第八回 流星分岐幻想曲

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 三百六十度を雪山に囲まれた雪原のど真ん中にロッジがあった。まるでそこは隕石が落ちたように陥没しているような場所だった。


 ヘリコプターは粉雪を舞い散らせながら、そこに降り着いた。


 凍てついた小氷を顔に浴びながら、ヘリから三人は降り、各々一人分の荷物と食料を持って早足でヘリから離れた。ロッジの入り口に急いで退避する。そのうちの一人の男、烏丸ミチルが親指を上げて、ヘリのパイロットに合図を送った。すると、ヘリのプロペラは回転数と雪を舞い上げ、雲ひとつない青空に飛び去っていった。


「まさに陸の孤島よね。殺人事件が起こらないはずがない。もってこいのシチュエーションね」


 桐山真理は、ヘリに乗った時からの興奮がおさまらないでいる。


「き、桐山さんの狂気モード、久しぶりだな」


 口どもった口調で、八木沼昇が答えた。防寒着で厚着であるが、元々が細身で、頼りなさが滲み出ている。


「ふふっ。殺すなら、まずは昇からね。一番やりやすそうだし」


「たった三人だけじゃ読者は楽しんではくれないよ。そんなお粗末なミステリー。さぁ、開いたよ」


 烏丸ミチルが玄関ドアの鍵を開けて、ロッジの中に入っていった。


 大学時代の文芸サークルの同期である烏丸ミチル、桐山真理、八木沼昇の三人は、烏丸の誘いで、真冬になると陸の孤島と化すこのロッジにやってきた。


 烏丸は、ロッジの管理人ではなかったが知った場所で、この時期誰も使うことないことをいいことに借りたそうだ。


 暖炉に火をつけ、各元栓を開け、水を出し、通電の確認を手慣れた手つきでロッジ中の点検を一人でせっせと済ませた。


 烏丸の作業が落ち着くのを見計らって、真理がコーヒーを入れて、広間で暖炉を囲う少し沈みの悪いソファで三人は一息ついた。


 文芸サークル時代に行っていた冬合宿。とりわけ新作を書くのではなく、課題の作品を選び、その作品のどこからか話を分岐させた物語を書く合宿を行っていた。今回、烏丸がこのロッジを借りれたこともあり、Supertailを題材に久しぶりに分岐合宿をやらないかというものだった。


 作家という仕事をある程度意識していた三人は、分岐合宿が自分の力を上げる良い場所になっていた。作者の文体を勉強する場でもあり、登場人物をどれだけ理解し、自分で作り上げる物語の中で破綻なく表現できているのか。そして、作者を尊敬できているか。


 最後の約束事は、たいだい50パーセント程度しか思慮されていなかった。


 毎回、エンディングが気にくわない。このストーリー展開が嫌だのと、自分で表現した方が面白くなると思い込んでいたからだ。今から思えば、若気の至りだと言える。


 分岐合宿には、もう一つ約束事があった。分岐ストーリーを合宿当日まで考えてはいけないことだ。特に、今回のSupertailという題材においては三人を苦しめていた。


「気付いたら仕事中も考えている自分がいて、仕事が全然進まないんだ。烏丸くんから連絡もらって1ヶ月半、自分の作品じゃなくSupertailに悶々とさせられてたよ」


 コーヒーカップを持つ細い腕が震えている。八木沼の表情は、久しぶりに人と話すように嬉しさに溢れていた。


「そういえば、昇は作家デビューしたんだよね。エロ本の」


 真理の歯切れのいい声は、八木沼と違って聞きやすい。ストレートに物言う性格は変わっていないなと、烏丸は大学時代を懐かしく思い返していた。


「え、エロ本じゃなくて、官能小説だよ。エロ漫画の原作もやらせてもらってはいるけど」


「昇が官能小説ねぇ。読んでないからあれだけど、文章は心配していない。問題は、筋立てやキャラの魅力、そこに官能性が発揮できているか。男としての経験値上」


「き、桐山さん。ひどい。僕なりに本読んで勉強したよ。う、売れているかは別として……」


「……」


 真理と烏丸は、あえてそれ以上八木沼の話を続けなかった。二人は目線を合わせて、一つ頷きコーヒーで口を潤した。


「悶々といえば、私もね。結婚して子供が二人いて、忙しいってありゃしないのに、気づくとSupertailのことを考えてた。今日は旦那に全部押し付けてきたから、今頃パニックになってるだろうね」


