第42話 序章6の9 大将 "Bartender"

「では行ってきます。」


「ああ、行ってらっしゃい。」


 天音は、扉に手を掛け、強く押す。

 ガチャリ、という音と共に扉が開く。すると、


「そうだ天音。」


 と、貫太郎は思い起こしたように付け加えた。


「もし迷惑でなければ、私もたまに邪魔をしても良いだろうか。」


「ええ是非。

 その時は、奥さんと御一緒にどうぞ。喜んで歓待しますよ。」


「うむ、ありがとう。」


「礼には及びません。」


 貫太郎の言葉を背に、天音は侍従長邸を後にした。


 青葉通を渡り、警察講習所の脇を抜けて細い路地へと入っていく。

 大妻おおつま女子高校の裏を抜け、上六うえろく公園を抜け、ひたすらに細道を西進する。

 やがて土手三番町へと至ると外堀に沿いに面した小道へ更に潜って行く。そしてようやく終点が見えた。


 居酒屋”桜”。

 ここが天音の目的地だった。

 懐から取り出した鍵を店の扉を開錠すると、中へ入って行く。


「さて、今日もぼちぼちやっていきますか。」


 そう言って天音は、開店の準備へ取り掛かっていった。


    ※


「まあ、今日はこんなところだろう。」


 暖簾のれんを上げてからおよそ4時間ぐらいが経過した。時計の針は、もうそろそろ9時を指そうというところだった。

 客入りも20人程度で、いつもとおおよそ同じくらいだった。


「そろそろ片付けに取り掛かるとしますか。」


 そう言うと、少しづつ片付けを始めていった。

 必要最低限を残し、面倒くさい作業から進めていくのが基本である。

 とは言え、小さな居酒屋であるこの店に片付けに時間と手間のかかるような大層なものは殆ど置いていなかったが・・・。


 この店の周囲には学校が多く、そのため客層もその帰りがけに立ち寄った教師達が大部分を占めていた。

 彼らは次の日のことを考えてか、酒を2、3杯と1、2品目を注文するくらいで、余り長居をすることなく、直ぐに帰っていくのだった。

 同様の理由で、夜の9時以降になると客入りも急激に落ちてしまう。

 その為天音は、9時になると閉店の準備を始めるのであった。


 とは言え、全く来ないと言う訳でも無い。


 天音が粗方の片付けを済ませ、調理場の方でくつろいでいると、突然店の戸がガラガラと音を立てて滑り、


「今晩は大将・・・って、あー、もしかして店仕舞いしてしまったか。」


 1人の客が入って来た。


「いんや、まだやってるよ。取り敢えずそこに座んな。」


 天音はまだ残っている椅子へと案内した。


「よく来たね安藤さん。

 今日はどうする。いつもの酒でいいかい。」


「ああ、よろしく頼む。」


「あいよ、少し待ってな。」


 そう言って、酒と調理の準備に取り掛かった。


    ※


 彼は、2カ月ほど前に初めてこの店に訪れた。

 その時のことを天音は今でもハッキリと覚えている。

 それもその筈で、背広姿の40代ぐらいの客達の中に突如、軍服を着た若い青年が飛び込んできたのだ。

 天音だけでなく、その時居合わせた客も皆、面食らったような顔をしていた。

 当人も緊張したような、やや気まずそうな表情で空いていた席に座ったのが特にも印象的な光景だった。

 結局はその後すぐに中年の教師陣の中に彼も加わって、皆で楽しそうに飲んでいたが。


 そしてそれ以降も彼はしばしばこの店に足を運んできてくれるようになり、今では常連の一人に成りつつあるところだった。


    ※


「して、今日はどうした。またおはぐれ者かい。」


 そう言いつつ、頼まれた酒を差し出した。


「あんまり人を揶揄からかうな。

 俺は友人がいない訳では無いぞ。ただ、酒を飲むときは独りになりたいだけだ。」


「いやいや失敬、失敬。」


「それに、俺が逸れになるのは、この店に客がおらんからだ。」


「ほお、言ってくれるじゃねえか、安藤さんよ。」


「間違いではないだろう。現にこうして伽藍洞がらんどうではないか。」


 そう言って彼はぐるりと店の中を見回した。


「今はいねえってだけだ。

 うちのお客さん方は、パッと頼んで、パッと飲んで、パッと出る。そして明日の為に9時にはもう家に帰っている、ってだけのことだ。

 どこぞの兵隊さんと違って、先生方は夜遅くに酒を飲みに来るような逸れじゃないのさ。」


「全く、相変わらず口の悪い大将だな。

 それがなければ、もっと客も入って来るだろうに・・・。

 全く持って勿体ない奴だ。」


「ハッ、心配ご無用。こちとら売上二の次の道楽商売でやってるだけだからな。客足なんざ気にも止めたことはねえよ。

 おっと・・・、」


 天音の後ろでコトコトと鍋が心地よい音を立てた。蓋を外して中のものを小鉢によそうと、


「ほらどうぞ、安藤さん。」


 それを差し出した。


「頼んだ覚えはないが・・・。」


「心配すんな、安藤さん。こいつは俺からの奢りだ。常連さんにこれくらいのことしたってバチは当たらんだろ。売上二の次が心情だから、こういうことも出来んだよ。」


 小鉢からは湯気と共に、酒の進みそうな醤油と生姜の香ばしい風味が昇ってきた。


「・・・ほんっと、喰えないヤツだよ、大将は。」


 彼の顔には物凄く複雑そうな表情が浮かんでいた。


 とは言え、天音の言葉は全くの見栄みえと言う訳でも無い。

 実際天音にとって今こうして開いている店は、あくまで彼の隠れ蓑でしかない。

 彼の本来の仕事は侍従であり、その目的は貫太郎の身の回りの守護と彼の手足となって帝都を調査することである。

 その使命を円滑に遂行するために今の立場を名乗り、利用しているに過ぎない。


 確かにこの居酒屋”桜”の大将としての時間は天音にとって楽しく有意義なものであるが、しかし所詮は手段の一つに過ぎず、必要以上に執着することはなかった。


「それと安藤さん、取り敢えず先に謝っておくわ。」


 彼はその言葉に箸を止めて天音を見上げる。


「これから時々、店を休むかもしれん。」


「いきなりどうした、何かあったのか。」


「いや、大したことじゃないさ。新しい一品の調査とか、研究なんかがしたくてね。

 それで休もうかなと思ってる。

 後、俺の休日を増やす為だな。」


 天音の答えに彼は露骨に大きな溜息を吐いた。


「まあ最早、俺はかく言わんよ。でもほどほどにしておけよ。

 これでも俺はこの店が気に入っているんだから、俺の数少ない安らぎの場が無くなるようなことには成らんでほしい。」


「あー・・・、そう素直に言われると少し恥ずかしいんだが、まあ、善処しとくよ。」


「・・・本当に頼むぞ。」


 その後しばらくした後に、彼は帰路へと着いた。

 天音には、とぼとぼと歩く彼の背がやや煤けているように見えた。


「よし、それじゃ店仕舞いするか。」


 彼が手をサッと横に振ると、店の前に置かれていた提灯ちょうちんの火がフッと消えた。

 それを中へとしまい、残っている洗い物を済ませる。全ての片付けが終わったのが、丁度11時頃だった。そして鍵を閉め、家路へと向かうべく宵闇の中に歩を進めていった。


    ※


 東京の夜は以外にも早い。

 帝都の不夜城ふやじょうは、麹町区こうじまちく有楽町ゆうらくちょう京橋区きょうばしく銀座ぎんざ浅草区あさくさく吉原よしわら、そして豊多摩郡とよたまぐん新宿しんじゅくといった歓楽街の狭い範囲に限られていた。

 それ以外の大部分の地域は夜の10時を過ぎる頃には、どの家も灯りを消して寝床に入っていた。

 そして夜道を照らす街灯も大きな道にまばらに点在するのみであり、細い小道を往くには月や星の明かりを頼りに進まねばならなかった。


 故に同じ道であっても、昼と夜とでは受ける印象がまるで異なっていた。

 日が昇っている間は静かで穏やかな通り道であっても日が落ちれば、暗く不気味な路地へと変貌を遂げる。


「”行きは良い良い、帰りは怖い”、とはよく言ったもんだな。」


 天音は上六公園にいた。

 公園内に設置された唯一の電灯の下で、煙草を吸っていた。

 店の帰りに公園で煙草を吸う。

 これが天音の日課であり、一日の終わりを締め括る儀式であった。

 天音は紫煙を吐きながら、公園の外の路地を行き交ういくつかの影をぼんやりと遠くから眺める。

 夜の闇よりもなお暗いその影達は、彼の視界の中を緩やかに動いていた。


 天音は店から上六公園に到るまでの道中も、いくつかの影とすれ違った。

 それも昨日今日の話ではなく、かなり以前からソレらと何度も遭遇していた。


 だが天音はただの一度たりともその影と挨拶を交わすことも無ければ、顔を合わせることすらなかった。


(下手に首突っ込んでも、後で面相臭くなるだけだからな・・・。)


