11話 聖なる雪が降り立つ夜


―――ごめんなさい。ごめんなさい―――



ある一軒家のある部屋の中央で頭を抱えてうずくまり、ひたすら許しを懇願する小さな女の子。

その頭に何度も何度も平手を繰り出す中年の男性。どれくらい続けているのだろう。

中年男性の息は上がっていた。

「お前が、お前がいるせいでっ!」

中年男性は女の子に罵声を浴びせる。

「あなた、やめて……!」

その男性に呼びかける中年女性の声。

年にそぐわぬ美しい顔をしていたが、その顔には険が刻まれていた。

何かとても疲れたような。

「うるさいっ! お前はこのガキばかり構いやがって。

 せっかく結婚してやったのに、そんなに僕が疎ましいのか!?」

女性を怒鳴りつける男性。それだけで女性は身を竦ませ、何も言えなくなってしまう。

男性は女の子に向き直り

「お前さえいなければ……!」

と怨嗟のつぶやきをぶつけた。

そして男性は女の子を殴り、蹴り続けた。

数時間後、男性は疲れたのか女の子をぶつのをやめて部屋から出て行った。

ごろんと仰向けに倒れている女の子。ぼーっと天井を見つめている。

その両手足には無数のあざが残されていた。

部屋の隅で一部始終を眺めていた女性が女の子を抱きしめる。。

「ごめんなさい……。お前を守ってあげられなくて……。私がもっといい家の出だったら……」

女の子はゆっくりとしたした動作でふるふると頭を横に振る。

「いいの。おかあさんはこうしてだっこしてくれるから」

「…………!」

女性は涙を流しながら、女の子を強く抱きしめた。



◆◆◆



今日も平和だわ、とわたしは思いつつ、のんびりと自宅兼事務所の帰途についていた。

わたしの名前はサキ。王都クロノスで傭兵事務所の助手をしている十三歳の少女だ。

外見は腰まで伸びる黒髪ツインテール。白の綿のブラウスには胸元に赤いリボン。下は茶の綿のキュロットスカートを履いている。

いま歩いているのは王都クロノスの東地区。いつものお遣いの帰り道。

昼下がりのこの時間は、大通りも人の姿はまばらだ。人々は工場で働いたり、または郊外の農場へ出向いたりする。

通りの曲がり角を曲がると、子どもがわたしにぶつかった。年の頃は四、五歳ほどの女の子だった。ざんばらのボブカットにあちこちツギハギのブラウスと長ズボンといった格好だ。

「大丈夫?」

わたしが声をかけると女の子はこちらを見上げた。前髪で目が隠れているため視線がわかりづらい。どうやら口の端を切ったらしく、血が滲んでいた。

「くち、ケガしちゃった?」

あれ?

一瞬、違和感を覚えたが、わたしは傷の具合を見ようと女の子の唇に手を伸ばす。

ぱしんっ、とその手をはたかれた。そして女の子は自分の手で口をごしごしとぬぐうと

「なんでもない!」

といってその場から走り去った。

なんだったんだろう。

わたしはその子の背中を呆然と見送る。

気を取り直し、わたしは再び歩き始めようとするが、ふと不穏な空気を感じた。女の子が走ってきた方を見やる。

空気の中に微量な血の匂いが混ざっている。目線の先には路地。

嗅覚を研ぎ澄ませ、匂いの元に忍び寄る。大通りから路地に入れば、うってかわって暗なり、じめっとした空気が漂う。

路地を奥に進むほどに血の匂いは濃くなっていく。小さく呻くような声が耳に届いた。

人がいる?

……けてくれ……。

苦しそうな吐息に混ざり、懇願するような声が聞こえた。

間違いない、人がいる。

しかし、歩を進めるごとに空気が凍てついて肌を切るようだった。

これ以上進むと危険だと直感が告げている。全身の関節が軋むようだった。

突き当たりから、さらに右に路地が伸びている。

わたしは角からそっと覗いた。

そこには、二人の男がいた。

一人は若い男。長身で痩せ気味、白髪、黒いセーターに黒のズボン。長い前髪から、その表情を伺い知ることはできなかった。

もう一人は中年の男。茶髪、口髭、小太りで背の低い男だった。

それだけ見れば特になんの違和感もない。しかし、問題は白髪の男が中年の男の首を締め上げていることだった。

中年男性の足は地面から離れており、更に頭からは血を流していた。顔もあちこちが腫れ上がっていた。

先ほどの呻き声は中年男性から発せられたもののようだった。

「何してんの!?」

わたしは思わず叫んでいた。

白髪の男が、わたしの声になど見向きもせずに中年男性の顔を殴りつける。

路地に血しぶきが舞う。

「何してんのって言ってんの!」

わたしは駆け寄り、中年男性の襟首を掴む白髪の男性の左手を狙って蹴りを放つ。

が、白髪の男は当たる直前で中年男から左手を離したため、わたしの蹴りは空振りに終わる。

地面に崩れ落ちる中年男。

白髪の男性はわたしから一歩距離を置き、様子を伺っているようだった。

「早く逃げて!」

わたしは背後で倒れている中年男性に呼びかける。

「……うぅ、お前は……」

「いいから早く!」

わたしは振り向かず、中年男の言葉を遮った。

覚束ない足取りで路地を後にする気配を背中で感じ取りつつ、わたしは目の前の白髪の男と対峙した。

その距離は三メートル強。仮に相手が襲いかかってきても対応できる距離だ。

彼の姿を眺めた直後、全身に寒気が走った。

普通は獲物を逃がされた怒りがあっても良さそうなものだが、全くそれが感じられない。

彼の印象を言葉にするなら、雪のような静寂。底知れない暗闇。その中から、押しつぶす、いや、こちらを焼き尽くすようなプレッシャーを感じる。

彼は何もしていないのに、わたしは立っているのがやっとだった。

雪のような白髪に長身痩躯。

「また一つの国が失われる……」

彼は呟いた。

「また……、国……? あなたは誰なの?」

わたしは訳がわからず聞き返す。

「誰だお前は……」

質問を質問で返された。以前エウァに同じことをして注意されたことがあるが、なるほど不快だ。

男がわたしを数秒眺めた後、

「なんだ、子どもか。僕は子どもは殺さない。だが邪魔だから消えてくれ」

とぼそぼそ呟いた。

わたしは考える。

彼はここで何をしていたのか。

中年男に絡まれ、路地に引き込まれてカツアゲされたが、返り討ちにした?

それともその逆か?

短時間だったためよくわからなかったが、中年男は白髪の男に一方的に嬲られていたんだとに思う。

彼をちらりと見やる。

途中前髪で顔の上半分が隠れているため、目線も感情も読み取れなかった。それがどうしようもなくこちらの不安を煽る。

仮に彼が狩りの途中だったとしたなら、邪魔されたことに憤慨しこちらを襲ってくる可能性が高い。

それなのに「子どもは殺さない」などと言い、未だに掛かってくる気配はない。わたしが大人だったなら、今頃殺されていたということだろうか。

「ねえ、早く僕の前から消えてくれないかな。待ってるんだけど」

無感情に男が言う。

「そうはいかないわ。あなた、ここで何やってたの?」

わたしは襲われた時に対処できるよう、腰のホルスターに佩いたサバイバルナイフの柄に右手をかけた。

男はため息をついた。

「面倒だなあ。でも、子どもには親切にしないといけないからなあ。

……一言で言えば、戦争。

さ、もういいだろ?消えてくれ」

「戦争? 何を言って……」

わたしは最後までセリフを言わせてもらえなかった。なぜなら言葉を発し終える前に、私の喉元に彼のナイフが突きつけられていたからだ。

「……!」

少しでも動けば殺される。わたしは本能的に悟った。

同時に疑問で頭がいっぱいだった。彼が移動したのが全く見えなかったからだ。彼との距離は三メートル強あった。それを一瞬で詰められた。素早いなんてもんじゃない。まるで時間を飛ばされたような印象だ。

頰から顎に汗が伝う。

男が頭上からこちらを観察している様子が伺える。

どれくらいそうしていただろうか。

男は空いている左手でわたしの頭を掴む。その手にぐっと力が込められる。

投げ飛ばされる!

