05話 マグマを乗り切れ。あるジプシー女性の熊退治。

空気の壁を破り続ける。

呼吸が荒い。心臓が跳ねる。一体どれくらい走っているだろうか。

彼は追いかけられていた。

かつての恋人に。

否。

借金取りに。

否。

警察に。

否。


彼は追いかけられていた。

熊に。


◆◆◆


「熊退治?」

「せやねん」

いつものガムの傭兵事務所の応接室。大柄、黒髪ツンツン頭の男ガムが金髪ポニーテールで長身、褐色の肌をした女性とテーブルを挟んで話を聞いている。金髪美女の名前はイーダという。彼女は世界を漂泊するジプシーの一族だ。以前は集団で移動生活を送っていたが、ある時から一人で漂泊するようになった。性格は豪放磊落という言葉がよく似合う。

以前、彼女はガムと対立する組織に所属していた。しかし現在ではその組織は頭がいなくなったため解散。ということでしがらみが無くなったから依頼に来た、というのが彼女の言い分である。

対してガムは不信感が拭えない。その組織との戦闘で、ガムとチギリは大怪我を負った。ガムは比較的傷の治りは早かったが、チギリは瀕死の重傷だった。

まあ、それは相手にとっても同じことだと思うのだが。しかもガム達は組織の人間を、任務として何人か殺している。むしろ組織側がガム達に恨みを持っている方が妥当なのだ。

それなのにしがらみがないと言って、かつての敵に簡単に依頼など頼みに来るものだろうか。

彼女の依頼は、彼女が一時的に滞在している、マクシミリアン領近くのミオヤ村が熊に襲われているので、熊を退治して欲しい、というものだった。熊は時々、棲み処にしている洞窟から村に下りてきて、畑を荒らしたり食料を奪ったり、時には人を襲ったりもするらしい。その熊は村人から『バレル』と呼ばれて恐れられているという。

「なんで俺のとこに?」

クロノス王国で傭兵を生業としているものは他にも多数いる。イーダが旧敵であるガムをわざわざ頼る理由がわからない。それにクマ退治など普通は個人でやるようなものではない。イーダとサキが加わっても三人だ。とても太刀打ちできる相手ではない。普通なら。

「お嬢に聞いたで。ガムやん、熊を真っ二つにしたうて」

イーダがガムを指さす。

ガムは以前、とある事情でイーダの組織の頭を守るため、熊と対峙して打ち破った。しかも一刀両断で。ガムの腕力と大剣があってこその芸当だった。

「好きでやったわけじゃねえ。それにたまたま上手くいっただけだ」

「そないに謙遜せんでも。過去のいざこざはどうあれ、ウチはガムやんの腕を買って頼んどるんや」

「それはどーも。でも、熊の一匹くらいお前ならどうにかできるだろ? 村のやつと協力してさ」

イーダは王宮騎士であるチギリに一度勝利している。素早い攻撃を得意とするチギリの動きを見切って防げる動体視力と反射神経に加え、手足のリーチの長さを活かした戦い方をする。そこら辺の騎士を凌ぐ猛者である。

「その熊が人を食ってても、そう思うんか?」

「!」

ガムが口をつぐむ。人の味を覚えた熊は、進んで人を襲うようになる。その熊は人に対して好戦的になるということだ。その話が本当なら、これからも村人が襲われることになる。

「ウチと村人が協力しても、村の人間を守りながらの戦いになる。さすがのウチでも荷物背負いながらは戦われへんわ」

「荷物扱いかよ。世話になってんだろ」

「それはそれ、これはこれや」

そういう割り切った考え方は、ガムは嫌いではない。

それに、ガムにはもう一つの懸念があった。

「失礼します」

そこに、黒髪ツインテールの少女、サキが紅茶をトレイに乗せて応接室に入って来た。

「ようこそヴォータン傭兵事務所へ。きれいなお姉さん、よろしければ紅茶をどうぞ」

「おおきに」

差し出されたティーカップを受け取るイーダ。

「ガムやん。この可愛い嬢ちゃん、どっから攫ってきたん?」

「失礼なことを言うな。正式にうちの助手として雇ったんだ」

訂正するガム。

「そしてサキ。よけいなおべっかは使わんでいい」

「社交辞令、ってやつでしょ。わたしだって勉強してるんだから」

口をとがらせて抗議するサキ。

「社交辞令、ってうてもうたら台無しやろ」

「はっ、いけない……。失礼いたしましたお姉さま」

「おもろいなジブン」

ははっ、と笑うイーダ。その表情にガムは違和感を覚えた。

こいつ、こんなに寂しそうに笑うやつだったっけ……?

