第14.5話-02 約束
ドックスが語ったところはこうである。
10日ほど前のこと。仕事を終えて街に戻った彼は、若い乙女が悪漢に絡まれているところに遭遇した。女性は年のころは17、8。鮮やかな花模様の縫い込まれたドレスに身を包み、小さな丸顔にくりくりと木の実のような目をした、なんとも愛らしいひとであった。それが3人の水夫風の男に囲まれ、裏路地の壁際に追い込まれていたのだ。
それを見た途端、かあっとドックスの頭に血が上った。物静かな彼にはかつてないことであった。助けなければならない! あの
さあ、その後だ。ここまで逃げればもう安心、と立ち止まって振り返れば、慣れぬ逃走で息の上がった乙女が、ぽうっと上気して頬を染め、潤んだ目でしっとりとドックスを見つめている。握った手の中で彼女の指がもじもじ動き、その爪の先がドックスの手のひらを言いようもなく心地よくくすぐるのだ。
「あの……」
と乙女が声を挙げるので、ドックスは思わず手を放して後ずさった。
「わっ、うわっ、何も言わないで! 心臓が止まりそう」
「でも、あの、お礼を……」
「いいんですっ! お礼とかその……当然の……あの、あれを……」
「せめてお名前を……」
「なま。なまえ!? 名前とか……ないです!」
「ないってことはないでしょう」
「それはまあ、そうですけれども、あの……さよなら、さよなら、さよなら!」
で、脱兎の如く逃げ出して、それっきり。
一目惚れしたその乙女。もう一度会いたいと願っても、どこの誰とも分からない。会いたい、会えない、会いたい、会えない、会えないならばいっそ死んでしまいたい。思いつめたドックスは食も細り、身体に力も入らなくなり、寝込んでしまって今に至る……と、そういうわけなのだった。
ヴィッシュは頭を抱えた。
「そのとき名前聞いとけば済んだ話じゃねーか!」
「だって……こんな気持ち初めてで! どうしていいか分かんなかったんですよう……」
しくしくと乙女のように泣き始めるドックス。その気持ちも分かるだけに、ヴィッシュはそれ以上何も言えなかった。
齢18での初恋だ。色恋に不慣れなうちは、好きな女性のそばにいたって何をしていいか分からない。もっと近づきたい、気持ちを打ち明けたい、抱きしめて口づけしたいと思っても、嫌われたらどうしようか、気持ち悪がられたらどうしようかと不安ばかりが心に募る。挙句の果てに好きなはずの相手を恐れ、とにかく逃げ出して安心を得ようとしてしまう――ヴィッシュだって昔はそうだった。
ヴィッシュはドックスをなだめ、寝かしつけてやると、その足でコバヤシの経営する酒屋を訪れた。
事情を聴くなりコバヤシは爆笑した。
「なあんだ!
「笑いごとか。当人は死ぬ気で悩んでんだぞ」
「いや、これは失礼。確かにそうですね。ですがそれなら話は早い。その女性を探して引き合わせてあげれば解決ですよ」
「簡単に言うな! 第2ベンズバレンの人口も今年でついに15万人、その中からたったひとりの女を探そうだなんて……」
「ふーむ。何かいい知恵はありませんかね」
「まずドックスがその女に出会った場所が羽毛通りの入口あたり。花柄刺繍のドレスって身なりからして裕福な家の娘だが、本格的なお嬢様なら侍女のひとりも連れているはず」
「ということは……?」
「繊維品貿易でにわかに儲けた布商人あたりが一番ありそうだ。ちょうど明日が布市だから行ってみるさ。まったく余計な仕事を増やしやがって。なんで俺なんか指名するかね、ドックスのやつは!」
ぶつぶつ言いながらヴィッシュは去って行った。その背中を見送り、コバヤシは苦笑する。
「そうやって親身になってくれるから、ですよ」
*
勇者の後始末人ヴィッシュと言えば、このころにはもう手練れの狩人として仲間内で一目置かれる存在になっていた。とりわけ限られた情報から獲物を追い詰める手腕には定評があった。そのヴィッシュが本気で探索にかかったのだ。別に隠れようとしているわけでもない女性ひとり、探し出すのはわけもないことだった。
2日ほどで彼はあっさりとドックスの想い人を見つけ出した。彼女の名はスエニといい、推理したとおり羽毛通りに店を持つ織物商の次女であった。驚いたことに、ヴィッシュが織物商を訪ねてみると、娘は気鬱の病で寝込んでいるところだという。というのも、街中で危ない目に遭ったとき颯爽と助けてくれた若き騎士様に恋してしまい、居所も名前も分からない相手を思い思って思いつめ、いっそ死んでしまいたいとまで言い出したのだという。
