3.水の将軍火の将軍

 

 廊下を進んでいた時、いきなり、ハダートが柱の陰からふらっと姿を消したので、ラティーナは小声で鋭く言った。

「ど、どこへ行くの!」

「これ以上、あんたといるのは危険だからさ。俺は危険には近づきすぎない主義なんだ」

 ハダートの冷淡なほど落ち着いた声が聞こえた。

「後は、あの三白眼に花を持たせることにしよう。あいつに助けてもらえ!」

 明らかに彼には面白がっている気配がある。

「じょ、冗談じゃないわ!」

 ラティーナは少し声を高め、あとを追おうとしたが、ハダートは闇を利用してふっと消えてしまう。

「あたしは助けてもらいたくなんかないわ! それも、あんな、敵かも知れない奴になんか!」

 本当はまだ彼に会うのに心の準備ができていないだけだ。ラティーナは慌てて叫んだが、ハダートは答えない。

 ハダートの答えのかわりに、向こう側から足音が聞こえてきた。それに混じって、金属音と怒号に悲鳴。

 それが、シャーがこちらに向かってきているからだということを伝えていた。

(ど、どうしよう!)

 慌てて走って逃げようとするが、ラティーナには逃げる場所が思いつかなかった。ハダートの気配は完全に消えているし、柱の陰に隠れてもシャーならきっと見つけてしまう。ひとまず走ろうとしたとき、ふと後ろの方でシャーの声が聞こえ、彼女はそちらを振り向いてしまった。

「ラティーナちゃん!」

 シャーは軽く手を振り、追いすがる男に自然な動きで足払いをかけた。

「ラティーナちゃん! よかった! 無事なんだね!」

 シャーは、ラティーナの気持ちなど知らない。心底うれしそうな顔をして、そのまま、こちらに来る。見つかったことを知り、ラティーナは、どうしようもなく逃げ出した。

「な、なんで逃げるんだよ!?」

 シャーは、わからないような顔をして、そのまま走ってきた。シャーの方がかなり足が速い。ラティーナは、すぐにシャーに並ばれた。

「どうしたの?」

 シャーの不安そうな顔を見ないように、顔を背け、ラティーナは徹底無視を決め込む。

「どうしたんだい? ラティーナちゃん!」

 訊いてもラティーナは答えない。シャーは、正直困って頭を左手でかいた。いきなり、ラティーナの横に、追っ手の男の顔がにゅっと現れた。ごつい悪人顔の男で、ラティーナは驚いて声をあげる。

「この野郎! ラティーナちゃんから離れろっつーの!」

 シャーは、ラティーナの横にいた男の腹に峰の側で一撃を加えた。

 口調は軽かったが、シャーの一撃はそれこそ本気で、食らった男は悲鳴をあげてひっくり返った。男が悶絶している間に、シャーは方針を変えたらしく、ラティーナの方に少しだけ身を寄せた。

「ちょ、なにす……」

「手荒いけど、我慢してねーっと!」

 気合の声を上げて、シャーはラティーナの腰を左手でつかんで抱えあげた。

 驚いて、ラティーナが悲鳴を上げる。

「な、何するのよ! ヘンタイ!」

「へ、変態? ひ、ひどい! オレ、変なトコ触ったりしてないじゃないか!」

 シャーは、その一言が傷ついたのか、ひどく衝撃を受けたような顔をしたが、ラティーナは構わなかった。暴れながら、シャーをひたすらののしる。

「触んないでよ! このバカ、変態、スケベ! 放して!」

「あ、暴れちゃダメだよ! オレも余裕ないんだから!」

 またまた、後ろから刀がにょっと飛び出てきた。シャーはそれを避け、右手に握った刀を横に力任せに振るった。ガチーンと音がして、相手は勢いに任せたシャーの剣に押されて後退した。

「ここから、一刻も早く逃げなきゃ~、オレ達の命、風前の灯火って奴だよ?」

 シャーはラティーナの機嫌をとるように言ったが、彼の目は相変わらず状況をみるだけで精一杯で、ラティーナの表情までは気が回らない。もし、ラティーナの表情に気づいていたら、シャーの対応もまた違ったのだろうが、本当にそれどころではなかったのだ。