「話がちらっと聞こえたんだけど、熊退治? に行くの?」

「ん、ああ」

サキがガムに問うた。先程の懸念というのはサキのことだ。ガムとしてはサキに助手として実戦経験を積ませてやりたいが、さすがに熊相手となると荷が重い。ガムとしても守りながらの戦いは避けたいところであった。そんなガムの懸念を察してか

「わたしのことなら気にしなくていいわよ。熊なら昔、仕留めたことがあるから」

と言った。

暗殺って熊も対象なの? とガムは心の中でツッコんだ。

「いや、でもな……」

「わかった。ガムやん、不安なんやろ。ウチが多少信用ならんのは自覚しとる」

敵対した過去があるので、イーダの言うことはもっともなのだが、そうじゃない。

「所長、このお姉さまと知り合いなの?」

「ああ、以前ちょっとな」

サキはああ、と納得したような顔をした。

「昔の女?」

『違うわ』

ガムとイーダがハモった。

「お姉さん、気を付けなきゃだめですよー? 所長はいい女って見ると見境なくなるんで」

「それは嬉しい限りやな。でもガムやんはウチみたいなんタイプちゃうやろ」

「俺はもうちょっと背の低い女の方が……って何の話だ」

「所長、お姉さまみたいな人が好みかなって」

「ここは結婚相談所じゃねえ。余計な事言ってないで、外出てろ」

「はーい。すいませーん」

悪びれない様子で応接室から出ていくサキ。こほん、と咳払いするガム。

「はっきり言おう。俺はお前を信用しきれない。たしかにあいつがいなくなって『逆針の徒』は解散したのかもしれない。だが、今でもお前は活動しているんじゃないのか? その疑念が晴れない限り、俺はお前から依頼を受けようとは思わない。悪いが他を当たってくれ」

「まあ、当然の反応やな。でもウチかて真剣や」

言って、イーダは担いできた人間大の革袋から、人の頭程の大きさの革袋を取り出した。それをテーブルに置く。じゃらっ、と金属が擦れる音がした。

「前金で二十万ドルクや。依頼を達成したらもう二十万ドルク払ったるわ。金に物を言わせるのは失礼や思うけど、ウチの誠意として受け取ってほしい」

革袋の中には大量の紙幣と貨幣がごちゃまぜに詰められていた。

「ぜひやらせてもらおう」

前言をあっさりと翻すガム。熊を退治するだけで四十万ドルクなど、そんなおいしい話を他の傭兵に譲ってたまるものか。

「ガムやんならそううてくれる思たわ。ほな、明後日にミオヤ村で」

イーダは紅茶を飲み干し、「おおきに」と言って応接室を後にした。


◆◆◆


「暑い……」

イーダがガムの元を訪れた明後日。ミオヤ村の外れ。洞窟内に入ったサキの第一声はそれだった。先頭のイーダは鎖帷子を纏い、ハルバードとランプを手に歩く。続いてガムは鎖帷子に大剣。最後尾のサキは鎖帷子に戦闘用のナイフ二本を腰にいている。サキは背中に革のザックを背負っていた。

ミオヤ村は温泉地として有名で、村は活火山の近くにある。イーダが案内した洞窟はまさにその活火山内の洞窟であった。内壁から熱がじわじわ漏れ出しているような感覚に襲われる。もちろん風が吹き抜けることもないので、熱に晒されてたガム達の肌には既に汗がにじんでいた。

「泣きごといわんと、ついて来てや」

先頭を歩くイーダがサキを叱咤する。

前日。ミオヤ村に到着したガムとサキは、村で唯一の宿に泊まることにした。そして翌日の熊退治のために村人から色々と『バレル』の話を聞いて回った。村人は口々に話した。村の畑が襲われたこと。民家の食料が奪われたこと。人が襲われたということを。また『バレル』の体にはへんてこな飾りがついているということだった。

また、『バレル』が棲み処にしている洞窟は大昔、鉱山だったらしい。珍しい鉱石も取れるとあって、大層栄えていたそうだ。しかし鉱石を掘りつくすと次第にさびれていった。また、火山活動も現在は沈静化しているらしく、ここ数十年は噴火していないということだ。

