第9話-04(終) 最後の闘い
10年前の、その夜。
ルクレッタは、家の窓辺にもたれ掛かり、じっと星を眺めていた。
ギリアンが同僚を斬って逃亡した
予感があった。日数から言っても、おそらくは、今夜あたり――
と。
ルクレッタは、窓の外の路上に、音もなくわだかまる影を見出した。夜そのものよりも黒い影。ルクレッタは窓を開けた。
そして、2階から飛び降りた。
影が慌てふためくのが気配で分かる。しかしルクレッタは平然と着地し、影のもとへ近づいていった。影、ギリアン・スノーのもとへ。
「お帰りなさい」
「ただい……ま」
ギリアンは、面食らいながらも、彼女を抱き寄せた。ルクレッタは背伸びしてキスをせがんだ。触れ合った唇は炎よりも熱く、ひとつのもののように吸い付いた。
このままもっと素晴らしいことをもしたいくらいだったが、今は、そうも言っていられない。
「事情は?」
端的にギリアンが問えば、ルクレッタもまた端的に答える。
「聞きました」
「私は逃げる」
「一緒に行きます」
こうなるだろうことを、ギリアンは完全に予測していた。
そして、そのための心構えを決めていた。言うべき言葉、為すべきこと、全てあらかじめ用意しておいたのだ。
「だめだ。奴らの親は必ず私の命を狙うだろう。一緒にいれば、君も師匠も危ない」
「だから逃げましょう、遠くへ」
答えは、用意していたはずなのに。
彼女を目の当たりにすると、それを口にするのがこうまで辛いとは。
胸の中で暴れまわる罪悪感と誘惑と後悔の予感、その全てを振り切って、ギリアンは言った。毅然として。
「だめだ」
ルクレッタは、もう何も言わなかった。
ギリアンは、彼女の肩をそっと押し退け、一方、身を後ろへ引いた。暖かな窓の灯りが遠ざかり、底知れぬ夜の闇が一歩近づく――
それでも。
「私のことは忘れて、どうか幸せになってくれ」
行かねば。
行かねばならぬ。
欲しかったものの全てをかなぐり捨てて。
「さよなら」
彼は走り出した。
闇が彼を飲み込んだ。
ここが、これから彼の生きる世界。光の当たらぬ世界の裏側。こんなはずではなかったのに、堕ちるしかなかった淀み。
ルクレッタとは、二度と会うことがなかった。
*
背中の傷は、炎のごとく燃えていた。
溢れ出る血。背後に揺れる夕陽。遠ざかってしまった安息の日常が、彼の心をたまらなく惹き付ける。なぜこんなところへ来てしまったのだろう? こんなにも痛いのに。こんなにも熱いのに。治療のあてもない荒野の中を、どうしてひとり
振り返りたかった。引き返したかった。叶うことなら、もう一度。しかし――
――これは、もう、だめだな。
妙に落ち着いている自分がいた。傷の具合、病状、そうしたものを、他人事のように冷静に分析していた。死ぬ。もう間もなく。そう確信した途端、それまで胸の中に封じ込めていた――10年に渡って隠し続けていたものが、熟した木の実の弾けるがごとくに噴き出した。
ああ、ルクレッタ。唯一無二のルクレッタ。
君はもう結婚したろうか。
ギリアンは歩んだ。一歩。
師匠はまだ存命であろうか。きっとふがいない弟子に憤っておられよう。だが一方で、厳しくも優しい老師は、今も私を心配してくれているに違いない。謝りたかった、一言、ただ一言でも。
ギリアンは歩んだ。また一歩。
故郷の家族。父と母、きょうだいたち。弟は立派に家族を守っているかな。父や母の傷は大丈夫だったのだろうか。今頃はみんな、
ギリアンは歩んだ。さらに一歩。
いつの間にか。
彼の背から流れ出た血は、夕陽の
背中のことだ、見えはしない。だが、見えずともギリアンにはそれが解った。はっきりと。
――なあんだ。“何もない”なんて間違いだった。
あるじゃないか、私にだって。
こんなにも、こんなにも――
涙が零れた。
子供のころから、ついぞ零したことのない涙であった。
*
ヴィッシュたち3人は、午後遅くになってようやくゴブリン狩りを終え、帰路に就いた。ヴェダ街道を西へ。
3人じゃれ合いながら進んでいると、行く手に小さく人影が見えた。
ヴィッシュは目を細めて見つめ、やがて気づいた。それが知った顔であることに。
「ギリアンじゃないか」
駆け寄ってみれば、ギリアンの顔は逆光の中に青白く浮かび上がり、息は今にも絶えんばかりであった。それに、死を予感させるこの臭い。背中の致命傷が放つ血臭。
「どうしたんだ、お前、ひどい怪我じゃないか」
ヴィッシュの言葉を
「
弱々しく、しかし、はっきりと。
「真剣勝負を所望する」
ヴィッシュには訳が分からなかった。この男は後始末人である。その腕前はヴィッシュもよく知っている。
「馬鹿言うな、そんな体で……」
と。
横から剣のような腕が伸びて、ヴィッシュを黙らせた。
彼女は炎の揺らめくがごとく、ギリアンの前に進み出た。刀の柄に手を掛けて、静かに一言。
「来な」
言葉は、それで充分だった。
ふたりは、それぞれの剣を抜いた。
仲間たちが数歩下がって見守る中、ギリアンと
「……なんで始めないのかな。」
術士カジュが呟いた。ヴィッシュは首を横に振る。
「始まってるさ。動けないんだ」
ヴィッシュとて、それなりの使い手。腕前は彼らに到底及ばずとも、目に見えぬ応酬を感じ取ることはできる。
ギリアンの集中力はかつてないまでに研ぎ澄まされ、
ありていに言えば――殺気。凄まじいまでの、殺気であった。
あの
見るがいい。それが証拠に、
――初めて見た。これがあいつの本気なのか。
ヴィッシュは息を飲んだ。
もはや誰にも割って入れぬ。
ここから先は、達人のみが到るべき
対峙は、いつ果てるともなく続き――
そして。
一瞬。
刃が走った。
ひととき、間をおいて、ギリアンは倒れた。
「おいッ!」
首縄を解かれた猟犬のように、ヴィッシュは彼に駆け寄った。隣に
「カジュ! 治してくれ!」
「……無駄だよ。」
カジュはそっと首を横に振る。
「ボクの術は、寿命を犠牲にして肉体の時間を巻き戻す。
でも……その人の時間は、もう残っていないんだ……。」
「いいんだ、ヴィッシュさん。私はもう、どのみち……」
消え入りそうな声で、ギリアンが言った。
「試してみたかったんだ。最後に、私が積み上げてきたものの全てを……」
「楽しかった。お前、強かったよ」
思いがけない言葉。
ギリアンは目を閉じた。その顔には微笑みが浮かんでいた。生涯で一度足りとも見せたことのない、心から満ち足りた笑顔。
「ありがとう……
ここまで来て……良かったよ……」
そしてギリアンは眠りに落ちた。
彼が最後に得たものは、ただ、安らぎであったのだ。
THE END.
■次回予告■
ひと味もふた味も違うテイストで贈る、シニカル・ファンタジー・不条理・コメディ。
次回、「勇者の後始末人」
第10話 “土用の丑の日は“う”のつくアレを”
How should we attend the deathbed of "U"?
乞う、ご期待。
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