 今の彼は、常に後ろに気を配り、もし後ろから剣先がのびてくれば、すぐにそれを叩かなくてはならなかった。ラティーナを抱きかかえている分、速度が落ちているのも事実であり、一刻の猶予もない。

 それに自分も怪我をするわけにはいかない。こういう場合は、傷を少しでも負えば、それに伴い戦う気力も同時に抜けてしまう。戦い慣れたシャーには、それもよくわかっていた。

「もうすぐだから、大人しくしといてよ」

 落とさないようにするためか、シャーはどこからともなく紐をを取り出すと、口を使って刀と右手を縛り付け、もう一度ラティーナに言った。

「必ず無事に抜け出してあげるから!」

「あんたに助けてもらいたくなんかないわよ!」

 ラティーナの声は冷たい。シャーは、ハッとしたような顔をして彼女を見た。

「な、なんで? どうしたの?」

 怪訝そうに、しかし心配そうな顔をして、シャーは尋ねたが、それにラティーナが答える暇は全くなかった。

 音が聞こえ、シャーはあわてて頭を下げた。

 上を大きな刃物が通り過ぎていく。とはいえ、今のは相手も走りながら投げてきたものなので、シャーが頭を下げなくてもそれは命中はしなかっただろう。

「ちっ、しっつけえなあ! あんたら、絶対、女の子にもてないぜ!」

 人のことは言えない言葉だったが、相手もそれに対して返してくるほど余裕はないらしい。続けて、足元に短剣が襲ってくる。

 走りながら、シャーは出口を探した。いくら女性だといっても、人一人抱えるのは、かなりきついものである。

 まさか、正面の門から飛び出すことはできない。

(さぁてと、どうしたもんかな)

 軽い男なりに、彼は複雑な顔をした。

 このまま、訳も分からず走っても仕方がない。ラゲイラの屋敷の窓は、高いところにある。特に屋敷の中でもこの周辺は厳重につくってあるようだった。邸宅の様子を外側から見られないよう、または侵入者を入れないように一階には窓がほとんどない。

