96:掌の雪 その四

 結界を越えた山中の、間違いなく不便なはずなのに不思議と満ち足りた家。

 その場所に巡り合い、その住人と知り合った俺は、それからは暇さえあれば二人の所に入り浸った。

 何と言うか、終天には不思議な魅力があった。

 立派な大人のくせに遊びだろうがなんだろうが俺と競う時に譲るという頭が無かった。

 しかも普通の大人なら危ないからと止めるようなことを率先してやりたがった。


 山で一番高い木で木登り競争をして不安定なてっぺんまで登ってみたり、滝壺で魚釣りをしていて俺の方に先に魚が掛かりそうになると滝壺に飛び込んで魚を素手で掴み捕ってみたり、家の屋根に夜中に上って流れ星を見つける数を競ってみたり、正真正銘ガキだった俺よりずっとガキみたいなどうしようもない奴だった。


 だけどその反面、やたら思慮深く物知りだったりもした。

 それらはまるで相容れない気質のように思えるのに、奴の中には全く違和感無く馴染んでいるんだ。

 それに奴は話をするのが上手かった。

 色々な面白い話や、不思議な話を知っていたし、難しい話や勉強だって、およそ知らないということが無かった。

 天衣無縫で思慮深く意地が悪くて懐が深い。

 つくづくとんでもない奴だったよ。


 白音の方は最初の日以来笑ったりした所を見たことは無かったし、俺とまともに口を利くことすらほとんど無かった。

 それでも馬鹿をやって戻って来る俺達のためにいつもお茶やお菓子や食事の準備、風呂や布団の用意をしていてくれた。

 彼女が時々奏でてくれる笛は聴いていると嫌なことなんか何もかも忘れてしまうような、心の深くに染み入るような音色で、よくねだったもんだ。

 あの頃の俺にとって、あの場所は確かに理想の家、幸福な場所だったんだ。


 ある日、いつものようにその家に遊びに行った時、俺はそれまで決して口にしなかった弱音を吐いた。


「ここはいいな、色々気を使わなくていいし」

「なんだ? そんなに俺が好きか?」


 ぼそりと言った俺に終天はからかうようにそう言ってみせる。

 いつもの流れだった。……少なくともいつもと違うようには俺には感じられなかった。


「馬鹿言ってんじゃねえよ。うちがつまんないって話だよ! うちの連中と来たら、俺が弟と遊ぼうとすると凄い剣幕で叱り飛ばすしさ、俺が弟になんかするはずねぇじゃん」


 実の所、これは当時の俺の誤解だった。

 家族が案じていたのはむしろ俺が自我の無い弟に害されることだったんだ。

 だけど、我が家の子育て事情を説明されないまま育った俺がそれを知るはずもなく、この頃の俺はとにかくひねまくっていた。

 なにより、……ショックだったんだろうな。愛情を否定されたような気がして、俺はあの家で異分子なんだって思ってしまったんだ。


 その時、なんと言っていいんだろう、ふっと終天の雰囲気が変わった気がした。


「ふ~ん、だったら別に血の繋がりに拘る必要は無いんじゃないか?」

「え?」


 驚いて聞き返した俺の目を終天はまっすぐ覗き込んだ。

 思えばそれまで奴は俺の目をまっすぐ見返すようなことをしたためしが無かった。

 その時、初めて俺は終天の目を間近で見ることになったんだ。

 なぜだろう、俺はその時どこか遠い所に水の匂いを嗅いだような気がして、その印象が強く焼き付いているんだ。

 全然関係ないことをなんでか記憶の風景にいっしょくたにして覚えていることって、あるよな。

 きっと、俺はその時混乱していたんだろう。

 なぜなら、終天の目を覗き込むと同時に血の気が全身から引いて、その血がぎゅうっと心臓に集まったような、冷たく凍った体になってしまったかのように感じて、体の自由も、思考の自由も封じられたようになったから。


「いっそ、うちの仔になるか?」


 ドクリと心臓が鳴るのが聞こえた。

 俺はぼんやりした心地でただ相手の声だけを聞いている。


「我が仔となるなら名前が必要だぞ。お前の名を教えろ」

「……知ってるだろ、俺は隆志だよ」

「それは仮の名前だろう? その血に刻まれた真の名を言うんだ。そうしたら俺がその名を消して新しい名前を授けてやろう」


 終天の、人として異質な程に整った顔で、まるで裂け目のように口が開き、尖った犬歯が覗いた。

 俺の視線はその牙に惹き付けられるように固定される。

 ドクンと、心臓がまた大きく脈打った。

 全身が冷たく冷えきって、激しく痙攣するように震える。

 だけどその震えの奥、凝縮された血の奥から、まるで煮えたぎる何かが溢れ出すように全身を縛る冷気を食い千切ろうとしているのを感じた。

 身内で争う二つの両極の熱、灼熱と極寒が俺の中で荒れ狂う。


「あ、あ、アア!」


 その二極の相克の末に溢れ出したソレは『憎しみ』だった。

 唐突に前触れもなく、いきなりその強い感情が湧き出し、まだガキだった俺を支配した。


「貴様! キサマァ!」

「呪いか。下種な仕掛けだな」


 終天が表情を変えぬまま呟いた。


 俺の体はまるで内側から弾けるように膨れ上がった。

 いや、恐らくそれは膨れたのではなく、変化したんだ。

 だけどその時は俺自信、何がなんだか分からずに、自分の感情と体の変化に流されるだけだった。

 意思もなく、思考もなく、俺は目前の存在に攻撃を仕掛けた。

 自分の喉からほとばしったとは思えない獣のような叫びが上がり、無我夢中で仕掛けた攻撃は、しかし容易く躱される。


「キサマ! 怪異ダナ!」

「だからなんだ?」


 終天はこの期に及んでも涼しい様子を変えなかった。

 いつもの、飄々とした自信に満ちた青年といった風情で俺を優しげな目付きで見ていた。


「俺ヲ、騙していたのか?」


 俺はようやく少しだけ自分を取り戻して、本能に任せた攻撃を意思の力で制御した。


「騙す? 俺がか? 笑わせるな、坊や。人間じゃあるまいし、俺がどうして騙す必要があるんだ?」


 絶対の強者、奴のその強大な気配は、憎しみに突き動かされていた俺の動きすら縛った。

 その戒めを振り解こうと、俺はまた理性を手放して体中の血を燃え立たせる。

 みしみしという音と共に自分の体が変化するのを感じながら、しかし、それでもまだ相対する敵には到底届かないことが本能で理解わかる。

 憎しみと悔しさと怒りで俺はどうにかなりそうだった。


「やめておけ、子供の身で無理をすると壊れてしまうぞ。全く、無粋な仕掛けをするもんだ。まぁいい、俺は気は長い方だ。また会おう坊や、それまで達者でな」

「待て! 終天! てめえ、待ちやがれ!」


 目の前で慣れ親しんだ光景が消えてゆく。

 古いが立派な茅葺きの家も、花々の咲き誇る庭も、緑に囲まれた小川も、そして笛を手にしたどこか寂しそうな白音も、朧に霞んでいた。


「坊や、可哀想にな。人間共が何を創り出したかわかっているのか? いや、理解わかるだろう? お前はもはや人ではないぞ。己を見てみろ、その姿を。お前がどうしてここに迷い込んだか、どうして迷宮に迷い込むか理解わかるか? 怪異は怪異を呼ぶ。自らの力の更に先を求めて喰らい合うのだ。人など捨ててしまえ、それこそがたった一つ、お前が救われる道だ」

