168:慟哭

 太い首の上に乗る、不釣り合いに小さく見える頭が、こちらを向いた。

 見下ろす目の中は、空洞のように真っ暗だ。

 少しは弱ってるのかもしれないが、それでも感じる得体の知れない恐ろしさに、今さらながら全身から汗が噴き出す。


「お前の目的はなんだ!」


 気合いをいれるために吠えた。

 内容は本気で問いかけたつもりだ。

 それをスケイルが止める。


《主よ、あれは人の言葉を解すことなどない。有り体に言えば、あの醜き体に宿るのは、生への執念だけだ》


 溶けたようにただれた皮膚を引きちぎりながら、嫌な音を立てて大きな口が開かれる。喉の奥に赤い玉が見えた。それが徐々に膨らんでいく。攻撃のためにマグを集めている。

 それが、邪竜の答えだ。


 道理の通用しない相手。

 微かな違和感。

 魔物を生み出すような力を持っていながら、意思など持ち合わせていない?

 スケイルは意思を得たのに。スケイルほどでなくとも聖獣は得た。

 いや、カピボーら魔物だって、そんな風に見えるときあもった。

 それは人間が、動物の気まぐれな行動の中に、人の情を重ねただけかもしれない。


 でも、お前も人を倒すために学ぶんだろ?

 それは、ただの本能と言えるのか?

 なぜ。

 今さらな疑問だろうと、本物を前にすれば、やはり問いつめたくもなる。


 人を、生き物を喰らうのに、理由などない。

 こいつらの飯は生物のマグだから。

 人に寄り添う理由が、ないからだけなのか。


 だったら、どうして、そんなに恨みがましそうな唸りを上げるんだよ。


 それは感情ではないのか。

 もし、そこにだけ自覚があるというなら、だからこそ倒さねばならないんだろう。

 そんな恐ろしい因縁は、断つしかない。


 自らの吐瀉物で溺れたような叫びが漏れ、邪竜は頭を左右に振った。

 放たれたマグ球が分裂して散る。

 スケイルがすり抜けるように避けるのに任せ、どこか死角か弱点はないのかと観察する。


 意思を持たない。

 本当に、そうだろうか。

 生への執念が、どれほどのものかは分からない。

 そこまでの危険を、真正面から感じたことがなかった。危機があれば都度、ただ必死に動いてきただけだ。


 自然の中で生き、野性的な種の存続といった生への本能がどういうものか、人間に……俺に理解できるもんだろうか。

 生まれたときから戦争も身近に体験したことはなく、犯罪に巻き込まれたこともなければ、本当の意味で飢えに怯えたこともない。


 それでも、どこか、おかしいと感じる。

 どこがとは言えないが、なにかが引っかかる。


 引っかかるのは、スケイルが意思を得て、人の言葉を学んだことだろうか。

 こいつも、人と敵対するために進化している。


 なんで、トカゲなんだ?

 しかも爬虫類というよりは両生類っぽい。


 この世界の魔物は、地上の生き物を模している。

 邪竜……こいつもそうじゃないのか。

 こんな山の上なのに……違う。


 こいつが生まれる前は、大きな水の地だった。


 そこに、暮らしていた者たちがいた。


鱗鰭うろこひれ族……」


 滅んだと書かれていた人種。


「まさか、お前らなのか……?」


 邪質の魔素を、まさしく邪念で侵したのは、その怨嗟とでもいうのか。

 疑問に答えるでなく、邪竜は一際鋭く喉を震わせた。


 吐き出されたマグが魔物を生み出すだけでなく、地表の煙から、浮き出た魔脈から忌々しい影が増え続ける。

 あれくらいの壁ならスケイルが突っ切ってくれる。けど、あいつだけは違うだろう。魔物を避けながら、どこまで奴に近付く?