 丸メガネの位置を直して、息を吐き出してリラックスしている。


「真理ちゃん、ごめんよ。家族全員を呼ぶことができなくて。いいヘリが用意できなくて」


「あぁ、いいのいいの。私だって羽を伸ばしたい時もあるから。私がいない間分の用意はしてきたから、気にしないで。ミチル君は、まだ先生?」


「相変わらず狭い世界で、たいした人生も送っていない自分が教鞭を執ってるよ」


「たいした人生を送っていない? よく言えたもんね。天下の聖エアリス学園の教師でしょ。将来有望な人材が日本中から集まってくる学園でしょ。あまり表情には出さないけど、裏では凄いことやってるでしょ、ミチル君。そうでなきゃ、こんなところも借りれないでしょ」


「そ、そうだよ。烏丸くん、文芸サークルにいたけど、学科の専攻は自然科学だったし。できる人は何でもできちゃうから羨ましいな」


 八木沼は嫉妬深く言ったつもりだったのだろうが、嬉しい時の表情とさして変わっていない。常に喜びしか表現できていないのは、今も昔も変わっていない。烏丸はまた回想した。


「器用貧乏なのかも……。言ってて自分が悲しくなる。いや、それはどうでもよくてさ。うちの生徒たちのほんの一部で、Supertailが読まれているらしく、たまたま廊下を歩いている時に聞いたんだ。ハワイ編、この後どうなるのかなって。エンディングを予想する話をしていて、俺もその話に加わりたいと思ったくらい」


「それで、声をかけてくれたわけか」



- 2 -


 ひと段落しているうちに日は落ち、あっという間に外は暗くなった。しかし、白銀の世界は思ったほど暗くない。月が照れば、静寂の向こうに見える三人を閉じこめる山脈の存在にも気づく。


 普段の慌しい日常が嘘のように凍った世界をしばらく見つめていると、体も凍ってしまいそうだった。


 中に戻り、夕食の準備を始めた。とりわけ、真理と烏丸がキッチンに立っていた。インスタントものや調理に手間のかからないものばかりだったが、真理のひと手間により簡素になるはずだった夕飯が思った以上に豪勢なメニューへと変貌した。


 あまりにも美味しかったのか烏丸と八木沼は、単に美味いとしか表現していなかった。男どものがっつきぶりに真理は、二人が普段何を食べて過ごしているのか不思議に思っていた。


 味覚に大半の神経を奪われてテーブル一面に並んだ料理が減っていく中、Supertailの話は途切れることはなかった。


 Supertailは、ハワイ編がテロリストにより戦場となり、ハワイ全土をバリアフィールドに包まれて外部からの侵入ができなくなっていた。スキーに行った聖士たちの中で、ひときわ秀才肌の吾妻あづま弥里みさとが、バリアフィールドを溶かす中和液を作り出した。そのおかげで聖士たちはハワイに上陸し、無事亜耶弥と英士に合流することができた。


 しかし、そこで亜耶弥たちからアメリカがT-ウィルスによって日本を壊滅させようとしていることを知る。


 そのT-ウィルスに感染すると、人間がゾンビ化、化け物化、モンスターへと変化してしまう。T-ウィルスを搭載したロケット弾は発射寸前。もし、発射されても聖士たちが日本に戻ることができれば、まだ日本を守る手立てはあるとしている。


 刻一刻と展開が変わる中、亜耶弥の中に別の人格が生まれ、ついで英士の中にも新しい人格が生まれ始めていた。厄介なのが亜耶弥の新しい人格だった。悪の亜耶弥であった。


 ゆるやかに仲間の輪が崩れ始めている状況で物語は止まっていた。


 三人は、分岐合宿のことを忘れて、気の合った仲間たちとSupertailについて熱く語り合っていた。純粋にハワイはどういう結末になるのか。出雲編、ロボット編の考察は、食事の片付けをも忘れさせる。