幸いにも温泉が残っているので、現在でもちらほらと旅行者が見えるという。

一方で鉱山の方は人が入らなくなって数十年、獣の棲み処となってしまったのだ。

そして、例の熊はどうやら鉱山の最奥にいるらしい。用心深い熊である。

坑道は細い通路が続いた後に、鉱石を採掘した空間が広がるというパターンが続いている。それが四方八方に伸びているため、捜索範囲は広大である。

それにも関わらず、イーダは迷いなく奥へ奥へと進んでいく。

「たぶん、最奥はこっちや」

「わかるのか?」

「前いっぺん、来たことがあるからな」

「初耳だぞ」

「あれ? わんかったっけ?」

「ああ」

「すまん。堪忍や」

振り返らず歩くイーダ。サキは暑さにやられてうだっているのか、目を手元に落として進んでいる。

ガムがイーダに問いかける。

「熊って、どんくらいの大きさなんだ?」

「二メートル五十センチくらいや」

「でかいな」

そのうえ分厚い皮膚に強靭な筋肉。さらには鋭い爪を持っている。普通なら敵対しようとは思わない。しかし四十万ドルクがかかった案件である。ガムの胸は高鳴っていた。

「報酬のついでに熊肉がいただけるとは」

「そういうのを取らぬ狸の皮算用ってうんやで」

「俺がついてる以上、心配すんな」

「一昨日、断った時の態度とは真逆やな」

「それはそれ、これはこれ、だろ?」

「ウチも人の事言えへんけど、ガムやんも大概やな」

「食っていかなくちゃならんからな。しかも養わないといけない奴もいる。金はあるに越したことはない」

ガムの言葉にサキは無言だった。

「すまんサキ。気に障ったか?」

「………私のことはいいから。先を急ぎましょ」

「あ、ああ」

気まずいのかガムはばつが悪そうだった。


◆◆◆


しばらく無言で洞窟内を進んだ一行。ガムがイーダに問うた。

「ところで、キリのやつはどうしてるんだ?」

「キリちゃん? 相変わらず旧ノワール家の屋敷におんで」

キリとは、イーダと同様にガムが敵対していた組織の一員である。身動きの取れない組織の頭の手足となり、献身的に仕えていたメイドの女性だ。無感情が服を着て歩いているような人物である。組織が解散してからは、元いた屋敷で一人暮らしいるらしい。

「元気にしてるのか?」

「元気やで。無愛想やからよう知らんけど」

「お前は今でも屋敷に行ってるのか?」

「たまにな。ウチも相変わらずふらふらしとるから。なんや、キリちゃんが心配なんか?」

「いや、そういうんじゃないんだが」

心配じゃないと言えば、嘘になる。ガムとキリはかつて直接戦闘をした。お互いに重傷を負わせ合い、互いに生き残った。ガムはキリに宿命的なものを感じていた。いや、どこか似ているのかもしれない、と思った。傭兵とメイド。どちらも主のために仕えることを使命とする職業だ。傭兵は金を払えば誰にでも、メイドは一人の主人のためだけにという違いはあるが。キリは主人を、そして主人の野望を守るために自分を鍛え、研ぎ澄ませた。

ナイフのように。

ガムは羨ましかった。彼は大事なものを守るために騎士団に所属していた。しかしそこでの現実を知り、挫折した。そして現在は日々の暮らしのために傭兵をやっている。

迷うことなく主人を、一番大切な人を守るために戦ったキリが彼には眩しく映った。

その主人を失った彼女がどうしているのか、ガムは気になった。

「いや。生きててよかったな、って」

ガムは言って、少し戸惑った。敵対して、自分の命を奪おうとした相手に対して、生きててよかったというのはどう考えても変だと思ったからだ。

「なんやそれ」

イーダが呆れたように言う。

「っと、なんやこれ。あぶな」

大きく開けた鉱区。彼女が足元を見ると、大きな岩がごろごろと転がっていた。

「あれか」

上方を見上げるイーダ。ガムとサキも釣られて上を見る。すると、さほど高くない天井がえぐられたように凹んでいた。どうやら天井の岩盤が崩れた跡のようだ。それが地面に転がっている。岩を迂回して一行は進む。


◆◆◆


しばらくして異変があった。先頭を進むイーダの進む先がことごとく行き止まりなったのだ。もちろん熊はいない。彼女はその度に「うーん」や「あれ?」と呟いている。同じ鉱区を行ったり来たりしているのは、初めてここを訪れるガムにもわかった。