「タロウ!」


 立ち昇る蜃気楼のようなマグの煙から、ゆらゆらと魔物が形を作り、それは引き裂かれた。

 カイエン。

 追ってきたのは、俺のせいだ。もちろん来なければならないが、それは今ではなかったのに。

 他にも武器を打ち鳴らす音が届く。


「タロウ、周囲は任せろ!」

「今の、お前さんの足にゃついていけねえからな」

「悪いが、これくらいはさせてくれ!」


 あいつら……全力で走ってきたなら、動くのもやっとだろうに……。

 こんな奴を前にしては振り返ることはできない。

 コントローラーを構えなおしながら、一瞬だけ目を向けて応えた。


「聖魔素に巻き込まれないように、頼む!」


 邪竜だけを見据える。

 俺が、あいつを倒すと信じてくれたんだ。

 安心して背中を任せられる。

 たとえ見えた姿が、今にも膝が地面につきそうだったのだとしても――。

 邪竜から、目を離さない。


 そうだ。こいつが存在する限り、安全な場所はなくなる。

 好きな街が、人々が、なくなってしまう。


 酷い話を聞いて、人々は暢気なだけでもなくて……それでもまだ、俺はこの街が好きなのか。


 ああ、好きだよ。それでも。


 死ぬとか死にたくないとか……今さら、どうでもよかったろ。

 倒さなきゃ、ならない。


「スケイル、約束通り、あいつを倒す!」

《張り切ろうではないか。戻ったらお弁当を弾んでもらうぞ!》

「幾らでも食わせてやる。まずは足を狙おう。回り込め。止まらず戻る」

「クルルァッ!」


 スケイルが一声吠えると突進する。

 長く伸ばしたヴリトラソードを真横に構えたまま駆け抜けた。

 何メートルも離れているはずが、巨体の側では真下を通り抜けるような圧迫感。


 弾けた水泡から飛び散る膿が、腕を掠めた。

 おろし金で削り取られたような衝撃と熱さに、悲鳴を飲み込む。

 傷みのお陰で、腹の底から震わせる耳障りな鳴き声は誤魔化せる。


 すぐに活力が湧き傷みが消えた。

 倒したわけでもないのに、邪竜のマグは、即座に変換されるのか?

 遅れて青い火花が盛大に散ったのも見えた。スケイルの尾羽が半ばから欠けている。


 元の位置に戻り、憎々し気に喉を膨らませる邪竜と向かい合う。

 火花となった聖マグは――戻って来なかった。


 スケイルも、傷を負う……?