そう思った直後。

男はわたしの頭を撫で始めた。

なでなでと、まるで親が子を可愛がるかのように撫でられる。

もちろんその間も男はナイフをわたしの首に突きつけたままだ。

そうして数十秒経つと、男は口を開いた。

「キューティクルが荒れている。君、あまりいいもの食ってないだろう」

は?

何を言っているんだこの男は。

たったいままで命のやり取りをしていた男のセリフとは思えなかった。

「これで好きなものを食うといい」

わたしは胸ポケットに何かを差し入れられる。

「……?」

言って、男はわたしの首からナイフを離した。そして、わたしがここまで来たのと逆の方向に、去っていく。

わたしはふと胸ポケットに目をやると、一万ドルク札が一枚入っていた。

足音もなく去っていく男を振り返ると、男は角を曲がるところだった。

わたしはよくわからないが怒りがこみ上げ

「待てこらあああああああっ!」

叫んで、男を猛追し始める。

男と同じ角を曲がった瞬間、わたしは右脚を振り上げ、男の背中めがけて靴を飛ばした。

男は靴を見ることもなく、背後に迫る靴を振り向きざまに手ではたき落した。

男は追撃をかけるであろうわたしを捉えるため、靴が飛んできた方向を見やる。

しかし、もうそこにはわたしはいない。

男の上空から脳天をめがけて左かかとを振り下ろす。

わたしは先ほど靴を飛ばした直後、路地の壁を三角飛びで駆け上がり男の死角に入った。

男が靴に対処している間に、こちらは次の攻撃に入っていた。

捉えた!

わたしは確信し、左足にぐっと力を込めた。

左足に衝撃。

破砕音。

しかし、割れていたのは男の頭ではなく石畳だった。

「うん。悪くない」

背後で男の声。

その右手がわたしの右頰にひたりと触れる。

冷たい。しかし冷たいのは男の体温か、こちらの寒気なのかはわからなかった。命を握られる感覚がわたしを襲う。

「靴は囮で本命は自身の脚。しかもそれをほぼ同時にやってのける。相当の修練を感じさせる」

男は感心したように言った。

「でも、わからないな。君はなぜそんなに、怒ってるんだい?」

「お金……いらない」

わたしの言葉に男は不思議そうな顔をした。

「どうしてだい? それがあれば美味しいものも、お洒落な服も、楽しい娯楽も手に入る。断る理由はないと思うけどな」

「……これは働いて手に入れるものよ。わたしは乞食じゃ、ない。施しは受けない」

わたしは気力を振り絞ってそれだけ言うと、男はそっとわたしの頰から手を離した。

「……ふっ、ふふっ」

振り返ると、男は肩を震わせて笑っていた。

「ふふふっ。すばらしい。

そうだったね。お金というのは労働の対価として得るのが真っ当だ。

しかし人々の中には不当に利益を上げようとする輩もいる。窃盗、詐欺、強盗、強要、恐喝なんかでね。

……中でも手に負えないのは、子どもを無理矢理労働に従事させて利益を搾取する輩だ。

君のような子には、ぜひ僕の国に来て欲しいもんだ。そして君がもう少し年齢を重ねていたら同盟を組みたいところだ。」

国? この男はクロノス王国の人間ではないのだろうか。

「そういう理由ならお金は引き取ろう」

男がわたしの胸ポケットに手を伸ばし、一万ドルク札を引き抜いた。

わたしは男の腕を掴み

「戦争って、なに?」

と問うた。

「わたしにはあなたがあのおじさんを一方的に攻め立てているように見えたけど」

その言葉に男はやれやれと言った風情で

「……タダでは帰さないって顔だね。やっぱりこのお金受け取りなよ……って言っても納得しそうにないね」

「……」

わたしは無言で肯定の意を表す。

「君はまっすぐで、力強い目をしている。だけど反面脆く、闇も抱えている」

「知った風なことを言わないで」

「ごめんごめん。僭越だったね。でも、僕は君みたいな子をたくさん見てきたから、わかるんだ。

君は親を亡くして、もしくは失くしているだろう?」

「……!」

「一人でも強くならなければならなかった。じゃあないと、僕がいるこの路地に君が来られるわけがないんだ。

弱い人間は本能的に危機を避ける。そのくらいの雰囲気は放っていたつもりだ。だけど、君は足を踏み入れた」

「血の臭いがしたから」

「……ふふ、君は面白いね。たったあれだけの血の臭いを嗅ぎ取ったのかい? まるで鮫のようだ」

さめ? それは何のことなのだろうか?

「だけど」

彼はそう言うと、後ろからわたしを抱きしめた。

「僕はそれが悲しい。そこまで追い詰められる前に君を救えなかった……これは僕の罪だ」

突然のことにわたしは男に肘鉄を放った。

しかし男は素早く身を引き、肘鉄は空振りに終わった。

何なんだ、今のは。鳥肌が立った。それは恐ろしさというよりも気持ち悪さが

勝ったからだ。

わたしは男に向き直る。

「感極まってしまって、つい。失敬」

謝る男。しかしその顔は薄く笑っているように見えた。

今のでこいつはわたしの敵だということがはっきりした。

「あなた、さっきからはぐらかしてばかりで全然わたしの質問に答える気ないじゃない。子どもだと思って舐めんじゃないわよ」

わたしは腰のサバイバルナイフの柄にに手を掛ける。

わたしの剣呑な空気を感じ取ったのか、男はおどけるように両手のひらをこちらに向けた。

「やだなあ。よしてくれ。さっきも言ったろう?

