Crime and Punishment

アイダカズキ

第0話 龍は舞い降りた(前編)

 暗闇の中で目を見開いたその瞬間、枕元の携帯電話が鳴り始めた。こんな時間にかけてくる相手など一人しか思いつかない、と考える前に手が伸びていた。

【寝ていたか?】

 案の定、電話の主はよく知った声だった。「たった今目を覚ましたところだ」

【さすがだな】笑いを含んだ声。【急ぎの仕事だ。行けるな?】

「ああ」

 向こうも初めから断られるとは思ってもいないだろうし、そもそも上こちらに拒否権はない。だからこれはいわば決まり文句、あるいは毎朝の挨拶のようなものだ。

【5分で行く。準備しておけ】

「わかった」

 通話を切り、時計を見る。午前2時35分――暖房もない晩秋の室内はしんと冷えている。

「真っ当な仕事じゃないな……」思わず口に出した自分の呟きに、自分で苦笑する。――真っ当であろうとなかろうと、仕事は仕事だ。


 にっことはすっかり暗くなった居間のソファで目を覚ました。いつの間にか眠ってしまったらしい。暖房のおかげで喉まで痛い。

「またやっちゃった……暖房つけてなかったら風邪引いてたよ……」

 頭を振りながら食卓を見る。父のために用意した夜食に、手が付けられた形跡はない。もっとも、帰ってきていたらさすがに気づくだろう。

「……父さん、今日も泊まりかな」

「今日も」どころか、父は最近ほとんど家へ帰らない。元来仕事熱心な人ではあったが、母が家を出て以来その傾向は顕著で、ここ半年で家に帰ってきた回数など片手の指で足りる程度だ。職業柄仕方がないとは言え、兄弟もなく父と2人暮らしの真琴としては寂しくもある。

 おかしな姿勢で寝ていたせいか、頭髪に触ると髪型がずいぶんとパンキッシュな飛び跳ね方をしていた。何より身体が冷えてそのままでは寝付けそうにない。もう一度お風呂に入るか、と苦笑いした。

 残り湯を沸かし、入浴を済ませた。ドライヤーで髪を乾かしたが、母親譲りの癖っ毛はぴんと撥ねたままなかなか元に戻ってくれない。

 ふと、鏡の中の自分と目が合った。いつも驚いているように見えなくもない、黒目ばかりが目立つ細く儚げな面立ちが見返してくる。

(小さい頃は父さん似だって言われたけど、最近は何だか母さんの方に似てきたな)

「……父さんは、僕が母さんに似てくるのが嫌なのかな?」

 口から漏れた言葉に、自分自身で戸惑った。父本人に聞かなければわかることではない――聞いたところで答えてくれるとは限らない問いに悩んでも仕方ないではないか。第一、考えていてまったく楽しくない。

 やっぱり、こんな時間に寝落ちするのは駄目だ……苦笑しながら2階の寝室に戻った。さすがに今日中に父の戻りはないだろう。

 パジャマに着替えはしたが、何だか今夜はひどく目が冴えて眠れない。郊外ではありふれたツーバイフォー工法の2階建て住宅は、母がいた時ならともかく、めったに家へ帰らない父との2人暮らしでは広すぎた。まだ14歳、中学2年生の真琴としては心細いことこの上ないが、一方で「父さんがいないから怖くて眠れない」という歳でもない、という自負もある。

 それにしても何だろう、今日はやけに周囲の静けさが気に障る。

 クラスメートとSNSで雑談しようにも、この時間では起きている者もいないだろう。無料のスマホゲームを漫然と遊んでいるうち、なぜかエラー表示が出て強制終了してしまった。

「?」

 思わず眉根を寄せた。急に電波状況が「圏外」になっている。電源を一度落として再起動してみたが、やはり通じない。

「何も僕に合わせて、スマホまで調子悪くならなくてもいいだろ?」

 やっぱり今夜は何か変だ。これは神様が早く寝ろと言っているのかな、と半ば本気で思い始めた時。

 玄関の方で、みしり、と床が軋む音がした。

「え……」

 父が帰ってきたのだろうか……それにしてはおかしい。深夜だからチャイムを鳴らさず入ってきたのかも知れないが、それにしてもここまで足音を殺す必要があるのだろうか。犬や猫でもない。

 

(ど、どろ……ぼう?)