《赤きものごときが小癪な……》


 いつもちょっとしたことで騒がしいスケイルが、一つ唸り声を上げただけだ。

 それも痛みのせいではなく、悔しさを滲ませて。


 攻撃は通った。

 通るんだ。

 ざっくりと開いた足の傷から、膿みだかマグが流れ落ちている。

 その周辺には青い粉が散って見え、それを邪竜は煩わしそうにマグを吐きかけて洗い流そうとしているようだった。


「お前の仕業か」

《ふん、タダでくれてやるつもりはないのでな》


 今度は、通す。

 ヤツの中心に。


「動きも鈍ったな。どうにか脚を使えなくできれば動きやすくなるが」

《同じ場所は警戒して難しかろう。それに、再生する》


 はっとしてみれば、傷は既に柔らかなマグの膜に覆われていた。

 他の魔物が持つ、全ての能力があるんだ。


「少しも時間はかけられないな」

《同感だ》


 同じ手は使えそうにない。

 高出力モードをさらに巨大化する。ヴリトラソードは目を引くらしい。

 条件反射か聖魔素に反応を示す。

 意識が向くなら、やり易い。


「走れ!」


 さっきとは逆の前足を狙う。

 邪竜もとっさに対応しようとしたが、動くと皮膚が千切れるせいで俺でも動きが読める。

 動きを掻い潜って、しならせた刃は絡みついた。


「このまま戻る!」


 浮きかけた体がスケイルに押さえられ、どうにか踏みとどまった。

 巻き付いた刃から圧倒的な反発がある。爛れた皮に沈み込もうとするが、全く切れる気がしない。

 魔物ならば、高ランクだろうと触れただけで崩れるほどのものが。

 内側から吸い上げたマグで、強度を増しているような手応えに変化するのを感じて、焦りが募る。

 こうして復活した状態でも、進化し続けるようになったなんて言うなよ。


「ここで、断ち切る……折れろ、倒れろよ!」


 ちっぽけな人間、最弱の人族が一人。

 こんな綱引きに勝てるはずはない。

 今日までに、レベルは平均的な中ランク冒険者に並んだだろう。

 ここに登りつめるまでに、上位陣に入った。

 そして今も、レベルが上がり続けている。

 傷つけた邪竜のマグを吸い取りつつ、そのままヴリトラソードとして返し続ける。

 確かに触れた皮膚は崩れ落ち、傷を抉っていくというのに。


 それでも、食い込んだ位置以上には崩せない。

 引きずられる。


「一旦離れる」


 刃を解除し飛び退いた――そこに、マグ球が追ってくる。

 あっちは幾つも手段がある。

 スケイルは空中で身を捩り避けた。俺も、そのくらいで手が離れることはない。

 でも、やっぱり俺だけでは、防御面はどうしようもなかった。


 邪竜は吐いたマグ球を、俺たちにぶつける手前で破裂させた。

 スケイルだけなら耐えられる衝撃は、クロガネ装甲も遮ってくれたが、革部分に傷が入った。

 酸と化したマグに、本体は耐えようがない。

 こんな掠り傷くらいは、なんとでもなる。傷みも。

 けど二発目が放たれて、避けきれなければ――。


《衝撃に備えろ!》


 歯を食いしばると、体が地面に叩きつけられる。


「スケ、イル……」


 無理矢理に、俺を放り出した?

 邪竜から、がらがらの悲鳴が上がる。


 予想通りだ。

 真っ直ぐに、弾丸のように突き抜けたスケイルの動きに、邪竜さえ反応できない。


 俺がつけた傷口をスケイルが食い破り、邪竜の前足は中ほどから弾けた。

 自重を支えきれず、膿を跳ばしながら長い首が地面を打つ。


 地面に這いつくばっていた俺の前に、頼もしい四肢が着地する。


「よく、やった」


 スケイルの足に手を伸ばす。


《我は主にとって、最上級の聖獣足りえたか》

「当たり前だ」

《ならば良し。今度は、先に逝ける》


 振り返ったスケイルの、冠羽が広がる。

 広がりながら、崩れていく。

 体を維持するマグを使いすぎて溶けるようにではなく、砂のように。

 青い光の砂が、支えようとする俺の手を、指の間を滑り落ちていく。

 コントローラーに吸い込まれることもなく、ごつごつとした地面に零れ落ちていく。


「スケイル……」


 黒い岩肌を青に染めることはなく、ただ薄くなり、瞬きすると風に巻き上げられた土埃と一緒に消えた。


 ――聖なる世で会おう。


 風に紛れて声が頭の奥に響いた。それが体の芯まで届いて魂を揺さぶる。


 覚悟はなくとも目の前に危険が迫ってたら抗うだろ。

 それは、俺が、自分自身のことだけ考えていれば良かったからだ。

 他の誰かが同じように飛び出したのは、俺と似た気持ちでかもしれないし、後ろにいる誰かを守れる力があると信じてかもしれない。逆に、後に続く誰かを信じてかもしれない。

 でも、あいつらは前に意識を向けていた。

 なのに、俺は違った。

 なんとかできるかもしれない道具と相棒を手に入れたから留まっただけだ。

 何もできないなら、どうしていた?

 おっさんたち人族も残ったが、じゃあ何もできないのに、なぜなんて思っていたか?

 でも、俺は、便利道具がなければ何もできないと思っていた。何もなくたって、抗うという意志が、欠片もなかった。


 ――ここまで来ておきながら、まだ自分のことしか見ていなかった。


 他の誰かを失う覚悟なんか、考えるどころではなかった。


 跡形もない重みを確かめるように、開いていた手を握る。

 何もない。

 スケイルは、いない。

 もう、いない。


「ごめん……スケイル。ごめん。俺は、俺はまだ――」


 何か、一つでも、スケイルの気持ちに応えられたか?

