第8話-02 ボクがここに在る理由。



「そりゃあ運がなかったな」

 帰宅したふたりから事の顛末てんまつを聞いて、ヴィッシュは気の毒そうに眉を歪めた。

 彼がカジュの前に差し出したのは、精魂込めて焼き上げた特製カスタード・プリン。卵や砂糖をふんだんに用いた、たいへんに贅沢な焼き菓子で、ヴィッシュも実際に作るのはこれが初めてである。カジュの好物がプリンだと耳にして、試しに挑戦してみた、のだが。

 不機嫌絶頂のカジュは、せっかくの甘味を怒りに任せて口に掻き込むばかり。あれでは味もろくに分かるまい。カジュの喜ぶ顔を期待して、パン屋のオーブンを借りてまで焼き上げたのだが、タイミングが悪かった。うまく行かないものである。

 飲み物のようにプリンを飲み下し、カジュは小さく鼻息を吹く。

「“企業コープス”を辞めて以来、最新の研究にはほとんど触れてなかったからね。ボクの知識は2年前で止まってるんだ。」

「それはお前のせいじゃないだろ?」

「もっと気をつけてれば気づけたよ。要するにボクがヌルかったの。」

「まあ、学園ばかりが学問の道でもないさ……気長にあちこちアプローチしてみるこった」

「冗談じゃないね。」

 とプリンを睨むカジュの目が、暗い情熱の炎に燃えている。

「もう一本書くよ。今度は絶対カブらない、とっておきのテーマでね。」

「……あ? 書くって……連中が帰るまでにか!?」

 緋女ヒメはよく意味が分かってないらしく、口をもぐもぐさせながら、そっとヴィッシュに耳打ちする。

「どういうこと?」

「論文ってのはな、ふつう何か月も何年もかけてコツコツ書いていくもんだ。それを半月でやろうってんだから……」

「へー。すごー」

「……絶対分かってないだろお前」

「えへ♪」

 気楽にプリンをぱくつく緋女ヒメは置いておいて、ヴィッシュは唸りながら天井を見上げた。

「じゃあ、代わりの術士を手配しないとなァ……ロレッタあたりの手が空いてりゃいいが」

「要らないよ。仕事休むなんて言ってないっしょ。」

「おいおい。これから繁忙期に入ろうってときに。いくらなんでもそれは……」

「ボクを誰だと思ってんの。」

 カジュは机を叩いて立ち上がった。年齢以上に小柄な彼女は、立ってもなお、座っているヴィッシュと同じ背丈しかない。だが、その小さな身体から放たれる異様な迫力、いわば殺気のようなものに、ヴィッシュは圧倒されずにいられなかった。

「ボクは天才術士カジュ・ジブリール。それを奴らに思い知らせてやる。

 ごちそうさまっ。」

「味はどうだった?」

「甘すぎる。」

「そうか……無理すんなよ!」

 カジュの姿がバタバタと階段の上に消えていき、居間にはぽっかりと穴の開いたような静寂が訪れた。ヴィッシュは困惑を顔に浮かべて、半分近く残ったプリンを見つめる。程よく狐色に焦げたカスタードが、どこか寂しげに見えた。

「ケチつけられてやる気出す……か。あいつらしいけどな……」

 スプーンを手に取り、プリンを一口味見してみる……なるほど、確かに甘味がベタベタと強すぎる。菓子だからと思い切りよく砂糖を使ってみたのだが、加減を間違えてしまったらしい。どうも菓子作りは普段の料理と勝手が違う。思うに任せないものだ。

 思わずヴィッシュは溜め息をこぼした。

「難しいなァ」

 すると、緋女ヒメがプリンをがばりと小皿に取っていき、

「あたしは好きよ」

 などと言う。慰めてくれたのか、はたまた頭に浮かんだことを口に出しただけなのか。いずれにせよヴィッシュは少し、頬を緩ませた。

「そうか。また作ってみるよ」



     *



 かくして、カジュの挑戦は始まった。

 屋根裏の勉強部屋に身を落ち着け、白紙を山と積み、墨を溶き、ペン、定規、参考資料のたぐいを万端整えて、いざ、執筆開始。

 カジュは書いた。書いた。猛然と書いた。時間の不足を補うため、下書きなしの一発勝負である。しかしペンは淀みなく走り、白紙の山はみるみる消え失せ、床一面がインク乾き待ちの原稿で埋め尽くされていく。

