回顧12-02 子供と子供(下)
そしてそんなやり取りから、早くも二日が過ぎた。最初は居心地が悪かった人様の家のお風呂やトイレも、三日目ともなると自然と慣れてくる。あたかもここが自分の家であるような錯覚に陥る──とまではいかなくとも、肩口の傷を濡らさないよう半身までを湯船に浸けながら、長々と物思いに耽るくらいの余裕は生まれるものだと知った。順応力とは恐ろしいものである。
アラタは学業の隙間を縫って、私とミコトくんの元へと顔を出してくれた。こんな状況であってもアラタが学校に通っているのは、繰絡さんの職権乱用がアラタの分の診断書を用意するまでには至らなかったからだ。また蛇足として付け加えるならば、日頃のアラタの成績が芳しく無い事も原因の一端となっている。「一週間くらい大丈夫だろ」と言い張るアラタを、私が半ば無理矢理に学校に行かせているというわけだ。
しかし相も変わらずアラタはアラタで──まるで何も無かったかのように、あるいは何があっても関係無いとばかりに、私やミコトくんへの自然体を崩さなかった。
ミコトくんは、やはり私よりもアラタに懐いていた。正直に言って悔しさを感じないわけでもなかったけれど、それも致し方ないのかなと頷ける。ミコトくんが人の気持ちを本当に理解出来るならば──読心術やテレパシーのようなものを能力として備えているならば、裏表の一切無いアラタと居る事が何よりも心地良いのは当然だったからだ。
恥ずかしながら、それは私も同じ。人の気持ちも分からないくせに──自分の気持ちが分かるのかさえも怪しいくせに、やたらと人の顔色ばかりを窺っている私は、やはりアラタと居る時間が一番心地良い。そういった意味で、私とミコトくんは仲間であると言えたし、不思議なシンパシーを感じたりもしている。五歳児に共感を覚える私が、冷静に考えれば哀れに思えて仕方ない。
そして繰絡さんも、ちょくちょく顔を出してくれた。こちらは内灘さんの手伝いの合間を縫って、なるべく顔を出すようにしてくれているらしかった。
『手伝い』というのが具体的に何であるのかを繰絡さんに問うと、繰絡さんは勿体つけるでもなく「不動産屋さんごっこ──いえ、国土交通省ごっこですよ」と答えた。すっかり聞き慣れた意味不明も、ここまで極まると清々しい。「楽しそうですね」と嫌味たっぷりに答える私に、繰絡さんは続ける。
「先生と手分けして、町中の標識に細工をしているのですよ。もちろん、普通にやっていては怒られてしまいますので、
ルビを振る──しばし考え込んでから、要するに振り仮名を振っているのか、と解釈する。いや、そう解釈したところで、さっぱり意味不明だし、やっぱり説明不足だけれど。
「つまり、神様を欺こうというわけですよ。もちろんこれは先生のアイデアですので、私の手柄のように語るのは気が引けますけれども──私は、骨を折るだけの価値がある作戦だと思っています。ツクヨミ様に向けて、偽りを示すのです。この現代において、烏丸町という地名が何処から何処までを指しているのかという事実を、神代文字を用いて捻じ曲げ
そこまでを聞いて私は、やっとその作戦の趣旨を理解した。内灘さんと繰絡さんは、その神代文字なるものを用いて、狭めているのだ。ツクヨミ様が認識する烏丸町を──烏丸町の範囲を、徐々に狭めている。おそらくは、私とツクヨミ様の交渉を実現させる為に。より良い条件で──こちらの思うタイミングで、直接交渉の場面へと持ち込む為に。
「何だか滑稽ですね。神様ってもっと、凄いものだと思っていました。人智の及ばない、高尚で高潔な絶対の存在──それがまさか、道に迷うかの如くこの烏丸を彷徨っているだなんて」
「やっぱり梨沙ちゃんは聡明ですね」
そう言って短く微笑むも、繰絡さんはそれ以上を語らなかった。掴み所の無い態度を思い返すと、言いようのない不安が私を襲う。