僕は子どもと戦う気はないんだ。

質問……戦争のことだったかな?」

無言で頷くわたし。

「言葉の通りさ。あいつが僕の国の法を犯したから罰そうとした。それだけだよ」

「あなたの国? あなたはクロノス王国の人間じゃないの?」

それにしたって、この男の国の法を犯したからといってクロノス王国下で制裁を加えようというのは筋が通らない気がするのだが。

「いや、クロノスの人間さ」

「じゃあ、私刑ってこと?」

それは裁判所や警察の仕事なのではないだろうか。

「いや、正当な判決に基づいた罰さ。あの男は重罪を犯した。だから」

男の目が鋭さを増す。

「だから、処分する」

その言葉に迷いはない。絶対の自信に裏打ちされているようだった。

わたしはその迫力に一瞬気圧される。

「……あなたに何の権利があってあのおじさんを」

「甘いよ」

男が冷淡に言い放つ。

「君は失われた命が取り戻せるとでも思っているのかい」

言って、わたしの両肩を男は両手で掴み、氷点下の眼差しでこちらを貫く。

「ひっ……!」

わたしは思わず後ずさろうとした。が、男が肩を掴んでいるため下がれない。

「君ならわかるはずだ。理不尽に命を奪われる不仕合せが。不条理が牙を剥く不可解が」

男の弁に熱がこもり、わたしの肩を掴む力がさらに強くなる。

「いたっ……!」

肩に男の爪が食い込み、わたしは思わず声を上げる。

「何をしている!」

その時わたしの背後、路地の入り口の方から咎めるような声がした。

首だけで振り返ると、そこには警察官が立っていた。

「ふう、どうやら邪魔が入ったようだ」

男はわたしの肩から手を離した。

「じゃあね。強く生きるんだよ」

言って、男は路地の奥へと姿を消した。

警察官はわたしのそばを通り過ぎる時に舌打ちをした。

面倒なことを起こしやがって、とも言いたげな態度だった。

わたしには目もくれず、警察官はその後を追う。わたしは一人路地に取り残された。



◆◆◆



「二度と近付くな」

昼間の出来事をガムに話したところ、そのような回答だった。

ガムは傭兵派遣事務所の所長である。

事務所といっても所長一人、助手一人の小さな所帯だ。ちなみにわたしがその助手だ。

ガムは黒髪ツンツン頭の大柄の筋肉質な男である。しかも三白眼のため、初対面の人間には大抵怯えられる。

時間は夜、事務所のダイニングで食後の紅茶を二人で飲みつつ、剣呑な話に花が咲いていた。

「そんな大げさな」

わたしはガムに反論してみる。

ガムはわかってないな、と大げさにため息を吐いた。

「白髪の痩身の若い男で、路地で暴行を働いているって、この国ではイザヤしかいない」

「知ってるの?」

「こんな仕事してりゃ嫌でも耳に入る。そいつは『鉄の箱』出身でも歴代最強と謳われる奴だ。今、無事お前が帰ってきて俺と話しているのが不思議なくらいだ」

「鉄の箱?どっかで聞いたことが……」

わたしは思い出すように中空を見上げる。

「あー……これは一般人は知らない方がいいことなんだが。お前もこの仕事してりゃ、いつかは耳に入る。予習と思って聞いとけ」

彼は机の上で手を組んで改めて話し出す。

それは次のようなものだった。

クロノス王国には第九孤児院と呼ばれる孤児院がある。行き場を失った孤児が行き着くのは他と同じ。だが、ひとつ異なるのは孤児が労働力ではなく戦力として孤児院に所属するということだ。

そこでは孤児は諜報員として訓練を受ける。諜報員といえば聞こえがいいが、その実態は暗殺者に近い。孤児院を卒業した者は諸外国に派遣され、その中枢に潜り込む。そして機密情報を収集したり、場合によってはクロノス王国にとっての邪魔者を排除したりする。

ガムの話をひとしきり聞いて、わたしは思い出した。

「わたしの師匠がそこの出身だって言ってたわ。」

「は?」

素っ頓狂な声を上げるガム。

「だから、わたしの師匠が『鉄の箱』の卒業生だったの。どんなとこかは話してくれなかったけど。」

「お前の強さの根っこがわかった気がするよ」

「そ、そう?」

「照れてんじゃねえよ。褒めてない」

顔を赤らめるわたしをガムが諌める。

「お前の身の上を聞きゃ、その強さは納得できる。だけど、本来手に入れるべきものじゃなかったと俺は思う」

そんなこと言われたらミもフタもない。わたしは生きるためにこの力を身につけた。じゃないと、とっくに孤児院で死んでいただろう。

「ふつーが一番なんだよ。日々働いて、食って、寝て。たまに酒飲んで、遊んで」

「そのふつーっていうのがよくわかんない。わたしにとってのふつーは暗殺だったから」

「朝起きておはようって言ったり、メシ食うときにいただきますって言ったり、友達と世間話しながら酒飲んだり、晩飯食った後にごちそうさまって言ったり、寝る前に酒飲んだりとか、まあそんなんだ」

「師匠より後に起きると『おはよう』って喉元にナイフを突きつけられるし、ご飯の時は『弱い奴は飢えて死ね』って力づくで食料を取られるし、『友達っていうのは暗殺の標的の弱点を教えてくれる奴だ』って説明されるし、『ごちそうさま』は報酬を受け取る時の挨拶だし、『おやすみなさい』は標的を沈めた時の決め台詞なんだけど、ふつーってそういうことじゃないの?」

「発想がエグ過ぎる」

「あと、わたしまだお酒飲めないんだけど」

飲酒は十六になってから。

「その頃には一人で食えるようにしてやるよ」

「ほんとう?」

「ああ。というか、ずっといつかれても困る。女が連れ込めねえ。早く出て行かす」

「ひどい。身勝手」

「ここはもともと俺んちだ」

そうだった。勝手に押しかけたのはわたしだった。

ガムを父の仇と勘違いして襲い、謝罪のために押しかけそのまま居ついたというのがわたしである。

そして無理やり彼の傭兵業の助手をしている。

護衛、もの探し、熊退治などの仕事をこなしてきたが、その中に暗殺は含まれていない。

「ねえガム。そのイザヤっていうのは強いの?」

わたしの問いにガムはうーん、と腕を組んで思案顔だ。

「よくわからん」

「そうなの?」

「話に聞いただけだからな。奴と遭遇、戦闘した奴はまず助からん。運良く逃げ帰った奴から話を聞いても『気付いたら地面に転がされてた』って証言しかない。戦術、獲物が一切不明なんだ」

ガムが肩を竦める。

「それはなんとなく分かるかも。わたしも一瞬で距離を詰められたから」

「チギリみたいに脚力が尋常じゃないってことか」

チギリというのはガムの友達で、宮廷騎士をしている男性のことである。ガムはチギリのことをよく『逆玉金髪ロリコン』と呼んでいる。

「でも、筋肉なんて全然ついてなさそうだったけど。なんというか、ハリガネって感じ」

「ますますわからんな。まあ、変な雰囲気を感じても路地には入るなよ。お前は人一倍そういうのに敏感そうだからな」

「はーい」

言って紅茶を一口すする。

「ところでなんでお前の師匠は、お前を育てようと思ったんだ?」

「さあ? その辺のことは聞いても何も教えてくれなかったわ。トシだから身の回りの世話をしてくれる人間が欲しかったんじゃないかしら?」

「じゃあなんで飛び出してきたんだよ。少なくともお前を拾って育ててくれたんだろ? 恩義を感じてるんなら師匠のこと世話をするのが筋ってもんじゃないか」

「……転職活動」

「は?」

「そう、転職活動よ。暗殺業界は先細りなの」

「そうなのか?」

「最近は戦争も減ってきたでしょ?

そうなると暗殺の依頼も減ってくるの。このまま続けても食いっぱぐれるから、わたしはもっと安定した仕事につきたかったの。それで暗殺者は辞めたいって言ったんだけど反対されて……」

「それで飛び出したのか?」

頷くわたし。

「お前の師匠にはいつか挨拶に行かないとな」

「えっ、なんで?」

「心配するだろうが。いまお前がどこでどうしてるか」

「え? いい!いい! 必要ないわ!」

わたしはぶんぶんと首を振る。

「そういうわけにはいかん。師匠は言わばお前の育ての親だ。子どもを預かってる者としては当然だ」

強い口調で言うガム。

ガムが……だったら良かったのに。

わたしは小声で呟く。

「ん? なんか言ったか?」

「な、なんでもない」

ガムが師匠を訪ねるとなるとあのことがバレてしまう。

なんとかして師匠の元には行かせないようにしないと。

「や、師匠には会わない方がいいわ! あのひと、初対面の人にとりあえず暗殺だから!」

「居酒屋の一杯目かよ」

「口より先に牙が飛び出すし!