 恐るべきハイペースでの執筆。当然ながら疲れはある。だがその疲れさえ心地よい。書く者だけが味わえる、集中の果てにある快感の波。知的興奮と創造の喜びがい交ぜになった、天上の法悦だ。

 と、最高に筆が乗ったタイミングを見計らうかのように、部屋の済に転がしていた水晶玉が輝きだした。遠方の知人から《遠話》が届いたのだ。

〔やっほーカジュちゃーん! おひさー! オレだよー! 元気ー? カッジュせんぱーい? おーい? いるー?〕

 底抜けに明るい少年の声が、しきりにカジュの名を呼んだが、ペンはちっとも止まらなかった。7回名前を繰り返されたところでようやく気づき、ちらと水晶玉に視線を送る。

「あー。ゴメン、なに。」

〔いたいた。さてはまた何か書いてんな?〕

 《遠話》の相手、通称“パン屋”とは、もう長い付き合いである。最後に顔を合わせたのは2年近くも前のことだが、今でも時折魔術を使って消息を交わしている。お互いに性格を知り尽くしているから、ほんの少しのやりとりだけで、やることなすこと伝わってしまう。その手っ取り早さが楽でもあり、また鬱陶しくもあり。

「悪いけど話してるヒマないよ。締切ヤバくてね。」

〔ふーん? 何書いてんの?〕

「“テンジーの呪文子仮説における無限縮退矛盾の解決”。」

 パン屋が言葉を失った。

 たっぷりと沈黙してから、彼は困惑気味におずおずと問いかける。

〔……え? ちょ……なにゆってんの??〕

 密かにカジュはほくそ笑んだ。思ったとおりだ。この反応が欲しかった。このテーマは、学生時代からコツコツ研究を進めてきた、まさにカジュのとっておき。知識のある人間ならば誰もが驚きを隠せまい。この手応えばかりは、ヴィッシュや緋女ヒメからは得られない。

 筆は片時も休ませず、しかし上機嫌に、カジュは説明してやった。

「マナ密度が極めて低い条件下でもクローディスの排他原理が成立する、としたらどうか。」

〔なんで?〕

「実は二重延展効果はコボルの限界以下でも起きる。」

〔は!? マジ!?〕

「マジ。」

〔解決じゃん!! え!? は!? マジで!? おま……お前ヤベーな!? 世界ひっくり返す気かよ!?〕

「そのうちにね。」

〔はえー……やべーなお前、尊敬するわ……結婚しよ?〕

「死ね。」

〔あざまーす! ごほうびいただきましたァー! うぁっしぇーい!!〕

「ウザいんで切るね。」

〔了解。がんばれー〕

「ほいほい。」

 屋根裏に静寂が蘇り、カジュは再び、孤独な創作の世界に耽溺していった。彼女の中に渦巻いていた輪郭の定まらない憤りは、今や確固たる形を取り、明快な言葉として全身の細胞を突き動かしていた。

 ――示すんだ。

   ボクの力を。

   ボクがここに在る理由わけを。

 そして、夜は更けていく。



     *



 はじめのうち、執筆は極めて順調に進んだ。

 ずっと胸の中に温めてきた新理論である。書くべきイメージはほとんど固まっており、後はそれを文字にするだけで良かったのだ。言葉は汲めど尽きぬ井戸のように溢れ出し、50枚の原稿が4日で完成した――これは、寝食と仕事の時間以外、片時も休まずペンを走らせるペースである。

 だが、5日目から徐々に筆が鈍り始めた。理論は完璧に仕上がっているつもりだったのだが、実際に書き出してみれば思わぬ欠点が露呈してくるのである。細部の練り直しをしなければならない。追加実験も必要だ。さらには、解決策の見えない致命的な問題が、新たにひとつ発見される始末。

 カジュは考えた。仕事中も食事中も、睡眠中さえも思考を巡らせた。夢の中でとびっきりの解決策を思いつき、わめきながら飛び起き、枕元のメモ用紙に殴り書きすることもしばしば。良いアイディアが浮かべば書き、書いては詰まり、また苦悩の唸りをあげる。そんな生活が続いた。