湯船に浸る足を遊ばせながら、私は思い浮かべた。この烏丸町で、人々に崇められている刀匠の事を。率直で崇高な信仰を、不用意にも一身に引き受けてしまっている屶鋼宗一郎の事を。
神様が滑稽なら、爺じだって滑稽だ。少なくとも私にとっては、高尚で高潔な絶対の存在などではない。そんなはずは絶対に無いし、断じて在ってはいけない。屶鋼宗一郎がただの老人だという事実を──ただの頑固なお爺ちゃんだという事実を、私だけは知っていなければならない。
心許なさを静めるように、木製の洗面器に溜めた水へと顔を沈めた。肺の空気が少なくなる程に、現在進行系の苦しさが私を満たしていく。私はそうする事で、何とか冷静を保とうとしていた。繰絡さんが私へとくれた沢山の微笑みを並べて、繰絡さんの事を信じようと努力していた。
私は一体何に胸騒ぎを覚えているのだろう。胸騒ぎとはいっても、そもそも一体何を不安に思っているのかさえも、自分自身で把握出来ていない。
「ミコトくーん? ミコトくーん、聞こえますかー?」
脱衣場の方へ向けて、私は声を上げる。広々とした浴場に、くぐもった残響がこだました。ミコトくんへの私の呼びかけは、間が抜けていて弱々しい。
「なになになにー? リサちゃん、なーにー?」
お風呂場の戸が勢いよく開き、寝間着姿のミコトくんが現れた。私は反射的に後ろを振り向いて前を隠す。たとえ相手が五歳児であっても、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
「ちょっ、ちょっと、急に開けないでよ。呼んだだけよ」
「うん、だから何さ? 何なのさ」
戸を閉めようともせずに、ミコトくんが問いかける。このまま答えなければ、この子は躊躇せずにお風呂場の中にまで入ってくるだろう。いや、呼びかけたのは私なのだから、ミコトくんは間違っていないのだけれど──。
「ミコトくん、今はどうかな? ほら、私が考えている事とか、それこそ思っている事とか、何か分からないかな? ちょっと
「うーん……ほんとは逆上せてない事くらいしか、分かんない」
虫の良過ぎる私の期待を見抜いたのか、口を尖らせてミコトくんは言った。私が分からない私も、ミコトくんならば感じ取ってくれるかもしれない──そんな浅はかな算段に恥を知れとばかりに、不服の色を隠さずミコトくんは続ける。
「っていうかリサちゃん、お風呂長くなーい? ケイのご飯もう出来てるんだけど」
「はいはい、分かったよ。出るから出てって、戸、閉めて」
まるで弟が出来たかのようなあたたかな気持ちで、ミコトくんを追い返す。こんな身勝手な姉が本当に居たら、ミコトくんの人生はさぞかし先が思いやられる事だろう。
螢子さんの作る食事は、ミコトくんの言う通り本当に美味しかった。それこそお味噌汁だけじゃなくて、唐揚げにしろ煮魚にしろ──どれもこれもびっくりするくらいに美味しかった。
爺じと二人暮らしの私は、当然自炊だって日常的にしているけれど、どうしたらこんなに味の違いが出るのだろう。それとなく螢子さんに尋ねると、「ゼロから作れば何でも美味しく出来ますよ」と、柔らかな声が返ってきた。
要するに、
──そしてミコトくんは、夜になると決まって魘された。
月詠み葬の儀が、闇夜にこそその効力を発揮しているのは明らかで、同じ部屋に充満するミコトくんの苦しげな吐息が、やるせない思いと彼の母親への憎しみを募らせる。
私は、掛ける言葉も無いままにミコトくんの手を握る。
「リサちゃん? 大丈夫だよ。ほら、僕、大人だから──」
そう言って微笑もうとするミコトくんは、私なんかよりもずっと強い。もしも私がミコトくんの立場だったら、毎夜訪れる苦しみに怯えて、日中だって笑顔を失っているに違いない。誰かが私の手を握ってくれたとしても、醜く見苦しく八つ当たりをしているに違いない。
「ミコトくん、もうちょっとの辛抱だから。私とアラタが、内灘さんと繰絡さんが──ミコトくんを必ず、助けてあげるから」
