10(終)
台風が過ぎ去った朝日は眩しい。警官が吉野君に一言言っていたようだけれど、吉野君の耳には入っていないようね。
……本当に面白い子だったわ。私は吉野君に抱きついた。魅力ある男性になら、女性からアタックするのは当たり前でしょう?
「面白い人ね吉野君」
頬に触れ、近くで見た顔は可愛らしかった。
「また会いましょう」
嫉妬を感じたけれど、どうでも良かった。
「秀介……」
今は私の事も見えていないようだった。それで良いわ。私はそのために、努力を惜しまない女だから。
何度目かになる、病室が目の前にあった。言うべき事は、言えない。『有村華音』のプレート。あの事件から2週間が経ち、身も心も抜けなかった。心持重いスライドドアを開け、中に入ると、中学生位の少女が半身を起こして微笑んだ。
「また来てくれたんですね」
ああ。 ……兄貴が暫く海外に行ってるから、代わりにね。あいつ心配性だから。
言えば良いのかも知れなかった。そうすれば展開が進む。好む人も多いかもしれない。俺は秀介を取り巻く物語の進行を拒んだ。秀介がこんな事をした理由を見てしまったから。
「渡して欲しいって」
だから閉ざした。いつかは真実を知るかもしれなかった。逃避? かも知れない。イニシャル入りのヴァイオリンを、華音ちゃんに渡すに留めた。どこのブランドとも知らない、価値さえも分からないヴァイオリンを受け取り、華音ちゃんは目を閉じて構えた。
全てを包む音色に、俺だけでなく華音ちゃんも浸っているようだった。
陸田さんが立っていた。白衣姿に、あの事件を重ねると、なるほど納得が行った。夕日の差し込む中庭には人がいなかった。話したい事があるからと、俺たちはベンチに腰掛けた。
「ヘリで墜落した小川さんは、奇跡的に一命を取り止め、植物状態になってしまった」
華音ちゃんは、植物状態から完全にとは言わないが回復した。五体満足だった小川さんは植物状態になった。死んでいないがイキテイナカッタ。ある意味最悪の結果だった。秀介は、何を思っているのだろうか。
「……あの時の俺が、お前みたいな奴だったら良かったのにな」
小川さんの一言が思い出された。後悔していたのだ。今更推理しても意味が無かった。目の前には全身に包帯を巻かれた誰かがいた。心電情報モニタの規則正しい音が、当時の華音ちゃんに重なって見えた。
「暗号を解いてくれてありがとうございます。解いてくれて申し訳ないですが、僕の父が残した遺産は既に、私有村秀介の妹である、有村華音のものです」
翔太は、どんな気持ちでこの文章を読むのだろうか。それだけが気がかりだった。僕がやってきたバカ。翔太がやり返したバカ。ヴァイオリンの弦を全部切られた時は流石に喧嘩した。全部、楽しかった。
「そして、華音が植物状態になった原因を、両親を見捨てた4人に復讐をするために、皆さんをここ、トランプ館にご招待しました」
夕日を秀介と見たのはいつ以来だっただろうか。隣にはチンパンジーの面をつけた秀介がいたと思う。
「母さんの連れ子だった華音と4人で始まった生活は、とても幸せでした」
目を閉じる翔太。
「そんな生活が続き、1年前、僕達家族は事故に遭いました。小川が飲酒運転をした、車と」
深呼吸する翔太。
「僕は無事でしたが、両親と妹は重傷を負っていました。しかし小川はすぐに車で逃走してしまい、近くを通りかかった尾形に助けを求めましたが、突き飛ばされ、死に近づく両親に見向きもせず、どこかへ走り去って行きました」
車道を見る翔太。救急車のサイレン音。
大破した車、倒れている華音、叫んでいる様子の秀介がうっすら見えて消え、救急車が傍を通り過ぎて行く。
「そして遅れて救急車が来た時には両親は死亡。華音は全く動けない状態になった」
遊んでいる子供達が、小学生の俺と秀介に重なった。昔を思えば、動物トラウマの原因は秀介だった。
「加害者側の圧力か。警察の捜査は犯人逃亡と言う形で収束し僕はその話を父さんが残した遺産と共に華音の病室で告げられた」
秀介の遺書がフラッシュバックしていった。子供達の親らしき女性が手を振ってやって来た。楽しそうに子供達は走っていった。
「分からない感情に苛まれ、ヴァイオリニストのスケジュールに忙殺され、ある日感情の正体を知った」
この連続殺人を、この方法で実行しなければならない理由を考えた。クローズドサークル。他殺に見せかけた自殺。今までの出来事で、物語る事が出来てしまっていた。
「ある小説を見て目を疑った。御丁寧に小説にして下さった方がいた。12時32分の事故現場」