 烏丸は腕時計を見て驚いた。夜の11時半を過ぎていた。


「もうこんな時間か。話が盛り上がってしまったね。分岐物語は、明日午前中に考えて、昼食をとりながら発表しようか」


「そうね」


「全編を書くには時間がないだろうから、プロットやあらすじのようなまとめ方でもいいことにしよう」


「わ、わかったよ、烏丸くん。それじゃ、僕は部屋で分岐を考えてから休むよ。頭が興奮していて、すぐ眠れそうにないから」


 八木沼は目の開き具合が昼間の二倍くらい大きく見えた。確かにそれでは、興奮はすぐに冷めないだろう。


「私はゆっくり休ませてもらうから。夫も子供もいないからね。今の話の中で、分岐物語の形はある程度できたから。私、片付けしておくから、男どもは先に寝てください」


「じゃ、じゃぁ、僕は桐山さんに甘えてお先。おやすみ」


 飛び跳ねるように八木沼は二階の個室に引き上げていった。


 烏丸は、八木沼の潔さを見習いたかった。真理一人にこの場を任せてしまうのは申し訳なかった。暖炉の火の始末もあったので、結局、真理が先に広間をあとにした。一人残った烏丸は、暖炉の前で変幻自在に揺らめく火を見ながら分岐物語を想像し始めた。


 考えているうちに、寝てしまうのがもったいないと思い始め、烏丸は広間で一夜を過ごした。


 朝方、ソファで丸くなって仮眠をとっていると、起きてきた真理に驚かれたことは言うまでもなかった。



- 3 -


 このフィクションはどうだろう。


 八木沼昇が考えた分岐物語。



 Brachtail 1.


 ハワイの制圧に手間どるテロリストは、盗んでおいたT-ウィルスを感染覚悟で散布してしまう。日本に戻る手段を見つけられない聖士たちは、T-ウィルスに感染した人々に追い詰められていく。


 ゾンビ化したとはいえ、元は人間。すでに人としての自覚は失われているが、17歳の高校生に人を殺せる強靭な精神力は持ち合わせてはいなかった。


 ゾンビに取り囲まれた零士と真琴、弥里は、自らの命を絶った。


 最後まで抵抗を見せていた聖士だったが、ゾンビに攻撃を受け傷を負ってしまった。次第に聖士の意識がゾンビに奪われていく。


 自分の意識が消える前に、親友の亜耶弥と英士に自分を殺してくれと懇願する。しかし、英士は構えていた剣を下げてしまう。



聖士「頼む。俺の意識がなくなる前に……。意識をなくして親友のお前らを傷つけたくない。今、俺は亜耶弥に殺されたと思って死ねるのが、一番の幸せだ。頼む……」



 聖士の目から正気が消える寸前、亜耶弥は無言で持っていた剣を聖士に突き刺した。そして、聖士は感謝の言葉を述べる代わりに、ただ笑顔のまま絶命する。亜耶弥の目から涙がこぼれていた。


 それから亜耶弥と英士は、ゾンビを殺してでも命を絶った四人のために生き延びようと必死に逃げた。しかし、二人はとうとうホテルの屋上へと追い詰められてしまった。


 ここまでかと、英士は剣を手から放して絶望する。


 先に死んだ三人を守ってやれなかったこと。


 これからその意志を持って生きていけない後悔が英士の心を苦しめている。


 それを察した亜耶弥も覚悟を決め、英士を正面から抱きしめた。周囲をゾンビが囲う中、初めて英士は人に涙を見せた。亜耶弥は初めて見たその涙に涙する。



亜耶弥「嬉しい。本当のあなたの気持ちが知りたかったの。私はもう満足したわ。このままみんなのところに行こう」



 亜耶弥は、抱き合う英士の背中から自分に向けて、剣を刺した。二人は、串刺しになって共に絶命するバッドエンド。




 このフィクションはどうだろう。


 桐山真理が考えた分岐物語。



 Brachtail 2.


 すでに亜耶弥と英士には、新しい人格者が生まれている。亜耶弥に生まれてしまった悪の人格が表に出ている時、普段の亜耶弥の人格は、内側からしか入ることのできない現実世界を鏡で写した世界を構築していた。


 悪の亜耶弥は、危険すぎる人格であることを亜耶弥は知っていた。世界が悪の亜耶弥によって滅ぼされてしまうことも。


 亜耶弥は自殺を考えたが、悪の亜耶弥が目覚めてしまった以上、命が脅かされれば人格を乗り換えてしまうため、それは無駄だと考えた。それ以上に、英士たちから離れたくない。


 T-ウィルスの拡散によって、人類は滅びの一途をたどるか、または悪の亜耶弥がそうする。結果は変えられない。


 まだ新しい人格が覚醒していない聖士、零士、真琴、弥里の四人。悪の亜耶弥が眠っているうちに、亜耶弥は考えがあっての上で、強引に新しい人格を目覚めさせてしまう。それは、もともとの人格を亜耶弥が作り出した鏡面世界へと連れて行くためだった。


 そして、亜耶弥は悪の亜耶弥と人格剥離を行い、悪の亜耶弥を元の世界に置いてくことに成功した。しかし、その代償として半身の神経を失うのであった。


 けれど、亜耶弥は幸せだった。自分の作り出した記憶世界で、一生そばにいたい友と離れることなく死ぬこともない永遠の世界で過ごすことができるのだから。


 これが記憶の中の絆なのである。




 このフィクションはどうだろう。


 烏丸ミチルが考えた分岐物語。



 Brachtail 3.


英士「…… " THE MOON " ……。どういう意味だ」


 第三の人格者、占い師の亜耶弥から英士がカードを引いた。


亜耶弥「見てればわかりますが、見ていられますか?」


 ここまではSupertailに書かれている内容。物語は、ここで分岐する。


 見ていられますか、という亜耶弥の言う意味がわからない英士。


 一体、何が見ていられないというのだろうか。


 亜耶弥がカードを引いてから半日がたったが、何も起きない。テロリストとの戦いも膠着状態のまま。解決の糸口は見つかっていない。


 日も暮れた頃から外が騒がしくなってきた。英士は気づくと、亜耶弥の人格は大人しい占い師の人格から悪の人格に変わっていた。


 ハワイがどうしてバリアフィールドに包まれていたのか。


 みんなが空を見上げている。月がこちらに向かって、大きく見える。スーパームーンの比ではない。巨大な隕石という小さな表現に収めることはできない。月が地球にぶつかれば世界はただでは済まない。だが、ハワイは守られている。


 亜耶弥はパニックに乗じてハワイの人々を次々と殺して行き、ハワイには英士と亜耶弥の二人きり。この想いは、亜耶弥がもともと望んでいたことだった。だから、英士だけをハワイに連れて行った。まさか、聖士たちがバリアを破ってやってくることは想定外であった。そして、自らの手で彼らを殺めなければならなくなったとも。


 しかし、仕方ないと亜耶弥は覚悟していた。英士と亜耶弥だけの、アダムとイブの楽園を作るために乗り越えなければならない自分の試練だと。


 月の衝突で、地球は甚大な被害を受けた。


 亜耶弥と英士は、二人だけの完全なるユートピアを築くため、残った人類を一人残らず始末する旅に出るのであった。




 このフィクションはどうだろう。


 桐山真理が考えた分岐物語。



 Brachtail 4.


 ただし、この物語は大きな構想の一端にとどまっている。


 ハワイ編の冒頭で、国外であるハワイに行く亜耶弥と英士。国内のスキーに行く聖士たちにグループが分かれた。そして、ハワイでテロリストによる事件とバリアフィールドでハワイが包み込まれて世界的な問題に発展する。順当に行けば、聖士たちがハワイに乗り込む話なのだが、万理はここで分岐させた。


 聖士たちがハワイに行かなかった場合だ。バリアフィールドに包まれた内と外では、一切の連絡手段はない。聖士たちがハワイに行く手段、もしくはバリアフィールドをくぐり抜ける手段がなく、諦めてしまう。