 一瞬で口の中が干上がった。自分の鼓動まで表に聞こえないかどうか気になりだした。警察に電話……しようとして、改めてスマートフォンが不通になっていることを思い出す。

 まさか、これもなのだろうか。

 玄関から外へ出て助けを求めようにも、廊下へ出れば侵入者と鉢合わせだ。それにこの辺りは郊外でも特に閑散とした区域で、右隣の家はあまり愛想の良くない中年夫婦、左隣の家に至っては独りで住んでいた老婆が去年亡くなって以来、完全な空き家だ。

 自分の息がはっはっと浅く速くなっているのを自覚する。

 落ち着け、落ち着くんだ僕。

 キッチンと居間を経由すれば、上手くすれば、侵入者の背後を取って玄関へたどり着ける。最良とは言い難いが、他の方法は思いつかなかった。少なくとも、真正面から謎の侵入者と対峙する気は欠片も湧かなかった。たとえ相手が「こんばんは、急に押し入って申し訳ありません。黙って金品を拝借するつもりでしたが見つかっては仕方ないので退散いたします。つきましては安全なところへ逃げられるまで、通報はご勘弁いただけますか?」と朗らかに話しかけてくる気さくな泥棒だったとしても、犯罪者に正面から出くわすのはやっぱり怖い。もっと悪い事態になる可能性の方が遥かに高い。

 音が鳴らないように寝室のドアを開けた。自分の部屋のドアを開けるのにこんなに緊張したのは生まれて初めてに違いない。

 猫のように階段を四つん這いに近い格好で降りている最中に、また、みしり、と床の軋む音が聞こえて心臓が喉元まで跳ね上がった。明らかに靴を履いた人の足音だ。間違いなく、足音の主はこちらへ移動している。まばゆい光の束――懐中電灯の光が目の前をかすめた時は心臓が縮み上がった。かわしてキッチンへ逃げ込めたのは奇跡としか言いようがない。

 電気を消したキッチンは闇そのものだった。明り取り用の窓から差し込む月明かりのおかげで、かろうじて冷蔵庫やテーブルの輪郭が見て取れる。まるで今よりずっと小さかった頃の、悪い夢の中に迷い込んだような心細さに真琴は涙をこぼしたくなった。何もかも忘れて布団の中に潜り込みたかった。

 だが、もっと真琴を震え上がらせたのは、廊下の足音に続いて別の足音が聞こえたことだった。つまり、侵入者は2人以上いるのだ。

(あいつら、人んちで何をしてるんだよ……?)

 それも、よりによって父さんのいない日に。

 移動している……探し回っている……明らかに真琴を探している。

 自分の声が漏れないよう、掌で口を押えなければならなかった。そうしなければ嗚咽が漏れていただろう。ここには父も母も、それどころか頼りになる大人は誰もいないのだ。

 もうぐずぐずしてはいられなかった。玄関へ走ってでもたどり着くのだ。

 少し息を吸い、一瞬止めてからゆっくりと吐き出す。パニックになっていないことにほんのわずかだが安堵する。

 次の瞬間、テーブルの下に伸びてきた手が真琴の頭髪を力一杯つかんだ。

「いっ……!」

 髪が根元から抜けるような痛みに涙がにじんだ。悲鳴を上げる間もなく引きずり出され、悲鳴を上げようとした瞬間に脇腹を強く殴られた。かっ、という奇妙な音が唾液とともに自分の口から漏れる。

