10:迷宮(ダンジョン)は悪夢の顕現・中編
空気が押し出されるような音と共に扉が閉まった途端、その気配は濃厚に押し寄せて来た。
密閉されたせいで淀んだ馴染みの空気が、更にどこか生臭いような臭気にランクアップする。
うん、とにかく嫌な匂いだ。
空間ごと帯電しているかのようなチリチリとした感覚と共に、俺の腕の産毛が揃って立ち上がり皮膚を引っ張った。
「そりゃあ確かめに来たんだからさ、空振りよりはいいかもしれないんだけどよ、俺を待ってたかのようなこの成り行きはどうなの?こう、一つの人生としてさ」
まるでそれが当たり前だと言うような成り行きに、ぼやかないとやってられない気分になって来る。
俺は現在まっとうなサラリーマンであり、最先端技術に関わり続ける技術屋だ。
古き時代に戻ったような混沌とした出来事に関わるのは正直おかしいんじゃないかと思うんだ。どう考えても筋違いだろ。
なら放っておけばいいのかもしれないが、それで放っておいた挙句、誰か犠牲者でも出たりしたら寝覚めが悪いしなあ。うん。
対策部門に連絡を入れるという手もあるが、生成前のダンジョンなど感知出来ないのが普通だ。
絶対またしても勧誘に近い聞き取り調査を受けた挙句に、結局は俺自身が確認する羽目になるに違いない。ほぼ確信出来る。
結果が同じなら連中の手を借りない方が遙かにマシだ。泥沼すぎる。
エレベーターのデジタルによる階数表示の文字がいい具合にバグって数字じゃない文字を表示する。
“E”
これはエマージェンシーのEなのかな?初期型ダンジョンで知識深度は低いはずだが意外と芸が細かいな。
ああいや、これはもっと単純にエラーだな。
いかん、技術屋なのにいつの間にか意識が対怪異に切り替わってたようだ。
むちゃくちゃ恥ずかしいぞこれは。自分の本分を忘れるなよ、俺。
そんな俺の内心の葛藤はそのままに、エラーが起きているというのに緊急停止ではなく普通に停止したエレベーターは、やけに明るい電子音を合図に空気の吐き出される音を伴いながら扉を開いた。
一歩を踏み出した途端に、近代ビルからむき出しの土壁に風景が切り替わる。
予想通り、初期も初期、天然洞窟タイプの
普通の洞窟は都会のビルのエレベーターから入れたりしないから何のカモフラージュにもならない無意味な装飾だが、まあお約束ってのはそういうものなのだから仕方ない。
そしてそのお約束に従って、振り返ると既にエレベーターの扉は消えていた。
今この瞬間から、俺という獲物を狩り終わるまで、この
俺の思うに、ダンジョンという存在はあまりにも自由すぎると思うんだ。というか適当過ぎるだろ、色々と。
出口やら入り口やらが好き勝手に出現するのはそのせいだ。
ダンジョンは、概念世界理論で言う所の、無意識ネットワーク層の意図的混線によって発現する。
無意識ネットワークというのは、世界が己の内包情報を整理するための場所で、ここに世界中の全存在の意識の一部が接続されているのだ。
生物は夢を見るが、実は夢というのは無意識状態でこのネットワークに接続することによって発生する幻覚みたいなものとされている。
そしてこのネットワークの中に生じるバグのような『夢』こそが問題なのだ。
通常、生物は無意識ネットワークに己の意識の一部を無自覚に接続している。
その接続している意識の一部というのが記憶リング、つまり回想回路だ。
夢はこの回想回路の読み込みバグから発生する。
共有空間に発生した夢という代物は、想念と概念の間の存在だ。そのままならネットワーク上を彷徨って自然消滅する。
だが、意識を持つ存在は、時として悪夢を見る。これは限りなく怪異に近い存在だ。
単体意識によって生まれた悪夢は一晩で消える儚いものだが、稀にそれが共通認識によって無意識ネットワーク上に固定化されるという事態が発生する。これが迷宮の種だ。
固定化された悪夢は成長を願う。
そして、悪夢であったモノは、自ら
それが
その入り口はほとんどの場合これといった決まりは無く、ランダムに選ばれる。
そんな、共通認識の産物である
みんなが『そういうものだ』と思った途端、それが決まり事(お約束)になってしまう訳だ。
実を言うと、このお約束をキャンセル出来る脱出アイテムなる物も存在するのだが、べらぼうに高いし、自作するとしても材料があまりにもレアなため、なかなか作れないというアイテムなので、これは無視していいだろう。いや、無かった物として無視するしかない。
だって、そんなもん、国やら世界クラスの金持ちしか持ってないだろ!
「ってことで、入った以上はボスを倒さないと出られないんだよな」
呟いた声は響く事なく闇に吸い込まれるように消えた。
迷宮は真の闇に沈むことはない。
恐怖とはそれを見せることに意味があるからだと言われているが、俺は逆に悪夢を見る者がそれを見ようとしているからじゃないかと思っている。いわゆる「怖いもの見たさ」ってやつだ。
元々が悪夢とはいえ、ダンジョンは幻想ではない。
嫌味な程リアルな存在感。
カビ臭さと腐臭。ぬめりを帯びた岩肌。
確かにそれが現実の一部であると知らしめる記号に満ちている。
俺にとっては特に懐かしく、馴染み深い場所だ。
「よっと」
ぺたりと天井から落ちかかって来た
それに対抗し、平たく広がり腐食性を帯びた粘膜でこちらの足を逆に覆おうとするスライムを、筋肉に沿って走らせ、発した『檄』によって焼いた。
焼ける時の嫌な匂いすら毒性を持つが、それを軽くバックステップで避けると、凹凸激しい床を蹴って奥へと駆け出す。
本来、ダンジョンでは慎重に行動しなければならないが、雑魚に一々付き合っているとやたら時間が掛かるのだ。
もちろんダンジョンでの時間というのは夢と同じなので、現実での時間とは合致しないことが多い。
1分1秒が1時間、それ以上に引き伸ばされていたり、その逆だったりするのだ。
その辺りは、ダンジョン探索のプロは最近では道具を使って調整するらしいが、俺の場合は基本、勘だ。
このダンジョンは深度が浅いからだろう、
こういう部分もダンジョンのやっかいな所だ。慣れていないと体内時間が混乱して体調を崩したりする者もいる。
現実世界とシンクロして生きている生命体にとって、
キイキイと、人の耳には鋭い軋みのように聞こえる声が響く。
迷宮につきもののコウモリだ。
なんかこいつを見ると、こないだ実家に帰った時のことを思い出してイラッとしてきた。
「成仏せいや!」
迷宮内の怪異は生物との合体ではなく純粋な怪異であり魂なるものは存在しない。
ゆえに俺のこの叫びは単純なノリの産物であって意味は無いのだ。
まあ、怪異にも何らかの発生の故郷はあるのかもしれんが、生憎と俺は知らん。そこでの安寧なんかは祈ってやれんのでこれで勘弁してもらおう。
走り抜けながら放った俺の拳は、血肉あるモノに喰らいつこうと集った黒き飛翔物を微塵に飛ばし、その分空いた空間をすり抜けるように更に走る。
洞窟は、まるでそのもの自体が生有るモノででもあるかのように不気味に律動している。
その律動に合わせて雑魚怪異が湧く。
俺はほとんど物を考えることもなく、足元、天井に蠢くそういったモノ共を或いは踏み付け、或いは殴り、そうやって奥へと突き進んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます