時間が昼に近づき、客が増えてきた。学生が多いようだが、テーブル席にみんな座り、カウンターには誰も近づかなかった。

「ここは常連さん用なのよ」

 わたしと結城ゆうきの前に、今は小さなカップが置かれている。透明に程近い液体は、アルコールだ。弁当が片付くと、美鈴みすずさんがそっと出してくれた。彼女は今、他の客の相手をしている。どこでもクスクスという、彼女独特の笑い声が聞こえた。

みさきがわたしに近づいたのって、手首の傷を見たから?」

「たまたまだよ。岬ちゃんってば、みんなより二歳年上だから、寂しかったのだよ」

「わたしが浪人してるってなんで分かったの?」

「知らなかったってば。講義のほとんどが重なってたから、それとなく意識して見てたら、見る見る傷が増えていくんだもの、声かけちゃったわけだよ」

「わたしも未練たらたらだから」

「だから、いなくなっちゃうことはないって思ってた」

「それにね、ちょっと驚くことを教えるとだよ?」

 結城が近づいてわたしを見上げたので、わたしも顔を潜めた。

「ママのリストカット、嘘だから」

「え!」

「芝居だよ。ママってば、学生の頃演劇やってたんだって。今でもお手伝いをよくしているらしいよ。だから、ママにお願いして、言ってもらったのだよ」

「ええ!」

 わたしは小さな声で、二度驚いた。

「きっと岬は気がついてないだろうけど、岬がわたしに感じたのと同じように、岬もわたしと同じだと思ってた」

「えーっ!」

 三度目。

「だって、この間もそうだけど、泥酔の中で岬、ぺらぺら喋ってるよ」

「嘘」

「嘘じゃないって。岬って、すぐに泥酔する上、記憶なくしちゃうから、きっと覚えてないんだろうけど」

 わたしは俯いた。

「だけど、きっと大事なことなんだろうなって思ってたから、わたしは聞いたことがないふりしてたんだけど」

「ごめん」

「謝るところ?」

「ううん、ありがと」

「そうそう。感謝だよね、むしろ。だから岬からの話は大体予想がついてるし、短くていいよ」

「岬ちゃん、うれしいです」

 泥酔するとわたしは確かに記憶をなくすことがよくある。イギリスでもそれで危険な目にもあったことがある。結城に誘われて彼女の部屋でお酒を飲んだ時、わたしは、わたしが伝えようとしていることをすべて話してしまったのだろうか。

 結城はカップを手に持つと、一気に喉に流し込んだ。わたしも真似をする。喉が熱い。胸も熱い。お酒のせいだろう。

「じゃあ、わたしが今付き合ってる人って、知ってる?」

「もう、岬はずるいなぁ。正確に付き合ってる人はいないんでしょ?」

 どうやら本当に話してしまっているようだ。多くの男性と関係を持っているが、どの人とも本気じゃない。わたしは頬が熱を持つのを感じる。きっとお酒のせいだと思うが、五月雨屋さみだれやの日本酒で記憶をなくしたことはない。

「わたしの理想は高いから」

「年齢が、ね」

「うん……」

 結城の声の調子はいつもと変わらない。それが嬉しかった。

「じゃあ、今度はこっちの番ね。岬は話してくれたわけだし、今度はこちらの秘密をばらしますか」

 結城は、なぜか笑った。

「聞いちゃったら、戻れないよ?」

「力になるよ」

「わたしの今好きな人が、もしかしたら、人を殺した、かも」

 頬の熱が落ちる。わたしは驚いて顔を上げた。声が出ない。

「わたしが最近寝不足な原因はこれ。驚いた顔をしてる。その人との関係を話すよ」

 結城は、前を向いたまま、淡々と語り始めた。




 インターネット上にある、スーサイダー・バーサスというサイト。結城は、そこができた初めの頃から利用していた。スーサイダーは、スーサイドにERを付けて、自殺する人という意味をかってに作ってネーミングしたようだ。最初は自殺志願者が集まるサイトだったのだけど、管理人は、どちらかというとそれを止める人だった。だから、バーサスという名を後で加えたそうだ。それで、結城は、Yu-kiとして、そこに自殺する側として書き込んでいた。死にたい、という内容だ。理由なんてさしてない。軽い返信をしてくれる人はいる。けれど、その人は直接メールで返信をくれた。掲示板上でよく名前は見ていた。ERTという人物だった。その人はメールで、死にたいのなら、その命を売って欲しいと言ってきた。

 怖かったが、次第に理解できるようになっていった。

 ERTの本名はユイ。キーボードでERTの次にYUIが来ることから名づけたハンドルネームらしかった。相手が女性であると知り、結城は一層悩んだ。Yu-kiと書き込んでいた結城は、一人称をわざとボクと書いていたからユイは結城のことを男だと思っているかもしれない。メールで正直に、自分の本名を結城ゆうき静江しずえといい、女だと告白した。けれどユイは、おそらくそうだろうと思っていて、これで確信が持てた、と返してきた。

 結城を殺す快感を味わいたい、というのがユイの主張だった。

 実際に会って話してみると、ユイは、結城よりも若かった。二年浪人し、大学の二年生である結城は二十一歳だ。だが、ユイは短大を卒業して就職したところで、まだ二十歳だった。ユイは結城に、本当は死体を抱きたいのだけど、その勇気はまだないと告白した。結城はユイになら殺されてもいい、と思った。リストカットではない。殺されることを自分は望んでいるのだ、と。自分でも理由はよく分からない。だが、一度そう思ってしまったら、もうそうとしか思えない。

 ユイのアパートへ行き、そこで、首を絞められた。そのまま抱き合った。今まで味わったことがないほど、気持ちがよかった。

 逆説的な、生きる悦びを知ってしまった。

 ユイは、結城にお金を渡した。命を買った代償だ、と。最初はそれを受け取っていた。けれど、ユイとの関係が続いていくうちに、一度も命を失うことはなかったし、お金を受け取ることが苦痛になっていった。自分の命など、ユイになら無償で差し上げてもいい、と本気で感じる。

 それは、先週の火曜日まで続いた。その日、ユイは苛立っていた。仕事で失敗したらしい。自分のせいかと思ったが、そうではない。ユイはその日も、二万円を払った。

「わたしとユウキの間には、これ以上もこれ以下もない」

 ユイが最後にそう言った。




 そこまで話を聞いた時点で、店の雰囲気は変わっていた。照明が変わり、少し暗くなっている。美鈴さんの代わりに、よく見知った男の主人がカウンターの中に立っていた。他に客も見えない。

「それで、本当は先週の週末にまた、彼女に会う予定だった、それなのに」

 彼女は、今は会えない、と。

「わたしではない、他の人の死を、間近に味わってしまったの。だから、わたしはその死の真相を知りたい。彼女が殺したのか、偶然、そこに居合わせたのか」

 というのが、結城の話だった。

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