第34話 序章6の1 逢禍辻 "Hounted Streets"
1918年5月。
アメリカ西海岸の大都市、ロスアンゼルスの港に、二隻の日本の
同年の3月に横須賀を出港した
この二隻は、海軍兵学校の練習艦隊だった。
英国海軍の教育法に
それは練習艦隊の海洋演習であると同時に、渡航先の国との交流、友好を深めることも目的としていた。
そしてこの年は、アメリカがその渡航先だった。
練習艦隊はロスアンゼルスでの演習を経た後は、サンディエゴ、パマナ、ハワイと巡行し、同年7月に日本へ帰港する、といった内容の航海を予定していた。
停泊する巡洋艦の船員達は、当番の者を除いて
それは彼らが、一時の休暇を満喫するためであった。
というのも練習艦隊の教官は、下士官候補生達に異国の文化や空気に触れさせ、広い見識を待たせることを目的としていた為、こうした休息日には船外へ出るよう指示していたからでもあった。
人の気配が
一人は豊かな口髭を蓄えた50代程の初老の男だった。一目で分かる程に立派な仕立ての制服を纏い、装飾の施された軍刀を携えていた。
そしてもう一人は、それとは対照的にまだ10代にも満たないような少年だった。少年は、黒髪で顔立ちも東洋系のものだったが、髪は無造作に伸び、身体もひどく痩せていた。
今でこそ少年は清潔で綺麗な服を着ているが、この二人が遭遇した時の少年は、薄汚れたボロボロの布切れを纏っているだけ、という有り様だった。
「君が何故あのようなことしたのか、聞かせてほしい。」
初老の男が、正面に座り、俯く少年に声を掛けた。
男と少年の出会いは昨日の夜の事だった。
※
昨日の練習艦隊の海上訓練を終えた後、十数人の下士官候補生達と教官は、共にダウンタウンにある日本人町の酒場で飲んでいた。
訓練の疲れを癒す為、彼らは週末によくこうして飲み会を開いていた。
先日の公開演習や練習艦隊司令官の演説の盛況ぶりもあり、彼らが来るという噂を聞きつけた者達も加わって盛大な飲み会となった。
そして次の日が休日ということもあり、他の候補生や教官が一人、また一人と先に宿に戻る中で、彼はかなり遅くまで残っていた。
やがて彼が気が付いた頃には、11時を大きく過ぎていた。
夜も大分老け込み、酔いもかなり回っていた為、彼は、残っていたもう1人の教官と共に酒場を後にした。
明るい大通りから暗い路地へ。
土地勘のない異国の都市を、己の記憶を頼りに、宿に向かう。
か細い街灯の光を
そして突然、
「ねえ、おじさん。僕と遊ぼうよ。」
彼らの背後から、そんな声が聞こえた。
※
子供の声がだった。
驚いた2人は即座に振り返ると、奥に見える小さな脇道の暗闇から、小さな影がスルリと音も無く現れた。
「ねえ、遊ぼうよ。」
汚れてボロボロに擦り切れた布を纏った子供だった。
長く伸びた髪に隠れ、その顔は見えない。
だが何故か2人には、その髪の下に薄ら笑いを浮かべているのがハッキリと分かった。
酔いが急速に引いていく感覚を味わった。
「君、こんな遅い時間にどうしたんだい?
危ないから早く父さんや母さんの所に帰りなさい。」
隣にいた教官が、その子に優しく忠告した。
だがその声には、彼に対する警戒と恐怖が多分に含まれていた。
軍人としての経験か、或いは直観か。
2人は言葉にはできない嫌なモノを感じ取っていた。
「もしかして、家の場所が分からなくなったのかい?