師匠を訪ねて、無事で帰った人間はいないわ」

おもに訪ねて来たのは警察や軍だったが。

「お前のお師匠さんはオオカミかなんかか?」

食欲は熊に勝るとも劣らない。

「だから、ほら、会わない方がいいって。いちばん師匠のそばにいたわたしが言うんだから間違いないわ」

ガムはうーん、と唸りこちらを覗き込む。

「なんか隠そうとしてるだろ」

「そ、そ、そんなわけないじゃない! せいせいどうどう、こうめいせいだいに生きてきたわたしが!」

「暗殺から最も遠い言葉だそれは」

ガムが冷静に突っ込む。

「と、とにかく。師匠には会わない方がいいわ! ガムがケガしてもいけないし!」

ぶんぶんと首を横に振るわたし。

「まあ、そこまで言うならしばらくはやめとくか……」

「それがいいわ!」

言い終わる前にわたしはティーカップの紅茶を飲み干し、席を立つ。

「疲れたから寝るわ! おやすみ!」

わたしはティーカップを机に置き、ガムに背を向け自室にこもった。



◆◆◆



翌日の夕刻。わたしは仕事から戻る途中に、公園のベンチで休憩していた。

クロノス王国の東区の静かな公園である。

「思ったより重労働だったわ……」

その仕事というのは引っ越しの手伝いだ。大きな屋敷だったため、当然荷物も多かった。

朝から始めて先ほど終わったのだが、昼食以外の休憩はほぼなかった。そして金持ち特有の人使いの荒さだった。

「報酬が高いのが唯一の救いだわ」

腰に両手を当て、のけぞるように伸びをする。

さて。このまま帰ってもいいのだが、もう少し休憩していきたい気もする。

「そう言えば」

ズボンのポケットに手を突っ込み、小さな紙包みを取り出す。両端のねじりを解いてやると、中から薄黄色の丸いキャンディが姿を現した。

これは屋敷の夫人から貰った報酬のおまけだ。

よく働いたあーたに特別にご褒美ざぁす、という夫人の言葉が蘇る。

いけ好かない客だったが、働きぶりは認めてもらえたということだろう。ガムの看板に傷が付かなかったことにホッとする。

キャンディを口に放り込もうとしたが、視線を感じて動きを止める。

顔を上げると、目の前に小さな女の子がいた。ざんばらのボブカットに、ボロボロの服を着ている。

驚いた。こんなに接近されるまで気付かないとは、相当疲れている。

その子はじっとして、ずっとある一点を見つめているようだった。その先を辿ると、わたしの手に行き当たった。

正確にはわたしの手の中のキャンディに。

「……欲しいの?」

女の子はややあって、うん、と頷いた。

これはわたしが今日一日働いて得たキャンディだ。そうやすやすと人にあげるわけにはいかない。それが例え自分より年下の女の子だろうと。世の中は厳しいのだ。わたしが簡単にキャンディを与えてしまえば、この先この子は誰からでもキャンディを貰えると思ってしまうかもしれない。社会は甘くないということを教えてあげるのが、先に生まれた者としての務めだ。

いや、嘘だな。わたしはこのキャンディが食べたいだけだ。それを正当化しようとして理屈を並べているに過ぎない。キャンディ惜しさに子どもに正論を押し付けるなど、暗殺者どころか人としても廃業待ったなしだ。

わたしは女の子にキャンディを手渡す。女の子は嬉しそうに受け取り、口の中に放り込んだ。

甘みを噛み締め(正確には舐め回し、だが)笑顔をこぼす。

ん?

よく見ると、この子は昨日街角でわたしとぶつかった女の子だ。

「あなた、名前は?」

わたしが尋ねると

「……さや。さや・ふぉーぐ」

サヤ・フォーグ?

「何歳?」

「よんさい」

と答える女の子。

わたしの名前と似てるなあ。

しかし四歳にしては発育が良くない。

頰がこけているし、唇も黒っぽい。前髪が長いせいでよく見えなかったが、目の周りにクマができている。

いや、クマというより青あざか……?

もしかしたら、あまり食事を与えられてないのかもしれない。わたしも師匠に拾われる前は、飲まず食わずの日々が続くことがあった。手足は細り、頭はクラクラし、視界もぼんやりとかすんでいた。思い返してみても相当な危機だった。よく飢え死にしなかったもんだ。

おかけで食べられる野草とそうでないものの見分けがつくようにはなったが。

サヤはその時のわたしを思い出させる形りをしている。

飴くらいもっとあげたいけど、あいにく夫人に貰ったのはひとつだけだった。

わたしがしげしげと眺めていると、女の子が顔を上げ

「おねえちゃん、あそぼう?」

と微笑む。

サヤに、このあいだの剣呑な雰囲気は感じられなかった。

子どもの扱いには慣れていないのだが……。

期待を込めた目で見つめられると、むげに断ることもできない。

それになんだかほっとけないし、いくら疲れたといっても、遊びに付き合うくらいの体力は残っている。

ややあって、わたしは

「じゃあ、縄跳びする?」

と言った。

女の子は嬉しそうに、うん、と答える。

わたしは右手の袖口から、紐の先に矢尻のついた暗器『アンカーウィップ』を取り出す。

左手で矢尻を持ち、適当な長さの紐を引き出し右手で掴む。

そして前回しで縄跳びを始める。

一定のリズムを保ちながら数回飛び

「はい、お入んなさいっ」

と女の子に言う。

女の子は縄に入るタイミングを図ろうと、縄を目で追っている。

そして飛び込む、が女の子の足に縄が引っかかってしまった。

「あぁ、引っかかっちゃったわね」

「……」

女の子は俯いて、んん、とむずがってから「もういっかい」と言った。

女の子は縄から出て、わたしは再び前回しでを始める。

「はい、お入んなさいっ」

わたしは女の子を促す。

女の子はさっきよりじっと縄の動きを見つめている。今度こそ縄に引っかからないように必死にタイミングを図っている。

そして女の子は縄の中へと飛び込んでくきた。

今度は成功し、わたしは女の子と一緒に縄跳びを続ける。

「うまいうまい」

わたしが女の子を褒めると、彼女は「へへー」と得意げに微笑んだ。

二十回、三十回と回数を重ねたが、再び女の子の足が縄に引っかかってしまった。

「けっこういったわね」

「おねえちゃん、もういっかい」

女の子はまだまだやる気のようだ。なんだか終わりが見えない。適当に切り上げようと思ったが、こうなったらたことんまでやるしかなさそうだ。

「百回目指して頑張るわよ」

わたしの言葉に女の子は

「うん!」

と力強い返事をした。

地面に縄が打ち付けられるリズムが夕暮れの公園に響いた。



◆◆◆



「きゅうじゅうさん、きゅうじゅうよん、きゅうじゅうご……あっ」

縄が女の子の足に引っかかる。

「惜しかったわね」

「うん、おしかった」

女の子は疲れたようで、肩で息をしている。

日はほぼ沈みかけ、夜が訪れようとしていた。夕飯の支度はわたしの役目である。

「そろそろ帰らないと。一人でおうちに帰れる?」

わたしが尋ねると、女の子は「うん」と頷いた。公園の入り口まで一緒に歩き、わたしはしゃがんで女の子に目線を合わせる。

「気を付けて帰るのよ」

「また、あそぼうね。こんどはひゃっかいとぶから」

女の子がにこりとする。わたしは「そうだね」と相槌を打つ。

女の子はわたしに背を向け、小走りで駆け出した。その背中はだんだん小さくなり、やがて夜の闇に溶けていった。

女の子を見送ると

「晩ごはんは何を作ろうかしら」

と、ごはんを頬張るガムの笑顔を思い浮かべつつ家路についた。



◆◆◆



翌々日の朝。自室の扉を開け、廊下を通り台所に出る。ガムがテーブルに着いて新聞を読んでいた。

テーブルには湯気の立つティーカップ。彼が飲むために淹れた紅茶だろう。

「おはよう、ガム」

「うおっ!」

と、ガムはこちらを見て驚いた。

「サキか。びっくりした」

「え、なんで?」

挨拶しただけで驚かれるとは心外である。

「急に現れるなよ」

「いつも通りだけど」

わたしの言葉にガムは「んー」と目頭を押さえる。

「あれだ。音がしなかったからだ。廊下を歩く音が」

「そうかしら。普通だけど……」

「お前にとってはな」

歩法に関しては師匠から叩き込まれた。移動する時は極力音を出さないように。

ガムが新聞から視線を外し、こちらを見ておはよう、と言った。

「なにか目ぼしいニュースはある?」

「四歳の子どもが死んでる。虐待で」

「……また?」

「ああ」

言って、紅茶を一口すするガム。

クロノスで小さな子どもが死ぬのは珍しいことではない。病死、餓死、過労死、そして虐待死が主な原因である。

「虐待死したのはサヤ・フォーグ。東地区の女の子だそうだ」

「え……?」

ガムの言葉にわたしの心臓がどくんと跳ね上がる。

おととい公園でわたしと遊んだ女の子と同じ名前である。

「ちょっと新聞見せて!」

ガムの手から新聞を奪い取る。彼から非難の声が上がるがとりあえず無視。

記事を読む。そこには四歳の女児の死体が自宅近くの河原で発見されたということが書いてあった。

女児の名前はサヤ・フォーグ。

女児の父親であるボイド・フォーグは行方不明。母親の所在は確認されていない。

フォーグ家の近所の住人への聞き込みによると、日常的にサヤは父親から暴力を受けていたということだ。サヤの悲鳴が聞こえない日は無かったという。近所の人が父親に注意しても、逆上して襲いかかってくるので、誰も関わらなくなった。そして、虐待は更にエスカレートした。