 助けられてばかりだった。


「走れないんじゃなかった。走らなかったんだよ、俺は……」


 ゲーム外の世界に出たら、データは存在せず、忽然と消えてなくなってしまうんじゃないか。訳の分からないままで、終わってしまうんじゃないかって。盤上にいる間は駒として生きながらえるなら、せめて、この狭い世界の中で成長して、生きているのだと思いたかった。


 そう思うと、この世界には俺だけ、たった一人しか居ないように思えた。

 別の世界の人間だということを忘れて生きようとしても、ゲームの記憶はなかなか消えず。たんにモデルになった世界で、ちゃんと存在しているやつらだったのだと思っても、どうしても――俺だけが異物だという感覚は拭えなかった。


 ここでの常識を知らず、体の感覚にもなじめず。

 逆に言えば俺も、周囲を異物と考え続けていたってことだ。

 皆と距離をとっていたのは、いつでも見えない壁があったからだ。

 壁を、乗り越えられずにいたからだ。


「スケイル」


 俺についてきたときからずっと、このおかしな存在を、そのまま理解してくれていた唯一の仲間だったのに。


 スケイルが消えた跡から視線を無理に剥がし、邪竜へと向ける。

 戦うにはもう、足はないのと同じだ。


「だけど、歩ける」


 まだ自分の足が残っている。

 鈍い足だろうとも。

 立ち上がった。

 一歩、踏み出す。また一歩と確かに大地を確かめながら。


「人族の体は、こんな場所だろうが、歩くだけなら幾らだって……」


 もし、それが望まれていたなら?

 ここで生き続けるのではなく、はなっから異物として吐き出されるために送られてきたのだとしたら。


 ゲームのように、仲間を雇うことはできない。

 一人で、あいつに挑まなくてはならない。


 でも、俺一人で戦うわけではない。


 スケイルが、俺をここに運んでくれた。そうなるまでフラフィエの魔技石が助けてくれた。ストンリの防具に守られ、カイエンらが拓いた場所に立ち、シャリテイルの知識で開かれた目で見て、ビオが拠点を守ってくれると信じ――歩く。

