3.ぎこちない再会

「女の子がオレに会いに来た? それが何で一大事なのよ?」

 そのときのシャーはまだ余裕の表情だったが、やや不機嫌そうであった。

「一大事でしょう? 今までそういうことはなかったでしょうが」

「ないことないじゃない。人違いだったけど」

「今度は人違いじゃないんですよ。大体、兄貴を訪ねてリーフィに話しかけてるんですから」

「これは、ただごとじゃないですよ!」

 カッチェラを中心に、わいわいと彼等はシャーに言う。

「兄貴、何か悪いことしたんじゃないでしょうね」

「冗談! そんな身に覚えはないってば」

 もちろん、身に覚えがないのは本当だ。シャーには、そういう女性がいない。

 強いて言えば、それこそ五年ぐらい前の一時期、かなり荒れていたころがあり、派手に遊んでいたことがある。その頃のシャーは、陰のある不良青年ぶりが良かったのか、どういうわけか女性陣からそれなりに人気があったらしい。しかし、そのときも清算という言葉を使うほどのゴタゴタのあった相手はいなかった。一応気も遣っていたし、昔のことを蒸し返されるほど恨みを買ってもいないはずだった。

 第一、彼のどちらの名前も明かしていないから、シャー=ルギィズの名前で彼を訪ねてくることはない。

 そして、何より、シャーには、心当たりがあったのだった。そして、彼が不機嫌なのは、けして舎弟たちが自分を疑っているからではなく、もっと別のことに原因があったのだった。

(ああ、リュネのヤツ、来るなっていったのに)

 ことは二日前にさかのぼる。

 

  *

 


 二日前、シャーは、王都郊外にある、とある邸宅を訪れていた。

 その邸宅は、現宰相カッファ=アルシールの邸宅である。宰相の身分の割りに質素な屋敷ではあるが、その辺がいかにも彼らしかった。

 そして、シャーには、慣れ親しんだ家でもある。

 カッファ=アルシールは、彼の後見人であり、彼を育てた人間でもあった。シャーにとっては実父以上に父親らしい関係の男ではあったが、彼等の間には主従関係がかかわってくるため、その擬似親子関係は、かなり複雑でもある。カッファにとって、あくまで彼は忠誠を誓った主君の息子であり、あくまで「殿下」だったのだ。そのことが、彼等の関係をお互い複雑なものにしていた。

「さて、今日はどこから入ろうかな~」

 慣れ親しんだ家ではあるが、シャーはこの家の正門を通ることはほとんどない。何せ、身分としては家出息子のようなものであるし、相変わらず放蕩無頼な浮浪生活をしている彼だ。見つかるといろいろ説教されるに決まっている。何せ慣れ親しんでいるだけに、使用人たちも彼のことを知っているから、そっちからも怒られたりするのだ。なるべく、目的外の人間とは会わないようにしなければ。

 そんなわけで、コッソリと塀を乗り越えて侵入するのが彼の常だった。

 今日は、正門とは反対側の塀を登って侵入することにしたシャーだ。一応、カッファも宰相になってしまったので、警備が以前より厳重になっている。警備の連中が近くにいないのを確認して、シャーは塀に手をかけて、一気に上り、さっと庭に降り立った。

 と、足音も立てずに降り立たはずが、いきなりひたっと冷たいものが肩に当てられた。

「残念」

 うっとシャーが身を固めると、背後からぬっと男が姿を現した。

「若様。なかなか腕を上げられましたが、まだまだ私には程遠いですな」

 男はそういってシャーの肩に当てていた刀の鞘を払った。シャーは、苦笑しながら相手を見やる。

「あ、あんたも、相変わらずだねえ、ルシュール隊長。今日こそは出し抜いたとおもったんだが」

「ははは。まだまだそうは行きません」

 陰気に微笑むその男、ルシュールは、アルシール家に昔からいる警護兵だ。今は邸宅の警護の責任者をやっている隊長でもある。年齢は三十台半ばぐらいらしいが、少なくともシャーがこの家に出入りしていた頃にはすでにいた。