嫌な予感を覚えるガム。

「あの、イーダさん?」

後ろから声をかけると、イーダがびくっ、と体を跳ねさせ、ガムを振り向いた。

「ん、なんや」

笑顔で、平静を装って返事するイーダ。顔の表面を伝う汗は、きっと鉱山内の暑さだけのせいではない。

「もしかして迷ってます?」

「ままままっまままっま迷ってへんわ! 予定通りや!」

ハルバードを近くの壁にがんがんぶつけるイーダ。

完璧に迷ってるわこれ。ガムは確信した。サキは呆れているのか無言である。

「じゃあなんでさっきから同じとこ行ったり来たりしてるんですか?」

「それは、あれや、ほら。熊の匂いがあっちこっちからしてるからや」

「熊は最奥にいるんじゃ?」

「ねぐらかて移るかもしれんやろ? 一か所に留まったら飽きるっちゅうねん」

それは熊に言っているのか、それともイーダ自身にか。

「まずは候補として有力な最奥から探索して、そこがハズレなら別の場所を探っていった方がいいのでは?」

「そっ、それやガムやん! ウチもそれがいいと思てん! 行くで!」

そのままずんずんと進むイーダ。しばらく歩くと、また行き止まりの鉱区にたどり着いた。

「…………あれ?」

「やっぱ迷ってんじゃねえか!」

激高するガム。

「ち、ちがうもん。初めてミオヤ鉱山ツアーに参加いただいたガムやん一行に隅々まで楽しんでもらおうと思っただけだもん」

「口調が変わっちまうくらい混乱してんじゃねえ!」

「鉱山ツアーの後には名物の温泉に……」

「温泉より俺らの方が先に沸いちまうっつーの。さっさと熊のとこに案内しろよ。とりあえず入口近くまで戻って別のルートを探ろう」

「…………」

無言になるイーダ。目が泳いでいる。

まさか、こいつ。ガムの血の気が一気に引く。

「入口の方向わかんなくなっちゃった。てへっ」

今日一番の笑顔で答えるイーダ。

「うわイーダさん可愛い……って言ってる場合か! お前、一回来たことあるって言ってたよな?」

「ううぅ。五~六年前の話や……。でも来たら、なんとなく思い出せへんかなって……」

「今まで当てずっぽうで進んで来たってことか?」

「いや、でもわかりそうやん? 獣臭っていうか」

「犬か! 犬なのかお前は! これじゃあ熊を倒したとしてもどうやって戻るんだよ!」

「そんなん空気の流れでわかるわ! 空気が流れ込んでくる方を辿るんや!」

徐々にヒートアップする二人。洞窟内の熱気も相まって冷静さを完全に失っていた。

そんな二人に割って入るサキ。

「あの」

「なんだ!」

「なんや!」

サキは二人の前に紙切れを差し出した。そこには数個の丸印が書かれており、丸印の間が線でつながれている。

「これは……この鉱山の地図?」

「サキやん……、これ描いてたんか?」

こくりと頷くサキ。

「でかした、サキ!」

「やるやん!」

「大の大人がギャーギャーうるさいのよ」

『すみません』

がっくりうなだれるガムとイーダ。暑い鉱山の中で一番冷静なのはサキのようであった。彼女は地図を指して言う。

「地図上で鉱山の西側はほぼ探索が終了してるみたいだから、今度は東側に行ってみるのがいいと思うの。どうかしら、所長?」

「……仰せのままに」


◆◆◆


サキの地図に従い、数区画戻った一行。鉱山の東側の探索を始める。行く道の暑さは相変わらずだが、最奥への光明が見えたことで足取りは軽かった。

「この辺で休憩しよう」

ガムがそう言ったのは、以前は鉱山の休憩所であったろう場所だ。朽ちかけた机や椅子、ベンチなどが壁沿いに数点並べられていた。さすがに使用すると壊れそうだったので、地面に座って一行は水分と食事を摂る。汗をいっぱいかいたので、瓶詰のセイリュウマスの塩漬けが体内にしみ込むようだった。

サキにはしょっぱすぎるようで、塩漬けを口に含んだまま咳き込んでいる。口から塩漬けが飛び出さないよう、必死に手で口を押えていた。

一休みし、ガムが机の抽斗を探っていると、一冊の古びた本が見つかった。黒い革張りの本で、表面はほこりだらけだった。ほこりを払い、開いてみる。インクはそうとう薄くなっている。そこには文章が書かれて、一ページごとに日付が記されていた。どうやら日誌のようだ。ぱらぱらとページをめくるが、その内容は何の変哲もない、事務的な報告が記載されている。

作業報告書のようなものか……。

そう思ったガムが日誌の終盤に、ある単語を見つけ、ページをめくる手を止める。


『クロノスの闇』


そう、記されていた。

その前後の文章は

『刻暦1728年12の月。クロノスの闇が訪れる。あの箱を決して開けてはならない。其れは災いをもたらすもの也。』

というものだった。

ガムは訝しんだ。『懐中時計』の修正の他に、世界に脅威を与えるようなものが……?

いや、そうと決まったわけじゃない。しかし、こんな役目を終えたような鉱山に残されていることも気になる。誰かが隠すためにこの鉱山内に廃棄した……?

疑問は山ほどあったが、どれもこの場で解決できるものではなかった。

エウァに聞いてみるか……。

「ガムやん。そろそろ行くで」

腰を上げ、イーダがガムに呼びかけた。

「ああ、今行く」

三人は再び鉱山を進み始めた。


◆◆◆


その後の探索は地図のおかげで円滑に進んだ。イーダも道を思い出したのか最奥に向かっている感がある。そして鉱区の行き止まり。

いた。熊が。

「あれがバレルか……」

呟くガム。

バレルはうつ伏せで寝ている。いびきに合わせて巨大な体が周期的に動く。まるで巨岩が胎動しているようである。ねぐらはイーダがさっき言ったように、獣臭に満ちていた。熱気のせいで、余計に鼻腔を刺激する臭いに変わっている。ガムの顎から汗がぽたりと落ちた。

「でけえな」

「そやな」

「……うわ」

まるで初めて豪華客船を見たような感想を述べる三人。いくら寝てても野生の獣。その迫力は三人を圧倒するには十分であった。

ガムがねぐら全体を眺める。熊の他には何もいない。周辺には熊のふんや大小様々な石が転がっていた。ガムはふと違和感を覚えた。

「……あれ、何なの?」

サキが指さす方向にはバレルの体。左脇のそばに何か付いている。どうやら髪飾りのようだ。花をかたどったそれは熊の体毛が絡みついていた。

「なんであんなところに髪飾りが」

「……見つけたで」

ぼそっ、と呟くイーダ。

「二人はそこで待っててや」

『?』

退治は?

ガムとサキの疑問をよそに、イーダはそろそろとバレルに近寄る。そしてその左脇あたりに手を伸ばす。

激しく寝息を立てるバレル。その息がイーダに届く。ぷるぷると手を震わせながら、髪飾りをつまむ。

……頼むから起きんとってや……!

その時、バレルがぴたりと寝息を止めた。同時に動きを止めるイーダ。彼女の頬を、首筋を冷汗が伝った。その状態が秒、または数十秒過ぎた。イーダは固まったままだ。

「何やってんだ、あいつ?」

ガムとサキが不審な動きをするイーダを眺める。

さらにしばらくして、バレルが再び寝息を立て始めた。イーダは直後に髪飾りを取り外そうと力を入れると。

バレルが寝返りを打ち、髪飾りが外れた。バレルの体毛ごと。ぶちぶちっ、と。

痛みを感じたバレルが目覚め、そばに立つイーダと目が合う。

一秒。

二秒。

三秒。

「……おはようさん」

イーダがにっこりと挨拶をする。

直後。

バレルの咆哮が鉱山に響いた。それはまるで衝撃波のようにイーダ、ガム、サキの体を打った。

イーダは一目散にガムの元に戻った。

「何やってんだ馬鹿かお前は!」

「イーダさん今のは理解不能だわ!」

「せやかて髪飾りが熊にひっついて……!」

「あああああホントに何言ってんだ! ほら、熊のやつ戦闘態勢だよ!」

う~、と低い声で唸りながらバレルが足をためている。やばい。あいつ絶対こっちに来る。

「ガムやん、サキやん! 熊退治お願い!」

うるうると目を濡らしてイーダがお願いする。

「……だめだ、逃げるぞ。走れ!」

「え? ガムやんの腕があればあんな熊くらい……」

「つべこべ言ってないで逃げるんだよ! 行け、サキ!」

有無を言わせぬガムの迫力に、サキは元来た道に駆け出した。

直後にガムとイーダも続いた。そしてバレルも三人を追い始める。

人間と獣のデッドヒートが始まった。


◆◆◆


走る。走る。走る。暗くて狭い通路を駆け抜けるサキ、ガム、イーダの三人。その後を猛烈な勢いでバレルが追ってくる。

その巨体から熊は力はあれど鈍重なイメージがあるが、いざ直進すればそうとう早い。鍛え抜かれたアスリートでも、熊に勝つのは難しい。

なびくツインテール。弾ける汗。跳ね上がる心臓。そんなに長い距離を走っていないはずなのに、既に呼吸が上がり始めているのをサキは感じた。単純な徒競走とはわけが違った。

後ろから迫るのはいわば巨大な弾丸だ。少しでも触れようものなら重傷は免れない。最悪死ぬ。そんな死のプレッシャーに追いすがられて、平常通り走れるわけがなかった。

それはガムもイーダも同様だった。どんどん距離を詰めるバレル。このままではジリ貧なのは目に見えていた。

……どうにかしなきゃ……!

走り続け、通路から広い鉱区に抜けた。サキは振り返り、戦闘用のナイフを二振り、両手にそれぞれ握った。彼女の脇を通り抜けるガムとイーダ。

「二人は先に行って!」

「止まるな! 逃げろ!」

「サキやん!?」

バレルが鉱区に飛び込んでくる。サキが両腕を振るう。解き放たれる二振りのナイフが薄く輝き、一直線に飛んでいく。そして見えない糸に引っ張らるように正確にバレルの前足に直撃した。ナイフは前足を貫いてバレルの機動力を殺す。はずだった。

バレルの皮膚はサキのナイフを簡単に弾いた。ナイフはそのまま地面に落ちる。

……皮膚が硬すぎてナイフが通らない……!?

サキが驚いた一瞬。それが致命傷。気付いた時にはサキの眼前にバレルの巨体が迫っていた。

サキは思わず目を閉じた。サキを呼ぶガムの叫び声が聞こえたが、その声はとても遠くから聞こえた気がした。

バレルの腕が振るわれ、真っ赤な血の花が中空に咲いた。

サキが地面に倒される。直後、サキが目を開けると、目の前には苦痛に顔を歪めるイーダがいた。サキは彼女に抱きしめられていた。

「イーダさん!?」

「……平気か? サキやん?」

サキがイーダの背中に手を回すと、どろりとした感触が伝わった。

これはサキには慣れた感触。血だった。

「イーダさん、なんで!?」

「それより、今は逃げや」

サキを起こし、自分もよろよろと立ち上がるイーダ。

「サキ! イーダ連れて天井の崩れた鉱区へ行け!」

ガムはイーダとサキ、バレルの間に割って入り、バレルと対峙した。

「でも、ガムは!?」

「すぐに行く! 早く!」

サキは無言で頷き、イーダに肩を貸して走り出した。

背中で二人の気配が遠ざかるのを感じたガムは、背中の大剣を構えた。

バレルは前足をぶん、ぶんと振るう。鋭い爪がガムの髪をかすめる。ガムは間一髪でバレルの攻撃をかわす。さらに追撃がガムを襲うが、大剣でバレルの爪を弾いて防ぐ。

しばらく睨み合った後、ガムはバレルの前足の一撃をくぐり抜け、大剣の横腹の一撃を繰り出した。

それはバレルの右脇を打ち、悶絶させた。その隙を見て、ガムも天井の崩れた鉱区に向かってバレルに背を向け駆け出した。バレルは数秒ひるんだだけのようで、再びガムを追い始めた。

「やっぱ一発じゃ難しいか……!」

若干速度は落ちているものの、バレルは追いかけてくる。背中に脅威を感じながらガムは走り続ける。しばらくすると、サキとイーダの背中が見えてきた。ガムが背中に傷を負ったイーダを背負い、走る。

天井の鉱区にたどり着く三人。バレルはもうすぐこの鉱区にやってくる。

「ガム、どうするの!?」

緊張した面持ちのサキ。どっ、どっ、というバレルが駆ける地鳴りが迫る。

「こうすんだよ」

イーダをサキに預け、ガムは大剣を構える。鉱区に飛び込むバレル。

ガムは大剣を天井に叩きつけた。すさまじい衝撃音の直後、天井が崩れる破砕音が鉱区に響いた。がらがらと、鉱区の中央に岩盤が降り積もり、鉱区を半分に区切っていく。

ガムの狙いは鉱区を岩石で半分に区切り、バレルを通せんぼさせることだった。

岩盤が崩れる中、それに構わずバレルはガム達に迫る。降り積もった岩に突進し、岩を押しのける。そのバレルの頭に、ハルバードがぶつけられた。その衝撃でバレルは岩盤の壁の向こうに消えていった。重厚な音を立てて地面に落ちたハルバードは岩石の雨の中に消えていく。

「これでもう追ってこないだろ」

ガムがハルバードが飛んできた方向を見ると、イーダの姿があった。どうやらイーダが投擲したらしい。

「……はは、寝床に戻ってゆっくり、おねんねしいや……」

苦笑を浮かべるイーダ。あきらかに強がっていた。

「大丈夫か?」

言って、彼女の背中を見るガム。鎖帷子の上から肉が切り裂かれていた。

「良かった……。そんなに深手じゃない。サキ。水と包帯を出してくれ」

「はい」

ザックから水と包帯を取り出すサキ。

ガムはイーダの鎖帷子と上着を脱がすと、まずは背中の血を洗い流した。そして包帯をイーダの背中と胸を通るようにぐるぐると巻いていく。イーダのふっくらとした胸を、白い包帯が押さえつける。

「……ガムやんのすけべ」

「うるせえ。ケガ人は大人しく手当されてろ」

応急処置を終え、イーダに再び上着を着させるガム。

「……おおきに」

つぶやくような声で、イーダ。

「まいどどーも」

ぶっきらぼうに言うガム。

「ガムやん……怒っとる?」

「当たり前だ。お前、俺達に隠し事してたろ」

「う……、何のこと?」

「とぼけるな。あの熊、人を食ってないだろ」

ガムとサキは昨日、ミオヤの村人に『バレル』について聞き込みをした。その結果、『畑が荒らされた』『食料を奪われた』『村人が襲われた』という情報を得たが、『村人が食べられた』という話は聞かなかった。そして鉱山の最奥でねぐらを観察したが、人骨らしきものはひとつもなかった。それらの事を伝えると、イーダは観念したのか

「そうわんと、ガムやんは動いてくれん思うたから」

と白状した。

ガムはむやみやたらに動物を殺さない。だが、人を食った熊となれば話は別だ。

「じゃあ、本命は熊退治じゃなくて、そいつか?」

ガムがイーダの握る髪飾りを指さす。

「……そうや」

「やっぱりか」

それを聞いて、ガムは納得いった。

「どういうこと?」

サキが問いかける。

「目的が熊退治なら、寝てるとこをそのままやっちまえばいい。だけどイーダはそれをさせずに、髪飾りを取りに行った。先に熊を殺しちまえば、そのはずみで髪飾りが破損する恐れがあったからだ」

「イーダさん。その髪飾りは、いったい何なの?」

「……これはキリちゃんの髪飾りや」

「キリの……?」

ガムが疑問の声を上げる。

「昔この鉱山に来たうたやろ? そん時お嬢とキリちゃんもおってん。珍しい鉱石が取れるっちゅうことで来てん。一日探索して、鉱山出たらキリちゃんの髪飾りが無くなってることに気付いたんや。

んで、その髪飾りはお嬢がキリにあげたやつでな。キリは当然取りに戻るうたんやけど、お嬢が反対したんや。『また別のを買ってやるから諦めろ』うて」

「でも、なんで今更お前が髪飾りを取りに来たんだ?」

「……心残りや」

「心残り?」

イーダが頷く。

「お嬢がおらんなってから、ウチには生きる張り合いがなくなってもうた。何やってもおもんないねん」

死に損なった、とイーダは言う。

「あっちこっちふらふらしとったら、ふっと髪飾りのこと思い出してな。キリはずーっとお嬢のために働いとる。昔も、今も。そんなキリちゃんほったらかしにしといたら、あの世でお嬢に顔向けできへん。