死体には何度も殴打されたうえに熱湯をかけられた跡があった。そして直接の死因は窒息―――おそらく溺死させられたものだという。

犯人はサヤの父親に間違いないということだった。

わたしの目の前が真っ赤になる。

おととい一緒に遊んだ女の子が死んだ。わたしは仕事で疲れていたが、楽しかった。縄跳びを飛ぶ回数が増えるごとに得意そうに笑っていたサヤ。

こんな笑顔を向けられるなら、子どもの面倒を見るのも悪くない、そう思った。

「そろそろ返せ」

ガムがわたしから新聞を奪う。

「あーあ、くしゃくしゃにしやがって」

ガムが嘆く。どうやらわたしは知らず知らずののうちに新聞を掴んでいた箇所を握りつぶしていたようだ。

「あのね、ガム」

わたしは背中越しに彼に呟く。

「おととい、その子―――サヤと会ったの。

仕事帰りに、サヤと遊んだ。公園で。縄跳びして。

もうちょっとで百回跳べそうだった。

だから、別れ際、また、遊ぼうって。

確かな約束じゃなかった。

バイバイ、の代わりのようなものだった。

それくらいの、薄い関わりだったの」

「……」

「でも」

でも。

あの儚げな笑顔が。はにかんだ笑顔が。

「サヤが死んだのが、悲しい」

それ以上にサヤを殺した犯人が憎い。

今思えば、サヤの顔のアザは父親から受けた虐待の跡だったのだ。

あのときそこまで思い至っていれば。

なにか、できただろうか。

自分で食いぶちも稼げないわたしが。

ガムに相談くらいできたかもしれない。ガムならなんとかしてくれたかもしれない。わたしを受け入れてくれた時のように。

でも、きっとそれはガムを苦しめる選択を迫ることにならないだろうか。

この国には孤児や不遇な子どもなんてゴマンといる。

ガムだって聖人ではない。全ての子どもを受け入れるなんてことは無理だ。

そんなことわたしにだってわかる。

「どうした?」

どうやら無意識にガムを見つめていたらしい。

「ううん。なんでもない」

ならばわたしにできることは。



◆◆◆



翌日。

わたしは新聞に掲載されていた住所を頼りに、クロノス東区にあるサヤの暮らしていた家にやってきた。

中流階級の住宅街の一角。

大きな家だ。ガムの家の四倍はある。

家の前に立ってしばらく眺めていた。

石造りの、赤い屋根の平屋だ。

外観は綺麗で、玄関扉の前には数基の植木鉢に花が植えられている。

何の花かはわからないけど。少なくとも食べられるものではないということはわかる。

花は手入れが行き届いているようで、綺麗に咲いていた。

どうやら中に人のいる気配はないようだ。

この家で、サヤは父親から暴力を振るわれていた。母親はどうしていたのだろうか。サヤが殴られるのを見ているだけ、それとも夫が怖くて止めることさえできなかったのだろうか。

父親は家族を守るもの。父さんが言ってた。そして言葉通り、父さんはわたしと母さんを守るため、毎日一所懸命に働いてた。

強盗に襲われる日まで。

サヤの父親は違った。守るべき家族に手を上げた。

絶対的な強者による暴力。

サヤは、どんなに怖かっただろうか。

どんなに痛かっただろうか。

わたしは目を閉じ、両手を合わせて祈りを捧げた。どうか、天国でサヤが安らかに過ごせますように。

しばらくそうしていると

「サヤちゃんのお友達かい?」

と、後ろから声をかけられた。

振り返ると、そこには中年の女性が立っていた。

中肉中背。肩に届くくらいの茶髪。

「え、ええ。友達っていうか、偶然出会っただけというか」

サヤとの関係を正確に表すことができず、しどろもどろになる。

「サヤちゃんはいい子だったのに、なんでこんなひどいとに……」

女性が言って目頭を押さえる。

「おばさんはこのへんの人?」

わたしは尋ねる。

「ええ。ずっとここで暮らしてるわ」

「サヤはどんな子だったの?」

「……いつもにこにこしてて、人懐っこくて、可愛い子だったわ。私もよく遊んであげてたわ」

言って、おばさんはまた目頭を押さえた。サヤの死が相当ショックなのだろう。

「おう、どうしたんだ?」

と、おばさんの背後から中年の男性が現れ、おばさんに声を掛けた。肌は褐色、角刈りで中肉中背の見た目だった。おばさんは振り返り

「あのね、サヤちゃんのお友達が来てるの」

とおじさんに答えた。

「そうかあ、それはサヤの奴も天国で喜んでるだろうなあ。嬢ちゃん、名前は?」

「……サキ。」

「サキっていうのか。いい名前だな。サヤと似てるな」

「……」

「おっとすまねえ。余計なこと言ったな。

……サヤはいい子だったよ。いつもニコニコしててな。お菓子をあげると嬉しそうに食ってな。またあげたくなっちまうんだよ」

「そうそう、私のとこにもよく遊びに来てくれたのよ。一緒にお菓子作ったりもしたわ」

おじさんとおばさんは止めどなくサヤとの思い出を語り合っている。

話を聞いていると、二人はいい人だということがわかる。


じゃあ、なんでサヤを助けてあげなかったのか。


サヤの体の青アザを見れば、何か異常が起こっていることくらいわかる。

それにサヤは何かしら助けを求めるサインを出していたはずだ。

おじさんとおばさんはサヤとずっと接していて、そんなことにも気付かなかったのだろうか。

「サキちゃん、うちにちょっと寄っていかないかい? お菓子もあるのよ」

おばさんがわたしに聞く。

わたしの悲しみをを気遣っているおばさんの顔。だけど、わたしにはどうしてもその微笑みが、信用しきれなかった。

「……せっかくだけど、行かなきゃいけないとこがあるの」

「あら、そうなの? 残念ね」

また近くに来たら、その時はぜひ寄ってらっしゃい、とおばさん。

わたしはその場を後にした。



◆◆◆



嘘だ。

行かなきゃいけない場所なんてない。

あれ以上あの二人の言葉を聞きたくなかっただけだ。

わたしはサヤと出会った公園に向かっていた。

わたしの胸にどす黒い感情が渦巻いている。

サヤを殺した父親。サヤを救わなかった母親、そしてさっき会ったおじさんとおばさん。

サヤはこれらの大人たちに殺されたも同然なのではないだろうか。

サヤにはそこまで殺されなければならない理由があったのだろうか。

そんなものあるはずない。

わからない。考えても頭がぐるぐるするだけだ。

しばらく歩き、サヤと出会った公園に着いた。

公園内には数人の人影があった。

頭がくらくらするので、公園中央近くのベンチに腰掛ける。

ベンチの近くでは、二人の三十歳くらいの女性が立ち話をしていた。

「奥さん、聞いた? あの小さな女の子……サヤちゃんって言ったかしら?

虐待されて死んだらしいわ」

「ええ、モチロン知ってるわ。気の毒に」

どうやら、この近所ではサヤの話で持ちきりらしい。女性たちは話を続ける。

「あなたは知ってるかしら?」

「何かしら?」

「あの家、相当前から虐待があったらしいわよ?」

「どれくらい前なの?」

「二年ほど前……サヤちゃんの母親が再婚してから」

「そんなに前から?」

「ええ。ご主人はあの奥さんに夢中だったのよ。あの女、顔だけは良かったから」

「そうね」

「だから、ご主人は奥さんを独り占めしたかった。そのためには子どもが邪魔だったの。だから、子どもに暴力を振るい始めた」

「それ本当なの?」

「間違いないわ。ウチの主人が本人から直接聞いたの。ほら、ウチの主人はサヤちゃんの父親と同僚じゃない?