     *



 疲労が蓄積していたある日、こんなことがあった。屋根裏部屋で思考を巡らせていると、ヴィッシュがひょっこり顔を出し、

「なあ、俺、協会の寄り合いで呑んでくるから」

「んぁー。」

 返事、というより、それは巣穴に籠もった獣の鳴き声のようだった。

「飯、作ってあるからな。緋女ヒメが戻ったらふたりで食えよ」

「あびゃー。」

「……行ってきます」

「おはようございまーす。」

 まともな会話さえできないありさま。不安に駆られたヴィッシュは家を出るのを躊躇いさえしたが、これも無理からぬ話だ。



     *



 また、こんなこともあった。最近風呂にも入っていないカジュが、身体から獣の匂いを放ち始めたので、緋女ヒメが強制的に入浴させた。隣の空き地に湯を張った大桶を置き、裸にむいたカジュをドボンと放り込む。服を脱がされても湯に突っ込まれても抵抗ひとつしないばかりか、何か呪文のようにブツブツと唱え続けているのだから気味が悪い。

 そのまましばらくは、緋女ヒメとふたり並んで、大人しく風呂桶に浸かっていた。

 だが突如、カジュはカッと目を見開いて、

「分かったあっ。」

 風呂を飛び出し、奇声を上げて、家の中に駆け戻った。

 ビックリしたのは台所で夕飯の支度をしていたヴィッシュである。いきなり全裸の美少女が裏口から駆け込んで来るものだから、あやうく包丁で指を切り落とすところであった。

「うお!? おま、服! 服!!」

「うはははははははははは。」

 奇ッ怪な哄笑とともに、カジュは風のごとく階段を駆け上り、屋根裏に行ってしまった。そこへ緋女ヒメも戻ってきて、

「おいカジュー? なんだよあいつ」

「……ってお前も裸かよ!! ちょっと隠せよなあ!」

「えーいいじゃんもうメンドいしー」

「うちの女どもときたら……恥じらいもなきゃ有り難みもねえ」

 顔面を真っ赤に染めてそっぽを向き、必死に動揺をごまかすヴィッシュであった。



     *



 その上さらに、次々と舞い込む仕事の依頼が、執筆の重大な妨げとなっていた。

 ヴィッシュがぼやいていたとおり、晩秋から冬にかけては後始末人の繁忙期だ。森の動植物が不足するこの時期、魔獣が餌を求めて人里に迷い込むことが増える。象獅子ベヒモス毒樫木ポイゾナスオーク、食い詰めた鉄面皮ゴブリンの群れ……単に数が多いばかりか、油断のできない厄介な魔獣も少なくなかった。

 筆が乗ってきた時に限って、狙いすましたように緊急の依頼が入るような気さえした。気のせいなのは分かっていたが、執筆を中断されるたびに苛立ちがつのることは否めなかった。

 少しでも遅れを取り戻そうと、日中を仕事に費やした日は、夜、明け方まで実験に取り組んだ。泊まりがけの狩りがあった時は、書きかけの原稿を持って行き、野営の焚火を頼りに筆を進めた。

 しかし――そこまでしても時間が足りない。

 次第に深まっていく疲労と苦悩に、カジュの表情も普段と違って見えたのだろうか。ある夜、ヴィッシュが夕飯のスープをよそってくれながら、カジュの顔をのぞき込むようにして言った。

「大丈夫か? やっぱり、少し仕事休むか?」

 それは思いやりの言葉に違いなかったが、今のカジュには、責められているようにさえ聞こえるのだ。ゆえにカジュは、とっさに、矢を射返すような返事をしてしまった。

「要らないって言ったでしょ。」

 言ってすぐに後悔したが、吐いた唾は飲み込めない。

 無言でカジュはスープをすすった。とびきり旨いはずのヴィッシュの手料理が、今はなぜか、味らしい味もない濁り水のようにしか感じられない。



     *



 カジュは今や深い霧の中に迷い込んでいた。

 近すぎる期限、不十分な準備、多忙、少ない参考文献、睡眠不足、そして何よりも、壮大すぎるテーマ……様々な悪条件が、カジュを、経験したことのない泥沼に導いてしまった。

 書けば書くほど、書くべきことが増えていく。次から次に、構想段階では思いもよらなかった問題が噴出する。それらを泥縄式に解決し続けるうち、いつしか思考は途方もなく深い迷路に囚われる。

 ふと気が付けば、出発点はもう見えない。自分がどこにいるのかも分からない。

 ――ボクは今、何を書いてるんだろう。

   今まで何を書いてたんだろう。

   こんなもの、本当に書く価値あるんだろうか。

   そもそも――何のために書いていたんだ。

 そして言うまでもなく、辿たどり着くべき出口もまた、複雑怪奇な迷宮の向こうに埋もれてしまったのである。

 ついにカジュの筆が止まった。

 書けなくなってしまったのだ――ただの一文字さえも。

 ――ボクは、どこへ行けばいい……。

   一体、何を書けばいいんだ……。




(つづく)

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