キリちゃんこの髪飾りごっつ気に入っとったし、それなら最後に取りに行ったろ思うて。

そんでこの鉱山に戻って来たんやけど、熊が住み着いとる、その熊がどうやら髪飾りを付けとるいうし。これは一人じゃ無理やなー思うて。

でもたかが髪飾りの回収くらいやと誰も動いてくれへん。せやから人食い熊が出るいうことにして、ガムやんに頼んだっちゅうわけや」

「まあ、確かに髪飾りの回収で傭兵は動かないな」

「せやろ?」

「俺はあくまで保険だったってことか?」

イーダとしてもバレルを殺したくはなかった。しかし、いざとなったらやらざるを得ない。そのための戦力としてガムを呼んだ。

「堪忍やで。でも、ガムやんの実力を見込んでたっちゅうのはホンマや。そこだけは勘違いせんといてや」

「その気持ちはありがたいが、依頼内容は正確に伝えてくれ。対策がとんちんかんなことになりかねん」

「ホンマ、堪忍やで」

苦笑するイーダ。

「さて、依頼も達成したみたいだし戻るか」

「そうね」

ガムがイーダに肩を貸し、立ち上がらせる。

「おぶってくれへんの?」

「お前でかいから重いんだよ。それに歩けるだろ」

「ガムやんのいけず。ウチかて女やで? おぶってくれたら、こう、ぎゅ~っと胸があんたの背中に」

「元気じゃねえか。歩け」

ガムの対応に口をとがらせて抗議するイーダ。

その時、ガム達のいる鉱区が振動した。

「まさか、まだ熊が?」

振り向くサキ。しかし、岩石が積もってできた壁に変化はなかった。

「いや、ここだけじゃなくって山全体が揺れてるような……」

ガムがきょろきょろとあたりを眺める。振動は徐々に強まっていく。

「ガムやん。さっき天井崩した衝撃で、山が怒ったんちゃうか」

そしてこの山は活火山である。振動がさらに強くなる。しばらくして、ひとときの静寂が

訪れた。

「…………」

「…………」

「……これ、やばいんとちゃう?」

そして、爆音。

『噴火したー!』

鉱区にマグマがあふれ出した。

一目散に走り去る三人。

結局イーダを背負って逃げるはめになったガムだったが、背中に彼女の胸の感触を感じる余裕はなかった。


◆◆◆


噴火は小規模なものだったようで、ミオヤ村まで被害は及ばなかった。

ガムは村長に『バレル』はおそらく鉱山に閉じ込められた、という報告をした。すると村長はこれでバレルによる被害がなくなる、と喜んでいた。しかし、このまま死を待つバレルのことを思うと、ガムは少々複雑な気持ちであった。


その日の夜。ミオヤ村の宿にて。三人は温泉で汗を流し(イーダはケガをしていたため入ることはできなかったので、サキに体を拭いてもらった)、部屋で休んでいた。サキとイーダはいつも括っている髪を下ろしている。鉱山で汗塗れになった衣服は洗濯して干しているため、今は綿のガウンを羽織っている状態だ。

三人は雑談しつつ過ごしてた。

「ところでイーダ。報酬の残りをもらおうか。二十万ドルク」

「…………」

イーダは頬をぴくぴくさせて笑顔をガムに向けて黙っている。

え? なんでそこで黙るの? 俺、依頼達成したよね?

「お前、まさか」

「……ないねん」

「やっぱりか! ……どう落とし前つけてくれるんだよ」

イーダは瞳を潤ませ、上目遣いで悩ましい表情を作る。そして胸元部分のガウンを下げ、たわわな胸の谷間を覗かせ、濡れた声で

「今日一晩、ウチを好きにしてええで……」

と迫った。その色気に思わず生唾を飲んだガム。

「子供がいる前でアホなことすんな!」

サキは顔面を真っ赤にして両手で覆っているが、指の隙間からガム達のやりとりを覗いていた。

「わたしは別の部屋に移るから所長とイーダさんはどうぞごゆっくり……」

「いらん気を遣うな。そしてイーダは胸をしまえ」

ちぇー、と口をとがらせるイーダ。

ガムが前金の二十万ドルクを受け取った時、大量の紙幣、貨幣がごちゃまぜで革袋に詰められていた。紙幣はぐしゃぐしゃになっているものや端が破れているもの、貨幣は表面が傷ついたり汚れていたりするものばかりだった。

きっと必死にかき集めたのだろう。ジプシーの身でありながら、一所懸命に身を粉にして。

そしてイーダは言っていた。『キリちゃんこの髪飾りごっつ気に入っとったし、それなら最後に取りに行ったろ思うて』と。

おそらく本当に『最後』の仕事にするつもりなのだ。

「どうするんだよ? 契約書には金額もきっちり記載してるんだ。契約違反になればお前はお縄だぞ」

「せやからウチの体で」

ガウンの上半分をはだけるイーダ。

「却下だ。俺は体より金が欲しい」

イーダのガウンをガムが素早く戻す。彼女は俯き、か細い声で答えた。

「……ウチは構へんけどな。捕まっても」

「俺が構うっつーの。金が入らないのは死活問題だし、何より依頼人が捕まるなんてのは後味が悪い」

「……もうな、やりたいことがないねん。ウチには」

「…………」

「世界を壊すこともできへん。あっちこっち漂流するのもうんざりや。キリちゃんに髪飾り渡したら、それでしまいや」

はは、と力なく笑うイーダ。ガムは依頼時のイーダに覚えた違和感の正体に気付いた。

それは虚無。空っぽ。

イーダは生きる目的を、意味を失ってしまった。ジプシーに生まれ世界を漂流することを余儀なくされた彼女。そんな運命に嫌気が差し、世界ごと壊そうと『逆針の徒』に属したが、目的は達成されることなく解散。イーダの歩む道の先には崖しかなかった。