「若様のおかげで、日々私の眼力も鍛えられておりますからね。今度はどこから侵入してくるのかと、毎度楽しみにしておりますゆえ」

 シャーが「殿下」と呼ばれる身の上であることは、家のものは大概知っているが、この男をはじめ、たいていのものは若様と呼んで、アルシール家の長男として接していた。

 彼は後見人のカッファ=アルシールに身柄を託され、育てられた事情があるのだが、長庶子であったせいもあり、何かと命を狙われることが多かった。そのため、外ではあまり姿を晒さないようにしており、一見、カッファの息子に見えるように育てられてきた。実際、忠誠心が厚いため、彼を息子として自然体に扱えないカッファはともあれ、妻のカーラなどは、彼に「母上」と呼ばせていたのだから、使用人たちからみてもシャーは彼等の息子と映っていたし、シャー自身もそう望んでいる。

 それらの事情から、彼等はシャーのことを「殿下」とは呼ばない。皮肉にも、この家で彼を「殿下」と呼ぶのは家長のカッファだけだった。

 そんなことから警備隊長のルシュールも、彼の身分を当然知っているが、いまだに若様として接してくれるというわけだ。

 そして、普段から、まともに正門から入ってこないシャーに幼少期から付き合い続けていたせいか、非常に警備に厳しい。どこから侵入しようと、どんなに目を欺こうと、なぜかシャーの背後を押さえてくる。シャーもそれに対抗して、潜入の腕を磨き続けていたため、気配や足音を消してみたり、その辺の風景に溶け込んだりと、無駄にスキルが高くなってしまった。

 そして、それにもかかわらずいまだにルシュールは、彼がどこから侵入しようとしているのか、きちんと読んで、背後を取ってくるのだ。

(くそう、なんか悔しい)

 勝ち誇った笑みをうっすら浮かべるルシュールを見つつ、シャーはいつか目に物を見せてやると思うばかりだった。

 ルシュール隊長は、そもそも、シャーとこの勝負をするためだけに、彼を捕まえているだけなので、その後、生活態度に説教したりなどはしない。それでは、とかなんとか薄ら笑いを浮かべていいながら、あっさりと彼を放して持ち場に戻っていった。

 シャーは、いつもどおり、というのもおかしいが、こそこそと建物の壁に近づいた。ちょうど、その二階に窓がある。壁のくぼみに足をかけて、シャーは器用に壁を登っていった。

 そして、窓に近づくと声をかける。

「リュネちゃん、オレだよ。入っていい?」

 しかし、部屋の中から返事がない。

「リューネーちゃんってば! おーい!」

 少し声を大きくしてみるが、やはり返事がない。

「あれ、アイツ、どっかいったかな?」

 シャーは、壁にくっついているのも疲れてきたので、窓枠に手をかけた。どうやら住人は留守のようだし、入っても怒られないだろう。

 そのまま一気に体を浮かせて部屋の中に飛び入ろうとした、が、

「現れたな! 変態!」

「うおっと!」

 いきなり短剣で突きかかられ、シャーはあわてて身をのけぞらせた。

「この変態! 覗き! 死ね!」

 続けざまに襲ってくる相手の正体はわかっている。あわててシャーは、手を振った。

「ま、待て、待て! オレだよ、リュネ!」

 シャーは、焦りながら弁明する。刃物を振り回していた少女は、きょとんと彼を見ると、あら、と声を上げた。

「なあんだ、お兄様じゃない。変態侵入者かと思ったのに」

「ちゃんと声かけただろ」

「ちょうど聞こえなかったのよ。で、振り返ったら、なんか不審な人影があったから、これは護身術を試すチャンス! と思って」

「オレじゃなかったら死んでるな、今の突き。もうちょっと穏便にしろよな」

 シャーは、多少ぞっとしながら苦笑した。それほど鋭いものだったのだ。

「何いってるの。あたしに護身術とかいって剣術教えたの、シャーにいじゃない」

「そりゃそうなんだけど」

 シャーは、ため息をついた。

 目の前の目の大きな黒髪のかわいらしい少女は、リュネザード。カッファとカーラの娘だ。癖の強い髪の毛をしているせいなのか、どことなく血のつながりがないはずのシャーに雰囲気が似ている。シャーがアルシール家の長男として自然に見えるのは、彼女がシャーとなんとなく似ているからという部分も大きかった。

 実際、他の異母兄弟たちと疎遠だったシャーにとって、リュネは、実に妹らしい妹だった。遠征も多かったから、それほどずっと一緒にいたわけではないけれど、彼女が赤ん坊の時にはあやしたり寝かしつけたり、大きくなってからも何かと面倒を見ていたので、まさに実妹のような存在で、実際、シャーは彼女には大概甘かった。

 そして、忠誠心ゆえに彼に息子として接することのできない父親の苦悩などどこへやら、彼女も母のカーラと同じく、シャーのことを平気で「お兄様」と呼んでいる。さすがに公式の場に出たときは、臣下として振舞ってはいたが、プライベートな場では、彼が即位した後も、兄としていつもどおり接している。

 そんなわけで、シャーとしては、もっとも協力を仰ぎやすい人物でもあるのだが。

(なんで、コイツ、こんなにお転婆になったのかな)

 シャーも、多少は頭を痛めているのだった。自分が教えたとはいえ、カッファとカーラの娘。もともとは武官として採用されていたとかいうカッファは、文官にしては武術に長けている。そして、カーラもその昔、女だてらに剣を振り回していたとかいう活発な女性だ。そのせいか、リュネはやたらと手筋がよい。

 なので、咄嗟に斬りつけられると、シャーも焦ってしまうほどだし、何かと自信をつけて過激な言動に走られていることには困っている。ちょっとは、責任を感じているのだった。

 そんな兄の気持ちなど知らず、リュネザードは、小首を傾げた。

「何しに来たの。まさか、妹のあたしが超カワイイからって、欲情したんじゃないでしょうね! 確かに、厳密にはあたしと兄様は結婚できるけど、兄様がそれやったらド変態確定だから!」

「ばぁーか。んなわけあるか! 第一、オレは、ロリコンじゃねっつの」

 シャーは、不機嫌にそう吐き捨てる。

「オレとお前に限ってそんなことは、ぜっったいありえねえから安心しろ。第一、もっと魅力的になってからそういうことは言えよな」

「何よ、その言い方。すっごいムカツク! いいわよ、兄様より魅力的で美形の男を見つけて玉の輿にのるんだから」

 ぷーっと頬を膨らませつつ、リュネザードは、シャーをにらみつける。そうこうしているうちに、シャーはサンダル片手に窓の桟に上がりこんできていた。

「カッファは仕事中か?」

「ええ、そうよ。このところ、お父様忙しいみたいだもの」

 そういいつつ、リュネは、機嫌をなおしたのか、ころっと表情を変えて微笑んだ。

「でも、元気そうで安心したわ。だって、いろいろお城であったんでしょ? お母様もあたしも一応心配してたのよ」

「一応っていったよな、今」

「だって、シャー兄なんて殺しても死なないじゃない。まるで害虫みたい」

「お前、仮にも兄ちゃんに向かってその言い方はひどくないか」

 シャーは、眉根を寄せつつ、ため息をつく。

「まー、心配されないより、マシか。ありがとよ」

「せっかく来たんだから、お母様に会ってく?」

「い、いや、今度にしとく。今は、生活態度について説教くらいそうだから」

「わかってるんじゃない。嘘よ。今、どうせお母様はいないの」

 リュネは、やれやれとため息をつきつつ、立ち上がった。

「どうせお腹空かせてるんでしょ? ちょうど、あたし、お茶淹れてきたところなの、お菓子もあるから食べていきなさいよ」

 リュネがそういって、お茶と茶菓子を出してくれたので、シャーは遠慮なくそれをもらうことにした。




 シャーが、この屋敷に顔を出したのは、自分の無事をアルシール家のものに知らしめる意図もあった。信頼はされてはいるが、やはり心配もされているだろうから、一応ではあるが、安心させておこうとおもったのだ。