 邪竜の元へ、歩くんだ。

 興奮で体が熱いからか、冷や汗なのか。流れ落ちる汗が、眉間を伝って落ちていくのが感じられる。


 ゲームを知ってる俺なら、勝てる。

 企画者が、あいつを倒す願いを込めたなら、そのヒントはあったはずなんだ。


 今の俺が条件をクリアしてるかは分からない。討伐可能なレベルに達していなければならないのかもしれない。

 俺は、地道にこつこつと進めすぎた。

 町を出てイベントを起こさなけりゃ、話は進まないだろうと思ってだ。

 現実となったら、そんなわけないのにな。


 ゲームではない、本物の戦い。

 けど、システム上の制約がないのなら、逆に活路を見出せる。


 まだ距離はあるのに、腹に響く重低音が頭から噴きかけられるようだ。

 そいつを睨んだ。

 膨れ上がった後悔を内に抱え込んだまま、覚悟もなにもなく。


「……だからって、このままにしておけるか」


 見知った過去が消えることはない。

 けれど、先だけを見るなら、ここは守らなきゃならない。

 現実は、すっきりはっきりなんてしない。それらを抱えているからこそ、掴む未来が輝く。


 鼻先に、ぼとりと垂れ落ちた赤い液体が岩を溶かした。

 マグの煙が立ち昇り、まるで炎に包まれたような吐瀉物が吐きかけられる。


 ヴリトラソード、伸びろ、俺を囲めるほどに――小さく呟くだけで長く伸びた青い刃を、横に振り切る。刃は俺を中心に渦となり、マグの礫を絡めとり瞬時に掻き消す。


 邪竜は、とんでもなく強い。

 けど、実態のない魔物はいない。

 必ずダメージは通る。


「通してみせる」


 信じろ、俺自身は弱くとも、仲間の補助を。

 仲間の補助を完全に受けた俺は、強いんだってことを。

 目に落ちた汗を乱暴に拭う。


「力を貸してくれるか、スケイル」


 聖なる世とやらを思い描いて問いかける。

 きっと、心に寄り添ってくれる。


 邪竜の討伐。

 それだけに精神を集中させていく。

 一点の他は、全ての光景が消えたようだった。


 相手は、絶対に勝てないかもしれない、魔物の頂点にいる怪物だ。

 作る側。魔物そのものであり、本質。

 けれど、聖魔素で傷つかない邪魔素はない。


 なぜ、邪竜のマグだけ特別なんだ。

 なぜ、死んでないのに俺が取り込める。

 魔脈に潜むマグこそが、本質だとするなら。


 刃を地面に向けた。

 青く閃く光の槍を薙ぐたびに、岩山に亀裂が走り、山に網目を作っていく。

 やたらと頑丈な山も、マグと混ぜ合わされたものだったらしい。


 奴が身じろぎする度に地表が割れ、足場を変えながら互いに近付く。


 ――――グルアアアアァァァァァアアアァァ!