授業内容をめんどくさそうにも、淡々と話す数学教師。いつも通り、無難でつまらなかった。この小説の内容が衝撃的で、見ていられなかった。事故が起こる前の風景。大人二人の血だらけの描写。子供が泣き叫びながら大人に助けを求め、裏切られる瞬間。作者の打算的笑み。秀介が何故すぐに気付いたのか。タイトルから余りにも詳細に語られていたのだろう。それが原因。
「その小説家は実際に見た物を小説に使うそうだ。その様子を克明に、詳細に描く事によって、自分の世界が創られていると。芸術の鑑だまさに」
雲が流れた空を見た。流れる姿は克明だった。
「その時、心の中を激しい何かが支配した」
華音は、僕の真似事を良くしていた。きっと、ヴァイオリンを引き続けてくれる事だろう。だからほら。泣いたらダメだよ。華音。兄さんはいつだって一緒だ。
有村秀介が、有村華音にうっすら重なった。
「でも、一番憎いのは僕自身。両親と華音をその時助けられなかったのは僕自身なのだから」
受け取った憎悪を必死に噛み砕く。実際に俺がそんな状況になったら? 親友のための敵討ちなんて、何も生まなかった。俺は、一体何をしたんだろうか。
「陸田衿子先生。遺産は既に華音の為に用意してあります。どうか華音だけは助けて下さい」
俺が関わって、何が変わったんだろう。結局は、何も変わらなかったんじゃないだろうか。
「最後に翔太へ。僕が君をここに呼んだのは、きっと止めて欲しかったから。ずっとこの殺人を実行するかどうか、迷っていたと思う」
そんな事、無理に決まってるじゃねーかよ……。実現するためには、お前を犯人だと疑って行動しなきゃいけないんだぞ。そんな事絶対にしないって、お前なら分かる筈だろ……。
「台風が来る事を利用する為に時機を伺っていたって。本心さえも偽って。だって、この殺人が暴かれたら、華音は……」
殺人者の妹だと。言われる事を分かってやった。憎しみが勝ったから。ただそれだけ。だから閉鎖空間。最小限にしか情報が漏れないように。今更分かったって意味が無い。体が震えているのはその証明。空を見上げ、歯を食いしばり、目を閉じる。いつも通りの日常が、そこにあって。儚く消えた。
だからこの遺書は、読まれないと良いなと、心の奥底で思いながら。翔太。ごめん。そしてきっと、ありがとう。君は僕の大好きな親友だ。
目を閉じて両小指を絡め、手を口元に当てている翔太。何となくの癖が、親友との約束になり、失われた。失いたくない絆になってしまった。色んな感情が、翔太の両手に宿っているように見えた。授業を2人ともサボってしまった。なるべく穏やかに、授業の始まりを告げた。
「どうすれば良い?」
私に背を向けた翔太には。私は何をしてあげたら良いのか? きっと。自分がしてしまった事なんて、思っているに違いないから。……どうしたのよ急に。何でもないと翔太は言った。中身の無い会話に、時間がただ経過していった。変な奴。と私は言った。
「うるせえよ……」
翔太は私を抱き締め、嗚咽した。どれだけ考えても、どうすれば良かったなんて分からないよ。混濁しきった心を救いたい。翔太に手を回した。ただ、翔太は、嗚咽した。
何で他殺に見せかけて自殺したのか。何で複数人に疑いがかかるようにしたのか考えてなかった。結局あいつの事を考えてやれなかった。動機も考えず方法と犯人を暴いてそんなのが親友か!? 親友と交わした絶対も守れない最低の人間だ!
……目立ちたいだけだったのかもしれない。
「そんな事無い」
そうなんだよ。何も出来なかったんだから。
「事件を解決しなかったら、あたし達だってどうなってたか分かんないよ?」
だけど! だけど! もう分かんねーよ!
「ゆっくり考えよ?」
ゆっくりなんて考えられなかった。後悔だけなんだ。残ったのは。失った物が大き過ぎた。気付けなかったものが余りにも大き過ぎた。背負うなんてそんな事、出来るわけが無いと思った。止まらなかった。由佳も泣いていた。
「これから守れば良いじゃん」
守る? ……ナニヲ?
「守るもの見つけてさ」
由佳は立ち上がれと言う。
「もう、守りたくない?」
そんな訳無い。たった一つ残った。思い。もう。
同じ事は繰返したくない。
「なら、約束」
両小指を絡め、口元に手を当てた。思いは未だに頬を伝った。由佳が手を添えた。まだゆっくりとしか進めないかもしれない。小さな決意が宿った。
涙を拭くと、気恥ずかしかった。由佳から離れ、気恥ずかしさを隠すためにさっさと教室に戻ろう。由佳はムッとしていた。授業はとっくに終わっていると思う。教師になんていわれるか。由佳が後ろをついてきた。
歩いて行く2人の後姿が、屋上の扉に閉ざされた。
怪事件ファイルの。幕開け。
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