一緒にお酒を飲んだ時に、ポロっとこぼしたんですって。サヤちゃんが邪魔だって」

「まあ……。でも、そんなの母親が黙っていないでしょう?」

「それが、ご主人は一応貴族の出でしょう? そしてあの奥さんは下民の出。虐待に対してはご主人に対して強く出られなかったのよ。

最初の方こそ抗議してたみたいだけど、すぐにそれもなくなったみたいなの。毎日毎日、ご主人の怒鳴り声とサヤちゃんの悲鳴だけが聞こえるようになったって。知り合いの奥さんがそう言ってたわ。」

「ひどい話ね」

「ええ。私たちも主人の愛情を失わないように気をつけないとね」

「操縦できなくならないように、の間違いじゃなくて?」

「そのための愛情よ、ふふ」

「あらあら、悪い人だこと」

「お互いさまじゃない」

からからと笑う二人の女性。

わたしはベンチから腰を上げ、公園を後にした。



◆◆◆



あてもなく歩いているうちにあたりはすっかり暗くなっていた。

東地区の細い通り。

ここは住宅もなくまばらで、人の通りはなかった。家から漏れる灯りはなく、通りを照らすのは月明かりだけだった。

この辺の人は寝るのが早いのかしら。家々の間に点在している雑草の生い茂った空き地が寒々しい。

いや、実際に肌寒い。昼は陽気で暖かかったが、夜は冷え込んでいる。

そしてあたりはしん、と静まり返っている。

いや、それにしてもおかしくないか?

時間はまだ宵の口。寝るにしたって早過ぎる。そして、空き地には草が生い茂っているのに、虫の声ひとつしないのはなぜだ。

ふと地面に目を落とすと、石畳の中央が帯状に黒ずんでいる。それは前方に伸びていた。

その先に人影。

白髪痩身の男―――イザヤが立っていた。

突然の彼の出現に戦慄する。

彼はこちらに背を向けている。

「やあ、また君かい」

振り向きもせずに彼が言う。

「……」

「僕に何か用かな」

「……」

「用が無いなら帰ってくれないかな。僕は今忙しい」

彼は右手になにか、いや、誰かを掴んでいる。その首を。

それは以前イザヤに会った時に彼が襲っていた中年男性だった。

男性は小さなうめき声を上げていた。

よく見ると、中年男性の足から黒い何かが滴っている。

血だ。

石畳の帯状の黒ずみは中年男性を引きずった時の血の跡だった。

「……やめなさい!」

わたしはイザヤに向かってアンカーウィップを放った。

彼の右手を狙ったそれは命中することなく、空を切った。

しかし、イザヤは男性の首から手を離し、男性は地面に落下した。

男性は身動きしなかった。どうやら気絶してしまったようだ。

「危ない危ない……」

それでようやくイザヤがこちらを向く。

その表情は相変わらず無感情で、こちらを射るように見つめてくる。

「それで、何の用かな?」

わたしは腰のサバイバルナイフを抜き、イザヤに向かって駆けた。

頭を一閃。彼は上半身を反らしてかわす。ナイフの勢いでそのまま彼の胴に回し蹴り。手で軌道を逸らされる。

再び胴を狙ってナイフを二閃、三閃させるが、ギリギリでかわされる。

彼は後ろに飛びすさり、わたしと距離を取った。

じゃあ。

「これならどうだっ!」

彼のみぞおちのやや右を狙ってアンカーウィップを放つ。と、同時に彼に向かって突進する。

彼が最小限の動きで左にステップ。

さらにサバイバルナイフを投擲。

彼は避けたが、バランスを崩した。

狙い通り。

彼が着地したところに左の中段蹴りを放つ。蹴りが脇腹を捉えた。

そのまま逆の足で膝、みぞおち、顎に蹴りを叩き込む。

さらに顎に拳を叩き込む。

見上げると、彼が微笑んでいた。

わたしの背筋に悪寒が走る。

「殺気のこもったいい攻撃だ。だけどそれじゃあ、僕は―――ない」




空が、月が見える。

そして腹に激痛。視界がぼやける。―――涙が出ている?


「生きてるよね。手加減はしといたから」


視界の外からイザヤの声が聞こえる。

そこで初めてわたしは地面に仰向けに寝転がっていることに気付いた。

慌ててわたしは起き上がり、体勢を整える。

しかし、わたしは混乱していた。

いったい何が起きた?

「君に襲われる謂われはないんだけど……悲しいなあ」

「……いったい、何……?」

「君が僕を襲ってきたから、君は反撃された。それだけだよ」

反撃? イザヤが攻撃したそぶりは全くなかった。

それほどの超高速攻撃だというのか。

「僕はこれから仕事しなきゃならない。悪いけど君に構っている暇はないんだ」

彼はわたしに背を向け、気絶している中年男性の元へ向かう。そして再び首を掴み上げた。

「やめなさい!その人がいったい何をしたっていうの?」

「法律を犯した。だから処分する」

イザヤは以前も同じことを言っていた。

「だから、法律ってなんの!?」

「一つの国を滅ぼした。だから僕は同盟国としてこの国に報復する」

言って、地面に横たわる中年男性を見下ろすイザヤ。

国を滅ぼす? 国王でもないこの男性にそんな力があるはずは……。

「この国の名前はボイド・フォーグ。サヤ・フォーグを滅ぼした。それがこの男の罪だ」

「!」

この男がボイド・フォーグ……サヤの父親で、サヤを虐待して死なせた人。

イザヤの手に力がこもる。ボイドの首がミシミシと音を立てる。

このままではイザヤに確実に殺されてしまう。

ボイドはひどい父親だ。義父とはいえ、幼いサヤに暴力を振るっていた。

「だからって、あなたにそんな資格は……!」

「資格? 僕の国にはそんなもの必要ない」

「あなた、クロノスの人間だって言ってたんじゃないの?」

クロノスでは殺人は立派な犯罪だ。

「ああ、説明が足りなかったね。クロノスで過ごしてきたけど、クロノスの国民じゃない」

「……何言ってんの?」

「僕は僕という国の人間さ。法律は僕が決める。

さっきも言ったけど、この男は僕の同盟国であるサヤ・フォーグを滅ぼした。だから処分―――死刑だ」

ほんとうに、なにを言って―――。

「君も、君という国の人間なんだよ?

君の国の領土―――体を侵されれば侵し返すしかないだろう?

そして法律―――心を犯されれば君はどうする?

ましてや両方を踏みにじられたら。

もう、戦争しか道は残らない。

人はいつも人と戦争してるんだ。解ってくれたかな?」

「わかるかっ!」

ふたたびイザヤに向かって駆ける。動きを読みづらくするため、ジグザグに走行する。対して、イザヤは泰然と構えているだけだった。

向かって右から上段蹴りを構える。

イザヤが左手で蹴りをいなす動作を取る。

そこにわたしはフェイントをいれ、左にステップ。そのまま左足で上段蹴りを放つ。

しかしイザヤはこちらを見ることもなく、右手で掴んでいたボイドをわたしの前に差し出した。

突然のことにわたしは蹴りを止め、後方に跳び退く。

「……何のつもり?」

「とどめは譲ってあげようと思って」

「は?」

「ボイドはサヤを滅ぼした。その報復の責任を君に取らせてあげるよ」

「何を言って……」

「君がサヤを救うチャンスを潰した、と言っているんだ」

「!!」

「先日君と会った時、君は僕がボイドを滅ぼすのを止めたよね」

「……」

「以前から、僕はボイドがサヤを侵攻していることは知っていた。

サヤがいよいよ攻め落とされそうになっていたから、僕が介入した。あと一歩でボイドを取り逃がした。君が邪魔したせいでね。その結果、サヤは滅ぼされた。だから」

それ以上、言うな。


「サヤは君が滅ぼしたも同然だ」


わたしの心臓がどくん、と跳ねる。

冷徹な眼差しでイザヤがわたしを見下ろす。

「違う」

わたしのせいじゃない。あの時はイザヤの目的なんか知らなかった。知ってたとしても、わたしはあの路地裏で彼を止めようとしただろう。

「確かに君が直接手を下したわけじゃない。だが結果はどうだい?」

うるさい。

もし、わたしがあの路地裏に入らなかったら。サヤの父親があの時殺されていれば。

「僕は悔やんでいる。ボイドをもっと早く始末しておけばサヤは助かったんじゃないかと」

うるさい。

イザヤがボイドを始末しておけばサヤは命を落とさなかった。

その後のサヤの生活がどうなるかはわからないが、少なくとも命だけは。

「救える国にも限りがある。だけど、目の前でみすみす取りこぼしてしまうとは、僕の失態だ」

「……るっさいのよ!!」

わたしはありえたであろうサヤの将来の想像をかき消すように叫ぶ。

「あの時サヤの父親を殺してたらって、何!?

たとえ子どもの命を救うためだからって、その子の親の命を奪うなんて間違ってる!

父親が、家族がいなくなれば、きっとサヤだって悲しむわ!」

わたしは殺された父さんを思い出す。父さんがいなくなってから、どれだけ寂しい思いをしたか。

「おや。君はサヤと知り合いなのかい? まあ、それはいいや」

イザヤはこほんと咳払いをして

「それにしてもつまらない倫理観を持ってるね」

と吐き捨てた。

「どこの誰に入れ知恵されたか知らないけど、君は本当にそれが正しいと思っているのかい? 人殺しはいけないことだと」

「当たり前じゃない」

「嘘だね」

ざっくりと切り捨てるイザヤ。

「それは殺される側の意見だよ。

殺す側の君が言うことじゃない」

イザヤの発言にわたしはいら立ちを覚える。人を見透かしたようなその口ぶりに。

「……あなた、わたしの何を知ってるっていうの」

「君のことなんて知らないさ。

でもわかる。君、暗殺者だろう?」

「!」

「足運び、気配の消し方、暗器の使用。これでわからない方が無理だ。

僕が今まで何千、何万の国と戦ってきたと思っている?」

「……」

「暗殺者が『人殺しは悪いことだ』って。それは何のジョークだい、ふふ。

……もう一度聞こう。本当に人殺しは悪いことかい?」

「……それは……」

人殺しは悪い。それは間違いない。

人を殺せば罰を受ける。それが正当。

でも殺された家族の気持ちは、犯人が罰を受けたからといって晴れるのか?

……そんなことはない。

父さんを殺した犯人が捕まって、罰を受けたところで父さんは帰ってこない。遣りようのない怒りと悲しみ、そして虚しさが残るのは目に見えている。それならいっそ、犯人を殺したあとわたしも―――。

「矛盾に悩む表情も素敵だね。で、答えは出たのかな?」

「…………それでも、人殺しは……、……だめ……」

ふう、とため息をつくイザヤ。

「じゃあ、なぜ子どもは虐待で命を落とすんだい?

虐待で死なせることは人殺しと違うのかい?

大人が子どもを死なせても、親の罰は軽い。なぜだろうね。

答えは簡単さ。この国、クロノスでは子どもの命なんてゴミ同然だからさ。使い捨ての道具としか思われていない。それは君が身をもって知っているだろう」

淡々とイザヤがしゃべる。

「君は暗殺者に身を落とすべきじゃなかったね。生きるのがとても辛そうだ」

わたしだって、好きで暗殺者になったわけじゃない。でもそうしなければとっくに野垂れ死んでいた。

「……あなたは、どうしてサヤのことを?」

わたしはふとわいた疑問を口にする。

「別にサヤだからってわけじゃない。僕は全ての幼い国の味方だ。それを侵害する全ての国が僕の敵だ」

幼い国。それは子どものことだろうか。

「僕は幼い国を救うために、自分の力を使う。僕が育った環境は地獄かそれ以上だったが、この力を得られた点には感謝している」

彼の出自。第九孤児院。通称『鉄の箱』だったか。

「幼い国に仇なす全ての国に対し、僕は宣戦布告する」

……そう言われて、わたしは師匠が言っていたことを思い出した。

彼の二つ名の所以。

体は領土、心は法律。

独律戦争ラグナレク』のイザヤ・ホーリスノウ。

「どうやら君は暗殺者としてまだ迷いが捨てきれないらしい。どうだい、僕のところに来ないか?

一人前の暗殺者に育ててあげるよ」

イザヤは人として間違っている。わたしは、決して人殺しなんかしたくない。

だけど、なぜ彼の言葉はこうもわたしに甘く響くのか。

人殺しは悪いことだ。そう教わってきた。だが、本当にそうだろうか。

彼の言う通り、身内を殺した犯人を殺し返しても罰を受けなければいけない、そんな理不尽ないわれがあるのだろうか―――。



「俺の助手を勝手にヘッドハンティングしてんじゃねえ」



イザヤの背後に大柄な男の影が現れた。

黒髪、ツンツン頭、全身筋肉の鎧。

チュニックに綿パンという軽装。

そして少し息が上がっている。

「ガム……」

自然と口から彼の名前がこぼれる。

「全然帰って来ないと思ったらこんなとこほっつき歩きやがって。

俺は腹ペコだ。さっさと帰るぞ」

「君は誰かな?」

イザヤがガムを振り返る。

「人に名前を聞く時は自分から名乗るのが礼儀だぞ?」

「これは失敬。僕はイザヤ。国を守る活動をしている」

「丁寧にどうも。俺はガムだ。傭兵業を営んでる。あんたの後ろにいるちびっちゃいのが俺の助手のサキだ」

「女の子をこんな時間に一人にするなんて、感心しないな」

「それは面目無い。

だが、どう見ても尋常じゃないな、この状況は。それ、どうしたんだ?」

イザヤの右手に掴まれている男性、ボイドを指差すガム。

「何度も説明するのは面倒だから端折るよ?

この男は僕の粛清対象だ」

「何があったかは知らんが、警察に突き出しておしまいに出来ないか?」

ガムの問いかけに首を横に振って答えるイザヤ。

「そうか。でも、見過ごすわけにはいかないな」

ガムが構える。

「やめといた方がいいと思うよ?