 痛みと衝撃に声も上げられずキッチンの床上でのたうち回る真琴を、黒の目出し帽に黒ジャージの上下、履き慣れたスニーカーという出で立ちの男たちが冷ややかに見降ろしていた。ドラマの悪役じみたありきたりの怒声もなければ、脅し文句さえ、嘲笑さえなかった。真琴がどれだけわめこうと哀願しようと、こいつらなら一顧だにせずに真琴を人間であることを、一瞬で悟ってしまった。

 中の一人が無造作に顎をしゃくる。別の一人が頷いて懐から透明な薬液の満たされた注射器を取り出した。

 口を押えられていなくても、殴られた痛みと恐怖で悲鳴一つ上げられなかった。自分の首筋に鋭い針が近づいてくるのを、凍りついたように見つめることしかできなかった。

 ――出し抜けに、室内に奇妙な音が響いた。ドアをノックするような、こつこつ、という硬い音。

 真琴を見下ろしていた男たち3人が動きを止め、訝しげに周囲を見回した。

 また同じ、こつこつ、と音が響く。男たちの1人が一点に目を止め、ぎょっとしたように身じろぎした。這いつくばったままの姿勢で真琴は必死に身をよじり……そして男たち同様、呆気に取られた。

 青白い月光を背に、天窓へ覆いかぶさるような姿で、黒ずくめの巨大な影がガラスを叩いていた。

 室内の誰よりも天窓の外の影は先に動いた。ノックに反応がないと知ると(当たり前だ)腰の後ろに素早く手を回し、大型のドライヤーにも似た機器を窓に押し付けた。

 音もなく、閃光もなく、はめ込まれたガラスが一瞬で粉状に細かく砕け散り、床に雪崩落ちてきた。声もなく後ずさる男たちと対照的に、巨大な影は窓枠をくぐり抜け、と床へ降り立った。宇宙飛行士が月面着陸するような、ふわりと体重を感じさせない着地だ。

 猫みたいだ、と真琴は思った――床は砕けたガラスの破片で一杯なのに。周りの男たちだって、足音を忍ばせてはいても床鳴りぐらいは発していたのに。

 巨大な影がゆっくりと身を起こす。頭部はフルフェイスのガスマスクで覆われているため、短くて硬そうな頭髪以外は見えない。背は高いというより巨大で、同学年の少年少女の中でも小柄な真琴からすると見上げるような大きさだ。ウェットスーツのような全身のラインを露わにするスーツのおかげで、アスリートのように鍛え抜かれた体躯がよく見えた。筋骨隆々、というほどではないが、よく引き絞られた無駄のない体躯だ。

 呆気に取られたのは確かだが、男たちの立ち直りもまた早かった。真琴の首筋に注射針を突き立てようとした1人を除き、1人は鈍く光るサバイバルナイフを、もう1人は黒く細長い箱のようなものを取り出した。拳の先で青白く輝く電光が目を焼く。スタンガンだ。

 躊躇いもない暴力の気配に身をすくませた真琴と違い、ガスマスクの影は――ただ軽く肩をすくめただけだった。それどころか、目の奥にちらりとだが、笑うような光さえ浮かんだ。

 怒声こそ上げなかったものの、暴力をよほど恃みにしているのだろう。全身から怒気を露わにして2人の男が進み出る。刃が腹をえぐるか、電撃が全身を貫くか。結果は、どちらでもなかった。

 真琴の目から見えたのは、ガスマスクが無造作に腕をわずかに後方へ引き、フック気味に右拳を振り下ろしただけだった。

 ごつん、と硬いゴムを鉄棒で殴ったような鈍い音が響いた。

 鉄板の上で足裏を焼かれた猫のような甲高い悲鳴が上がった。ナイフを握ったままの男の手首が、おかしな角度へ折れ曲がっていた。

 仲間の身に起きた惨劇にやや怯みながら、スタンガンの男が身構える。突進しようとしたその全身が、それこそ電流に打たれたように硬直した。

 ガスマスクの影の爪先が、男の足の甲をぎりぎりと杭のように踏みつけていた。覆面をかぶっていても、男が凄まじい激痛に襲われているのがわかった。その胸板、肋骨のあたりに、ガスマスクの手刀が静かに当てられた。

 深々と突き入れられた。

 げっ、というえづくような苦鳴を発し、オーバーなしぐさ一つなく男の全身がすとんとその場に落ちた。全身の骨が急に抜かれたような倒れ方だった。

 そのすべてを真琴が目にして理解できたわけではない。ただ、覆面男たちの死に物狂いの抵抗に対し、ガスマスクの方はそれを歯牙にもかけなかったことは、格闘技の経験などまるでない真琴にもはっきりとわかった。撃退したとも、叩きのめしたのとも違う。、と表現した方がいいのかも知れない。実力に差があるということはこういうことなのか。何よりも驚いたのは、それを行ったガスマスクの立ち姿の、異様なまでのだ。その巨躯に関わらず、周囲の空気を微動だにさせていないのだ。

 最後の1人、注射器の男が身じろぎする。何か武器を取り出そうとしたのか、それとも真琴を盾にしようとでもしたのか。どちらにせよ、それは果たせなかった。

 ごん、と鈍い音が頭の側面で響いて、短い悲鳴とともに真琴の傍らにいた男が仰向けに近い姿勢で吹っ飛んでいった。前を見ると、ガスマスクが片足立ちをするような格好で目の前に立っていた。

 ガスマスクの巨大な影が、今度こそ真琴を見下ろしていた。

 真琴は動けなかった。脇腹を思いきり殴られた直後ということでもあるが、それ以上に――暴力に長けているはずの男たちをしたこいつなら、逃げたところで鼻歌交じりに追いつかれるだろうな、と妙に冷静に思えたからだった。

 ガスマスクの巨大な影が身をかがめた。ちょうど小さい子供を安心させるような、視線を合わせるための姿勢だ。

「こんばんは」

 穏やかで落ち着いた声だった。思ったよりは、という程度だったが。

「こ……こんばんは」

 今の僕たちを他の誰かが見たらどれだけ間が抜けて見えるんだろう、と真琴はぼんやり思った。挨拶は結構だが、あまり尋常でない状況で尋常な挨拶をされるとそれはそれで怖い。

 ガスマスクの中で微かに目が細められるのが見えた。笑ったらしい。

「突然だが君は狙われている。一緒に来てくれるかい?」

「え、でも……」

 真琴は躊躇った。狙われている云々には疑いの余地もないのだが、

「ま、まだ心の準備ってものが、」

「ちなみにこの件に関して、拒否権はない」

 なら何で聞いたんだよ、と返しそうになった時、視界の端で何かが動いた。

 右手首をへし折られてうずくまっていた男だった。呻きながらも、左手で何かを構えようとしている。何かの測量器具に見えなくもないそれは――折り畳み式のボウガンだった。しかも鋭い矢尻までセットされている……毒液でも塗られているのだろうか、先端がわずかに変色している。

「危ない……!」

 真琴の警告に……いや、もしかするとそれよりも早く、ガスマスクは振り向いていた。この態勢では避けようがないし、避ければ今度は真琴に矢が突き刺さる――

 ぱしん、と軽い音が聞こえた。

 真琴だけでなく、矢を放った男まで目を見張った。ガスマスクの掌が、まるで予め貼り付けてあったかのように飛んできた矢を側面から絡めとっていた。

 次の瞬間、ばぐん、としか形容のできない鈍い音が響いて、男の首がものすごい勢いでのけぞった。数メートル近い距離を飛び越えての飛び蹴りが顔面を直撃したのだった。

 矢を傍らに放り投げ、ガスマスクは溜め息を吐いた。「危ないじゃないか」

 真琴は口をつぐんだままその足元に目をやった。機動隊が履いているようなごついブーツだ。あんなもので人間の顔面を躊躇なく蹴上げる人に言われたくないとは思っていたが黙っていた。

 ふいに、ガスマスクが人差し指を顔の前に当てた。

「どうしたの?」

「……増援だ」

 確かに、玄関の辺りで複数の足音が入り乱れている。もう忍び足すら必要ないと判断されたのだろうか。

「……もしかして、あれ、僕を目指してる?」

「理解が早くて助かるよ。どうやら選択の余地はなくなったみたいだな」

 真琴が抗議する間もなく、ガスマスクは手早くパジャマの腰にベルト状のものを巻き付け、自分の腰のベルトとバックルのような金具で接続した。さらに天井からぶら下がっているワイヤーを自分の腰に取りつける。

 天井?

「ま、まだあるよ、えーと……僕の意思とか、それから僕の意思とか……」

「君は俺の命の恩人なんだ。見捨てて逃げようもんなら俺がに怒られっちまう」

 その言葉の意味を問い返そうとして、真琴はもっと重要で、もっと致命的なことに気づいた。

 

 こんな場面、映画で観なかっただろうか……そうだ、銀行強盗が天井を吹っ飛ばしてワイヤーを引っかけた金庫をヘリで丸ごと盗む、あれだ。

 ちょっと待って? 僕、もしかして金庫扱い?

「少し冷えるが我慢してくれ。できれば、夜景でも見て気を散らしていてほしい」

「待って。……夜景って何のこと⁉」

 真琴が悲鳴に近い声で疑問を放った瞬間、凄まじい勢いでワイヤーが引っ張られた。


 真っ逆さまに落ちる夢、というのは世間に意外と多いらしい。高いビルや建物の屋上から転落する夢は、心に不安を抱えている時によく見るという。だったら今、僕が見ているこれは僕の心理のどういう顕れなんだろうな――声を上げる間もなく一瞬にして床から足が離れ、砕けた天窓の枠を通り抜け、眼下の自分の家が精緻な模型のようにどんどん小さくなっていくのを見つめながら、真琴はうっすらとそう思っていた。

「……落ち着いてくれないか。このワイヤーは1トンの鉄塊を打ちつけても切れない特殊金属製、金具だって装甲車なんかを繋ぎ止めるのに使う軍用規格ミルスペックだ。俺と君2人の体重ごときじゃ切れやしない。君の体重が1トンなら話は別だがな。……聞いてる?」

 ごうごうと唸る風の中で、ガスマスクの声が妙にはっきりと聞こえた。その時になって初めて真琴は自分があらん限りの声で「あーーーーーー!」と絶叫していたことに気づいた。

「まあ、叫ぶのも無理はないか……ワイヤーフックで一本釣りされるなんて体験、世の中にはそうないからな」

「そんな気遣いするくらいだったら、最初からやらないでくれるかなあ⁉」

 真琴は首を無理やり後方へ曲げて、背後のガスマスクに抗議した。そいつの口調が案外のんきで気安いものであるのに安心したせいもあるが、耳元で唸りを上げる風と足元の暗闇を意識するよりは、ガスマスクに怒りをぶつけている方が遥かにましだったからだ。

「なかなかスパイシーな突っ込みをするね、君は。できることならそういう視点を忘れないでほしい」

「僕のことはこの際どうでもいいから!」

 丁寧な物腰で言われると余計頭に来る。

 それにしても癪なことに、ほぼ完全に眠りに落ちた未真名市郊外の夜景は確かになかなかの見ものだった。黒よりもなお暗い一面の平野に、白やオレンジの光点がぽつりぽつりと灯っている。黒々として音もなく流れる運河の向こうに広がるのは、それこそ宝石箱をひっくり返したような未真名市の夜景だ。

 そして上空には――白々と輝く、新円に近い巨大な月。

 生まれて初めて見る高みからの眺望に、真琴は確かに数秒の間、怖がるのをやめた。

「なかなかのもんだろ?」

 背後の声に真琴は我に返り、慌てて首を真横に振った。ごまかされない、ごまかされないぞ。

「よく我慢したな、終点だ」

「え?」

 煌々とした月の光が巨大な影に塗り潰された。頭上を見上げた真琴は巨大な魚のような機体と、音もなく回転する巨大なローターを見てしまい、思わずのけぞって背後の分厚い胸板に頭をぶつけた。

 視界がぐるりと回転し、耳元の風音が止んだ。ヘリの中に入ったのだ。背後のガスマスクは腰の金具を外し、存外に優しい手つきで真琴を床に降ろした。金属を剥き出しにした内装が素足に冷たい。

「足が冷たいだろ。はいスリッパ」

「あ、ありがと……」

 反射的に礼を言ってしまった。いやいやいや、だからごまかされないって。

 ヘリの客室には先客がいた。スーツにノーネクタイというラフな服装の妙ににやけた中年男と、大輪の花を散らした鮮やかな色のワンピースドレスを着て、タブレットを真剣な顔で操作している若い娘だ。

「まあ、そんな薄着で来たの⁉ ごめんなさい、寒かったでしょう」

 若い娘は立ち上がり、座席に置いてあった毛布を真琴の肩にかけてくれた。パジャマ一枚だと寒くて仕方なかったので、これは実にありがたかった。

「あ……ありがとうございます」

「どういたしまして」娘はにっこりと笑った。やや赤みを帯びた、ウェーブのかかった髪が肩まで緩やかに垂れている。細工物のような容貌は思わず見とれる優美さだが、厚めの唇には妙な愛嬌と温かみがある。今まで真琴が会ったこともないようなタイプの女性で、生気に満ちた鳶色の瞳に見つめられているうちに、先ほどまでとはまた違う種類の鼓動が激しくなってきた。

「ようお疲れ。夜の遊覧飛行はどうだった?」

 座席に座っていたスーツの男が笑いながら言う。歳は30代後半から40代前半ぐらいだろうか。中肉中背で、小奇麗な麻のスーツとよく磨かれた革靴がややこの場にそぐわなかった。不愉快な印象はなかったが、その分何者にも見えない男だった。

 ガスマスクは肩をすくめた。「悪くはない。足元がふわふわと頼りなかっただけで」

 「そいつはよかった」スーツの男は楽しそうに笑った。嫌味のない笑いだ。

「下らないことを言ってやがる。こんな阿呆な仕事に付き合わされるこっちの身にもなれ」

 また別の声が聞こえてきて、真琴はもう一人このヘリに乗員がいるのを思い出した。そう、肝心のパイロットだ。

「小娘みてえに何をぷりぷりしてやがんだ。フライトプラン提出からこのヘリの購入に改修費用まで、払いは全部うちのスポンサー持ちだって知ってんだろ? 深夜で特急だからって報酬に色も付けてんだ。何か問題があるのか?」

 スーツの男がさも不本意そうに言うと、パイロットの男は顔を半分だけ向けた。やや陰鬱そうな眼差しを別にすれば美しいとさえ言える、端正な顔の男だった。酷薄な二枚目といったところか。

「金の話をしているんじゃない。市街地上空でヘリを飛ばそうってお前らの発想に呆れているんだ」

「市街地上空でヘリを飛ばせる腕のある奴が他にいないからこそ、スポンサーもお前に頼んだんだって。お前じゃなきゃ誰に頼めってんだ? 俺か? そこのお坊ちゃんお嬢ちゃんか?」