 そして、もうひとつ意図があった。それは、もちろん、先の暗殺未遂事件の件についての情報を得るためでもある。

「それじゃあ、何? 本当は、お父様に会いにきたの? この間の事件のことききに?」

 大きな目を瞬かせて尋ねるリュネに、シャーは髪の毛をかきやる。

「いや、会えるかどうかわかんねえなとは思ってたんだがな。やっぱりいなかったか」

 そう答えるシャーに、リュネは無邪気に言う。

「お城にいけばいいじゃないの。そうしたら絶対に会えるのに」

「城には当分戻ってくるなって言われてるの。いくら目立たなくしてても、あっちじゃ人の目が多くって、行動が筒抜けだしさ。普段どおりにしたほうがいいって。その点、この屋敷、あの不気味な隊長サンのおかげで無駄に警備厳しいから、外部の人間いなくて安心なの」

 シャーは茶をすすりながらため息をついた。

「ハダートあたりから情報もらおうと思ったんだが、そう簡単に情報くれなさそうだしさ」

「そりゃあそうよ。兄様、立場も考えずにあれこれ自分で調べたい人だもの。餌をあげると、どこに飛んでいくかわかんないじゃない」

「んでも、オレにもちょっとぐらい知る権利はあるだろうさ」

 実際、ジャッキールが一度隠れ家にやってきて、中間報告を告げていった。が、相手については、ほとんど教えてくれなかったし、狙撃されたレビ=ダミアスとカッファが無事であるということぐらいしかわからなかった。もっと調べは進んでいるとは思うのだが、あまり詳しい情報を聞き出すことはできなかった。もっとも、ハダートがジャッキールに伝えていないという可能性もあるのだが、こういう状況でハダートの屋敷に行くのも気が引ける。

 そんなわけで、カッファが屋敷にいれば情報を直接きいてやろうとおもったのだが。

「神殿に直接いこうとしたけど、今、あそこ厳重に警戒されてて、オレの風体じゃたたき出されるしさ。かといって、オレも、毎日寝てるのも、もう飽きたわけよ。気になるとじっとしてるのもつらい性分だからさあ、それでわかる範囲でじわじわっと情報を調べてるわけなんだ。で、お前、何か知らないか? 現場の状況とかさ」

 そうねえ、とリュネは、軽く小首を傾げた。

「レビ様が襲われた神殿のことね。それなら、一応お父様に雑談程度にお話聞いたけれど、なんだか矢が二本射られていたとかなんとか」

「おお、それそれ!」

 シャーは食いついた。

「そこんとこ、もちょっと詳しく」

「詳しくったって、あたしもそんなに知らないの。ただ、天窓から矢が入ってきたと聞いてるわ」

「それはわかるよ。だって、あそこから中の人間狙おうとおもったら、そこぐらいしか窓がないしね。となると、必然的に狙撃者がいたのは、隣の塔の上。……オレもそこまでは予想がついてるんだ。ただ、中がどうなってたのかわかんなくてさあ。レビの兄上が、うまいこと矢をかわしたのはきいてるけど。二本とも兄上を狙ったものだったのかな」

 シャーが髪の毛をぐしゃぐしゃといじりながら、そういうと、リュネは首を振った。

「それが、お父様も謎だっていうの」

「謎って何だよ?」

「一本は毒が塗られた矢でレビ様を狙っていたそうよ。もう一本は毒矢ではなくて、矢の装飾も違うものだったんだけれど、なぜか壁のタペストリーの中心に刺さっていたんだって、お父様いってたわ」