 奴の咆哮が、周囲を震わせ、場を一層崩していく。黒い岩肌は、粉砕され欠片を周囲に散らす。叫びは微かに赤い霧となり、音と共に俺に向かって放たれる。

 マグ加工のようなものなのか、雄叫びは俺の全身を包むように震えた。

 まともに受け止めれば、肉塊になっている。

 維持できる限り燃料を注ぎ込むとヴリトラソードは幾らでも伸びる。それで俺を中心に、周囲を丸い檻のように囲んだ。

 それも完璧ではない。

 マグは消せても邪竜本体は即座に消えず、時おり巻き上げられた、そこらの岩の破片も当たればまずい。


 知ってか知らずか巨体が体を揺らして、地面を割り、爛れた羽を震わせてマグを撒き散らし、俺の動きを阻害する。

 マグ攻撃を消すのはヴリトラソードに任せ、揺れの激しさに転がりそうになりながら、倒れないようににじり寄る。

 邪竜の動きは力強いが、動作は分かり易い。

 またマグの塊を吐き出した。しかしマグの球は、これまでとは違い分裂して広がる。分かり易いからって、広範囲に撒き散らされるマグの礫を避け切るのは無理だ。

 少しずつ、少しずつ、防具の傷が増えていく。


 酸の咆哮が上がると、邪竜との間に赤い水の泡が沸き立ち、瞬時に獣の形となる。

 邪竜の意思で作られる魔物は、顕現も早く力も強い。それらが他の奴らではなく俺の周囲に集まってくる。

 そうだ、俺を標的にしろ。

 魔物だけなら幾らでも来い。街ではなく、ここに。


 聖質の剣は魔物の山を消滅し続ける。

 俺が掻き消せば倍の魔物を生み出すが、もう燃料にしかならない。


「何度繰り返そうと、無駄だと分かったろ」


 それでも邪竜は魔物の群れを生み出し続ける。


「広がれ。攻撃しろ」


 そして俺は青い縄を編み出し続ける。

 青い縄の渦は外に広がり、全方位に向けて剣を生み出す。

 邪竜の側で地面が割れ、魔脈がうねり、マグが噴き上がる。全ての力を俺に傾けるつもりらしい。

 もう他の人間に意識を向ける余裕もないんだな。

 たった俺一人に対して。


 でも体は、ただの人族にすぎない。


 邪竜のマグ酸のスコールが降りかかり、刃の傘で弾き切れなかった礫が、体に届く。削り続ける。痛みが苛み、徐々に集中が乱されていく。

 肩に背に腕に足が抉れ、マグとは違う赤が散る。

 その傷は、マグを取り込み続けるコントローラーが、開いた端から塞いでいく。


 激痛と眩暈。

 傷は癒えて苦痛だけが続く地獄にいる。

 それでも足はただ邪竜との距離をつめる。

 失血も続けば間もなく、傷が塞がっても意味はなくなる。

 その前に――頭と心臓だけを守り、邪竜との距離は縮まっていく。


 後ずさろうとしたのか、増やし過ぎた魔物で身動きがとれず、自らの眷属を押し潰して山を登ろうとする。スケイルが、前足を砕いてくれたおかげだ。

 俺だけなら、穴に逃げ込まれていた。

 聖魔素で傷ついた体は再生しない。傷は塞げても、なくしたものは再生し直さなければならない。


 おかげで、剣が、届く――――。


 無秩序に首を振って酸を吐きだしながらだった邪竜は、支えきれずに崩れた地面に身をうずめる。

 その激しい振動に立っていられず、地面に倒れた。這いずりながら見上げる。岩の瓦礫に挟まった邪竜の頭が、届く位置にある。

 体を捩り、抜け出そうと足掻いている。すぐにでも上ってきそうだ。

 動きが鈍った、今。

 今しか、ない。


 刃先が地面に向くようにして、剣に呼びかける。


「大地ごと邪竜を裂け、ヴリトラソード――!」


 光の刃が地面に刺さり、激しい反動が腕に伝わった。そのまま火花を散らしながら、刃は邪竜の体に届く。


 ――ギャラアアアアアァァアアアア!


 後を追うように歩き、歩くごとに暴れる邪竜のせいで揺れが大きくなる。

 耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ……。

 両手でしっかりと支えながら、邪悪な双眸を見据えた。

 生への執着心。

 お前は、ただそのためだけに生きている。

 だったら、俺だっておんなじだ。

 なんで、こんなことになってんのか分かんなくても。

 どうしてか、生きたいんだよ。


「それがお前の、正体なんだろ……」


 分厚い羽を揺らすだけで地面が震え、洞窟のような喉から吐き出される呻きは、全身が痺れるようで身を竦ませる。

 不自然な姿勢で立ち上がろうとする邪竜を見た。


 コントローラーの向きを、わずかに上へ傾ける。


「ぐぅ、あ、ぁああああ…………!」


 青い先端が、すぐに邪竜の眉間に届き、激しい抵抗が腕の芯を伝った。


 マグを突いた衝撃とは思えない、岩盤のように硬い抵抗だ。

 明らかに他の魔物とは違う。

 鉄板を素手で殴っているような痺れが腕を襲う。

 でも、見ろ、刺さってる。

 刺さってるじゃないか……は、ははは!


「離すかぁ!」


 刃は、邪竜の眉間から下あごを通って腹を貫き、地面へと刺さって、動きを縛っていた。羽や尻尾を振り回し、後ろ足を踏ん張って抜け出そうと足掻くも、踏ん張り切れない。

 刺した刃は、邪竜の体からエネルギーを取り込み続ける。

 そして、刃は、より太く、青さを強め、青白く輝いていた。

 コントローラーの刃が、貫く滑らかさを増すほど、邪竜へ近づく。

 邪竜の頭へと近付きながら、睨み合った。

 あの悍ましいほどの昏い目に、赤味が差していた。


 刃が青白さを増すほどに、手応えは軽く、邪竜の真っ黒になるほど濃密だったマグは赤へと変わっていく。

 邪竜の力を、確かに吸い取っている。

 こいつの力を、俺が奪っているんだ。


 もちろん、このままで終わるはずがない。


 邪竜の、全身に浮き出た水泡が波打った。

 心臓が跳ねる。

 歯を食いしばり、コントローラーに全身でしがみつくようにして両腕に力を込めた。


 なにがなんでも、腕が折れたって、離すもんか……このまま、くたばれ!


