第18話-05 再誕
その日以来、緋女の容態は急速に悪化していった。当然だ。食を拒絶しているのだから。無理もない。生きることを諦めたのだから。無駄な食膳を運んでくるデクスタの笑顔が、日々すこしずつ固くなっていく。夜、あたりが静まり返った後には、どこか別の部屋ですすり泣く声が聞こえたこともあった。
緋女は、そんな数少ない外界の情報をさえ、完全に意識から締め出してしまった。何もかもがどうでもいい、価値のない、平坦なことに思えた。日が昇る。目が覚める。粥の匂い。鳥の声。涙の跡をぬぐわれる感触。排泄物の臭気。さっぱり洗われた新しい下着。なすがままに世話されている裸の自分。絶え間なくかけられる言葉。優しい声色。たあいない笑い話。
ぜんぶ幻。すべては夢想。楽しいという気持ち、赦せないという怒り、泣きたくなるほどの寂しさ、あの日感じた温もり、家族という絆、自分という肉体、自分という魂、自分がここにいるという確信、愛。なにもかも、意識が勝手に作り出した、見せかけだけの虚構の世界。
つまらないもの。くだらないもの。ただの嘘。
やがて緋女の意識に霧がかかり始めた。著しい栄養失調がために脳が働かなくなったのだ。起きていても寝ているような、眠っていても醒めているような、夢と現実の間の曖昧な世界に緋女は沈み込んでいった。
「この子はもう限界なのよ! どうにかできないの、あんた魔法使いでしょ!?」
誰かのわめく声が、夢の中でぼんやり聞こえる。
「食事を拒絶する子をどうやって生かせというのです。
人は誰しも死にたくなくて狂い、苦しむ。なのに心の底から死にたいと願って死んで行けるなら、むしろ救いというものではありませんか?」
ふと気づくと、部屋には緋女がひとりきり。
青白い月光が、戸口から剣のように差し込んでいる。
その光の中に、一頭の犬が佇んでいた。
輝くように白い毛並みの、素晴らしく美しい犬だった。飢えた狼を思わせる鋭い身体。深く澄みきった眼。しばらくじっと緋女を見つめていたかと思うと、犬は音もなく緋女の寝床に歩み寄った。
鼻先が、緋女の手に触れた。少し濡れた、冷たい感触。まるで雪。舞い落ちる雪を手のひらで受け止めたとたん、滴となって流れ去る……あの雪解けの手触り。
――あつすぎるよ、おねえちゃん。
声が聞こえた気がした。
――すきってこと……
そこで目が覚めた。
妙に冴えた頭で、緋女はあたりの様子を探り始めた。表通りを駆け抜けていく子供の足音。すぐそばに、嗅ぎなれた女の体臭。首も胴も回らないが、どうにか眼球だけを動かして脇を見る。椅子に身を沈めていたデクスタが、驚きを顔面に貼り付けてこちらを見つめている。疲れ果てた頬、乱れたままの髪、そして、おそらくは緋女のために泣きはらしてくれたのだろう、充血したふたつの眼。
緋女は口を開いた。閉じた。何度も繰り返した。
自由になるわずかなものを最大限に活かして、己の意志を示したのだ。
――はらへった! めしくわせろ!!
と。
デクスタが思わず腰を浮かせた。
「あ……待ってなさい! すぐ持ってくるわ!!」
ばたばたとみっともなく走り去っていく足音を聞きながら、緋女は言葉ならぬ言葉で己の想いを確かめていた。
――こんなじぶんはもういやだ。
涙の最後の一筋を、絞り切るように
――ねえちゃんは生きるぞ、ユキ!!
*
「そーねぇ、たとえば……
緋女、あんたの
ある日、食事の後でデクスタが問うた。もとより緋女に答える声はないが、瞳の光が如実に心を代弁している。すなわち、「なにゆってんの。ここにあるじゃん」と。
「そう。今、あんたの
んじゃー、ちょっと閉じてみて……そうそう。今度はぐわーっ! って大きく開ける! うん、いいわよ。分かるわよね、それぞれどの位置に
ぱんっ!!
と、デクスタは唐突に、緋女の鼻先で手を叩いた。突然の音と手の接近に驚き、緋女は思わず眼を閉じてしまう。
「はいストップ!