 だからここに降り注ぐ月の光は、おそらく上にある窓からなのだろう。

 シャーはふいににやりとした。

「な、何よ?」

 その表情の変化は、ラティーナを不審がらせる。そんな彼女に、シャーはにんまりと笑って見せた。

「ラティーナちゃん。高いとこ、平気?」

「な、なに言ってるの?」

 いきなり、シャーが変なことを言うので、ラティーナはとまどった。同時に嫌な予感がした。おまけにいきなり向かう場所を変えて、突然二階の方に走っていく。

「それじゃあ、賛成ってことで!」

 直接応えないラティーナを勝手に肯定したことにして、シャーは階段を一気に上りきった。前からも兵士がやってきたが、なにぶん暗い。

 おまけに、シャーが、「警備のみなさま、ごくろうさーん!」 などと馴れ馴れしい声を上げて、一瞬のうちに通り過ぎたので、彼らは呆然として動きが遅れたようである。

 二階には、明かり取りの窓がいくつもある。シャーの考えが一瞬でわかったラティーナは、悲鳴に近い声を上げた。

「ちょ、ちょっと待って、それはやめてー! 無茶よお! ダメ、あたし、高い所嫌!」

「ごめんなさ~い! もう遅かった~!」

 シャーが本気かどうかわからない素っ頓狂な声をあげ、飛び上がって窓枠を踏みつけると一気に体を宙に躍らせた。

 月の光に照らされた庭が、少しだけ見えた。その高さにラティーナは恐怖のあまり顔を引きつらせた。

「きゃああ! 馬鹿ああ!」

 ラティーナは悲鳴をあげ、慌ててシャーの体にしがみついた。夜の風が、彼とラティーナの髪の毛を吹き上げる。そのまま、彼らは窓から下へと落ちていった。




 *


 ラゲイラは、とある一室で話し込んでいた。

 その部屋は、この屋敷の使用人でも滅多と近寄らない場所にある。事実上の隠し部屋でもあった。

 暗い部屋だったが、調度品は豪華で客間として機能もしていた。

 ラゲイラは秘密の客人と話すときに、この部屋をよく使っていたのだった。

 客人は豪華な椅子に腰掛けていたが、少し落ち着いていない様子だった。

 まだ若い男。そして着ているものなどからも、その男が貴人であることがわかった。今は何かおもしろくないことでもあったと見えて、不機嫌でいらだっているようだった。

 その気むずかしそうな客人を怒らせないよう、ラゲイラは気を遣いながら尋ねた。

「殿下。シャルル=ダ・フールの動きはどうでございますか?」

「どうもこうも、相変わらず寝室にふせったままだ。ここのところ、一ヶ月ほど、動く気配はない。……宰相のカッファは、相変わらず国の建て直しに気をとられていて、我々の存在には気がついていないようだ」

 男の返答は素っ気ない。

「そうでございますか」

 ラゲイラは、少しにやりとする。

「それでは、そろそろ、こちらも動いた方がよろしいかと存じます。準備はすでに整えましたし、これ以上待てば、さすがにカッファ=アルシールに気づかれるかもしれませぬ」

「だが、お前の方はどうなのだ」

 貴人らしい男は、眉をしかめた。

「どう、と、おっしゃいますと?」

「とぼけるのはよせ。シャルルのイヌに嗅ぎつけられたという話を聞いたぞ」

「あぁ、その話でございますか」

 ラゲイラは、少し複雑そうな顔をした。実は先ほど、部下から、密偵とラティーナを取り逃がしたという話を聞いたばかりなのである。

「しかも、逃げられたとか」

「確かに、それは事実ではございます。そのことに関しては、言い訳いたしません」

 男の口調に焦りと怒りが混じる。

「あの狂犬が密偵と対決した際、一人で戦ったのが原因だと聞いたぞ。わざと逃がしたのでは?」

「狂犬? ジャッキールのことでございますね?」

 ラゲイラは、ふとため息をついた。

「殿下はあの男を嫌われますが、あの男は信頼には足る人物です。一見、危うい人格の乱暴者にも見えますが、あの男の中身は一流の武官でございます」

 ラゲイラのいいようは、ジャッキールをかばうような口ぶりだ。

「今まで私が、前宰相ハビアスや第二夫人の刺客から襲われたとき、あの男にずいぶんと世話になっております。そもそも、あれは食客として、私が無理やり引きとめたもの。危険な性格はしておりますが、欲のない男ですし、こちらが信用してやれば、けして裏切ることはありません。今のようにさしたる根拠もなく疑っておりますと、彼は我々を見限ってしまうかも……」

「野良犬に少々肩入れしすぎではないか? ともあれ、私は反対だ。あんな不吉な男をとどめておくなど」

「そうでございますか……。殿下がそういわれるのなら、今回の計画の中心には置きません」

 ラゲイラは忌々しげに吐き捨てる男をみながら、ため息をついた。

 残念そうなラゲイラと対照的に彼のほうは、すでにそのことに興味がなくなったらしい。少しいらいらしながらこう切り出す。

「どうするつもりだ。密偵が生きているならシャルル=ダ・フールに報告する。シャルル=ダ・フールという男は、あれで頭がキレる。すぐに我々をつぶそうと動くはずだ」

 ラゲイラは冷静に、そして、わずかに微笑みながら言った。

「ですから申し上げているように、今すぐ先手を打つのです。もとより、私の方の手の者は、すでにシャルル=ダ・フールの宮殿内にもたくさんおります。手勢は私の私兵とそれからハダート将軍のものが揃っております。すでに、こちらの状態は万全。シャルル=ダ・フールとて、まだ、詳細を知らぬはず。それに、カッファもシャルル=ダ・フールも今はまだ、全ての臣下を即座に自由に動かせるだけの力はございません。何しろ、シャルル=ダ・フールの戴冠には反対する者達もまだ多いのですからな。おまけに、今は将軍達は内乱の再発に気を取られ、それぞれ警戒している状況にあります。おそらく、七部将の中では、ゼハーヴ将軍以外すぐに動ける状態にはないでしょう」