無責任であっても、私は約束する。薄く開いたミコトくんの瞳を直視して、恥知らずで厚顔な固い約束を交わす。
助けるとは、何だろう。呪いから逃れる事? この苦しみを終わらせる事? 否、ミコトくんにとっての救いとは、お母さんに赦される事ではないか。それが本当の意味での救いなのだとしたら、私は無力で──無力極まりない。
それでも私は、ミコトくんを救いたいのだ。たとえ我が儘であっても、出過ぎた真似であっても──せめて呪いから、忌まわしき月詠み葬の儀から、目の前のミコトくんを救いたいと強く思うのだ。
「ありがと、リサちゃん。僕はその気持ちだけで、本当に嬉しいんだよ──」
ミコトくんが、私の心を見透かして言う──この心を、読み取って微笑む。
「ミコトくん、違うよ。この気持ちだけじゃ、ダメなんだよ。生きなくちゃ、ほら。私みたいに、不器用でも、不格好でも、帰る場所が──生きる場所が在るんだから」
これは戯れ言だろうか。薄っぺらい
苦しげなミコトくんの表情が、水で滲んでいく。泣きたいのは彼のはずで、決して私ではないはずなのに──塞き止められない涙が、視界を滲ませていく。
ミコトくんは一体、何度こんな夜を過ごしたのだろう。こんなに長い夜に、何を想って明日へと向かうのだろう。その苦しみを想い、気が遠くなる。
「僕のお母さんもね、いつも泣いてたんだよ。僕を許せない自分が、憎くて仕方が無かったんだって──何だか、リサちゃんと一緒だね。お母さん、いつも難しい事ばかり言うんだ」
「私が、同じ? ミコトくんのお母さんと、私が……同じ?」
知りたくないものを知る。アラタの幸せを知る事で──幸せな家庭を味わう事で、私は知りたくないものを知る。自分に無いものを知る。自分の不幸せを──知ってしまう。
ミコトくんのお母さんは、一体何を知った? ミコトくんと居る事で──ミコトくんのこの能力を知る事で……そうだ、ミコトくんを愛せない自分自身を、知ったんだ。知ってしまったんだ。
思い知ってしまったんだ。
「ミコトくん、私、分かっちゃった」
「うん? リサちゃん、何が分かったの?」
苦しさを堪らえ、ミコトくんが微笑んだ。その汗ばんだ額を、私はゆっくりと撫でる。
「ミコトくんのお母さんは、ミコトくんの事が大好きだったんだ。大好きだったからこそ、とっても苦しかったんだね」
大好き。こんなに残酷な言葉が、他にあるだろうか。
大好きという言葉が──その呪いが、ミコトくんを苦しめている元凶だ。
祝いと呪いは、表裏一体。どうして私たちは、あと少しだけ器用に生きられないのだろう。
大好きなはずのものを──愛しているはずのものを受け入れられない自分を知った時、その絶望は──その憎しみは何処へ向かうのだろう。
全てを否定する事で──全てを破壊する事で、やり直せるものが在ったとしても。
それが希望だなんて、私は認めない。そんな再生を、私は認めない。
「リサちゃん、僕は……僕は生きてても、良いのかなぁ?」
虚ろな瞳が、私に問いかける。縋るように、確かめるように、私を射抜いている。
「当たり前じゃない。ミコトくんが生きるために、皆が居るんだよ」
その続きを言葉にするには、かつてないほどの覚悟を必要とした。
沈黙。
沈黙。
沈黙。
充分過ぎる程の沈黙を挟んで、私は瑣末な勇気を積み重ねる。精一杯の、ありったけの覚悟を溜めてそして──言う。
「ミコトくんのお母さんだって、きっとそれを、望んでる。ミコトくんのお母さんは、ミコトくんを最初から──赦してるんだよ」
「……リサちゃん、ありがと」
大粒の涙が、ミコトくんの頬を伝う。
やがて安らかな寝息と共に、安息が訪れた。
それはもちろん、再び夜が訪れるまでの、束の間でかりそめの安息だったけれど。
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