第59話 十字路 

 菊の店を出た紅は、鴨川のほとりで足を止めた。にない茶売りの茶を買い求め、河原の石に腰を下ろした。

「ご苦労だった。」

 笠の内から言った。

 すぐ近くに座った行商人ぎょうしょうにんが、軽く会釈えしゃくした。

「店はそれなりに繁盛しているようね。」

「寺で習った南蛮の技法を用いて描いた絵の評判が大変良いのです。」

 男は低い声でぼそぼそと言った。

「最近は扇だけでなく、部屋に置く様々な調度品ちょうどひんの扱いにも手を染めていらっしゃいます。あの方は思いがけず商才がおありです。甲斐の者は骨身ほねみしまず良く働きます。妹姫は市が立つ日など、河原に建てた小屋で踊っていらっしゃいます。まあ、ぼちぼちというところで、一家の生計せいけいは全て、姉君あねぎみの肩にかかっています。ああいうご気性きしょうですから、他人ひとの情けにすがることは出来ないと思います。」

「戻る気は当分無さそうね。」

 紅は茶をすすった。

「そなたには苦労をかけるが。」

 男に言った。

「どうか菊さまを守ってさしあげておくれ……猿。」

 立ち去ろうとした男に声をかけた。

「無事でよかった。」

 男は黙って頭を下げた。

 男が姿を消した後も、紅はしばらく川を眺めてぼんやりしていた。

 本当はここへ来た目的はもう一つあった。でも、言いそびれてしまった。

(戻ってください、と言う口の下から、すぐには言い出せない。だが上杉の施政しせいを預かる以上)

 紅は覚悟を決めている。

(いつかは言わなければならない。このままでは上杉の『家』は成り立っていかない)

 それを他人の口から聞くのはこくというもの。

(だったら、私が)

 でも、これは同時に自分の首を絞めることになるのだが。

(だから私は店に帰りたくなってしまったのかもしれない)

 だって、今は。

(彼が戻ってくる)

 遠い異国の地から。


 殿の元へ、出立しゅったつの挨拶に行った。

「急ぎの書き物でな。」

 景勝は肩越しに言う。

 背中に向かって礼をした。

 口上を述べた。

 述べ終わっても踏ん切り悪く手をついたままになってしまった。

 彼も黙って筆を走らせている。

喜平二きへいじさま。」

 思い切って声をかけた。

 あたしは、あのひとの元に行く。あなたは、何も言ってくれないの?

 お願い。

(一度でいいから)

 抱いて。

 今は菊も居ない。

 菊の侍女に、殿をたぶらかして、とののしられた。

 そうだ、心の奥底では、他の女に彼を取られるのがつらかったのだ。

 菊の居る間は我慢していた、でも、今は。

 彼が筆を止めた。

 ぽきん、と乾いた音がした。

 掌の中の筆が真っ二つに折れている。

 向こうを向いたまま、肩を落とした。

 背中が震えている。

 又、彼を困らせてしまった。

 紅は涙をこらえた。

「ご、ごめんなさい。失礼します。」

 立ち上がってバタバタと逃げ出した。

 景勝は一人残された。

 よろよろと立ち上がるとかわやへ急いだ。

 胃の中の物を全部戻した。

 独り、耐えた。


 与六は動揺していた。

 直江山城守兼続という堂々たる名を持つ上杉の重鎮じゅうちんになった今も、彼の目は、彼女を見つめるときだけは少年のようになる。

「きっと戻ってください。」

 ぎゅっと彼女の袖をつかんで、それが無作法ぶさほうだと気づいて、離した。

「一刻も早く……。」

 あきらめたように、語尾は消えた。


 与六の眼差まなざしの記憶を振り払って、紅は背筋せすじを伸ばした。

(菊さまにはそのうち伝える機会もあるだろう)

 越後の国内のゴタゴタも片付いていない。

(私にはまだまだやるべきことがある)

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