08話 ペンがなければ剣を取ればいいじゃない
黒髪ツインテールの少女、サキは全身で床に突っ伏していた。
否、別の少女に組み敷かれていた。
サキに覆いかぶさるのは、ゆるゆわウェーブの銀髪を肩口で切りそろえた少女だった。
その少女はサキと交差する形で覆いかぶさっている。サキの右腕と左腕を、銀髪少女はそれぞれ両手と両足で挟み込むようにしていた。その口が笑みの形に歪む。
「ここで選べ」
行くか、逃げるか。
銀髪少女のそんな言葉が聞こえた気がした。
サキは、警戒を怠っていたとはいえこんな窮地に陥るとは思っていなかった。サキの額にじっとりと浮かぶ脂汗。文字通り地を這うような屈辱を味わわされる。
くそっ、くそっ。どうして!
「それはキミが無知だからだ」
サキの心を見透かしたように、銀髪少女が言う。
「無知蒙昧な輩は選択の機会さえ与えられない。他人の命令に従わされ、他人に搾り取られるだけだ。近い将来、キミもそうなる」
「……あんたなんかに、わたしの何が……!」
「わかるよ」
「!」
「今のキミはただの人形だ。人の指示を聞いて、その通り動いて。もし指示を出す人がいなくなったら、キミはどうするんだい?」
「それ、は……」
身寄りのないサキに、今の雇い主以外に頼れる人はいない。いや、師匠がいる。否々、師匠とは絶縁状態だ。窮状を訴えて戻ったところで助けてくれる確率は零に近い。そうすれば行先は孤児院くらいしかない。それはほぼ死ぬことを意味していた。
「ほら、何もないだろ? 今のキミには何の価値もないんだよ?」
「…………!」
ぎり、と歯噛みするサキ。何も言い返すことができなかった。床に這いつくばるだけの自分。何も言い返せない自分。サキは自分の無力を呪った。
そして、サキはこの先の自由を奪われることになる。
◆◆◆
話は数時間前に遡る。
クロノス王国で傭兵業を営んでいる大柄、黒髪ツンツン頭の青年ガムはいつものように朝食を食べていた。テーブルを挟んで正面にはサキが座っている。今朝の献立はバゲット、豆のスープだ。
ガムがスライスされたバゲットをむしると、湯気が上がった。そして口に運び、かじる。
「いつものパン屋、味変わったか?」
「うーん、わかんない」
ガムのつぶやきに、首を傾げるサキ。湯気を上げるスープを木のスプーンですくい、口に運ぶ。豆はそら豆とひよこ豆の二種類が入っていた。サキはひよこ豆を眺めながら呟いた。
「……ひよこ豆が、本物のひよこだったら良かったのに」
「グロいわ。むしろ成長したやつの切り身の方がいいわ」
「わたしだってニワトリの方がいいわよ」
サキは何かを思い出すように遠い目をした。
「……三年前、秋に師匠がひよこを持って帰って来たことがあったの」
盗って来たんじゃねえよな、とはガムは聞かなかった。
「師匠は育てて食べようって。わたしはその子に『モモ』って名前を付けて可愛がったわ」
「モモ、ねえ」
ガムはサキの言葉に嫌な予感がしていた。
「でも冬に入って、獣も野菜も木の実も草も、食べるものが何もなくなっちゃった時があったの。わたし達の空腹も限界で。それでやむなくモモを……」
「もういい、言うな」
ガムは、構わずひよこ豆をかみ砕く。
しばらく二人は無言で食事を進めた。台所にはバゲットをむしる音、スープをすする音だけが響く。
ふとガムが
「そういえば、師匠のところでは勉強ってしてたのか?」
とサキに問うた。
「…………」
無言でスープをすすり続けるサキ。
「なぜ黙る」
「……ない」
ガムに届くか届かないかの音量でサキが答える。
「なんだって?」
「してないわよ、悪い!?」
勢い余ってサキの口からひよこ豆が飛び出し、ガムの額を打った。ガムは落ちてくるそれを手のひらで受け止め、サキのスープ皿に戻した。
「急に怒鳴るな。悪いとは言ってねえだろ」
頬を膨らませるサキ。
以前ガムはサキに日用品の買い出しを任せたことがあった。買い出しが終わった後にお釣りを確認すると百ドルク少なかったのだ。
余計な物は買ってないし、サキがちょろまかしたということもなかった。
つまりは彼女はお釣りの計算ができていなかったのだ。
百ドルクといえどお金はお金。いつか痛い目を見ないとも限らない。
「じゃあ、師匠のところでは何やってたんだよ」
「体術と武器の扱い方、それと食料の調達の仕方」
「偏ってんな」
「仕方ないじゃない。生きるのに必死だったんだから」
「それは否定しないさ。命あっての物種だ」
「でしょ?」
「胸を張るな」
「でも、ホントに戦闘の仕方を教えて貰って良かった、ってことはあったわよ?」
「どういうことだ?」
「あれは確か……」
サキは再び語り出す。一年前の夏。師匠の命令で、ある悪徳貴族の暗殺をサキ一人で実行しようとした時だった。貴族の屋敷に忍び込んだサキは、標的となる人物がいる部屋へ突入した。しかしそこにいたのは八人の黒服の護衛達だった。どうやら暗殺は読まれていたらしい。サキはあっという間に取り囲まれた。
「それで、どうしたんだ?」
ガムが問う。
「護衛達のリーダーを潰したわ」
リーダーをやられた護衛達は怯んだ。その隙をついて、サキは部屋から脱出。何とか逃走できた。
任務自体は失敗だったが、命は落とさずに済んだ。
「本当に危なかったのよ? ……あの時は師匠を恨んだわ」
「暗殺を一人で実行させられたことをか?」
「いいえ。いっぺんに八人を倒せる技を教えてくれてなかったことに」
「そっちかよ。俺でもそんな便利な技は知らねえよ」
「そうなの!?」
「そうだよ。お前さん、俺を蛸かなんかだと勘違いしてないか?」
「……なんで人間には腕が八本ないのかしら……?」
「どの手でパンを掴んだらいいか迷うからだろ」
ガムは適当にあしらって、バゲットをちぎって口に放り込んだ。サキは引き続き、人間の腕が二本しかないことの考察をぶつぶつと呟いていた。
◆◆◆
朝食後、サキが箒で玄関掃除をしていると、ガムが「出かけるからこれに着替えろ」と言われた。渡されたのは綿の白ブラウスに綿の茶色のスカート。ブラウスの胸元には小さな赤いリボンが付いていた。
「……可愛い」
と、そこで彼女は思い出した。以前、ある男爵の護衛をした時のことだ。報酬を受け取ったら、ガムが新しい服を買ってやると言っていた。
サキは楽しみにしていたのだが、結局その依頼の報酬はパーになってしまった。当然彼女は新しい服を買ってもらえなかった。
この服はその時の約束が遅れてやって来たものだろうか。彼女自身も忘れていたため、予想外の出来事に、胸が弾んだ。
そして今日は特に仕事もないし出かける予定もなかったはずだけど、とサキは戸惑いながらも自室に移動し、着替えた。
サキが玄関に戻ると、そこにはガムが立っていた。彼は白のカッターシャツに黒のスラックスという格好だ。首には薄茶色の綿のネクタイを締めている。そしてその右手には紙袋を提げている。何かの贈り物だろうか。
「お。似合うじゃないか」
サキに気付いたガムが言う。
「そ、そうかな」
思いがけないことを言われて、もじもじするサキ。部屋の鏡で自身の姿を確認した時は違和感を覚えたが、どうやら変ではないらしい。
「さ、行こうか」
ガムがサキを促す。
「行くって、どこへ?」
「まあ、挨拶みたいなもんだ」
「?」
返答を濁すガムに戸惑いつつ、靴を履くサキ。
二人は事務所を後にした。
◆◆◆
空は晴れているものの、雲が多い。太陽は雲の合間から顔を覗かせては、すぐに隠れていた。クロノスの市街地を西へ向かって歩くガムとサキ。
サキが以前におめかしして出かけたのは、随分昔の事である。彼女の父親が亡くなる前なので、三年以上前だ。その頃は休日に、サキは両親と三人でよく公園にピクニックに行ったものだった。
朝早く起きて母と一緒にお弁当を作って。父は出発直前まで寝ていたので、早く起きるようサキは寝ている父の体の上に飛び込んで起こした。ピクニックの道中はサキの両脇に父と母が立って、三人で手をつないで歩いて。
たった三年か……。随分遠くまで来てしまったような気がする。お父さんが殺されて、お母さんが精神病患者の施設に連れていかれて。そして自分は、成り行きといえど暗殺業に足を突っ込んでしまって。今の姿を見たら父と母は何と言うだろうか。
……きっとものすごく怒るだろうな。
サキがぼんやりそんなことを考えていると、横を歩くガムの手を思わず取りそうになる。
慌てて手を引っ込めるサキ。それに気付いたガム。
「どうした?」
「……なんでもない」
「元気ないな。朝飯足りなかったか?」
ううん、と首を振るサキ。
「そういえば、サキは嫌いな食べ物はないのか?」
サキがガムのところに押しかけてから、基本的に二人は一緒に食事をしている。ガムはサキが食べ物を残したところを見たことがない。
「ないわよ。そんなこと言ってたら死んでしまうもの」
「すまん。失言だった」
かつて路上生活をしていた時、サキは文字通り何でも食べていた。残飯はもちろん、ネズミ、虫、草など。
「俺がサキくらいの年の頃は、ピーマンと人参が食べられなかった。だから、偉いなと思って」
今でもピーマンは食べられないが、というのは黙っておいた。
「わたしぐらいの年って、ガムは何をしてたの?」
ガムは拳を顎に当ててしばらくして
「騎士の見習いだな」
「騎士って、クロノスの宮廷騎士?」
「ああ、そうだ」
サキはガムをしばらく怪訝な目で眺めてから
「……本当に?」
と言った。
「何だよ。まだ疑ってんのかよ」
心外そうに答えるガム。
「だって、宮廷騎士って選りすぐりのエリート集団でしょ? ガムって、なんかイメージと違うから」
「それはどういう意味だ」
「宮廷騎士っていったら長身で、逞しくて、美形っていうのが一般的でしょ? ガムは大工や炭鉱夫って感じ」
「知らん。どこのゴシップ記事だ」
「あのチギリっていう金髪キザ男がイメージにぴったり……」
「お前さん、『金髪キザ男』って本人の前で絶対に言うなよ?」
それが現実のものになるかと思うと、ガムは背筋は冷やした。
サキがガムを疑うのも無理はないと言えた。宮廷騎士といえば、家柄を最も重視されるものだ。その構成員は王族、貴族が大部分を占めている。しかし、名門以外にも資質のある者も受け入れている。
王国は見習いという形で宮廷騎士を募集し、ガムはそこに所属していた。そして厳しい訓練の末、正式宮廷騎士に登用された。
「すごいじゃない」
「必死だったからな」
故郷を失い、自分を、他人を守れるくらい強くなるために。彼は来る日も来る日も剣を振るい続けた。
「宮廷騎士になれて嬉しかった?」
「そりゃあ、な。でも、本当に大変だったのはそこからだ」
「大変って、何が?」
「他の騎士からの嫌がらせだよ」
「もしかして」
「ああ、お前さんの想像通りだよ」
貴族の中に下民が入り込めば、いじめが起こる。
「古今東西、変わらん法則だよ」
貴族出身の騎士は、当然のようにガムに対する嫌がらせをおこなった。面罵は日常的なもので、食事に異物を混ぜられたり、鎧をぼろぼろの物にすり替えられたりした。
「何それ、ひどい!」
「そんなのまだ可愛らしいもんだ」
ひどいときには、貴族出身の騎士が見習い出身の騎士を拘束し、別の見習い出身の騎士に暴行させることもあった。やらないとお前の家族から仕事を奪うなどと脅されて、だ。
「ガムも、やらされたの?」
「まあ、な」
「それで、黙ってたの?」
「まさか」
果たし合いで完膚なきにまで打ち倒した。嫌がらせをしてきた貴族騎士を全員。
「騎士には挑戦状を叩き付ける習慣があってな。挑戦者は皆の前で、手袋を相手に投げつける。投げつけられた方は基本的に挑戦を断れない。そして果し合いは騎士の間では美徳とされてるんだ。
そんで貴族は下民からの挑戦とあっては尚更断れない。奴らは体面を最も大事にするからな」
果し合いは一対一で行われる。チームワークは関係ないため、個人の戦術、体力、技量が重要になる。貴族といえど、騎士としての訓練をこなしてきているので、楽に勝てる相手ではない。また一般人と比べて勉学も収めているため、論理的な戦闘の組立てもできる。
周りの人間は当然、貴族騎士の勝利を確信していた。
だが結果は逆だった。貴族の戦術、技術をガムは全て無効化した。
剣を叩き込むには相手に接近しなければならない。ガムの動体視力は相手が攻撃した後でも反応できる。そしてガムの腕力、膂力はその攻撃を弾くのに持って余りある。
結果、ガムは全ての相手をカウンターで沈めた。
戦闘が一対一、及び武器が剣という条件下でこそ可能な芸当だったが。
「何人相手にしたの?」
「多すぎて覚えてねえよ」
「その後は、大丈夫だった?」
「大丈夫って、何が?」
「嫌がらせ」
「嫌がらせは無くなったが、貴族はほとんど誰も俺に近付かなくなった」
「大人って、いがみ合わなきゃ生きていけないの? わたしが大人なになった時、やってけるのかしら」
「騎士団はいわば閉鎖された組織だからな。特殊っちゃ特殊だったよ。だからお前さんは今からそんな心配しなくていい」
ガムはしばらく考え込んでから、口を開いた。
「でも、他に方法があったんじゃないかって、今なら思うよ」
「他に方法って?」
「学があれば、果し合いじゃなくて、話し合いで解決できたかもしれん」
「そうかしら……。一度痛い目見せないと無理なような気がするけど」
「言い方は悪いが、見せしめは最初の一回だけで良かったんだ。全員相手にするなんて、非効率的だった。まあ、あの頃は貴族に対する不満なり、見習い出身の騎士に対する待遇の不公平なり、怒りが勝ってたからな。視野が狭くなってたんだ」
「わたしだったら、相手が寝てる間にやっちゃうかな……。こう、キュっと」
雑巾を絞るような手振りをするサキ。
「騎士が減ったら騎士団の戦力が下がるだろうが」
「あ、そうか」
こいつも大概視野が狭いよな、とガムは思った。
宮廷騎士として出陣する時は、連携が重要になってくる。そういう意味では俺の取った行動は失敗だったよ。みんな俺を避けるせいでで連携が取りづらくなっちまった」
まあ騎士は結局辞めちまったんだけどな、とガム。
「なんか、宮廷騎士って思ったよりジメっとしてるのね。試合で勝者が敗者に手を差し伸べて『いい試合だった。僕はまだ強くなれる。共に高みを目指そう』みたいなことを言うもんだと」
「それは女子供向けの物語だな。王宮内かくありき、っていう印象を広めるためのものだ。騎士団内に爽やかな面がないわけではないが、汚い面が多いのは事実だったよ」
「夢を壊された気分だわ」
「どんなにお高くとまっても、戦争が起きりゃ騎士はただの殺人集団だ。そうやって夢を抱かれるのが、せめてもの救いになってるんだろうよ」
「夢は夢であって欲しかったわ」
「空想で楽しむのは自由だ」
「現実を知らされた後で言われても……」
うーん、と唸りながらサキはガムと歩き続けた。
◆◆◆
「ところでガム、どこへ向かってるの?」
「……ああ、もう少しで着く」
サキがあたりを見回すと、周囲には住宅が立ち並んでいた。それもかなり大きな住宅だ。ここはクロノス王国の西の市街。中流階級以上の屋敷が集まる一角だ。
サキは嫌な予感を覚えた。そういえば以前もこの辺に来たことがある。もうしばらく歩いて、ある屋敷の門の前でガムが立ち止まった。
「着いたぞ」
彼が立ち止まったのは、周囲の屋敷より一回り大きなものだった。
高さ三メートルはあろうかという鉄格子状の門。門の中には大きな庭が広がっている。庭の中央には時の三女神の石像。その向こうに邸宅が建てられている。
クロノス王国の名家グロピウス一族の住まう屋敷だ。
「……あの、ガム?」
「行くぞ、サキ」
門を開け、庭に入るガム。
「挨拶くらいなら、わたし、行きたくないんだけど」
以前サキはグロピウス家の次期当主である少女エウァとその婚約者(フィアンセ)?であるチギリのデートを尾行したことがある。その際、エウァの人となりを目の当たりにしたサキは、エウァに対して吐きそうなほど嫌悪感を抱いた。そのこともあって、サキはグロピウス家には極力近寄りたくないのだ。
ガムは後ずさるサキの腕を掴み、ぐいぐいと邸宅の方に引っ張っていく。
「ちょっと、ガム! イヤだったら!」
サキはガムの手を振りほどき、門に向かって走り出した。
「こら、サキ! 待て!」
ガムがサキを追いかけ、服の裾を掴む。サキはグロピウス邸の門にしがみついた。
「ぜっっったいイヤだから! わたしもうここから動かない!」
サキが首を振っていやいやをする。振り乱れるツインテールがガムの顔を叩いた。
ガムはサキの腕や腰を掴んで門からはがそうとするが、びくともしなかった。これ以上引っ張ると、サキの服が破れてしまいそうだ。
「仕方ねえな」
言って、ガムはサキから手を離す。
諦めてくれた……? サキがほっと胸をなでおろす。
直後。ガタン、という音と共にサキの体がぐんと上方に移動した。サキの視点が高くなる。
彼女が下を見ると、ガムが門を根元から取り外し持ち上げていた。そのままグロピウス邸の玄関へと向かっている。
「な、なんてことしてんのよ!」
「お前さんがてこでも動かなさそうだったから、門ごと動かしてるんじゃねえか」
やれやれ、とため息をつくガム。
「やめてよ! これじゃわたしがバカみたいじゃない!」
門から降りて逃げれば良さそうなものなのだが、そうするとサキ自身が負けたような気分になるのか、とにかくプライドが許さなかった。
「ちょうどいいさ。お前さんが今日の主役なんだから、担がれとけ」
「えっ? どういうこと?」
「行けばわかるさ」
結局、サキは強引に邸宅の中に連れて行かれた。
◆◆◆
「と、いうわけで今日はよろしく頼む、エウァ」
「うん。任せてよ」
ガムの言葉に、ゆるゆわウェーブの銀髪を肩口で切りそろえた少女エウァが答える。エウァは銀縁眼鏡に絹の白いブラウス、赤いスラックスといういでたちだ。一目見れば、彼女の身に付けているものが高級品だとわかる。
楕円形の分厚いテーブルを挟み、ガムとサキ、そしてエウァが椅子に座っている。
応接間の中は、ダークブラウンを基調にした壁に家具。部屋の奥には縦長の窓が二枚あった。
部屋の扉の横には、ガムとサキを案内した年配のメイドが控えていた。
サキがガムに問う。
「え? 頼むって、このおん……この子に何を頼むって言ったの?」
「だから、お前さんの教師だよ」
「教師って? わたしに何をさせるの?」
「勉強だよ」
「勉強?」
戸惑いっぱなしのサキに説明するガム。
今日ガムがエウァを訪ねたのは、サキに勉強を教えてもらうためだった。
ガムにとってエウァは、国の災厄を回避するための旅をしたという仲だ。ちなみにそこにはガムの幼馴染である宮廷騎士のチギリもいた。この三人は今でも連絡を取り合っている。
そしてガムは、定期的にグロピウス家から仕事を貰っている。
しかし今回は逆だった。ガムからエウァに「サキの勉強を見てやって欲しい」と依頼した。
「これは心ばかりだが」
ガムは持ってきた紙袋から中身を取り出し、エウァに渡す。それはクロノスでも有名なパティスリーの包み紙にくるまれていた。ふんわりと香ばしい香りが三人の鼻孔をくすぐった。
「だから、気を遣わなくていいのに」
「そういうわけにはいかん」
「キミのそういうところは好きだよ」
「あとはよろしく頼む」
「うん」
言って、応接間の扉を開き、部屋を後にするガム。その背中にサキが声をかける。
「ちょっとガム! ねえ、どこ行くの! 待って、わたしは勉強なんかっ……」
言い終える前に、扉が閉まる。呆然とするサキ。
そんなサキを気に留めず、エウァがよいしょ、と椅子から腰を上げる。
「ボクも準備があるから、しばらく待っててね、サキ」
「……わたしの名前を気安く呼ぶんじゃ……!」
サキの眼前に人差し指をびっ、と突き出すエウァ。とっさのことに口を噤むサキ。
「騒がないで。……ホラウ」
エウァが呼びかけると、扉の横に立っていたメイドがエウァの元に移動した。
「ボクが戻ってくるまでサキの相手したげて」
「かしこまりました、エウァ様」
ホラウが一礼する。そのままエウァは部屋を出て行った。彼女を見送った後、ホラウはサキの元に寄る。
「本日はようこそいらっしゃいました、サキ様」
深々と頭を下げるホラウ。きれいな白髪を後ろでおさげに結っている。体つきは中肉中背だが、少しふっくらとしている。それが彼女の柔和さを現しているようだった。
「……別に来たくて来たわけじゃないわ」
「あら、そうでしたの?」
ふふ、と笑うホラウ。
「ではなぜ、グロピウス邸にいらっしゃったんですか?」
「それは、ガム……じゃなくて所長に、目的地を知らされずに連れてこられて……」
休日の散歩の気分で出かけたら、着いた場所はサキの嫌いな人間のいるところだった。
「おまけに勉強なんて……。所長は何考えてるのかしら……」
「ガム様にはきっと何かお考えがあるのでしょう。せっかくいらしたのですから、どうぞくつろいで行ってくださいませ、サキ様」
「『サキ様』って呼ぶのやめて。なんだかもどかしいわ」
サキの言葉に、ホラウはゆっくりと首を横に振った。
「サキ様はガム様の助手を務めていらっしゃるのでしょう? それならば、サキ様はガム様と同じ、グロピウス家のお客様ですわ」
大きな屋敷、広い部屋に高級な調度、そして慇懃なメイド。サキはとてもくつろげそうになかった。
◆◆◆
グロピウス邸のエウァの部屋。室内は応接間と同様にダークブラウンを基調としている。広い部屋の壁には沢山の本が敷き詰められた本棚が十架ほど。その中央の本棚と本棚の間に彼女の机が置かれていた。
エウァは本棚と反対側の壁のクロゼットの前に立っている。
そして着ていたブラウス、スカートを脱ぎ、クロゼットから取り出した衣装に着替えた。
振り返り、ふと机に目を向ける。そこには銀のペン立てに羽ペンが差し込まれていた。
机のそばに移動し、羽ペンを手に取る。それはエウァが、姉のクロエから貰ったものだった。
「……お姉ちゃん」
呟き、姉と過ごした日々をエウァは思い出す。
エウァは以前学校に通っていたが、成績は良くなかった。
グロピウス家の人間としては文武両道がしかるべきだったが、彼女には優秀なクロエという姉がいた。クロエはまさに才色兼備という言葉がぴったりだった。エウァはグロピウス家は当然姉が継ぐものだと思っていたから、勉強しなかった。また、クロエにも後継者の自負があったから、エウァを甘やかしていた。
ところが、クロエはある日突然出奔した。そして戻らなかった。
何か事情を知っているのではないかと、父に聞いたが「クロエの事は忘れろ。グロピウス家次期当主はお前だ」という返答だった。エウァには訳が分からなかった。
そして当然、今まで勉強してこなかったツケが一気に回って来た。
でも、大丈夫だ。皆に支えられ、勉強してきた。自分を信じよう。
エウァは自身に言い聞かせる。震える手をもう片方の手でぎゅっと握った。
「じゃあ、行ってくるよ」
と言って、羽ペンをペン立てに戻し、部屋を出た。
◆◆◆
ホラウと話すこともなくなり、サキは応接間でじっとしていた。
コンコン、と応接間の扉を外から叩く音。直後に「入るよ」というエウァの声。
扉の方に目を向けるサキ。入って来たエウァの格好にサキは思わず笑ってしまった。
エウァの格好は、黒いガウンとこれまた黒のモルタルボードという、いわゆるアカデミックドレスというやつだ。それ自体は立派な衣服なのだが、ガウンの裾が長すぎて、床に引きずられている。
エウァがサキを睨む。
「今、笑ったでしょ」
「いや、だってアンタ、裾が……ははっ」
「また笑った!」
エウァがつかつかとサキに詰め寄る。
「いい? これは大学の正装……きゃうっ!」
エウァがガウンの裾を踏ん付けて転ぶ。
「慣れない服は着ない方がいいんじゃないの?」
サキがエウァを起こそうと手を差し伸べる。
「一人で立てるよっ、もう」
エウァが立ち上がり、ぱんぱんと裾を両手で払う。
こほん、と咳払いし
「今日はボクがキミの教師をする。教科は国語、算数、歴史だ。真面目に取り組むように」
とサキに告げた。
「はあ? なんでアンタにそんなこと指図されなきゃなんないのよ」
エウァはサキをびしっと指さし
「それから、ボクのことは今日一日『先生』って呼ぶこと。さっきみたいにアンタ呼ばわりしたら許さないから」
「別にアンタに許してもらういわれなんてないわ。それに勉強なんてしたくないし」
サキは椅子から立ち上がると扉に向かって歩き
「帰らせてもらうわ。じゃあね」
とエウァに背を向けた。
直後。
サキの視界が揺らいだ。そして衝撃が体を襲った。
突然のことに驚愕するサキ。両腕に痛みが走る。
何かが自分の上に乗っていると気付くサキ。
うつ伏せに組伏されている……?
ちらり目だけで右のほうを見ると、銀髪の後頭部が視界に入った。こいつは、エウァ?
サキはエウァに右腕をとられ、左腕をエウァの片足で巻くようにかけられていた。サキのの背中を中心に交差するようにエウァが覆いかぶさっていた。
サキがだいぶ後で知ったことだったが、これは『
サキは肘関節を極められ、身動きが取れなかった。下手に暴れれば腕を骨折することは目に見えていた。悪足掻きにと両足をばたつかせる。自分の肘に衝動が響くだけで、腕の戒めは解けそうになかった。
「ここで選べ。行くか、逃げるか」
「……く!」
徐々に締付は強くなり、両腕の肘関節が悲鳴を上げている。呪詛のような言葉がエウァから放たれているような気がするが、両腕の激痛のせいで何を言っているのか頭に入ってこない。
「……ボクの授業を受けるかい?」
「……誰がアンタの授業なんか…………!」
「ふぅん。まだそんなこと言う余裕があるんだ」
エウァが一層にサキの両腕を上に反らせる。
「………いだだだだだ!!」
サキの両肘の痛みが更に大きくなる。
「ちなみにボクが一日家庭教師をすれば、受講料は二万ドルクだ」
サキは驚いた。二万ドルクといえば一か月の食費としては十分だ。それを一日で稼ぐだと?
「そしてガムはボクと契約を交わしている。ボクが今日、キミの教師をするとね」
サキの目の前に契約書を掲げるエウァ。どこから取り出したのだろうか、と思う余裕はサキにはなかった。
「……受ける! 受ければいいんでしょ! だから放して!」
追い込まれ、サキは観念した。エウァによる戒めが解かれる。
エウァはサキの体の上から退き、サキを抱き起す。
「最初から素直にそう言ってくれればいいのに」
にっこりと笑うエウァ。サキは自分の体を抱くようにして肘をさすっていた。
……こんなポヤンとしてそうな女に後れを取るなんて……!
エウァに背中を見せていたとはいえ、数歩分は離れていたはずだった。あの距離を一瞬で詰められるとは思いもよらなかった。完全に油断していた。サキはエウァに向かって歯を剥いた。エウァはどこ吹く風で
「さっきの体育の分はタダにしといてあげるよ」
と言った。その言葉に、サキの眉間には深いしわが刻まれた。
◆◆◆
「じゃあまずはキミの実力を測るために小テストするよ。席に着いて」
さっきまで座っていた椅子に座るサキ。エウァはテーブルを挟んで対面に回ると、一枚の紙と鉛筆をサキに差し出した。
「ちなみに字は読める?」
「読めるわよ。馬鹿にしないで」
「それは失敬。制限時間は三十分ね。それじゃあ始めて」
エウァの合図でサキは鉛筆を手に取った。テスト用紙を眺めると、そこには国語、算数、歴史の問題が書かれていた。
……どうしよう、わかんない。
開始早々、サキは問題に詰まった。
無情にも時間が過ぎていく。
しばらくうんうん唸っていると
「そこまで」
とエウァが言った。
「……え? まだ三十分経ってないけど」
「もういいよ。キミの実力は分かったから」
にべもなく、エウァは問題用紙を回収した。
ふう、とため息を吐くエウァ。
……ガムはなんでこんな子を世話しようと思ったんだろ。初歩の問題も解けないなんて。
エウァは内心そう思っていると、サキが見つめていることに気付いた。
いや、睨まれている。
その圧力にエウァはたじろぎそうになったが、踏みとどまった。
「……じゃあ、最初に言った通り、国語から始めるよ」
言って、エウァは数枚の書類を取り出した。それをサキの前に並べる。サキは一瞥すると、眉根にしわを寄せた。
「国語って……何これ? 契約書?」
並べられた書類はある商取引の契約書だった。エウァがそのうちの一枚を指さし
「これ、読んでみて」
と言った。
促されるままサキは書類を読んだが、だんだんと困惑していった。
「甲……乙……。なんのことだかさっぱりだわ」
「それは商取引する時に使う契約書のひな型だよ。見たことない?」
「言われてみれば、所長が何か書いているのをたまに見たことがあるわ」
もっとも、サキは金額ばかりに注目し、他の細かいやり取りの文面はまともに読んだことがない。
「この文面では甲が商品を売る方、乙が商品を買い受ける方だ」
エウァは契約書の内容を丁寧に説明する。サキは説明を聞き終わる頃には、頭がくらくらしていた。
「これって国語と関係あるの?」
「何を言ってるんだい?」
サキの言葉にエウァが天を仰ぐ。
「キミは傭兵事務所で雇われてるんだろう? 将来を考えると、傭兵になる可能性が一番高い。その時に契約書の一つも作成できないでどうするんだい?」
これは嫌みではなく、ただの忠告なのだろう。
「ご忠告痛み入るわ。でも、これをどうしようっていうの?」
「次は練習問題だ。今度はこっちの契約書を読んでごらん」
と言って、エウァが別の三枚の契約書をサキに渡す。
「……さっきのより多いわね」
「これは実際にあった商取引契約書の写しだ。
キミは商品の仲買人だと仮定しよう。キミが乙の立場だとして、この契約は受けるべきか
断るべきか答えて」
「え、そんな急に」
「制限時間は三十分。始め」
サキはうんざりしながらも
「もう、やればいいんでしょ!」
と、契約書とにらめっこを始めた。
甲は…、乙は…に始まり担保、抵当、賠償などの言葉が出てくる。意味がわからないところも多々あったが、商品の値段は悪くない。サキは一通り目を通した。普段本を読むことさえないサキには結構な労力だった。
「読んだわよ……、ってなんで紅茶飲んでるのよ!」
見れば、エウァはサキの向かいで白磁のカップを口元に当てていた。紅茶の香りがサキにも届く。普段、ガムの事務所で出している物より上等だ。
しかし、エウァは素知らぬ素振りで
「終わった? で、答えは?」
と聞いた。サキはその態度にぐぬぬ、と呻きながらも答えた。
「………受けるわ。この契約」
「本当に、いいの?」
聞き返すエウァ。そう言われると、なんだか不安になってくるサキ。しかし、一度出した答えを変えるのは癪だった。
「ええ」
「そうか……。でも『断る』が正解だ」
「……え?」
呆然とするサキ。
「二枚目の書類の第十三項。文中に『甲は取扱物品の出荷を以って納入と見做す』って
あるでしょ? それだとキミの手元に商品が届かなくても、甲との取引が成立しちゃうんだ」
「どういうこと?」
「甲が運送業者に商品を渡す。甲の雇った盗賊に運送業者を襲わせて商品を回収する。そうすれば、甲は商品を消費することなく、キミからお金だけ回収できるんだ」
「そんなの、ひどい!」
「この契約書はまだわかりやすい方だよ。もっと巧みに相手を騙そうとするのだってあるんだ」
憤るサキをなだめるエウァ。
「……ところでキミは、その契約書の内容は把握できたのかい?」
「……う、それは」
「わかってなかったよね?」
「…………」
「わからないところ、なんでボクに聞かないの?」
「……だって、練習問題だって言うから」
「ボクに聞いちゃいけない、とは言わなかったよね」
サキは分かっていた。そんなのは言い訳だ。弱みを見せたくなくて、エウァに頼りたくなかったのだ。
「おおよそ商品の安さに惹かれたんだろう。内容が分からないのに契約を結ぶなんて論外だ。これが本当の取引だったらキミは大損することになるんだよ? 契約を断って損害を出さないことも考えないと」
図星だった。サキは何も言い返せなかった。
「ほら、何がわからなかったの?」
サキを促すエウァ。
「……この、『抵当』って何?」
「聞き方が全然ダメ。『抵当とはどう意味ですか、先生』って聞いて」
エウァの態度に反発しそうになったサキだったが、先ほど組伏されたのを思い出し、堪えた。
「……抵当ってどういう意味ですか、センセイ?」
「なんか違和感あるなあ」
エウァはコホンと咳払いした。
「まあいいや。抵当っていうのは『借金の際、金が返せなくなったら貸手が自由に処分してよいと約束する、借手側の品物』のことだ」
「じゃあ、契約書の『抵当は乙の家財とする』っていうのは、甲に借金が返せなくなったら、わたしの財産を取り上げられるってこと?」
「うん。そうだよ。それは家具だったり、あるいは家や土地になるかもしれないわけだ」
「じゃあ、この契約を結んでいたら……」
「高確率で、キミは財産を失う。下手すればホームレスだ」
「…………」
「紙は神様って言うんだ」
「何それ、ダジャレ?」
サキはくすっと笑ったが、エウァは真顔だった。
「笑い事じゃない。古来より約束ごとっていうのは、木なり石なりに文字で刻まれてきたんだ。今は紙にインクで書かれてるけどね。
商取引から法律まで、規則は文字で残されたものが有効になる。皆それに従って生活してるんだよ」
サキはそんなこと全然考えたことがなかった。
「わたし達はこんな紙切れに縛られてるっていうの?」
「そうだ。でも、勘違いしちゃいけない。この契約書は悪い例だ。本来契約書っていうのはお互いの利益を守るためにあるものなんだ。人間の記憶はあやふやだからね。あとで言った言わないの争いを回避するために、紙に残すんだ。そうすれば時間が経ってからも、どんな約束したか確認できるでしょ?」
「確かに、そうだわ」
「キミのとこの話で言うと、ガムが依頼主と交わしてる契約書も同じことだ」
サキはガムが事務所で契約書をじっと眺めている姿を思い出した。あれは報酬の確認のためだけではなかったのだ、ということに思い至る。互いに約束を守るために、契約書の内容を熟知する。金額ばかりに目がいっていた自分が情けなくなるサキ。
「少しは興味を持ってくれたかな?」
じっと、サキの顔を覗き込むエウァ。
「……ええ、少しは」
エウァに乗せられたようで癪ではあったものの、サキは頷いた。
◆◆◆
算数の授業。四則演算を教わるサキ。飲み込みが早く、二桁までの計算ならすぐにできるようになった。
歴史の授業。クロノス王国の建国から現在に至るまでの大まかな流れを教わった。クロノス王国は隣国を併呑しながら領土を広げた。戦争、併合。また戦争、併合の繰り返しだ。現在も隣国との緊張状態は続いている。
さすが有史以前からクロノス王国を支えてきたグロピウス家の人間だからか、エウァの説明はとても分かりやすいものだった。
「……こんなもんかな。何か質問はある?」
なかった。それくらい分かりやすかった。
「…………サキ、なんで睨むのさ」
自分でも気付かないうちに、サキはエウァを睨んでいた。
「質問、じゃないかもしれないけど、いいかしら。センセイ?」
「なんだい?」
「『とけいじかけのたまご』って知ってる?」
「もちろん。ていうか、この国では知らない人の方が珍しいでしょ」
『とけいじかけのたまご』とはクロノス王国に広く普及している子供向けの絵本だ。必ず一家に一冊あるといっても過言ではない。その内容は以下のようなものだ。
昔々あるところにひとつの村がありました。村の真ん中には大きな時計がありました。村人たちは時計を頼りに朝起き、日中は畑仕事をし、夕方には仕事を終え、夕食をとり眠りにつきました。そして毎日、同じように規則正しく過ごしていました。
しかしある日、時計が止まってしまいました。
すると村には雲が立ち込め、雨が降り始めました。雨は一年以上降り続け、農作物が取れなくなりました。村人は飢え、さらに疫病がはやり、次々と倒れていきました。
村の僧侶はこの事態を、時計が止まったことが原因に違いないと考え、遠くの町から時計の修復師を呼び、時計を直してもらいました。時計が直り、再び時を刻み始めると、やがて雨は止み、村には平和が戻りました。
「それがどうかしたのかい?」
エウァがサキに問う。
「わたしは昔、お父さんに読んでもらったことがあるの。読み終わった後にお父さんが『クロノスはいっぱい戦争してきたけど、この本に出てくる修復師みたいな人がいて、戦争を止めてくれたらいいのに』って言ってたの。なんか、それを思い出しちゃって」
サキの言葉は質問でもなんでもなかったが、エウァは内心ぎくりとしていた。修復師は実在するし、戦争も止めている。だがその結果は絵本のように穏やかなものではないからだ。
しかし、その事実を知っている者はグロピウス家と王国のごく一部の人間だけだ。
エウァは言った。
「ボクもキミのお父さんに賛成だよ」
と。
◆◆◆
一通り授業が終わり、遅めの昼食を摂るために、サキは食堂に通された。食堂は縦長で、天井が高い。灯りには天井からシャンデリア、煉瓦で設えられた壁には燭台が等間隔に並んでいる。
二十人は座れるであろう長いテーブルの端に、エウァとサキは対面して座っていた。
サキの前に、右側にナイフ、左側にフォークがそれぞれ三本ずつ置かれる。また、スプーンも置かれた。食器は全て銀製だった。
なんでこんなにたくさん食器が置かれるの? 一組で良くない?
サキがそんなことを思っていると、エウァが
「スープ、前菜、魚料理、肉料理の順番で出てくるから、ナイフとフォークは外側から使ってね」
と言った。
「え、ええ」
戸惑いながら答えるサキ。
「それから、ナプキンを付けて」
エウァが白いナプキンを首から下げる。それに倣うサキ。
しばらくすると、ホラウが金属製のワゴンを押して食堂に入って来た。
二人にコンソメスープの入った皿を給仕する。金持ちの家のスープに、具が全く入っていないこことに違和感を覚えるサキ。
「じゃあ、食べようか」
エウァは言うと、スプーンを手に取りスープを口にする。
サキもそれを見て、スープを口にする。すする際に、ずずっと音を出す。
「サキ、スープを飲むときは音を出しちゃダメだ。すするんじゃなくて、スプーンを傾けて、スープを口に流し込む感じで」
言われて、やってみるサキ。音を出さずに飲むことができた。しかし口に流し込んだ後、スプーンにスープがほんの少し残る。それが気になった。
「味の方はどうかな?」
「え、ええ。おいしいわ」
作法が気になって味わう余裕などなかったが、無難に返答するサキ。無言でスープを飲み終える。ホラウがスープ皿とスプーンを回収する。
サキはテーブルの脇をちらりと見る。
「ところで、これ、何なの?」
「違う。質問する時は『先生、これは何ですか』だ」
「……センセイ、これは何ですか?」
サキの目線の先には銀の小振りなボウルが置かれている。ボウルには水が張られていた。
「水だよ、飲む用の」
「コップに入れないの?」
「そうだよ?」
サキは疑問に思ったが、金持ちの家ではそういう習慣なのかしらん、と思った。先ほどのスープで口の中がしょっぱくなっていたので、ボウルを手に取り、水を飲む。
ボウルをテーブルに戻すと、正面でエウァがくすくす笑っていた。
「エウァ様、お戯れを」
ホラウが諫めるように、エウァに注意する。
「サキ様。それはフィンガーボウルと言いまして、食事で汚れた手指を洗うための物です」
コホン、と咳払いするホラウ。
サキがエウァを見ると、彼女はまだ笑っていた。
「ははっ、引っかかったね」
エウァの態度に、サキは羞恥を感じた。そして気付いたらフィンガーボウルの水をエウァにぶっかけていた。頭から水浸しになるエウァ。
しばしの沈黙の後、エウァが口を開く。
「……どういうつもりかな、サキ?」
「アンタが人のことからかうからでしょ!」
今日一日の鬱憤が爆発した。
「いくらわたしが頭悪いからって、今のはあんまりだわ!」
「……冗談のつもりだったんだけどな」
「人に恥かかせて、冗談も何もないわよ!」
エウァはナプキンで濡れた顔を拭う。
「アンタは、あたしのこと見下して楽しんでるんでしょ!? わたしはこういう場所での食事の仕方も知らないし、勉強だってできない。どうせアンタみたいな天才には敵わないわよ!」
エウァがゆらりと顔を上げ、サキを睨め付けた。
「…………は? 今、なんて言った?」
「どうせアンタみたいな天才には敵わないって言ったのよ。何? アンタ呼ばわりされたのが気に食わなかった?」
その言葉に、エウァが拳をテーブルにどんっ、と叩き付けた。
「ボクが何の苦労もなく今ここにいると思ってるのかっ!!」
エウァがかけていたナプキンを、サキに投げつけた。水を吸ったそれがサキの顔に直撃する。サキがナプキンを払いのけると、サキの眼前に飛びかかるエウァがいた。
押される勢いで、サキは椅子ごと後ろに倒れ込む。ナイフやフォークが床に落ち、けたたましい音が食堂に響いた。はずみでエウァの眼鏡も床に落ちた。
エウァはサキの胸倉を掴み、がっくんがっくんと前後に揺さぶった。サキのブラウスがみちみちと悲鳴を上げる。
「な……にキレてんのよ!」
「ボクが……ボクがどんだけ頑張ったかも知らないでっ!!」
我を忘れたように、エウァがサキのブラウスの襟を締め付ける。サキは呼吸ができなくなり、顔がうっ血し出していた。
努力の結果、グロピウス家の人間として過ごしている自負がエウァにはあった。自分の力だけではない。家族や使用人、自分の努力を支えてくれた人がいたから立っていられる。
サキの「アンタは天才」という発言に、エウァはそれら全てを否定された気になった。
エウァが両手に更に力を込める。
「……は……なし……て……!」
サキは、反射的に右の貫手をエウァの右目に向かって突き出す。
その指先がエウァの目を抉る。
直前。
サキの右手は何か硬いものに弾かれた。
それはホラウが構えた箒の柄だった。
「お二人とも、食事中ですよ?」
ホラウはにこりとほほ笑んだ。それを見て、エウァは我に返ったのか、サキの襟を絞めていた両手を離した。そのはずみでサキは後頭部を床にぶつけた。
「いたっ……。アンタねぇ、もうちょっと、ゆっくり、離しなさいよ……」
息も切れ切れにしゃべるサキの顔に、水滴が零れ落ちた。
「…………?」
エウァにぶっかけたフィンガーボウルの水かしらん、と思って見上げるサキ。
そこには両目から大粒の涙をこぼすエウァの顔があった。顔を真っ赤にして、歯を食いしばって、眉根にしわを寄せている。
激怒したエウァの顔を想像していたサキは、予想外のできごとに身動きが取れなかった。
エウァはしゃくり上げながら、必死に泣くのを我慢しようとしている。
二人はしばらく動かなかった。
「エウァ様。お召し物をお着替えになって下さい」
ホラウの言葉にエウァは
「……すまない。顔を洗ってくるよ。ホラウ、しばらく頼む」
と言って、ガウンの裾で顔を拭いながら、立ち上がった。
「はい。わたくしにお任せください」
彼女の言葉を背に、エウァはとぼとぼと食堂から出て行った。
◆◆◆
ホラウはサキを抱き起こし、倒れた椅子を元に戻した。
「テーブルが乱れてしまいましたね。サキ様、しばらくお待ちくださいね」
「え、ええ」
二人の取っ組み合いで乱れたテーブルクロスを交換するホラウ。サキはその作業を見ながら、まごまごと壁際に立ち尽くしていた。自分も手伝うべきだろうか。いや、でも余計な手出しになるかもしれないし……。しばらく葛藤しながら、ホラウの背中を眺めていると、ホラウがぽつりと言った。
「エウァ様は、天才なんかじゃないんです」
「え?」
「何からお話したらよいのか、…………そうですね」
ホラウは語り出した。
エウァが学校では勉強できない方だったこと。グロピウス家の次期当主としての責務から、無理やりにでも勉強しなければならなくなったこと。苦手な勉強を克服するために、昼夜を問わず教科書を読み漁り、わからないことがあれば家庭教師に何度でも質問したことなど。
「無理がたたってお体を壊されたことがあったんですが、さすがにその時はわたくしが叱りました。やりすぎだと」
過労で寝込んだエウァは「ボクが頑張らないと」とうなされていた。
「きっと、悔しかったんでしょうね。サキ様にご自分の頑張りが認められなかったことが。まあ、お互い相手の事を知らないんで、無理もないですが」
「…………」
「失礼な言い方になりますが、サキ様は、エウァ様が最初から何でもできたとお思いだったのでしょう? でも、そうではないんですよ」
確かにエウァは一般人が持ってないものを多く持っているが、その分の犠牲も払っている。
政務に忙殺される父と母。エウァとのふれあいの時間はほとんどない。そしてエウァには次期当主としての重圧もある。
普通の子供が過ごす幼少時代を、エウァはほとんど投げ打っている。
それが、一族の使命だから。
「そんな。知らなかったとはいえ、あの子にひどいこと……。
ホラウさん、わたし、どうすれば……」
サキの前に移動し、手を取るホラウ。
「サキ様は、今日は何をしにここへいらしたのですか?」
サキは数秒口ごもり
「……勉強」
と言った。それを聞いてホラウがゆっくりと頷く。
「であれば、しっかりとそれに取り組むことが、エウァ様、ひいてはガム様に報いることになるのではないでしょうか」
道中、ガムが言っていたことをサキは思い出した。学があれば、戦う以外の方法で解決できたこともあったんじゃないかと。有事には必要な武力は平時には無用の長物。むしろ必要なのは学力なのだと、ガムは言いたかったんじゃないだろうか。
「……うん。わたし、しっかり勉強するわ」
「そのお気持ちを、エウァ様にお伝えください。」
背後で、きい、と扉が開く。新しいガウンに着替えたエウァがそこに立っていた。その両目はほんのり赤くなっていた。
「やあ、さっきは悪かったね。……首は大丈夫?」
「わたしの方こそ、ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げるサキ。
「あの、その」
「なんだい?」
「このあとも、勉強教えてください。……センセイ」
エウァはしばらく目を白黒させた後
「もちろんさ」
と言った。
◆◆◆
食事の後、再び応接室に戻ったサキ、エウァ、ホラウの三人。サキとエウァは机に着き、ホラウは扉の前に待機している。
エウァはサキに六枚の紙を差し出した。
「これは?」
「テスト。今日の仕上げだ。問題用紙が三枚と回答用紙が三枚。制限時間は一時間」
出されたテスト用紙を一瞥するサキ。思わず目を見張った。問題用紙は国語、算数、歴史が一枚ずつ。設問が合わせて百問ほどある。
一時間で百問!?
内心で叫ぶサキがエウァに向き直ると、彼女は口の端を吊り上げてサキを見下ろしていた。
「ちなみに、六十点未満の場合は授業料は二倍になるから」
「……それも契約書に?」
サキの問いにエウァはにっこり笑った。
「頑張って」
この女やっぱり性格悪い!
サキはぎり、と歯噛みした。そんなサキに構うことなくエウァは
「それじゃあ、はじめ!」
と言って手を打ち鳴らした。
落ち着かないまま、サキは鉛筆を手に取りテスト問題に取り掛かった。
一枚目が一番上になるように、順番に三枚の問題用紙を重ねる。
とりあえず問一から解いていく。二分消費した。
問二。三分消費した。
問三。二分消費した。
このペースでは全問はおろか、六十問解くことさえままならない。
わたしがもっと計算が早ければ、記憶力が良ければ、頭の回転が速ければ………!
焦りながら問題と格闘するサキ。次第に自分が何を解いているのかわからなくなってきた。
鉛筆が手のひらの汗で滑る。回答を消そうとして、用紙が黒く汚れる。それに時間を使うことで、さらに時間が無くなっていく。
…………わたし、なんでこんなことしてるんだっけ? したくもない勉強をさせられて、おまけにお金まで払うことになって、勉強しなくたって、腕っぷしさえあれば将来なんてなんとでも…………。
ふと顔を上げると、ニマニマとこちらを眺めるエウァの姿があった。悪魔に見えた。
…………わたしが苦しんでるのがそんなに楽しいか!
目線でエウァを呪ったが、この危機を脱するのには何の役にも立たなかった。
危機……? 前にもこんなことあったような。
ふと、今朝の朝食でのガムとの会話を思い出す。
ある悪徳貴族の暗殺をサキ一人で実行しようとした時……屋敷に潜入して八人の黒服の護衛達に取り囲まれた……。
現状はなんとなくその時の状況に似ている。取り囲んでくる大勢の敵。このテストの問題がまさにそれだ。
じゃあ、どうやって切り抜ける……。
サキの目が鋭く光り、重ねてあった三枚の問題用紙を横並びに広げる。そして設問順に問題に目を通していく。
「残り三十分」
エウァが言う。
問題に目を通し終わって数秒後、サキは回答用紙に答えを素早く書いていった。
速く、丁寧に。
回答を間違えた。消す。焦るな。
「残り五分」
再びエウァが言う。
頬を伝う汗が回答用紙をにじませる。もう少し。時間が無くなるまで回答を続けろ。
「はい、終わり! 鉛筆を置いて」
エウァが再び手を打ち鳴らした。
ふぅ、と吐息を漏らし、サキは鉛筆をテーブルに置いた。
サキの前には回答用紙が乱雑に置かれている。ホラウがそれをちらりと見ると、大半の回答は埋まっていなかった。
……頑張ると言っていた割には、振るわなかったようですね、とホラウは内心思った。
「じゃあ、テスト用紙をもらうよ」
エウァが六枚のテスト用紙を回収する。
「どう? 難しかったかな?」
「……何度センセイの顔をひっぱたきたくなったかわからないわ」
「やだなあ。ここではキミの頭が武器なんだから、物騒なことはやめてね」
「もうそんな気力ない……」
サキの頭は知恵熱が出そうなほど熱くなっていた。
そこにこんこん、と扉をノックする音。
「失礼します」
という声の後、扉が開き、茶髪のおさげの若いメイドが姿を現した。
「エウァ様。ガム様がお見えです」
エウァはテスト用紙を机にとんとん、と叩いてまとめながら
「どうやらサキを迎えに来たようだね。ホラウ、サキを玄関まで案内したげて」
と言った。
「かしこまりました。……サキ様、こちらへどうぞ」
とサキを促すホラウ。
サキはよろよろと椅子から立ち上がり、ホラウの元へ移動する。
サキの背中にエウァが
「テストの結果は後日連絡するから、楽しみにしててね。今日はご苦労様」
と声を掛けた。サキは振り返らず
「………当分はごめんだわ」
と言うのが精いっぱいだった。
◆◆◆
ホラウに案内され、玄関でガムと合流したサキはグロピウス邸を後にした。
ガムの家に帰るその道中。サキは押し黙ったように、俯いて歩いていた。不審に思ったガムはサキに声を掛ける。
「勉強するのはどうだった、サキ?」
サキはしばらく無言でいたが
「どうもこうも、わたしがあの女のこと嫌いってガムは知ってるのに、どういうつもりよ!」
と怒鳴った。
「嫌いな人間と同じ空間で過ごさなきゃならないわ、やりたくもない勉強をさせられるわ、おまけに関節技を掛けられるわ……。散々だったわよ」
はあ、と肩を落とすサキ。ガムは関節技? と首を傾げた。
「お前さんがエウァのことを嫌いなのは知ってたさ。それを知ってて一緒に過ごさせたのは悪いと思ってる」
「……じゃあ、なんでわざわざ引き合わせたのよ?」
「お前さんには俺みたいになって欲しくないからだ」
「わたしがガムみたいになって欲しくないって、なんで?」
サキにとって、ガムはある意味目標とする人間である。成り行きでサキはガムの元で生活することになった。しかし将来、社会で生活するためにガムの見習いをしているといってもいい。
「俺は子供の頃、宮廷騎士になる道しか考えられなかった。まあ結局辞めちまって、潰しをきかせて傭兵業なんぞをやってはいるが」
「ガムは精一杯生きてきたんでしょ? それの何が悪いのよ」
「お前さんには、色々な可能性を持っていて欲しい。勉強でもなんでもやって、将来の仕事をいくつか選べる程度の知識なり技術を持ってほしいと思ってる。傭兵業は、選択肢のひとつに過ぎないんだ」
「わたしの、将来」
「ああ。過去は変えられんが、未来はまだ決まってない。やりたいことが見つかった時に、勉強が不十分で諦める羽目になるのは嫌だろ?」
うん、と頷くサキ。
「……俺はお前さんに勉強を教えることはできん。だから勉強のできるエウァに頼んだんだ」
「……そうだったんだ。勉強なんかって言ったけど、悪くはなかったわ。問題が正解だった時は嬉しかったし。でも、いくらエウァが勉強ができるからって、一日の授業料が二万ドルクって高すぎない?」
「授業料? 何の話だ?」
「だから授業料よ。エウァに授業料として二万ドルク払うって契約したんでしょ?」
「そんな契約はしてないぞ。俺が報酬を払うって言ったら、エウァは『ボクを見くびってるの? 友達からお金を取るわけないじゃない』って言いやがった。可愛くねえったらありゃしねえ」
ガムの言葉に納得できないサキだったが、思い出す。今日の勉強の契約の話をエウァがしていた時のことを。
『ボクが一日家庭教師をすれば、受講料は二万ドルクだ』
『ガムはボクと契約を交わしている。ボクが今日、キミの教師をするとね』
確かにエウァはそう言っていた。そしてガムが嘘をつくような理由もない。
サキは少し考え、気付いた。
「あーっ、もう!」
ガムと契約したのは『サキの教師をする』という部分だけか……!
教師をするとすれば二万ドルク必要、というのはあくまでエウァにとっての一般論だった。
サキの脳裏には、エウァがにニマニマしながら見下ろしている顔が浮かんだ。
「……ガム、エウァって性悪じゃない?」
「そうか? 生意気なとこはあるが、直向きなやつだと思うぞ」
女同士じゃないとわからないことかしらん、とサキはため息をついた。
「そうすると、テストが六十点未満だと受講料を二倍にするというのも、単にわたしを煽るためのものだったのかしら。でも、どうしてそんなことを……?」
小声でつぶやくサキ。
「なんか言ったか?」
「何でもない」
夕暮れのクロノスの街を、二人は家路に着いた。
◆◆◆
グロピウス邸、二階のエウァの自室。
ガムとサキが去った後の門を、エウァは窓越しにぼんやり眺めていた。空は既に夕焼けで赤く染まっていた。
「失礼します」
部屋の扉が開けられ、ホラウが金属製のワゴン押しながら入ってくる。
ワゴンにはティーポットとティーカップ。どうやら紅茶を淹れてくれるようだ。
慣れた手つきで紅茶をティーカップに注ぐホラウ。カップから上る湯気と香り。
「砂糖はいかがいたしますか?」
「ひとつ……、いや、ふたつお願い」
ホラウは角砂糖を二つ、シュガーポットから取り出し、紅茶に入れる。スプーンでかき混ぜ、砂糖を溶かす。そしてカップをソーサーに乗せ、エウァに手渡した。
「ありがとう」
紅茶を一口すするエウァ。ふぅ、と軽くため息を吐いた。そして再び窓の外を眺める。
「なぜ、あのような教え方を?」
ホラウがエウァに問う。
「え?」
「わざとでしょう? あのような厳しい態度を取られたのは」
「はぁ……、ホラウは騙せないな」
「侮ってもらっては困ります。わたくしはお嬢様が生まれた時からお世話しているのですから。……僭越ではありますが、もう少し優しく教えることもできたのでは?」
「うん、そうだね。でも、サキはそれじゃダメなんだよ」
「どういうことでしょう?」
「ボクは勉強が嫌いだったけど、家のことがあるから無理やりにでもやんなきゃなんなかった。今は勉強の楽しさもわかってるから、結果的にはやって良かったけど。
でも、あの子は勉強しなきゃなんない動機がないんだ。今を生きられればいいって思ってる節がある。優しく教えても、今日だけやり過ごして終わりさ。
……それとサキはきっと、憎しみを糧に生きてきた子だ」
『逆針の徒』と対峙してきたエウァには、それがわかった。
「ボクが憎まれ役になって、向かってこさせないとダメなんだよ。それこそ敵を倒すように、ね」
心に仮面を付ければ、憎まれ役など大した苦も無くできると思っていた。だが、想像以上に疲労があった。
サキの体調を見て取り、ホラウがため息をつく。
「それにしても、見ていて肝を冷やしましたよ。お嬢様に何かあっては、旦那様と奥様に顔向けできません」
「そこは心配してなかったな。ホラウがいたから」
「買い被りです。今後は自重していただきますよ?」
「心配かけてごめんよ」
ぺろっ、と舌を出すエウァ。ふと、姉のことを思い出す。
姉が家出をする数か月前、優しかった姉はエウァにつらく当たるようになった。おそらく、姉に対する未練をなくさせるため、彼女はエウァの憎まれ役をしていたのだ。
……お姉ちゃんもこんな気持ちだったのかな……?
「お嬢様、そちらは?」
ホラウの目線の先、窓辺に置いた数枚の書類。
「ああ、サキに受けさせたテストだよ。さっき採点が終わったとこ」
「いかがでした?」
エウァはうーん、としばらく唸ってから
「諸刃の剣、ってとこだね」
と言った。
回答用紙の大半は空白だった。しかし、エウァが設問したある問題をサキは全問正解していた。
サキは全ての問題を回答できないと悟ると、それぞれの教科の最も難しい問題を片付けにかかった。まるで敵対する人間たちのボスを叩くように。
そして昼食の時の、エウァの目を狙った貫手。たぶんサキは堅気の人間じゃない、とエウァは思っていた。
それに地頭は悪くないから、勉強すれば相当知識を付けるだろうけど、悪い方向に行くと詐欺師になるかもしれない。このままボクについて勉強してほしいけど、あの子ボクの事キライだからなあ……。
そんなことを考える。
エウァはサキのことは嫌いではない。サキがエウァを嫌う理由もなんとなくわかっている。しかし出自は本人にはどうすることもできない。
生きていく上でサキに配られたカードは少なかった。対してエウァに配られたカードは多かった。しかし、エウァにとってはカードが重いことも事実だ。
今日は教師と生徒という立場で接することになってしまったが、友達として遊びたいな、とエウァは思った。
「……受講料の代わりに、ガムにサキとのお茶会のセッティングしてもらおうかな」
エウァは紅茶を、ずずっと音を立ててすすった。
―――ペンがなければ剣を取ればいいじゃない―――END
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