「タペストリー?」

 ええ、とリュネは少し真剣な顔になった。

「シャルル=ダ・フール王の紋章がかかれたタペストリーよ」

「ええ?」

 シャーは思わずどきりとした。

「そ、それって、どういうことなんだ?」

「さあ、お父様は、相手が外して偶然に当たったんじゃないかっていってたけれどね。意味がわかんないんだって。深い意味はないのかもしれないけど。それ以上は調べがついてないんですって」

「そうか。なんだか不気味だな」

 シャーはため息をついて、顎をなでた。

 何か意図があるのか、それともリュネの言うとおり偶然なのか。どちらにしろ、なんとなく気になる話だ。もし、意図的にシャルル=ダ・フールのタペストリーを狙ったのなら、それはどういう意味になるだろう。

 必ずしとめるという犯行予告? いや、それもあるかもしれないが、もしかして、そこにいたのがレビ=ダミアスという替え玉で、真のシャルル=ダ・フールではないと気づいているという意思表示なのか。

 難しい顔でシャーが考え込んでいると、不意に、リュネが思いついたように言った。

「そういえば、兄様、最近隅におけないらしいじゃない?」

「はい?」

 唐突な言葉に、シャーは間抜けな声をだした。リュネは、得意げな顔になってにやついている。

「なんだか、兄様、最近、酒場ですっごく綺麗でやさしい女の人に鼻の下伸ばしてるそうじゃないの。兄様は、どう考えてもモテる男じゃないと思ってたけど、案外に隅におけないのねえ」

「な、何でお前がそんなこと知ってんだ?」

 綺麗な女の人、それはおそらくリーフィのことだ。だが、リュネがそのことを知るはずがない。

「ハダートさんにきいたのよ。すっごく綺麗な女の人と親しく話してるんだって。兄様、たまにはやるわね!」

「あ、あいつ、余計な情報を」

 よりによってリュネになんという情報をあたえてやがるんだ、あの蝙蝠男!

 思わずこぶしを固めて、今度会ったらどうしてやろうかと考えていると、リュネが、指を組みつつため息をついた。

「でも、会ってみたいわよねえ。気になるなあ。その人」

「何だって?」

「だって、綺麗でやさしいのにシャー兄と付き合えてるんでしょ? 兄様、無職で頼りないし、ちょっと変態っぽいし、鬱陶しい感じだし、ぜんぜん女の子に好かれる要素がないじゃないの。顔だって、甘く見積もって並の上でいいほうよ。そんな兄様についてきてくれるなんて、それってすごく稀有な存在じゃない。気になるわあ」

「し、失礼なこというなっての。大体、彼女は友達なの。オレはともかく、彼女に迷惑だからそゆこというなよな?」

「友達のほうが、余計気になるじゃない。シャー兄、案外お友達少ないし。あたし、酒場覗きにいってみようかな」

「な、何いってんだ! だ、ダメだぞ! 彼女にも迷惑だけど、大体、あんなとこ、未成年のお前がくるところじゃありません!」

 シャーは顔色を変えて、立ち上がる。

「あんなとこ、箱入りのお前にゃ刺激が強すぎる。治安が悪いし、小汚いところにあるんだからな! お前みたいな小娘が一人でくるとこじゃないんだ!」

「なによー。自分は遊んでるくせに」

 リュネは不満そうにシャーをにらんだ。こういうときは、シャーは妙に兄貴として彼女を過保護にするのだ。

「とにかく、ダメ。絶対ダメ!」

 シャーがそう押し通すと、リュネはまたぷうと頬を膨らせてしまった。


 

 *



 そんなやり取りがあったのが、二日前のことなのだ。

 だから、てっきりシャーは、彼女が来たのだと思い込んでいたのだ。

 しかし、彼女だったらまだよかった。リュネは、お転婆で面倒だが、シャーの立場についてはよくわかってくれている。余計なことは言わないだろうし、第一気楽だ。

「あ、兄貴」

 酒場に着いたら、おそるおそる入り口で様子を伺っていたアティクが、そろそろとやってきた。

「どうだ、彼女、リーフィと話ししてるのか?」

「う、うん、二人で普通に話をしているみたいだけど」

 だけど、なんだというのか。

「兄貴、ほら、早く来てくださいよ」

「わかってるってば」

 シャーは、そう答えつつも、やはり不機嫌だった。

(ったく、リュネのヤツ)