イーダの目的を奪ったのは、他ならぬガムだった。そんな奴から『生きることに意義がある』などと言われても説得力はないだろう。

「そうや。サキやんにこれやるわ」

イーダは自分の荷袋からあるものを取り出し、サキに手渡した。

それは、猫の頭をかたどった平べったい、親指の大きさほどの小物だった。白と黒の二種類ある。

「こっから遥か東方の国の魔除けや。陶器でできとっとてな。身に付けとったら悪いもんから守ってくれるっちゅうわけや」

危ないことに巻き込んでもうてすまん、とサキに謝るイーダ。

「………………」

対してサキは無言だった。頬を紅潮させてじーっ、とお守りの猫を見つめている。

「なんや。気に食わんかったか?」

ガムがサキの表情を見て思う。これは相当気に入ってるやつだな、と。

サキは喜びの感情を表現するのが下手だ。今までの過酷な経験がサキをそう形成させてしまっているのだろう。しかし、ここ最近はちょっとずつ感情が顔に現れるようになってきた。

サキはガム達に背を向け、自分のザックからあるものを取り出し、ごそごそと細工した。

「……どう?」

現れたのはいつものツインテールのサキ。いや、若干照れているようだ。そのツインテール根元には猫のお守りが取り付けられていた。サキが髪紐に猫のお守りを組み合わせたのだ。

「ああ。似合ってるぞ」

「……ほんと? ふふ」

嬉しそうに、恥ずかしそうに笑うサキ。

「イーダ、わざわざありがとう……ん?」

ガムがイーダを見やると、彼女はぼーっ、と喜ぶサキを眺めていた。イーダもまた、慈愛に満ちた表情を浮かべ、目には涙を浮かべていた。イーダはガムの視線に気付き

「あ、あれ? おかしいな……」

と戸惑いの声を上げた。きっと、サキの喜びがイーダに伝わったのだろう。

イーダは長い間一人で生きてきた。何をするにも自分のため。様々な国、様々な町、様々な村。立ち寄っては、去って行く。そこにいる人との関わりはほとんどない。誰かとの縁も作らない。彼女はいつも飄々と、借りも、貸しも作らず生きてきた。一生、自分はこうなのだろう。誰にも迷惑をかけず、誰にも迷惑をかけられることなく生きて、死んでいく。それは楽な生き方だ。誰にも煩わされることもなく、自分のペースで生きていく。誰の記憶にも残らずに。生きてきた痕跡さえ残さずに。

しかし、たった今。イーダは借りを作った。それはサキからの喜びの感情だった。サキが笑顔をイーダに向ける。

「ありがと。イーダさん」

「……気に入ってもろたんなら、ええねん」

その様子を眺めていたガムがイーダに言う。

「なあ、イーダ」

「なんや」

「お前、買い付けやってみたら?」

「買い付け?」

「ああ、そういうお守りや小物の。世界をふらふらしてるんなら、そういう民族的なものに触れる機会が多いだろ。それを集めてクロノスで売るんだよ。珍しいから受けるんじゃないか? なあ、サキはその猫のお守りをどう思う?」

「うん。かわいい。気に入ったわ」

ほら、とガム。

「そんなもん、なんぼでもあんで」

荷袋から次々と小物を取り出すイーダ。お面、置物、お守り、エトセトラ、エトセトラ。

クロノスにはない民芸品に、ガムとサキは興味津々だった。サキの目はますます輝いている。

「せやかて、ジプシーがクロノスで商売なんかできひんやろ」

クロノスは移民には厳しい国である。国内で商売ができるのは自国民か、許可を得た貿易商人のみである。自国民でも商売許可証が必要なのに、移民が商売できるような隙間はない。

「結婚すりゃいいんだよ。クロノスの商人と。そうすりゃクロノスの国籍が手に入るし、商売もすぐに始められる」

ガムの提案に、サキが抗議する。

「ちょっとガム。結婚をなんだと思ってるのよ。女にとっては一生に一度の大事な行事なのよ? それを資格取得試験みたいな気軽さで……」

「ええな、それ」

「ほら、イーダさんもこう言って……。って、いいの!?」

驚くサキ。

「ウチは別になーんもやることあらへん。そんなら、商売始めてみるのもおもろそうやなって思っただけや。それに……」

「それに?」

サキが問う。

サキやんの嬉しそうな顔見たら、商売すんのも悪ないなって。言おうとして、イーダはやめた。

「……なんでもないわ」

「えっ? ほんとにいいの?」

戸惑うサキ。

「でもガムやん。そんな都合よく独身の商人なんかおるんか?」

「過去に依頼を受けた奴が数人いるから、そいつらに当たってみよう。商人っていうのはガツガツした奴が多いからな。お前にゃぴったりだろ」

「なんや引っかかる言い方やな……。まあええわ。イケメンを優先的に頼むわ」

「任せろ」

「……結婚って……結婚って」

サキはなにやらぶつぶつ言っていたが、ガムは気にしないことにした。


◆◆◆


後日、ガムの紹介でイーダは数人の商人とデートしたが、それはまた別の話である。

その時ガムは思った。うち、結婚相談所みたいになってねえ? と。


         ―――マグマを乗り切れ。あるジプシーの熊退治―――END



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