なんとも気の合う話である。
こうなると気を揉むのもあほらしい。似た者同士相性もぴったり。もうさっさとやっつけてしまえ、というわけで、その日のうちに婚約成立。ヴィッシュがぶつくさ文句垂れながら宴の準備やら神官の手配やらに駆け回り、ほんの数日でふたりを夫婦にしてしまった。
急展開に頭が追い付かないのは新郎新婦当人である。妻スエニの父親が小ぢんまりとした感じのいい新居を用意してくれ、部屋には友人知人からどっさり贈られた祝いの品が山となった。その中心のベッドの上にふたり並んでなぜか正座し、ポカンとばかみたいに口を開けたまま壁を見つめる新婚初夜。
「結婚……しちゃった」
「しちゃいました……ね」
「えー!?」
「わー!?」
「これホントですかー!?」
「ホントみたいです、どうしましょう!?」
「結婚って、前にもっとこう……」
「色々あると思ってました……」
「運河の脇に腰かけて一緒にお弁当食べたりとか……」
「広場にお芝居見に行ったりとか……」
「詩を贈りあったりとか……」
「手を握ってお祭りを巡ったりとか……」
「ですよね!」
「気が合いますね!」
と興奮して互いに視線を向ければ、相手の顔は目と鼻の先。ひとつ寝床にふたりで居れば、肌すり合うほどに接近するのは当然の道理。ところがあまりに恋人の顔が近いものだから、ふたりはそろって恐れおののき、悲鳴を上げて倒れてしまう。
「あの……スエニさん、でしたよね」
「そういうあなたは、確かドックスさん」
「こうなったからには、ひとつ覚悟を決めましょう」
「そうしましょう。どうぞ、スエニって呼び捨てにしてください」
「僕のこともドックスで。それに“ですます”もやめませんか」
「いい考えだと思います」
ふたりは寝返り打って見つめ合い、そっと手を握り合わせた。
「よし! 頑張って一緒に夫婦をやろう、スエニ!」
「うん! これからよろしくね、ドックス!」
「お弁当とか、芝居見物とかは……」
「これからやればいいんだ!」
こうして打ち解けてしまえば、あとは若いふたりのこと。情熱は炎のように燃え盛る。
詳しいことはちょっとここには書けないが、あまりの仲睦まじさに苦笑いするヴィッシュや友人たちの表情を見れば、おおよそのところは推し量れようというものだ。
*
しかし、天は無情、世は無常。
幸せは長く続かなかった。結婚から一年も経たないうちに、妻スエニが病に倒れたのだ。医師モンドの
悲報は狩人仲間の間を突風のように駆け抜けた。つい昨年街中の狩人が集まって結婚の宴でバカ騒ぎしたばかりだというのに。ヴィッシュも含め、突然の不幸に衝撃を受けない者はなかった。他人事であってすらそうなのだ。まして夫であるドックスの抱える哀しみは、どれほどのものであっただろうか。
ドックスは駆け回った。
街中から医者という医者を引きずってきて、妻を診察させた。そればかりか術士、呪い士、教導院の神父、街角の占い師、果ては森に住む怪しげな魔女にまで泣きついた。あらゆる手段が講じられ、そして、なんの成果も得なかった。
日に日に痩せ衰えていく妻を、ドックスは、見ていることしかできなかった……
「帰ってくれ! 役立たず! 何が王都の名医だ……帰れ!」
最後の希望として呼び寄せた王都の医者も、結局首を横に振るだけだった。ドックスは声を荒げて医者を追いだした。普段そんな口を利く男ではなかったのに、まるで人が変わったようであった。
ふらつきながら妻の病床の脇に戻り、ひざまずいて彼女の手を握る。妻が残る力を振り絞るようにしてこちらへ首を向ける。満開の花のようだった丸顔はやせ細ってしまっていたが、木の実のように大きくつぶらな目は元気なころのまま。それがかえって彼女の衰弱ぶりを浮き彫りにしてしまい、たまらずドックスは悲哀に顔を歪める。
スエニは細く口を開く。ドックスが耳を寄せると、彼女は消え入りそうな声で囁いた。
「ね、ドックス……」
「うん、なんだい」
「私、あなたの仕事、見たことなかったね」
「だって魔物狩りは危ないもの。きみが傷ついたら嫌だよ、僕は」
「もう一度見てみたいなあ。あなたのかっこいいところ」
スエニがしきりにそう願うので、ドックスは彼女を抱き上げて家の裏庭に座らせ、背の後ろにクッションを10も20も重ねて支えてやり、自分は狩り道具の弓矢を取ってきた。小さな裏庭の端に立っていた木の幹に的の板を括り付け、庭の反対側の端から――射貫く。