今、眼は閉じられてるわね。
さて、ここからが本題です……あんたの
緋女は丸く眼を見開いた。
言われてみれば、よく分からない。そんなこと全く気にかけていなかった。最初と最後の位置はなんとなく分かるが、途中でどういう風に動いたかなどということは……全然分からない。気が付いたらこうなっていた、としか言えない。
「……ってことよ。
人間は、自分の身体を動かすことを当たり前にやりすぎる。たとえば歩くことひとつをとっても、できて当然だから、どこがどうなってるか意識もしない。
でも実際には足だけじゃない。眼で前や足元を見、耳や鼻で異変を常に探り、バランスを取るために腕を振り、それらの動きを胴体が支え、全てが連動してはじめて歩行というひとつの動作が組み上がる。
それを完全に意識すること。自分の心と身体が今どこにあり、どんなふうに動いているか、常に
“集中”、“没入”、“ゾーンに入る”……名前は色々あるけど意味するところは同じ。ウチの流派では、この境地を“
これを極めりゃ
つまり! その身体を、動かせるようになるってことよ!」
驚きが緋女の瞳に滲み出る。希望が光となって湧き出てくる。デクスタはにやりと不敵に笑い、力強くうなずいて見せた。
「これは嘘でも誇張でもない。過去にこの方法で全身不随から立ち直った例がいくつもあるの。
ただーし! 修行の厳しさはハンパじゃないわ! めちゃくちゃ苦しい! 死ぬほどつらい! 嫌々やっててできるよーなことでは当然ないっ!!
それを覚悟のうえで、それでもやる、というのなら。
教えてあげるわ。この剣聖の
何をか言わんや。
緋女の眼は、一言、「
剣聖デクスタは太陽のように破顔した。
「今日からあんたはあたしの弟子だ。よろしくね、緋女!」
*
半年。半年もかかった。半年でやり遂げた。まずは
指が動いた。
呪いの首輪に封印され、二度と動かぬはずだった指が……緋女の意志で動いたのだ!
そこからは早かった。指は手に、手は腕に、腕は肩に、上半身に。ひとたびコツを掴むや、緋女はたちまち回復していった。もう食事も自分で食べられる。トイレにもどうにか自力で行ける。声が出せる。叫べる。話せる!
言葉を取り戻したその日、デクスタは力いっぱい緋女を抱きしめた。
「おめでとう!! よく頑張ったわね、緋女!!」
対して緋女が8ヶ月ぶりに話した第一声は、
「うっせーくそ
いまだうまく動かぬ舌で、せいいっぱいわめいた可愛らしい殺し文句に、デクスタは涙を流して大笑いした。
歩行ができるようにさえなれば、萎えた脚の筋肉も蘇ってくる。走れる。跳べる。ひとっとびで屋根まで飛び上がれるほどの、超人的な野獣の力が戻ってくる。そう、獣。犬に変身するあの能力も取り戻した。赤い、燃えるような体毛の犬。風となって野山を駆ける。大地と草とがぐんぐん背後へ流れ去っていくこの爽快感。緋女は今、初めて真に動くことの歓びを知った。生きることそれ自体がどれほどの美しさに溢れているか、失くして、取り戻して、初めて見えた。
そして――剣!
なにしろ同居人は当代最強の剣聖デクスタである。朝夕太刀振る彼女の雄姿が、自然、若き緋女を魅了した。あるとき木陰からデクスタの素振りをじいっと見つめていると、デクスタは緋女を引き寄せ、太刀を握らせてくれた。
「やってみる?」
一も二もなく頷き返す。
小一時間振り回してみた後には、もう緋女は剣術の
――こんなに楽しいものがあったんだ!!