 水泡が膨らんで泡立ち、破れるとともに、赤い礫が全方位に発射される。

 赤い、豪雨だ。

 全身に降りかかるが、目は閉じなかった。

 邪竜の力を吸い過ぎたためか、俺の周囲には青白い聖質の霧が立ち込めている。

 それは俺の体を包むほどで、それらが赤い雨を遮る。


「ぐっ! うう……があ!」


 ただ、勢いは弱まれども、全てを遮るのは無理だった。

 体のあちこちを刺すような衝撃と熱さが通り過ぎていく。

 膝をつく。それでも腕は、固定し続ける。


 気泡の攻撃は、邪竜本体の結合を弱めたのか。

 ありったけのマグで連射を続ける邪竜の背が歪んでいく。

 歪みは激しくなり、あちらこちらを引っ張り、へこませ、皮膚をねじ切りそうに波打ち、それが全身へと広がっていく。


 そして、とうとう――首が、腹が、内側から膨れ上がり、ぴしりと布が裂けるような音が耳に届く。


 青白い光が、邪竜の皮膚を食い破り、破裂した。






 焼けるように痛かった全身が、今は痺れている。

 範囲が広すぎてか、痛みも麻痺したようだ。


 体の下から、じゅうと音がする。

 辺りに微かな煙が立ち昇り、悪臭を放っているんだろうが、おかしな臭いだと感じるだけだ。


 酸の海だ。


 立たなきゃと思いつつ、ぎこちなく首をめぐらせる。


 裂けた防具から覗いた自分の腕から、赤いものや、別の色も見えた。

 マグではない。

 流れる血は止まらない。

 塞ごうとする薄い膜も、元の形状も変わるほどでは、覆い切れないらしい。

 とにかく、その向こうに、知りたいものがあった。


 俺と同じように、横倒しになった体。虚ろな瞳と目が合う。

 すでに瞳には、赤さがない。マグ水晶のように空っぽだ。

 それでも、閉じない口から酸がこぼれ、息切れしたように胸を大きく上下させている。

 破裂して千切れかけの首回りから、マグが血のように吹きこぼれているというのに、まだ息があるのか。

 しぶといな。

 さすがは、世界を脅かすほどの存在だ。


 倒れろよ。

 せめて、俺が息絶えるより、先に。


 お前が消えるなら。

 そして、俺を助けてくれた奴らが、生きる未来を守れるなら――悔いはない。

 そうだろ?


 だから、立てよ……あと、一歩だけでいいんだ。


 動かない足をどうにか見る。

 足も、穴だらけだ。


 すぐそこに、邪竜の頭があるんだ。動けよ。


 コントローラーの持ち手を地面に刺すようにして、体を引き摺る。辛うじて動く両腕で、必死に邪竜の側へ近づく。


 最後の、マグ。

 わずかでいい、残っていてくれ。


 邪竜に近寄るほどに、酸を含んだ蒸気が肌を焼く。

 臥した邪竜の顔に向けて掲げたコントローラーから、青い光の剣身が伸びた。

 形になったのは一瞬で、突き刺さった邪竜の眼から火花が散った。

 俺には近すぎて、こいつはでかすぎた。少しの血飛沫さえ、ダメージがでかい。


 刺し違える、なんてつもりはなかったはずなのにな。


 酸の礫が、飛び散る。

 視界が欠ける。

 青い火花が飛び散り

 欠けた世界が戻る。

 腕が削れる。

 削れた端から皮膚が覆う。

 再び薄皮は血飛沫を上げる。

 装備はずたぼろで、むき出しになった腕は、まるで邪竜のように醜く爛れている。

 体中に衝撃は走り続ける。

 それが痛みなのかどうかさえ分からないが、こうして刺してるからには即座に傷が塞がってるんだ。

 もはや、流れる血すら残っているのかどうか。

 邪竜との接触ですり潰されていく体に祈るしかない。

 間に合え、間に合ってくれ。


 違う。そうじゃ、ないだろ。

 なんど、おなじことを、いわせる。


 間に合わせるんだよ!