僕は大人には容赦しない」

一瞬の静寂。

ガムがイザヤに向かって駆けた。

石畳がめり込まんばかりに脚を溜め、瞬く間にイザヤとの距離を詰める。

ガムの繰り出した拳はイザヤの頭の左をかすめた。続けて二発、三発、四発と無数の拳を繰り出す。しかしイザヤはボイドを抱えたまま全ての拳をギリギリでかわしている。

ガムの拳は速くて重い。一発でも貰おうものなら、大打撃となる。

それを知ってかイザヤは、ガムの攻撃を防御する気がなさそうだった。

それどころか、かわしながらカウンターで蹴りを放ってくる。

ガムは蹴りを受けつつ、拳で反撃する。その間にもイザヤの蹴りが数発ガムの体のあちこちを襲う。

……なんだかおかしい。イザヤの蹴りに対して、ガムの防御がワンテンポ遅れているような。

ガムがイザヤの腹の真ん中を狙うが、跳び退いてかわされる。

そしてイザヤはすぐさまガムに飛びかかり、蹴りの雨を放つ。

ガムは防戦一方だった。

「君かな? あの子―――サキって言ったっけ―――に下らない倫理観を植えつけたのは?」

「何の話だ?」

「殺人が悪だって話だよ」

「端的すぎてよくわからんが……。まあ、復讐は良くない、とは言ったな。一般論として」

「なぜ復讐は良くないんだい?」

「くだらないからだよ。復讐は連鎖する。身内を殺されたから殺し返す。するとまた殺し返された奴の身内が殺しに来る。きりがない」

「そんなことないでしょ」

「そんなことあるわ」

「いやいや。ひとつだけ解決法がある。復讐対象の一族郎党皆殺しにすればいい」

「非現実的過ぎるだろ」

「僕なら可能だ。救いを求めるならその全てに手を差し伸べよう。ただし、幼い国にのみだが」

「幼い国?」

「君の助手のような子達のことさ」

「……この国の人間は強くなるほどロリコンになる傾向があるらしいな。俺の知り合いの金髪野郎といい、アンタといい」

「誤解をしているようだけど、間違ってもないからその認識で構わないよ」

「いや。構えよ。俺が言われれば三日は立ち直れん」

「君は面白いなあ。でも、復讐がくだらないっていうのは訂正してほしいな」

「俺は俺の主張をしているだけだ。曲げる気はない。

ところで、アンタは復讐者なのか?」

ぴくり、とイザヤの表情が一瞬陰る。

ガムの拳がイザヤの腹に入った。

後ずさるイザヤ。

「……まあ、ね」

言葉を濁すイザヤ。それは意外な気がした。

「人というよりは国にかな」

「国?」

「僕は通称『鉄の箱』と呼ばれる場所で育った。この世の地獄を全て詰め合わせたような場所だ。

そこは子どもの命をなんとも思わないくそったれな大人が跋扈ばっこしていた場所だ。

毎日毎日訓練と実験の繰り返しさ。

その過程で何十、何百人の子どもが犠牲になった。

僕は運良く生き残って、出ることができたけど。

さて、問題だ。

『鉄の箱』を出て僕が一番最初にしたことはなんだと思う?」

「……」

ガムは答えない。

「時間切れ。正解は『鉄の箱』を壊すことだ

第九孤児院の人間は皆殺しにした。もちろん子どもを除いてね」

「……アンタのやったことが理解できん、とは言わん。でも、やっぱりくだらねえ」

「そうかな?

あいつらは何百、いや、創立時から数えれば何千もの子どもの命を奪ってきたんだ。それなら逆に命を奪われるのも正当だ」

「……」

「クロノスでは殺人を犯しても刑期を終えれば牢屋から出られる。

犯人の身体の束縛と無為な時間の蓄積で殺人の罪が消えるなんておかしいと思わない?

命は命を以ってしかあがなえないというのに。

だから僕は復讐する、子どもの命を不条理に奪う全ての大人に」

「やめとけよ。やっぱりくだらねえ」

「……なんだって?」

「それをやって、アンタは楽しいのか?」

「楽しいとか、楽しくないの問題じゃない……!」

イザヤは少し苛立っているように見える。感情がなさそうな人間だと思っていたけど、そうじゃないのかもしれない。

「アンタが過酷な環境で育ってきたのは、手合わせしてみればなんとなくわかる。

でも、昔やりたいこととかなかったのか?」

イザヤは蹴りを放ちながら、んー、と考え

「……あった気がする。でも、もう思い出せないや」

と微笑んだ。

「今からでも遅くないと思うがな。どうだ? あちこち旅をしてみるのは。新しい自分を見つけられるかもしれんぞ?」

イザヤの蹴りを防ぎながらガムが嘯く。

「僕にそんな提案してきた人間は君が初めてだよ。

大体の大人は僕を見るなり怖がって逃げ出すからね」

「俺だって今にもちびりそうなんだぜ?」

「バカ言えよ」

ガムは軽口を叩きながら応戦しているがジリ貧だった。

このままではガムがやられてしまう。

しかし、割って入ろうにもイザヤには全くと言っていいほど隙がなかった。

ん、待てよ。割って入る―――。

「君とはもうちょっと喋ってたかったけど、僕も仕事に戻らないといけない。じゃあね」

一段と鋭い蹴りがガムの左側頭部に突き刺さる。


直前。


わたしはガムとイザヤの間に飛び込んだ。

イザヤの蹴りがわたしに当たる寸前で止まる。

「あなたは子どもは殺さない、のよね?」

わたしはほくそ笑む。

「その通りだ。やられたよ」

イザヤが微笑む。

振り上げられたイザヤの脚をガムが掴み、そのまま上空にぶん投げた。

たまらずボイドを腕から放り出すイザヤ。

すると、ガムはわたしを脇に抱え、イザヤを投げた方向とは逆方向に走り出した。

背後でボイドが石畳に落下したであろう鈍い音がした。

続けてイザヤが着地する音。

「逃げるぞ。舌を噛むから喋るな」

「えっ? でも、あのおじさんは?

助けないとイザヤに……!」

「無理だ。あいつには勝てん」

「でも、結構渡り合えてたんじゃ……」

「戦ってみてわかったが、あいつの攻撃には初動が感じられん。そしてあいつ自身の存在感が極めて薄い。まるで影と戦っているような感じだ。あいつの全ての攻撃に対して後手に回らされる。だから逃げるしかない」

「そんな……。あのおじさんを見捨てるなんて……!」

わたしはガムの腕から逃れようとジタバタ抵抗しようとしたが、がっちりと掴まれ身動きが取れなかった。

「お前の命の方が大事だ」

わたしの方を見ることなく、ガムは走り続けた。



◆◆◆



「馬鹿野郎がっ!」

ガムに頬を打たれた。その勢いでわたしは後ろに吹っ飛ぶ。

背中が壁にぶつかる衝撃。肺から空気が押し出され、一瞬呼吸が止まる。

「〜〜〜っ…………! ちょっとは、手加減しなさいよ…………」

涙目でわたしは訴えた。

「できるか馬鹿!!」

ちなみにここはガムの事務所の応接室兼居間だ。

その中央でガムはわたしを見下ろしている。

「お前はどれだけ危険なことに首を突っ込んだかわかってるのか!?」

「……言いつけを守らなかったのは悪いと思ってるわよ。でも、あのおじさんが殺されそうになってたから」

「相手の力量が自分より上の相手に向かって行くのは勇気じゃなくて無謀ってんだ。お前ならイザヤとの力の差くらいわかるだろうが」

「それでも、殺されそうな人を見てほっとくなんて……」

「巻き込まれてお前が殺されたらどうするんだ。自分の命を粗末にするな。どうもお前は捨て鉢なところがあるな」

言われて、わたしはどきりとする。

父を殺されてから、犯人に復讐することだけを考えて生きてきた。それさえ果たせれば、あとはどうなっても構わない……その考えが頭から消えない。

「お前、俺に言ったよな。力の使い方を教えてくれって」

確かにそう言った。わたしは生きる道を探すためにここに来た、はずだ。

「俺はお前に死に急がせるために助手をやらせているわけじゃない。

勝手に暴走されて俺の事務所の看板に泥を塗られるのは困る。

次、同じようなことをしたら出てってもらうからな」

「……わかったわ」

「そうじゃないだろ。こういう時はまず謝れ」

「……ごめんなさい」

ふう、とため息をつくガム。

「まあ、いいだろ。

飯にしてくれ。さっきも言った通り、腹ペコだ」

「その前に手当して欲しいんだけど」

わたしはじんじんと痛む自分の左頬をさすりながら、ガムを睨む。

「自業自得だ。自分で手当しろ」

「なにそれ、ひどい」

わたしは頬を膨らませ、自室に戻る。

頬を手当しながらサヤの父親、ボイドのことを考えていた。

いたいけなサヤを虐待し、死なせた男。

その報復としてイザヤはボイドを襲った。

命は命でしかあがなえない。

単純な理屈。

罪を犯せば罰を受けるのが当然。

しかし殺人に対する罰は本当に命と釣り合っているのか。


わたしは―――。


翌々日の朝。

新聞にはボイド・フォーグの死亡記事が載っていた。




                   ―――聖なる雪が降り立つ夜―――END


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