「野郎! くそっ! てめえ! 許さないぞ! 絶対、許さないからなぁ!」


 奴の気配が消え、俺は自分の両手を見た。

 黒光りする鋼のような硬質なナニカがそこにあった。


「うわああああああ!!」


 唐突に湧き上がった憎しみが、今度は唐突に消え去った後に、俺に残ったのは恐怖だった。

 自分が化け物だという呪いのような言葉が俺を苛んだ。


 その後、山の異常に気づいて俺を探しに来た家族に連れられて家に帰った俺は、家族に「終天」と名乗る上位の怪異に襲われたことを話した。

 だけど、そいつと長く親しんでいたことは話さなかった。

 奴の言葉が怖かった。

 自分が化け物だと知られるのが恐ろしかったんだ。


―― ◇◇◇ ――


 俺は長い話を終えると自分の手を見た。

 そこにあるのは普通の人間の男の手だ。

 特別ゴツくも無く、特に繊細でもない。

 伊藤さんには守秘義務に引っ掛かる部分は端折って説明したが、終天との因縁のあれこれと、人間じゃないんじゃないかという疑惑は正直に話した。

 だからと言って伊藤さんが今更俺を怖がるかどうかはわからないが、もしそれで何か言われても構わないと思えるぐらいには、俺も彼女を好きだったのだ。


 真実というのは他人を傷つけることもある。

 それを押し付ける以上は自分も傷ついて当たり前という程度には覚悟をする必要があると思うんだ。

 嘘を吐くのは傷つきたくない、傷つけたくないという気持ちがあるからだけど、いつまでもそのままでは先へは一歩も進めない。

 好意だろうが嫌悪だろうが、自分たちの間にあるものを曝け出さないことには俺達はきっとどうにもなれないのだ。


「よかった」


 聞こえて来た声に、俺は顔を上げた。

 伊藤さんはなんだか不思議な泣きそうな顔で俺を見ている。


「え? えっと?」

「木村さんがその人と行ってしまわなくてよかった。ちゃんと私と出会ってくれてありがとうございます」


 そう言って、伊藤さんはぺこりと頭を下げる。

 えっと、これってどういう流れなのかな?


「い、いや、こちらこそ、ありがとう、ございます?」

「疑問形ですか?」

「あ、いや! そうじゃなくて、えっと、今の話、……その、俺が怖くないですか?」


 正直、俺は今でも自分を信じきれていない。

 というか、成長して、自分達の血筋がどうやって造られたのか知った後は尚更自分を人間の範疇と主張するのにためらいがあった。

 自分では自分を人間だと信じてはいる。

 だけど、普通の、それこそ一般の人からすれば、俺はきっと怪異と同じなんじゃないか? そう、思ってしまうのだ。


「だって、そういう怖い部分も全部木村さんなんでしょう? 私、言いましたよね? お互いに我が儘になりましょうって」

「ええっと、はい」

「その経験を、凄く、人に話すの、嫌だったんでしょう? でも、誰かに聞いて欲しいから私に話してくれたんですよね。……私、酷い人間だから、今ちょっと嬉しいんです」

「そ、そうなんですか?」

「私、きっと木村さんの特別なんだって、そう思っちゃったから。木村さんにとっては辛いお話だったのに、酷いですよね」


 泣き笑いのように、伊藤さんが俺を見る。

 そのまなざしと、口元から目を離せない。

 ヤバイ。

 いや、ヤバくないのか? これって、いいんだよな?

 いいん……だよな?


 ドクンと心臓の音が聞こえる。

 これは昔に聞いた音とは違う。

 ずっと安心で、そして、ずっと怖い鼓動だ。


「あの……」


 俺は思わず立ち上がって彼女へと手を伸ばしかけて、動いたことで自分の体の異変に気が付いた。


「うっ?」


 腹が、ヤバイ。


「木村さん?」

「す、すいません、ちょっとトイレ」

「あ、はい」


 俺は真っ赤になってトイレに駆け込んだ。

 いや、生理現象は生理現象でも、男のアレではない。

 下る方のアレだ。

 慌ててトイレに駆け込んだ俺の胸ポケットで恐ろしいぐらいにジャストタイミングで携帯端末が音を立てた。


 なんだ? 電子通信メールか。

 ピッと音を立てて画面を開くと、そこには愛する我が妹からの伝言が届いていた。


『兄さん、伝え忘れたけど、あの時、符を口に含むだけと言ったのに飲み込んだから、今夜はきっと辛いと思う』


 符? 符って?

 俺の脳裏に迷宮で白い粉を舐める時に使った由美子の符が浮かんだ。


「あれか!」


 結局、俺は自分の作った料理のせいではと謝る伊藤さんにそれは勘違いであることをなんとか納得させながらトイレに半分缶詰状態なるという最悪の週末最後の夜を過ごしたのだった。

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