 シャーとしては、彼女がリーフィに会ったということが許せないわけではないのだ。まだ少女の彼女が、こんなところに出入りするのを保護者として反対したいだけなのだった。

 今度こそはちょっと厳しく注意しなければ。

 そんな柄にもないことを考えて、入り口からそっと酒場の中を覗き込んだシャーだったが。

 酒場を覗き込んで、シャーは怪訝な顔をして、それから、何かにはっと気づいたようになって、そして。真っ青になって思わず入り口に背を向けて隠れてしまった。

「な、ななな、何だ、あれ」

 シャーは思わずそう口走る。

「あ、兄貴、ちょっと」

 シャーの思いのほかに激しいリアクションに、周囲の男達が不安になってきた。最初は面白がっていた部分もあった。なにせシャーに女の子が会いに来たのだ。これはからかい甲斐があると思っていたのだ。

 だが、こんな本当に何かありそうな反応をされたのだから、周囲も、これはどうもマジで兄貴何かしでかしたらしい、と青くなってしまった。

 しかし、そんな周囲のことなど、シャーはかまう余裕がない。

(な、なんで、なんであの子がここにいるんだ?)

 リーフィと向かいあって話しているのは、どう見てもラティーナ=ゲイン=サーヴァンだ。あれから一年以上経つし、少し大人びた感じになったが、あの勝気そうな大きな目が印象的な、かわいい顔立ちは、忘れるべくもない。実際、あの後もシャーは彼女には公式の場であったこともあるのだから、顔を忘れているはずもない。

 しかし、彼女がこんなところに来るはずがない。そもそも、彼女はお嬢様で、こんな下町に普段はくるはずがない。かつて彼女がここに来たのは、それこそ特殊な要因があったからだった。

 あの事件の後、ラティーナは、元の貴族の令嬢としての生活を取り戻しているはずだった。そもそも、ラティーナをレビ=ダミアスに紹介したのはシャー自身で、外出しないレビの数少ない女友達として、交際の程度は知らないが、それなりにうまくやっていると聞いていた。そして、身分を明かしたシャーとは、あれ以降は、あくまで臣下と主君の関係で、以前のように気軽に口をきくこともなくなった。それゆえに彼女がここに来ることもなかった。

 が、今、酒場の中では、なぜかラティーナが座っていて、しかも、その向かいで、いつもどおりの無表情さでまったりと座っているのがリーフィ。

(どういう状況なんだ、これーー! 意味がわかんねええ!)

 混乱状態のシャーは、思わず頭を抱えそうになった。

 そこに、カッチェラたちが、そろそろと声をかけてくる。

「あ、兄貴、マジで何か犯罪行為やったんですか?」

「い、今なら、まだ許されます。何もかも告白して、懺悔してください!」

「ひ、人聞きの悪いこというなって。な、何もやってないから」

 そういいつつ、シャーは、顔色の悪さを隠せない。

「あら?」

 不意にリーフィが、入り口のほうを向いた。あわててシャーは隠れようとしたが、リーフィはさすがに目ざとい。

「シャー、来てたの?」

 リーフィに声をかけられて、シャーは思わず跳ね上がりそうになった。

 どうしよう。このまま逃亡するべきか。いや、でも、別に後ろめたいことはない。逃げると余計変な噂が立ちそうだ。大体、彼女がここに来た理由を知りたいのは知りたい。

 しかし。

(いや、でも、この状況で冷静に話なんかできないだろ、さすがに。しかも、リーフィちゃんの前だし、ま、まさか、オレの秘密とか暴露しちゃってないよね? そ、それに、今更彼女にどの面下げて、どんな話をしたらいいんだ。ああ、こういう場合、ど、どういう反応したらいいんだー!)