 ラゲイラは、静かな目に不穏な光を宿していった。

「ですから、我々の方が先に行動するのです」

「行動だと!」

 男は少し興奮したような口調になった。

「早すぎやしまいか」

「殿下」

 ためらう様子の男に、ラゲイラは詰め寄る。

「ご決断を。やるとすれば、今より二日間の間です。それができなければ、我々は壊滅するかもしれませぬ」

「しかし……」

 蝋燭の火が、男のため息でゆらりと揺れた。ラゲイラは、静かに沈黙している。遠くで馬蹄の音がきこえているだけで、都の夜は実に静かだ。

 だが、その馬蹄の音が徐々に奇妙であることがわかってきた。闇にひびいたのは、一騎二騎の馬ではないらしい。十騎ほどはいると思われる複数の馬蹄の音。

 それが、徐々に近づいてきたとき、ラゲイラは、不意に顔を上げた。

 ちょうどその時、外で馬のいななきと人の号令らしいものが聞こえ、一行が止まったのがわかった。どうやらこの屋敷の付近のようである。

「何だ、こんな夜更けに」

 貴人らしい男は怪訝そうに首を傾げただけであったが、さすがにラゲイラは鋭かった。ただならぬ様子を察知して立ち上がる。男が口を開きかけたが、ラゲイラが先に言った。

「失礼いたします、殿下。少々、『こと』が起こったかもしれません。これよりおさめて参ります」

 そう断り、ラゲイラは急いで部屋の外にでた。進むうちに、慌てた様子の召使いとすれ違う。召使いは、あっと叫びそれから急きこんでこういった。

「た、大変です。こちらにジートリュー将軍が!」

「ジートリュー将軍だと!」

 ラゲイラは、苦い顔をした。

 それは七部将の一人で、ジェアバード=ジートリューだ。彼はザファルバーンの名門豪族の生まれであり、最大の兵力を擁していた。彼は有名なシャルル=ダ・フール支持派であって、彼の協力なくして彼の即位はあり得なかった。

 まさか、企みがばれたのだろうか。と考えたが、それは違うだろう。

 それなら、十騎やそこらで訪れるわけがない。それにジートリュー将軍は、どちらかというと力任せな将軍だと聞いている。知性派のラダーナ将軍や七部将のまとめ役であるゼハーヴ将軍ならいざ知らず、鈍いジートリューが他の者もまだ気づいていないだろうこの企みを知るわけがない。おまけに、やることなすこと派手な彼が隠密行動を任されるはずもないのだ。

「いいでしょう。私が直接会ってきましょう」

 ラゲイラは召使いにいい、そのまま進む。慌てて、後を召使いが追いかけてきた。

 



 果たして、玄関にはジートリュー将軍が、兵士数十名と一緒に立ちはだかっていた。

 がっしりした体に、精悍な顔つき。大きな目をしていて、それがラゲイラをじっと見ていた。その髪の毛は、噂通り燃え上がるように真っ赤だった。

 彼の一族は、赤毛の一族として知られている。そして、その気性もまた火のようでもあった。

 それゆえに、七部将の中で対照的なハダート=サダーシュとよく比べられていた。

 ハダートを「水」に例えれば、ジェアバードは「火」。ハダートが「水の将軍」なら、ジェアバードは「火の将軍」。

 ザファルバーンの民衆が、面白がってそういうのは、彼らの性格だけではなく、外見も含めてのことである。そして、その例え通り、彼らは犬猿の仲であるというもっぱらの噂ではあった。

 蝙蝠ともいわれる節操のないハダートと、あくまで忠誠心の強いジェアバード。普通に考えて、彼らが相容れるはずがない。

「こちらにハダート将軍がいるとの話を聞いてきたのだが!」

 ジートリューは、軍人らしいよく通る声で、やや高圧的にそう尋ねた。

 ハダート将軍と喧嘩でもしたのかもしれない。ラゲイラは、彼らが仲が悪いことを思い出し、そう考えた。

 ジートリュー将軍は別に横暴な男ではない。ただ、目的を得るとどこまでもまっすぐなのだった。だから、彼がこんな無礼な行動に出ても何も不思議ではなかったし、軍閥としては最大の力を持つジートリューがいくら無礼だからといっても、軽々しく罰を与えるわけにはいかなかった。