 真理は、これでは物語としてはつまらないと言って、設定を付け加える。聖士に意志を持たせたいと言う。


 聖士はあえて亜耶弥の嫌いなウィンタースポーツに行こうと提案し、わざと英士とハワイに行かせたとしたらどうだろうか。そして、聖士はハワイにはわざと助けに行かないようにする。


 Supertailは、全編を通して亜耶弥と英士の愛の物語である。特にハワイ編では、それが色濃く出ている。聖士たちにとっては、仲間たちとの友情物語なのであるが。


 そこを愛と友情でせめぎ合わせたら、どんな物語になるだろうか。


 と、真理は時間がなく、ここまで思いつく。




 このフィクションはどうだろう。


 八木沼昇が考えた分岐物語。



 Brachtail 5.


 ただし、この物語は現時点で止まっているハワイ編の続きを素直に書いたらという予想物語である。しかし、確実に外れるだろう。それがSupertailだ。


 ハワイにやってきた聖士たちは、亜耶弥らと合流し、日本に戻ってT-ウィルスが搭載されたロケッド弾を破壊しようとする。聖士たちがハワイに侵入してきた時と同じように、バリアフィールドの中和液を使い、一時的に空いた穴から飛行機などでハワイを脱出して日本に向かう。


 出雲編、ロボット編を継承し、亜耶弥たちは異能の力を発揮させるに違いない。亜耶弥と英士はすでに別の人格が覚醒している。同じように聖士、零士、真琴、弥里も別の人格が生まれることで、人ならざる力を宿す。


 その力を使って、T-ウィルスのロケットをウィルスごと消滅させ、日本を守り、六人の友情物語としてハワイ編がハッピーエンドで幕を閉じる。



- 4 -


「いい大人が作者不明の話に踊らされて、こうやって二日間舞い上がっちゃったわね」


 烏丸がロッジの玄関の鍵を閉める背後で、真理が満足げに言った。


 ロッジから少し離れたところに、ヘリコプターがブロペラをゆっくり回転させながら、三人を待っている。


「ひ、久しぶりに二人と話せてよかったよ。また烏丸くん。分岐合宿やろうよ」


 八木沼は昨日顔を合わせてからずっと笑顔が絶えない。


「次は、昇のエロ印税で招待しなさいよね。できれば、もう少し暖かいところがいいけど」


「き、桐山。が、がんばるよ!」


「それじゃ、ヘリに乗ろう」


 烏丸が戸締りを終え、快晴のもと雪をキラキラと舞い上げるヘリに向かった。八木沼と真理が先に乗る。すると、少し目線が高くなった真理がロッジの先に何かあることに気づいた。


 プロペラ音で声は聞こえず、烏丸はヘリに乗り込もうとステップに足をかけた時、真理に肩を叩かれた。真理が指差す方向を見る。


 ロッジより向こうに黒いものが、白銀平原の上にあった。ここからでは、小さすぎてそれが何であるかはわからない。


 昨日、ここに来た時にはなかったはずだ。もし、昨日からあったとすれば、気づかないはずがない。真っ白な画用紙の上に一点墨が垂れたようなものだ。


 烏丸は、パイロットに少しだけ待つように言って、一人確認しに行ってしまう。口から白い息を汽車のように吐き出しながら、雪原の上を駆けて行った。


 息を切らして、近づいていく。次第とそれが何であるか分かり始めるのと同時に、走って激しく動く心臓が緊迫の鼓動へと変わっていった。


「だ、大丈夫ですか?」


 それは、うつぶせに倒れていた男性だった。


 反応は返ってこない。


 どうしてこんなところに人が……。雪山で囲まれたこの場所にどうやって入ってきたんだ。いったい、いつ。時間によっては、取り返しのつかないことになるな。


 烏丸は、ゆっくり男性を仰向けに起こした。


 うっうっ、声を発するその男。


 気を失っているようだ。


 しかし、烏丸は男性の顔を見て驚きを隠せないでいた。


「どうして君が……。日影遊人」


 この時点を皮切りに、烏丸ミチルの物語は分岐する。


 そして、この二つに分かれた自分の物語を行き来することは、まだ知らない。

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