 混乱状態のシャーが、次の行動を選びかねている間に、リーフィが入り口まで迎えに来てしまった。

「どうしたの、シャー」

「え、あ、いや、いや、なんでもないよ! リ、リーフィちゃん、お、おはようっ!」

 再び声をかけられて我に返ったシャーは、冷や汗をだらだら流しながら、あわてて彼女に愛想笑いを作った。

「ええ、おはよう、シャー」

 そう挨拶を返して、リーフィはほんの少し眉根を寄せた。

「どうしたの? 今日は顔色が悪いけれど。気分でも悪いの?」

(うおお、心配してくれるのはすげえうれしいけど、今日はもうオレには触れないで!)

 こういうとき、リーフィの悪意のない情け容赦のないやさしさがつらい。

「い、いや、だ、大丈夫、大丈夫だから」

「そう? それならいいんだけれど。今日、シャーにお客様が来ているのよ」

「ほ、ほほう、私に客ですか、ははは。い、一体どなたでしょうかねえ」

 狼狽のあまり変な敬語を使いつつ、シャーは汗をぬぐった。

「ええ、ラティーナさんという方で、シャーを訪ねてきてくれたの。知っている方でしょ? 早く中に入って」

「え、あ、え、ちょ、リーフィちゃん?」

 リーフィに腕をつかまれ、シャーは逃げ場をなくしてしまった。

 ドキドキしながら酒場に入ると、客達の好奇の目に晒される。しかも、当のシャーの様子がどうみても普通ではないのだ。客たちも思わず緊張しようというものである。シャーが中に入ると、ラティーナも思わず席を立って、彼を見迎えたが、その彼女も緊張していた。

 シャーは、とうとうラティーナの前まで引き出されていた。

 シャーは、彼女を前にして、不意に以前のことを思い出していた。

 あの事件のころの彼女。同じように酒場にいきなり現れた。

 目の前にいるのは、間違いなくラティーナだ。あの頃とそれほど変わっているわけではない。お嬢様のくせに、貴族の娘らしくなくって、気が強くってわがままで、なにしでかすかわからない危なっかしさがほうっておけなかった。今でも、その片鱗は残っている。

 けれど。彼女は、もう。

「あ、あの」

 無言のシャーに思わずラティーナのほうが口を開きかけた。それで我に返ったシャーはあわてて手を上げる。

「ど、ど、ど、どうも」

 ようやっとそれだけいって、シャーは、ぎこちなく笑った。

「お、おひさし、ぶり、です」

「え、ええ、おひさしぶり、です」

 ラティーナも鸚鵡返しにそう返す。それから、二人ともまた黙り込んでしまった。

 変な緊張感がその場を支配していた。野次馬達も、ひそひそ話ができないほど静かで、ひたすらに気まずい。シャーは、どうしたものか考えあぐねて、ひたすら冷や汗をだらだら流していた。何を話したらよいのかわからない。

 この場でいつもどおりなのは、無表情なリーフィだけだ。リーフィだけは、反応がまったく変わらず、このおかしな緊張感の中でも平然としていた。けれど、リーフィとて勘の鋭い娘だから、どうやら何か事情があるらしいことぐらいはわかったらしい。

 結局助け舟を出したのも、そのリーフィだった。

「ねえ、シャー。久しぶりに会ったのなら、彼女とつもるお話もあるでしょう?」

 そういわれて、シャーは、はっとリーフィの顔を見た。リーフィは、笑ってうなずく。ここは任せておけということのようだ。

「こんな皆いるところでは、お話しづらいものね。奥に案内するから、お二人だけでお話ししたらどうかしら」

「あ、う、うん」

 シャーは、反射的にそう答えた。

「そ、そうだよねー。こんな皆いるとこじゃ、話できないよね。リーフィちゃんにお任せするよ」

 リーフィはうなずいて、それじゃあこちらへと、二人を奥の部屋に案内した。おそらく、リーフィの控え室を貸してくれるのだろう。シャーは緊張した面持ちで、ラティーナを先に行かせ、自分は後からついていった。


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