 だからこそ、ラゲイラは、この将軍が幾ら無礼でも何一つ文句を言わなかった。もともと単純な男である。口でまるめこめば、ジートリューは帰るにちがいない。計画に気づいていない者を警戒して、かえって怪しませてはやぶ蛇である。

「ハダートさま? さて、確かに、わたくしはサダーシュ将軍とは懇意にしておりますが。何の御用ですか? ジートリュー様」

 ラゲイラは、愛想笑いを浮かべてすっとぼけた。ジートリューは、そういわれて少し困った顔をしたが、すぐに何か思いついたような顔をして声を高めた。

「ハ、ハダートが私に金を借りたが、返してもらっていないのだ。昨日までに返す約束だったのだが!」

 妙にたどたどしい言い方であるが、ジートリューはもう一度武人特有の高圧的な言い方で続けた。

「ハダートの家のものに訊けば、こちらに出向いたとのことでな。あぁ、深夜だとは思ったのだが、どうしても今夜会わねばならんと思っていた! 私にも火急の事情がある。だからこそ、あの男に至急面会せねばならなくなった! ハダートの奴が私を騙したという可能性もあろうことであるし!」

 ラゲイラが冷静なせいなのか、それとも他に理由があってか、彼の言葉は徐々に怪しくなってくる。とにかく、ジートリューを後は少し説得すればいいだけである。

 ラゲイラは少し安心し、これでジートリューを帰せると思った。だが、不意に後ろから問題の張本人が現れたのである。

「何かあったのですか?」

 ひょっこりとラゲイラの横から顔を出したハダートを見て、言葉の続けようを失っていたジートリューはようやく救いを見いだしたように叫ぶ。

「ハダート! 私が貸した金を返せ! 至急必要なのだ!」

 ハダートは、肩をすくめる。

「深夜になんだ? 礼儀を知らん奴だな。しかも、どこに押し入ったと思っている?」

「う、うるさい! 私は至急の用があるのだ! この詐欺師!」

 ハダートが、ひく、と眉を動かした。ラゲイラは、危険な匂いにハッとする。

「貴様とは直接話をしなければならないようだな! この、七部将の面汚しめ!」

 ハダートの暴言は、短気なジートリューの短い導火線に火をつけたようだった。突然、顔を赤くした彼はハダートの胸ぐらにつかみかかる。ややハダートの方が背が高いが、どう考えてもジートリューの方が強そうだった。

「何だと! それは、貴様だろうが!」

「表へ出ろ!」

 ハダートは叫ぶ。

「ああ、とっとと出てこい! 卑怯者!」

 ラゲイラの目にも、まわりの部下達の目にも、それは一触即発の危機に見えた。まさか、屋敷で将軍に刃傷沙汰を起こされては困る。ラゲイラは慌てて止めに入った。

「お、お待ちを! ここは、わたくしに免じて……」

「ええい! 構うな!」

 ラゲイラの手をジートリューが払う。ハダートが、慌ててラゲイラとジートリューの間に入った。

「何をする! ジートリュー!」

「うるさい!」

 ハダートはちらりとラゲイラに目をやり、申し訳なさそうに言った。

「失礼します。ラゲイラ卿。私のせいでこんな事に。今日はこの馬鹿を連れて、とりあえず外にでることにします」

「何をいっている!」

 ジートリューを無視して、ハダートは続けた。

「それでは、後日また」

「おい! ハダート=サダーシュ!」

「うるさいぞ、狂犬!」

 ハダートは一喝した。

「今日、これ以上騒ぎ立てるようなら、ゼハーヴ将軍とシャルル=ダ・フール国王陛下にこのことを報告するぞ! そうしたら、いくらお前でもこれ以上の横暴が通せまいな! お前が将軍の位でいくら威張っていようが、陛下から命令が下されて、断罪されれば下手をすると首が飛ぶ! それでもいいのか!」

