回顧17-01 無能な神様




 『内灘みこと』にとって、つまりは五歳の男の子の世界にとって、一体何が大切なのか。何が一番優先順位が高いのか。


 私たちは見誤っていた。

 ミコトくんがお母さんを想うその気持ちが、自分の未来を願う気持ちよりも大きなものだと──自分のお母さんの安否が、その身を覆う呪詛なんかよりも大切なものなのだと。

 大きく見誤っていた。少なくとも私は、計り損ねていたのだ。


 ──何が『知っている』だ。愚かな私は、何も知らないじゃないか。




「童、そんなに簡単な願いで良いのかい? この産土神ツクヨミノミコトを前にして、本当に願うべきは──うふふ、これは野暮な問いかけだね。君の純真に敬意を払い、僕は素直に聞き遂げよう。その願いに、添い遂げようとも」

「神様、重ねて俺からもお願いしますよ。神様にとってはちっぽけな願いでも、うちの息子にとっては何よりの願いなんですから」


 内灘さんがおもねるようにして言った。私が初めて耳にする調子で、目の前の神様に向けて、ご機嫌を取るようにしてへつらいの笑みを浮かべる。しかしその目は真紅に血走り、狂気と高揚にまみれていた。


「赤い人、君はやはりふざけているね。あるいは狂っていると言った方が良いのかな」

「いいえ、俺はいつだって正気ですよ。大真面目で生真面目で、真面目以外に取り柄の無い男です。気の利いた冗談の一つも言えやしない」


 ツクヨミ様の嘲笑を、内灘さんが同じように嘲笑で返す。しかしツクヨミ様は、一転して真顔に戻ると、感情を宿した声で言うのだった。赤い人を一笑に付すのではなく、極めて真摯な態度で、神妙の限りを尽くして──耳を疑うような言葉を、吐き出したのだった。


「僕はね、人間というものが時々嫌になるよ。──、一体どの口がそんな台詞を吐くのかな」

「どういう……こと?」


 消え入りそうな声で問いかけたのは私じゃない。ミコトくんだ。


「ふはははは、さすが神様、何でもお見通しだ。ミコト、安心しろ。愛しの母ちゃんになら今すぐ会えるぜ。何と言っても、ここに在られるは産土神様だからな。生き返りも蘇りもお手の物だろうよ」


 私とアラタは、目を見開いてそのやり取りを聞いている──否、ただ聞いている事しか出来なかった。その会話の内容を理解する事を、理性のすべてが拒んでいた。


「ツクヨミ様、私からもお願い申し上げます。ミコトさんのお母様の保存状態は、お世辞にも良いとは言えません。しかしツクヨミ様ならば、どうにか出来るものと考えております」


 繰絡さんの言葉が、私に重々しい絶望を与えた。繰絡さんさえもが、確固たる自分の意志を持って、内灘さんの狂気に加担している事が救えなかった。

 偽悪的なのは、悪魔的なのは──絡繰さんも同じだ。知っていたのならば、狂っているのは繰絡さんも同じなのだ。


「……イオリちゃん? どうしたの? 何を言ってるの?」


 掠れた声が問いかける。私は思わずミコトくんを抱きしめた。その小さな身体ががくがくと震えている。抱きしめる腕にどれだけ強く力を込めても、ミコトくんの震えが止まる事は無い。


「ミコトくん、私と帰ろ? これからの事は、ゆっくり考えればいいよ。ね、私のお家に帰ろ?」

「俺もリサに賛成だ。大人には付き合いきれねーよな」


 取り繕うようなアラタの声が私に賛同する中、私の思考回路がようやくゆっくりと動き始めた。


 ミコトくんのお母さんは、すでに亡くなっている。要するに逃げられたのではなくて、ミコトくんのお母さんは──。そしてツクヨミ様の言葉。腐乱した死体──同じ屋根の下に住まわせている。それはつまり、つまり何を意味して──「開かずの間!」

 思わず飛び出た私の声に、ミコトくんが身体を竦ませた。


「内灘さん、答えてください。あの部屋には──あの開かずの間には、一体何が……」


 この家に来た初日、決して覗かないようにと釘を刺された開かずの間。入り口に仰々しい蝶番がぶら下がった、ミコトくんのお母さんが以前に使用していたという部屋。

 あの部屋の中には何がある? 一体何が──眠っている?

 内灘さんの回答を待たずして、その答えは最早もはや明確だった。あの部屋に眠っているのは──腐乱しているのは。


 どだんっ!

 重たく低い音が、家屋の方から唐突に響いた。

 その音が何を意味するものなのかは、すでに考えるまでもない。


「仕事が早いぜツクヨミ様」


 吐き捨てるようにして独りごちる内灘さんの声が、私の推測を後押しする。


「──うふふ、僕を誰だと思っているのかな」


 それに続く言葉を、誰も紡げなかった。

 ただ私たちはそのまま立ち尽くし──耳朶じだに張り付く異様な音を聞き続けた。私たちの元へと確実に近寄ってくる、その異様な音だけを。


 べちゃべちゃ。

 ぴちゃぴちゃ。

 ずるずる。


 ぴちぴちと跳ねる魚のようで、ぬるぬると地を這う芋虫のような──が目の前に現れた瞬間、私に訪れた理解は、まるで場違いで的外れなものだったかもしれない。


 『あれは呪いどころか、むしろ祝福だわな』


 火之来病院の病室で、泥人形の存在について問いかけた私に、内灘さんはそう答えたのだ。その言葉の意味が、今なら理解出来る。と比べてしまえば、あの泥人形のおぞましさが、やはり見てくれだけのものに過ぎなかったのだと、痛いほどに理解出来てしまう。




 しとしとと降り続ける、雨の中──。

 私たちの前に現れたは、ミコトくんのお母さんは──。


 蛆虫と共に、笑う。

 悪臭に塗れ、腐乱に塗れ、そして呪いに塗れながら──。


 笑う、笑う、笑う。





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