矢が軽快な風切り音を立てたのも束の間、的は真ん中から真っ二つに割れ、あとには幹に食い込んだ矢のみが残る。ドックスが妻を見やると、妻は、ぽうっと上気して頬を染め、潤んだ目でしっとりとドックスを見つめていた。
「私も撃ってみたい。教えて?」
「そんな無茶な」
「無理かなあ」
「……じゃあ、こうしよう」
ドックスは半分に割れた的の一方を拾い上げ、妻の正面、ほんの数歩のところの石に立てかけた。それから妻の後ろに回り、後ろから彼女を抱くようにして、座ったまま弓を握らせる。妻の手に自分の手を添えたまま、いっしょに弦を引き絞る。
ふたりで放った矢は、見事に的に突き立ち、石に当たって跳ね飛んだ。それを見たスエニが、嬉しそうにきゃっと声を挙げる。
「あたった!」
「あたったね! 筋がいいよ」
「練習したら、ひとりでできるようになるかなあ?」
ドックスは言葉に詰まる。
「そしたら、あなたと一緒に働けるかなあ」
たまらない。もうたまらない……
ドックスは妻を抱きすくめた。彼女の首元に鼻を埋めた。辛うじて出した声はひどくかすれて、聞けたものではなかった。
「うん。きっとできるよ。元気になったら練習しよう。教えるよ、僕……」
スエニの首筋に温かい涙が零れ、胸の方へ伝い落ちていく。まるでそれは、愛を籠めて抱きしめる、優しい腕のようであった。
*
数か月後、スエニは死んだ。
かつて結婚を祝った狩人仲間たちが、そっくりそのまま、今度は葬儀に参列する羽目になってしまった。まだ若いスエニの死を悼むこともひとかたならないものであったが、それ以上に彼らが心配したのは、残されたドックスのことであった。
結婚して明るくなったと評判のドックスだったのに、葬儀の後には以前にも増して陰気になってしまった。十日以上誰とも口を利かず引きこもり、かと思えば突然仕事に復帰し、ほとんど捨て身の凄惨な狩りに身を投じる。ある時は凶悪な魔獣の巣に単身飛び込み、またある時は拷問通りに巣食う魔族の犯罪組織に喧嘩を売る……無謀、無茶を通り越して、ほとんど自殺志願のようなものであった。
持ち前の弓の腕によって辛うじて生き延びはしたものの、このままではいつ命を落とすか分からない。ヴィッシュは足しげく彼の独り住まいに通い、口酸っぱく
あるとき、協会の狩人のひとりが、ドックスに再婚を勧めてはどうか、と提案した。彼の知り合いで、同じように
良い案ではないかと思われた。同じ傷を抱えた者同士だからこそ、互いをいたわり支え合えるかもしれない。無論当人たちが相手を気に入ればの話ではあるが。
ヴィッシュもその提案に賛成し、ドックスに話を持ち掛ける役を引き受けた。
ヴィッシュは今でも、あの時の自分の浅はかさを悔やみ続けている。
家を訪れたヴィッシュが再婚の話を持ち出した途端、ドックスは烈火のごとく怒りだした。立ち上がり、ヴィッシュに詰め寄り、その襟首をひねり上げた。予想外の反応にヴィッシュは茫然とし、されるがままに壁へ背中を叩きつけられた。ドックスが全体重をかけて鼻先に迫ってくる。瞼が上下に引き剥かれ、狂気じみた目が露わになる。
「言っていいことと悪いことがあるぞ! ヴィッシュさん、あんたね、知ってますか。スエニが最後にねだるんですよ。弓矢をね、『私も撃ってみたい。教えて?』だって。かわいい言い方だね。でもあの痩せた腕じゃ弦を引けやしないでしょう。だから僕が手伝ってやって、一緒に的を射貫いたんです。いやあ喜びましたね。なんでかなって思ったら、『練習したら、ひとりでできるようになるかなあ?』って。『そしたら、あなたと一緒に働けるかなあ』なんて。いじらしいじゃありませんか。僕は答えましたね! 『きっとできるよ。元気になったら練習しよう』、そう約束したんですよ! 嘘になるって分かってて、僕は嘘を吐いたんですよ!! こんなのってありますか……ええ? それを知ったうえで、あんたはそんなこと言うんですか!? ヴィッシュさん!!」
知るわけはない。知るわけはないが――それが何の言い訳になるというのか。
「行かなきゃ。スエニのところへ」
ドックスはヴィッシュを突き放し、家を飛び出した。
そしてそれっきり、二度と戻ってこなかったのだ――この街には。
(つづく)
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