 口調だけ強くいいながら、不意にハダートは困ったような目線をジートリューに向けた。頭に血が上っていたジートリューだが、それを見ると少し慌てて態度を変える。

「そ、それは……」

「困るだろう?なら、私と一緒に出ろ! 話はそこでつけてやる!」

 ジートリューは、怒ったようにマントを乱暴に翻し、きびすを返した。武官の靴が、石畳の廊下に甲高く響く。それから、ハダートはまた申し訳なさそうな顔をし、ラゲイラに一礼した。

「申し訳ありません。それでは、また」

 それから、ハダートはラゲイラに背を向け、そろそろとジートリューの後を追った。

ラゲイラ邸の門を出、とうとう人気がなくなると、ハダートは急に態度を一変させた。今までとは違い、貴族らしい物腰は一気に溶けてなくなり、ラティーナの前のような無頼のような態度になる。

「何が、借金を返さないだ」

 ハダートは、じっとりと横目でまだ黙っているジェアバード=ジートリューを見やった。

「冗談じゃない。俺がお前に金を借りたことがあったか? もっといい口実はなかったのか? かっこわるいったらありゃしないぜ。大体詐欺師なんかいいやがって!」

「私にはラゲイラと親交がない。いきなり現れたらおかしいだろうが! お前の手紙には来いとしか書かれていなかったので、私だって考えたのだ!」

「しかも、もっと丁寧に芝居がやれないのか? ジェアバード」

 ハダートは、ため息をついた。

「俺とお前の仲が悪いという噂がなければ、あれはバレバレだな」

 巷で聞かれる、彼らが水と火という噂は、全く正しくなかった。

 ジートリューとハダートは実際よく言い合いをするが、それは喧嘩ではなかった。それを周り者が誤解したこともあろうし、印象からの噂も相当先行しているのだろう。

 ハダートはその噂をうまく印象操作に使っているが、実際、彼ら二人は家族ぐるみで付き合いのある親友だった。ハダート=サダーシュが、この世で唯一無条件に心を許す友人が、彼ジェアバード=ジートリューでもあった。

 ハダートは困ったとき、必ずこの噂を逆手にとって彼に協力を依頼する。それなもので、ジェアバードも、彼が相当困っているのを感知してここまで助けに来たのだ。

 しかし、ジェアバードは、あまりにも不器用だった。今回は幸い、焦っていたらしいラゲイラが気づかなかったから良かったものだが、ハダートが名演技を見せたところで相当危うかった。

 ハダートは自分の芸達者ぶりをこういう時は、褒めてやりたく思うのである。

「ほんと、ばれるかとおもって、冷や汗かいたぜ」

 ジートリューはそれをきき、とうとう今まで溜まり溜まった憤慨を爆発させるように、怒鳴り始めた。

「そんな器用なことができるか! そもそも、ああいうやり方は私は好かない! 貴様が、アレを助けるには、どうしても私の助けが必要だと手紙に書いてくるから仕方なくやったんだ! おまけに、いきなりののしるとはどういう了見だ!」

「声がでかいっつの!」

 そういわれてジェアバードは、少し反省して黙る。

「まぁ、ちょっと言い過ぎたかもしれないが、俺も大変だったんだ。大目に見ろ」

 ハダートは取りなすようにいった。不意に空から黒い鳥が飛んできて、ハダートの肩にとまった。艶やかな黒い羽が印象的なカラスで、ハダートによくなついている。

「ご苦労、メーヴェン」

「その鳥は夜目がきくのか? 正確に私の屋敷に飛んできたぞ」

 ジートリューがいうと、ハダートはカラスを撫でながらにやりとした。

「さぁ、それは、本人にきいてみないとなあ」

 ジートリューは肩をすくめた。カラスのメーヴェンは、羽をのんきに繕っている。

「で、首尾はどうだ?」

 ぶっきらぼうにジートリューに訊かれて、ハダートは思い出しながら応えた。

「まぁまぁだな。……あの腐れ三白眼が乗り込んでこなかったら、作戦成功だったんだが。今回の事で、俺もちょっと疑われてしまったかもしれない。全く、何を考えてるんだか。あれだけは予想できない」

