キチノベ
芳川見浪
気持ち違い
江戸の時代、とある小さな長屋に八つぁんと呼ばれる男が住んでいた。
この男、自他ともに認める大のお人好しで近所の評判もよかった。
酒癖は良く、仕事も真面目、しかし一見完璧にみえる八つぁんにも弱点はあった。
それはめっぽう腹が弱い事、この日も朝餉の粥を食べてからお腹の調子がよろしくない。
「あぁ、いけね。また腹が痛くなってきやがった」
八つぁんは仕事を終わらせてから真っ直ぐ行きつけの町医者に向かう事にしました。
ひらべったい檜のドアをドンドン、ドンドン。
「先生! 八でさあ、また腹が痛くなっちまったんで診察をおねげえしやす」
「何だい、また腹かい。おめえ今月に入って何度目だい?」
中から初老の男性が出てきた。小綺麗な羽織を着たその男は、呆れた瞳で八つぁんを見つめてきた。
「へい、まだ三回目でさあ」
「三回もかい、まだ今月入って十日だよ、あたしだって忙しいんだからね」
そう言いつつも先生は八つぁんのお腹に手を当てて診察を始めました。
しかし、八つぁんはそこで違和感を感じます。
その先生、いつもよりくたびれているのです。疲労困憊といったところ。
(ははあ、これは何かあったな)
八つぁんのお人好しが爆発するのは当然の事でした。
「先生、いやに景気の悪い顔じゃあありませんか、一体どうしたんでさあ?」
「なあに、てえしたこたあねえ。ちょっとばかしおかしな事があっただけさ」
「ほほお、おかしな事ってえとなんだい?」
「それがだね、今日突然ある男がやってきたのさ、その男はここに来るなり大声で、『先生! 桜木町壱番区にすむババアがキチガイを起こしたんだ』と言ったのさ」
「はあ、それがどうおかしんで?」
「おかしいのはここからさ、あたしが桜木町の壱番区に向かったら、キチガイを起こしたババアはいないってんだ。
あたしはからかわれたと思って帰ったんだがね、そしたらさっきの男が怒鳴り込んできやがった。なんでもいつまで経ってもあたしが来ないから痺れを切らしたらしい」
「はああ、そりゃおかしな話しでさあね。そいで、真相はわかってるんで?」
「ええ、実は私が向かったのは桜木町ではなくて桜樹町だったんです。
つまり、木違いだったわけですよ」
「キチガイのババアを治療しに行ったら木違いで迷子になったと、こりゃちゃんちゃらおかしいや」
「全く嫌になりますよ、ところで八つぁん、腹の具合はよろしいんで?」
そこで八つぁん、自分の腹が痛く無いことに気付いた。どうやら話に夢中で忘れていたらしい。
「元々あんたの腹は強いのさ、それを弱いだのと思い込んでいるから痛くなる」
「するってえと、なにかい? オイラもまた気違いだったってわけですかい」
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