 轟音。

 いや、邪竜の咆哮だった。

 裂けた口から涎を撒き散らし、無防備な俺の体を焼いていく。

 腕がどうなろうと構わず、コントローラーを邪竜の頭に沈めていた。

 邪竜の頭に寄りかかる腹に直で重低音が響き、意識を飛ばされそうになるが、痛みは麻痺したせいか、どうにか持ちこたえる。


 まだだ。

 こいつを確実に仕留めるまでは意識を失うまいと、手にだけ集中する。

 弾けて潰れた眼球から、溶岩のようなマグが溢れ、流れ落ちている。


 もう、起き上がれるとは思えなかった。

 邪竜も、俺も。


 そして、待ち望んでいた瞬間が訪れる。

 永遠に思えるほど、待ち遠しい光景だ。



 透過が、始まる。



 邪竜の巨体から、破れた水泡が絡まり合うような皮膚は掻き消え、赤く変質していく。

 どうか希望による幻覚でなく、本物の光景であってくれ。

 どんどん赤さを増して薄くなり、もはや形状も維持できず崩れ始めた。

 そして、爆発するように四散するのは、空一面を隠すほどの赤い煙。



 間に、合ったな――。



 スケイル、ありがとう。

 こんな弱い俺の中の何かを信じてくれて。

 それがスケイルの幻想だろうと、お前が望んだ勇姿を、少しは形にできたか?




 視界が暗転したと思ったのは、意識が途絶えたからだろうか。

 未だ視界には赤い霧が漂っているようでもあり、他には何も見えない。

 まだ、俺は、生きてるのか。

 ああ、あれを倒したなら、レベルアップが致命的な傷に蓋してくれてるよな。

 でも、もう無理だというのも、分かる。

 あんな傷を負って、生き延びられるはずがない。


 なのに、気持ちは意外と穏やかだ。


 生きようとしてきた。

 突然に投げ出された世界で、新たな人生を歩もうとしてきた。

 居場所を作ろうと必死だった。

 俺自身が選んだ人生とは言い難いけど。

 これで、良かった。

 精一杯、生き抜いた。

 ようやく心の底から、そう思える。


 お別れする時間まで残されてんだから、できすぎだろ。

 声が聞こえるんだ。

 聞きたかった、声が。


「タロウ! どこなの……タロウ!」


 ここだ、シャリテイル。


「そちらに気配がある!」


 ビオが、探しに来てくれたのか。こんな場所まで。


「居たわ、こっちよ! タロウ……そんな! しっかりして!」

「動かすな! 体を固定する!」


 シャリテイルの後にはギルド長の声だ。体に少しの圧迫感。包帯代わりの布きれでも巻いてくれたんだろう。


 まだ声が聞こえる。目を開けと命令するも、自分の体なのに指示の行き先が混乱する。どうにか瞼が開いたのは、片方だけ。ぼんやりと点いたり消えたりする視界にあるのは、思ったより大人数だ。

 聞き覚えのある凛とした声が、顔の側で聞こえた。


「目を開けたぞ! タロウ、このくらい、なんでもない」


 ビオの声は弱々しく、言葉とは裏腹に睫毛が震えている。まるで、泣くのを堪えているみたいじゃないか。


「ああ、傷は大したことない……すぐに、街に連れてってやるから」


 カイエン、無事だったのか。お前も、酷い怪我してるじゃないか。


「はい、マグ回復しました! 特大ですよ! すぐに気分も良くなります。だから、お師匠、頑張ってください……」

「そのまま運ぶな! こっちの板に乗せろ!」


 フラフィエ、ストンリまで? 担架代わりの板を担いできてくれたのか。

 なんで、こんな場所まで来てんだよ。

 すげえ……嬉しくなるだろ。


 なら、魔物も消えたんだよな。

 良かったよ。まだ、みんなの顔が見えて。

 みんな、ぼろぼろだ。

 けど、生きててくれて、良かった。

 俺ほどは、ぼろぼろじゃなくて良かった。


 今まともに残ってるのが、頭で良かった。

 声が聞けて、姿を見た。

 だったら、口も動けよ。


 くそ、このぽんこつ。

 口、動けよ。

 乾いた木の皮が、ぱりぱりと剥がれるような感覚がする。



 ありがとう――そう動かしたつもりだ。



 これまでの全てに対する想いが、こんな一言で悪い。

 届いた、よな?

 みんな笑顔で、頷いてくれたし。


 シャリテイルの笑顔を、透明な雫が伝って落ちたような気がした。

 それきり何も見えなくなっちまった。

 声も聞こえない。




 これで、家に、戻れるかな――――。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る