周囲のものたちは、雰囲気の異常さに気付いてザハークの傍から慌てて逃げる。
「仕方がないな。……まあ、俺しか止められる奴はいないだろうしな」
ザハークは鼻で笑い、腰の剣の柄に右手を撫でるように這わせるが、その時にはすでにジャッキールは地面を蹴っていた。
「相手してやるぞ、エーリッヒ!」
力任せに振り下ろされるジャッキールの剣を、ザハークは素早く曲刀を抜いて弾き返した。が、今日のジャッキールは、防御など考えずにひたすら攻撃を繰り返してくる。矢継ぎ早に力任せにたたきつけられる剣をザハークは、受け流したり避けたりしながら対処していた。
しかし、その攻撃は恐ろしいことに普段の彼よりも、一段と鋭いものだった。真っ向から振り下ろしてきた後素早く斜めに切り返してくる。ザハークは剣を引いてどうにかそれを弾き返したが、危うく胴を掠めそうになり、内心冷や汗をかいていた。
「ちッ!」
ザハークは舌打ちした。
(コイツ、この状況でもここまで動けるのか?)
そして、彼は休むことなくザハークに襲い掛かってくる。敵と認めたものを殺さない限り、彼は止まらない。その攻撃は普段とは別人のように荒く力強い一方で、非常に正確だ。理性で普段は力を押さえているのかと思うほど、その動きは速く正確だったのだ。
(いや、この動き、コイツ、普段よりも……、まさか!)
素早く切り返してきた一閃に体をのけぞらせると、刃が前髪を掠めていく。
間違いない。今のジャッキールは、どう考えても普段の彼よりも強いのだ。明らかにためらいや迷いが消え、ただ相手を殺すことだけを集中しているだけだ。自分の身を守ることすらも考えず、ただ相手を攻撃することしかない。ほとんど防御するつもりはないらしく、ジャッキールが嫌うのを見越して顔近くを狙ってみたが、それを避けるそぶりも見せずに攻撃してくる。
強い者と戦うことは、ザハークにとっても喜びだった。そして、ジャッキール自身も強くあろうとしていた。が、しかし。
実際に迷いがなくなり、恐ろしく強くなった彼を目の当たりにしたザハークには、憤りの感情しか湧いてこなかったのだ。
「馬鹿野郎が!」
ジャッキールの剣にわざと力任せに自らの剣をぶち当てた。怒りに任せてそのまま、真正面から打ち合った。ジャッキールからも応酬が来て、ザハークの頬を掠めていたが、彼は気にしなかった。
敢えてまっすぐに重く切り下すと、ちょうど切り上げてきたジャッキールの剣と剣が噛み合い、そのまま鍔迫り合いの状態になった。力任せに押し合っている間にギリギリと金属が軋んだ。
「この程度のことで、簡単に正気を捨てやがって! 自分の魂を殺して手に入れたこれが、貴様の求めた強さか! あきれ果てるぞ、エーリッヒ! そんなことで貴様がどんなに強くなろうが、そんな貴様に何の価値もないわ!」
ザハークは睨みつけながらそう怒鳴りつけた。掠めた頬から血が流れるのも気付かずにザハークは、力任せに押し切ってジャッキールを払った。すぐさま攻撃態勢を整えるジャッキールと対照的に、彼は棒立ちのままジャッキールを睨みつけて咆哮した。
「殺したいなら殺せ、エーリッヒ! 今の貴様と戦う気は俺にはない。そんな価値もないからな!」
ザハークは無防備なままだった。ジャッキールは無感動にそのまま剣を振るおうとしていたが、一瞬、彼の方を見た気がした。その瞳の奥に揺らぎがあった。
瞬間、赤い飛沫が目の前に飛んだ。
「く……!」
ザハークはそのまま仁王立ちのままだ。
「ば、馬鹿に、するな……、蛇王!」
苦しげな声が、ジャッキールの唇から飛び出た。
その彼の目の前で、ジャッキールは左手で自分の剣の刃をつかんでいた。その左手はすでに血で赤く染まっていた。さらに強く左手で刃を握るとぼたぼたと砂の上に赤黒い血が滴った。手はすでに震えていて、カタカタと剣が音を立てていた。
「……お、俺は……」
ジャッキールの顔色は真っ青で、冷や汗がだらだらと流れていた。彼は唇をかみしめるようにして、ザハークに視線を向けた。
「俺は、……まだ……、正気だぞ」
ジャッキールは強いてひきつったような笑みを浮かべた。そして、ふと口を押えた。
ジャッキールはザハークから背を向けるようにして、砂の上にほとんど倒れ込むように膝をついた後、その場で嘔吐した。せめてザハークから顔を背けたのは彼の意地でもあっただろうが、もはやそこから動けそうになかった。水すら飲まずに戦ってきた後だ。熱い砂の上に胃液ばかりを吐いて苦しむ彼の姿は、哀れすら覚えるものだった。
ザハークはそんな彼を黙って見下ろしていたが、遠巻きに自分たちを囲んでざわめく野次馬と違い、冷徹なほどに無表情だった。
「は、ははは」
ひとしきり吐いた後で、彼は唐突に笑いだしていた。
「本当に、惨めなものだな、俺は……」
ジャッキールは彼に背を向けたまま自嘲した。常から青い顔色は、紙のように真っ白になっていたが、傷ついた左手でふれたせいで頬は赤く汚れていた。呼吸が再び乱れ始め、気分が悪くなったのか、彼は自分の左手の血で染まった手ぬぐいで口元をきつく押さえて目を閉じた。
――いっそのこと、殺してくれ。
彼は何も言わない。それなのに幻聴のようにそんな言葉が、陽炎に揺らめく世界の中で聞こえた気がした。
「エーリッヒ」
そう呼び掛けてふっとザハークは、静かに息をついた。灼熱の世界の中で、何故か、彼の周囲だけは冷水を打ったように冷たかった。
「日陰にでも入って水でも飲んで休んでいろ。そのまま、そこにいても苦しいだけだ」
ザハークはそれとだけ言い置くと剣を収め、彼に背を向けた。彼に視線を向ける居並ぶ野次馬達など目もくれず、彼は表情らしい表情を浮かべないままにその場を立ち去った。
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