長さ3尺の棒切れを我が身の一部として振り回す、ただそれだけのことの中に、どれほど深遠な理論と技巧が含みこまれているか。無論、緋女のことだから言葉で理解したわけではない。デクスタが手を添えて作ってくれた構え、目の前でやって見せてくれた型、ときどき鋭く飛んでくるわずかな助言、それらの中から剣の真髄を全身で感じ取ったのだ。
ある夜、
「師匠。あたし、剣やりたい」
するとデクスタは、ふーむ、と唸りながら少し考え、
「そんなら……ぼちぼち頃合いかもね!」
デクスタは前々から転居を考えていたのだった。
魔法学園との約束は、「首輪を外さない限りにおいて、緋女を自由に生きさせる」こと。約束はちゃんと守っている。首輪はびくともしていない。ただ、外さないまま動けるようにしただけである。
……などという甘い言い訳で納得する連中ではないだろう。いずれ緋女の現状は伝わる。学園が干渉してくるのは目に見えている。そうなる前にどこかの山にでも隠れてしまおうと、緋女が快復した直後から計画していたのだ。剣術を学びたいというならなおさら好都合。険しい山林の環境は心身を鍛えるにもってこいだ。
思い立ったが吉日である。早くも翌日、デクスタと緋女は住まいを引き払い、ふらりと
*
それから3年後の、うだるように暑い夏。
鮮緑映える七色樫の、わずかに差し込む木洩れ日の下で、12歳の少女へ成長した緋女が暴れている。
陽光は
「動きに無駄が多いわよっ! 集中! 振りかぶらない! 振り抜きすぎない! 狙うは鋭く急所一点! ほらここ、来いっ」
と、デクスタが手元へわざと隙を作ってくれる。それがどうにも気に食わなくて、緋女は咆哮しながら突進した。矢のように間合いを詰めつつ側面からの小手打ち。怒りに任せた大げさな動作は無論師匠に見抜かれている。完全に太刀筋を読み切った師が、呆れ顔で緋女の剣を受け流す――
かに思われたその時、にわかに緋女は木刀をひるがえした。師の剣の下をするりとすり抜け、流れるように突きを繰り出す。隙を生じぬ二段構え、というより最初の小手打ちはフェイントだ。これには師匠も顔色を変え、ぎらりと眼光走らせた。
カン!
と、乾いた音が木々の間へ木霊する。
緋女の木刀の切っ先は、すんでのところで弾き退けられ、虚しく師の
刃を絡め合ったまま、師弟はしばし、見つめ合う。
緋女は大きく嘆息した。
「だめかあー……」
「あっはっはーっ! あたしに勝とうなんざ10年早いのよーん!」
「うっせーくそっ! くそくそのクソ師匠っ!!」
「でも、今のはちょっとドキッとした。上達してるわね、緋女」
緋女はぷくっと頬を膨らませ、そっぽを向いた。熟れた桃のように頬が赤らんでいる。褒められたのが嬉しくてしかたないという顔だが、素直に喜びを見せようとしない、それでいて隠しきれずに気持ちが漏れる。いかにも緋女らしい愛嬌だった。
「なー師匠ォー。いちばん
「んー? そうねえ……」
「あるんだろ、究極奥義! 教えてよぉ、ねーねーねーねー、ねー師匠ォー!」
「今はだめ。もっと強くなったらね」
「けち! んじゃいつになったら教えてくれる?」
「決まってんじゃない。この
悪戯っぽくウィンクする師に、緋女は絶叫した。
「ムリダ―――――!!」
「ムリじゃな―――――いっ!!
あんたならでき―――――るっ!!
さあ次は鬼ゴッコの修行じゃーい! あたし鬼! つかまったらー……くすぐりの刑じゃー!!」
「うっきゃー!」
嬉しそうに歓声あげながら林へ逃げ去っていく緋女。地面から樹上へ、枝から枝へ、眼にも止まらぬ早業で飛び移っていく緋女の元気の良さに、デクスタは思わず頬を緩める。修行は遊び。緋女は訓練を楽しんでいる。だから飲みこむ。強くなる。見よ、鳥獣でさえ追いつけないあの身のこなし。あっというまに緋女の背中は森の奥へ消えてしまった。
「もーいーかーい!」
デクスタの呼びかけに、
「もーいーよー!」
森のどこかから緋女が応えた。
「っしゃ行くぞォ!!」
一声吼えてデクスタは走り出した。彼女の長身は風となり、またたく間に木々の間へ消えた。
*
しかし――その日の夜。
思いもかけない事態が、デクスタを襲った。
夜中、急な不快感に目を覚まし、台所で水を口に含んだデクスタは、そのまま口の中のものを土間へ吐きだしてしまったのだ。
吐瀉物を受け止めた手が、ぬめる。
悪い物でも食べてしまったか? いや、違う。手のひらから滴り落ちるそれは、胃液ではない。
しばし、己の手の中にあるものを茫然と見つめ……やがてデクスタは小さく呟く。
「マジか」
独り浮かべた強がり笑いを、眼にしたものはただ、夜のみ。
(つづく)
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