 こちらから何かをしなければ、あの影達はただ彷徨い歩くだけの存在だった。

 あの影に意思があるのかすら定かではない。そもそもあれは、普通の人間には見ることすら出来ない。故にソレらの存在に気付くことも無い。

 それはそれで、ある意味では幸せなことなのだろう。


「ああ言うのは、何処にでも湧くもんだな。」


 天音はうんざりしたように呟いた。

 かつてのセイラムやアーカムでも、あんなのを見た覚えがあった。


「まあ、むこうのと比べりゃあ、こっちのは随分と大人しいみてえだがな。」


 あの影が何なのか、天音には分からない。

 その正体のおおよその考えは持っているがそれも確証は無い。そしてそもそも大した興味も無かった。


 そうしてぼんやりと眺めているうちに、いつの間にか煙草も半分くらいの長さにまで減っていた。

 そろそろ公園から立ち去ろうと思っていると、不意に向こう側からこちらに向かってくる1つの影が見えた。

 天音は特に気にすること無く歩き出す。そうすれば、アレの進路上から移動できるからだ。

 だが、ふと天音は気付く。あの影の向きが変わっていないことを・・・、そして直ぐさま悟る。


「アイツ、こっちに向かって来てんのか。」


 その考えを肯定するように、ソレは真っ直ぐにこちらへと向かってきた。

 彼我の距離も段々と短くなっていく。


「たく・・・、面倒くせえヤツが来たな。」


 ソイツらは無害なものばかりとは限らない。明確な悪意を持って存在するヤツも確かにいるのだ。

 人間に直接的に危害を与えるか、憑依して人間の精神に入り込んでくるか。いずれにせよ害悪にしかならないことは間違いない。


「やれやれ・・・。」


 溜息を吐くと、短くなった煙草を咥えて大きく息を吸い込み、そして大きくゆっくりと、紫煙を吐き出した。煙は渦を巻きながら宙を漂う。


オン阿左攞アシャラ迦拏キャダ讃拏娑センダサ馳也ダヤウン泮吒ハッタ。」


 すると、薄れていく紫煙が一瞬宙に静止した。

 天音の声に呼応するように不自然に揺らめき始めくと、次第に煙は密度を増していった。


燎燼りょうじん残火ざんか閻羅えんら閻羅えんら咒法じゅほう。」


 細長い蛇のような、一反の帯のような形状に変化したソレは、宙で蜷局とぐろを巻いていた。


「来いよ獄煙ごくえん残滓ざんし煙焔羅えんえんら。テメエの出番だぜ、好きに喰らえ。」


 天音の声を合図に煙の妖は宙を滑るように動き回り、黒い影に接近する。そして大蛇が得物を絞め殺す様に、煙焔羅はその影へ巻き付いた。

 煙焔羅に接触された箇所から、たちまちに黒い煙が上がると共に、焦げ臭い匂いが立ち込めた。巻き付かれた影は苦しそうに呻き、振り解こうと激しく暴れ蠢いている。

 だがその影からは一切の叫び声が上がらない。それどころか、今まさに激しく動き回っているにも拘らず、全くの無音だった。

 サイレント映画のワンシーンを見てるかのようなシュールな光景だった。


 やがてパントマイムを続ける影は、次第に小さくなっていく。煙焔羅に巻き付かれた箇所は瞬く間に炭化し、身体がボロボロと崩れ落ちているのだ。

 そして数分も経たないうちにソレは、見る影も無く焼け落ちた。


「まあ亡霊程度じゃ、こんなもんか。

 ご苦労だったな、煙焔羅。もう消えて良いぞ。」


 煙草の火をもみ消して灰皿へと捨てる。

 すると今度こそ煙は雲散霧消し、大気へとかえっていった。


「にしても、最近よくこんな奴らを目にするな。」


 劇的にではない。だが多少の違和を覚える程度には、出くわすことが多くなった。


「これも報告かな。そんで今後どうするかは主サマの考え次第、ってところか。」


 こいつらについても調査するのか。

 それとも、神祇局の奴らに任せるのか。

 貫太郎がどういった判断を下すにしろ、天音は特に興味を懐かなかった。

 

「何にせよ、俺は只それに従うだけだ。」


 そう言うと天音は再び帰路に着く。

 公園に再び数体の影が集まり、残された灰のむくろを喰らう。

 それはさながら死肉に群れる禿鷹はげたかの如く。


「まるで以津真天いつまでんだな。」


 ポツリと・・・、背後で起こっているソレに、天音はそんな言葉を呟いた。


    ◆


 序章6 終わり

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