 ハダートは文句を言う。

「仕方がないだろう? アレの行動を読めといわれた方が、難しい」

「……しかし、今回はちょっと穏便にすまん事情があってな」

 ハダートは、半分おもしろそうな顔をして言った。物言い自体はひどく気の毒そうなのであるが、その顔はどう考えてもからかい半分である。ジートリューは、不審そうに彼を見た。

「なんだ?」

「陛下の暗殺を企ててる女がいるんだが、あの三白眼が、どうやらそれに惚れてしまったらしくて、それに協力しているみたいでな」

 ハダートは、にやりと笑いながら横目でジートリューを見た。その意味ありげな視線の本当の意味に気付き、ジートリューは少し顔色を変える。

「おい、それは! あ、相手はどこのどいつだ」

「サーヴァン家のラティーナ。……ほら、ラハッド王子の婚約者だった姫様だよ」

「……ああ、なるほどな……。あの娘は確かにあれの好みだな」

 ジートリューは納得したような顔を一旦してしまい、すぐに顔色を変えなおした。

「そ、それはまずいだろう! よりにもよってラハッド王子は……! それに、そもそも、あれが国王暗殺に協力したりしたら、ややこしいことに! 第一、恋愛事情が絡むといつも悲惨なことになるだろう?」

 ハダートは、腕組みをして相変わらずの様子で答えた。

「でもよ、本人がそういうなら仕方ないだろう? 俺は黙って見てたいね」

「止めないのか!?」

「止めて止まるような奴か? そもそも、止める権利も俺達にはないかもなあ」

 言われてジートリューはぐっと詰まった。

「……確かに」

「だろう? ジェアバード。まぁ、ここはあのヘンな青二才がどんな答えを出すか、じっくり観察するとしようかね?」

 明らかに状況をおもしろがっているだけのハダートを、ジートリューは睨んだ。

「……お前は、冷たい奴だな。あれが振られるのを見ているつもりか?」

「何が? どうせ、我々が説得したところで、聞き入れるような男じゃあるまいし。それに、恋愛に後方支援は無理だし。策をあげたところで、あれで卑怯な手はいやがるし?」

「それはそうだが……」

 ジートリューは困惑気味である。

「あれはあれで、俺達よりも頭がいいんだ。ま、馬鹿には違いないけどな」

「そんなこと言われなくてもわかってる!」

 ジートリューはぶっきらぼうに答える。それでも、何となく納得できない所があった。

「だが!」

「だが?」

 意地悪くハダートに訊かれ、ジートリューは詰まる。やがて、燃えるように赤い頭をかきやって、ジートリューは、仕方なく矛を収めた。

「まぁまぁ、そういう心配はカッファさんがやってくれるさ。俺達は、横から見てればいいんだよ」

「お前のそう言うところが冷たいといっているのだ。まったく、お前の細君を私は尊敬したいところだ」

「お前も結婚しているだろう。お前にできることが、俺にできないわけがない」

「減らず口も大概にしておけ」

 ジートリューは睨みながら言った。彼らのやりとりはいつもこのようなもので、戦場でもこんなやりとりを続けている。それを遠目に見た兵士が喧嘩しているととってもおかしくはないかもしれない。

「まぁ、後は、あのラゲイラがどう出るかだが。証拠はつかめたのか?」

「それができれば苦労してねえ」

 先ほどの話を打ち切ってジートリューが言うと、ハダートは、不意に難しい顔をした。

「どうも、あのタヌキオヤジ、証拠を掴ませてくれなくてな」

「なるほど。しばらくは、まだ様子見というわけか? それとも行動するまで潜むかどちらかだな」

「あぁ。これで失敗したら見事に反逆者だな。俺も損な役回りだぜ」

 ハダートは笑んだが、そのほほえみにはこの任務の難しさが投影されて、ずいぶんと複雑な表情を刻んでいた。

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