 度し難いと言わんばかりにパイロットは鼻を鳴らした。心底怒っているわけではないが、言わずにはいられないといった風情に見えた。

 真琴の背後に立つガスマスクに目を向けた娘は、弟の悪戯を目撃した姉といった面持ちで、頭2つ分は優に高い相手を恐れもせず見上げた。

「お疲れ様。その不細工なマスク、さっさと脱いじゃいなさいよ。この子が怖がるでしょ」

 「道理だ」怒る様子もなく、ガスマスクは後頭部に手をやってマスクを外した。

 体躯にふさわしい、精悍な顔が現れた。真琴とそう歳の離れているようには見えない、若い男だ。顔の彫りは深く肌浅黒く、頑丈そうな顎と殴られたように曲がった鼻柱が印象的だった。魁偉ではあるが、醜くはない。真琴は何となくほっとした。

「あの」真琴は恐る恐る彼ら彼女らに問いかけた。何となく怖かったが、どうしても聞いておかなければならない気がしたのだ。「まさか、僕一人をさらうためにこんなヘリを飛ばしたんですか?」

「合理的だからな」

「手っ取り早いしな」

 青年とスーツの男はさも当然のように頷き、真琴はおかしいのは自分の方なのではないかと思えてきた。

「実際、時間もかけられなかったのよ」娘がダイエットの苦労についてでも語るような調子で愛想よく説明する。「私たちが襲撃の情報を突き止めたのは、ほんの数時間前だったし。そのおかげで、荒っぽくなってしまったの。ごめんなさいね」

 あれのどこが「ちょっとばかり」なのか真琴にはまるでわからない。

「何しろ襲撃チームには、実行班だけでなくて監視班や運転手、バックアップまで目を光らせていたからな。まとめて蹴散らせないことはなかったが、少々面倒だった。人命が掛かっている以上、万に一つの失敗もできないしな」

「それでヘリから僕を一本釣りすることにしたの……?」

「早いだろ」

「ロジカルでしょ」

「まさに疾風迅雷の早業ってとこだな」

 青年と若い娘とスーツの男がそれぞれにさも得意げに頷き、真琴はこめかみが痛くなってきた。もしかして僕、知らないうちにあべこべの国へ迷い込んだんだろうか。

 スーツの男が肩をすくめる。「手口は荒っぽいが、それだけ用意周到な連中だ。君は車で連れ去られていて、今頃はだろうな」

「僕が何になるって?」

「半分になっていた、って言ったんだよ。

 後から意味が分かると恐ろしくなる怪談を聞いたように、真琴はぞっとして震え上がった。脇腹を殴られた時の、痛みに勝る恐怖と無力感が生々しく蘇ってきた。

「子供に何てこと言うのよ。この犯罪者ども」若い娘が怖い顔をしてスーツの男を睨みつけ、一転して真琴に微笑みかける。

「これからあなたを安全な場所に連れて行くの。もちろん、学校や自分の生活が気になるとは思うけど、それも命あっての物種だしね」

「そ、そんな急に言われても」真琴は自分のパジャマ一枚の姿が、寒さとも相まって、急に心細くなり始めた。「できれば一度家に帰りたいんですけど……もう遅いし」

 青年が難しい顔になった。「お勧めはできないなあ。第一、さっきのごろつきどもがまだ倒れたまんまだぞ」

 スーツの男が文字通り腹を抱えて笑い出した。「ごろつきがごろつきをごろつき呼ばわりしてやがる」

「茶化すんじゃねえよ、インストラクター。真面目な話をしてんだ」

「一般的な反応だ。お前らは犯罪者の基準でも非常識だよ」ヘリのパイロットが吐き捨てる。

 構わず、青年は真面目な顔で真琴を見下ろした。「例えばだ。もし君が犯罪者に狙われていたらどうする?」

 若い娘が大げさに目をぐるりと回してみせた。「それ、もしかしてギャグで言ってるの?」

「茶化すなよ。……例えばの話だ」

「えーと……警察に届ける?」

「警察にも犯罪者の仲間がいたら?」

 考え込んでしまった真琴に、青年は言った。「そう、大半の人はそこでしまう。それに、警察は基本既に起こった事件にのみ動くものであって、これから起こるかも知れない犯罪にはなかなか動いてくれないからだ」

「それじゃ、軍事請負企業ミリセクに依頼する……」そこで真琴は何かが噛み合ったような気分になった。「もしかして皆さんは、ミリセクの人なんですか?」

 警察は重武装の犯罪者に対して無力であり、それにこれから起こる犯罪には無力――という認識が世間に浸透して久しい。

 スーツの男はまた笑いながら肩を揺する。「なかなかいい線行ってるじゃないの。惜しいところだけどよお」

 青年も重々しく頷く。「そんなご大層なものじゃないけどな。〈ダビデの盾マゲン・ダヴィッド〉が大企業なら、俺たちは零細企業もいいところさ」

「ごろつきと軍事請負企業の隙間産業、ぐらいに考えてくれればいい」と、こちらはヘリのパイロット。見かけほど話すのが嫌いではないのかも知れない。

 若い娘が笑って小首を傾げると、髪がさらりと肩から垂れた。「でも、もうわかっているとは思うけど、みんながみんなミリセクのボディガードを雇えるわけじゃないわ。それができるのはほんの一部、裕福な家庭だけ」

「そうですよね……僕のクラスでも、成人したら自衛軍に入ってキャリアを積んで、ミリセクにスカウトされるんだ、って言っている子たちがいて……」

 傍から見ても「宇宙飛行士になりたい」と同じくらい危うい夢としか思えないのだけど。

 スーツの男がやけに分別臭い表情で宙を仰いだ。「精通前のガキに戦争屋稼業のキラキラ部分だけを喧伝するのは罪深いよなあ……少なくとも将校クラスにならないと、兵隊さんの暮らしぶりなんて猛烈にしょぼいぜ」

「だいたい飲み込めてきたけど……あなたたちがその代わりだって?」

「マンパワーの限界上、すべての犯罪に対して、とはまだ言えない。ただその方法を模索したいとは思っている」

「純粋な人助けとも言えないけどな」スーツの男が引き取る。「ぶっちゃけた話、君を助けると、それに応じた報酬が出るんだわ。金が欲しくないとまでは言わないが、困ってはいないんだ」

「そんな奇特な人がいるんですか?」

 にわかには信じがたい話だ。自分を誘拐したところで一文にもならない、とは思うが、お金を払ってまで助ける人がいる、というのも疑わしい。

「まあ『さるお方』と言っておこうか……子供が犯罪に巻き込まれるのを看過できないお人だ」

「うーん……」

 真琴は考え込んでしまった。実際、彼ら彼女らがいささかうさん臭くても命の恩人であることには疑いなかった(あのまま助けに来なかったら、確実にだろう)し、血も涙もない人間ではない(他人の顔面を容赦なくブーツで蹴り飛ばせる類の人間ではあるが)とわかってほっとした部分はある。それでも、

「や、やっぱり家に一度」

 言いかけて――突然、首筋にちくりと軽い痛みを感じた。

「あれ……?」

 振り向いてみると、あのスーツの男が口に当てた細長い筒をこちらに向けていた。

 吹き矢?

 呆然としている真琴と目を合わせ、スーツの男はさも不本意そうに首を振ってみせた。「悪く思わないでくれよ……これが『たったひとつの冴えたやりかた』って奴さ」

「薬を使うのは感心しないが、仕方ないか。眠らせるのにと手刀の一撃で気絶させるなんてドラマの中だけの話だからな。下手すると失禁する」

「犯罪者の会話ねえ……」

 吹き矢使うなんて犯罪者じゃなくて忍者だろ、と突っ込もうとして、視界が暗くなった。倒れる身体を青年の腕に支えられたような気がするが、その時にはもう意識が遠のいていた。

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