それなら、一緒にお家を探してあげようか。」
教官は優しく声を掛けて歩み寄る。
それでも彼は、不審に思われない程度の間合いを保ち続けていた。
「”O Le ... ..ni .ete Mi..ari .ael”」
その子供は囁くように何かを呟いた。
ハッキリとその声は聞こえなかったが、聞き覚えの無い言葉だった。
少なくとも、英語では無かった。
「”La mese mihi Jasala Ale Jona”」
先の言葉よりかは明瞭に聞こえた。
だがそれでも、この子供が何を言っているのかが分からなかった。
ただ何となくだが、欧州のいずれかの国の言葉ではないか、と2人は思った。
「ねえ君、おじさん達にも分かるように英語で話してくれないかな。
そうじゃないと、君を家まで送ることが出来ないよ。」
その子の側にいた教官がそう声を掛けた。
すると彼は、ゆっくりと細い腕を差し出し、
「”Grita la tierra y llora el cielo,¿este es el defunción de la era?”」
小さく、だがいやにハッキリと聞こえる声で
その時、それを見ていた男に強烈な悪寒が走った。
何故かは分からない。しかし確信めいた予感があった。
だがその手から感じられる気配は、まるで巨大な猛獣を目の前にしているかのような圧倒的なまでの威圧感だった。
「おい、速くその子供から離れろッ!!」
男は思わず叫んでいた。
一刻も早く、この得体の知れない恐怖と危険から逃げ出すべく。
しかし遅かった。
その叫び声に素早く反応した教官であったが、その身体に突如、大きな衝撃が襲い掛かった。
衝撃を受けたその身体は、数メートル後ろに弾き飛ばされ、地面を転がった後に建物に衝突し、そのまま力無く地に伏した。
男はすぐさま吹き飛ばされた彼の元に駆け寄り、
「おい、おいッ!大丈夫か佐藤、しっかりしろ!」
必死で声を掛け、その身体を強く揺さぶった。
だがその呼び掛けや揺さぶりに、僅かばかりの反応さえも示すことは無かった。
一瞬、最悪の想像が脳裏を
そして、依然そこに立つ脅威へと目を向けた。
ソレは幽鬼のようなフラフラとした
男は焦る。
もし独りで逃げ出そうものなら、間違いなく佐藤教官がアレの餌食となるであろう予感があった。
かと言って対抗しようにも、軍刀や小銃といった類のモノは酒場へ行く際に、宿に置いて来てしまい、今は丸腰の状態だった。
彼は素早く周囲を見渡す。
そこには砕けたコンクリートの塊や煉瓦の破片といった
あの不気味な力の前では余りにも
(少しでも対抗手段と成り得るモノならば、それに賭けるしかない・・・。)
そう判断した男は、武器を拾うべく、全力で駆け出した。
「”Por puñados en la fe de Dios, perdiste tu libertad.”」
そこに異変が起きた。
駆け出した彼の身体が急に止まってしまった。
(まずいッ!)
そう思ったときにはもう既に手遅れだった。
手足を動かすことが出来ない。
数人がかりで締め付けられ、拘束されているかのような感覚だった。
何とか目線だけをソレに向ける。
ソレは佐藤に対してしたように、男に向けてその手を
そしてその向けた手が、次第に握られていく。
それと呼応するかのように、締め付けの強さが増していった。
「グ、ガ・・・ガアッ・・・!」
不可視の拘束が強まるにつれ、呼吸すらも
視界が明滅し、頭の中が焼ける様に熱くなる。
死がすぐ背後にまで迫っているのが分かった。
(もう、終わりなのか。)
その言葉が頭を
その瞬間、
「ガァッ・・・、ゲホ、ゲホ・・・、」
何が起こったのか理解できなかった。
あれほど強力に締め付けていた拘束が、突然消え去ったのだ。
※
「ハア、ハア、ハア・・・。」
その場に倒れ込み、大きく呼吸をする。
視界はいまだ赤く染まり、霞んでいた。
そして何とか立ち上がった彼は、足を引き摺りながら倒れている佐藤の元へと近寄り、
「おい、佐藤起きろ。」
再び声を掛けた。
やはり何らの反応も示さなかったが、彼には息があり、その脈拍も正常だった。
所々に擦り傷はあるが、致命傷となり得る大きな外傷は無かった。
一先ず命に別状があるような容体でないことに
状況が飲み込めず、取り敢えず近くにあった煉瓦を掴むと、恐る恐るソレに近付いて行った。
至近距離まで近付いてみてが、ソレの反応は無い。
そして気付く。
ソレは気絶し、意識を失っていた。
彼は更に接近し、ソレの詳しい観察を試みた。
その外見から日本人、或いは東洋系の7、8歳ぐらいの少年であること。
おそらくは
そしてそのことが分かると、急に遣る瀬無い思いがした。
確かにこの少年の手によって命の危機に晒されたが、かと言ってこのまま放置して立ち去るのも
その後、直ぐに先の酒場へと戻り、助けを求めた。
幸いにも酒場は、それ程あの場所から離れておらず、5分程度でその路地へと戻って来れた。
戻った時もまだ2人は目を覚ましておらず、それから数分後に救援の自動車が現れた。
車は路地を抜け、大きな道路を南に向けて走行する。
彼らは巡洋艦が停泊しているサン・ペドロへと向かっていた。
土地勘が皆無な大都市内の病院を探し回るよりも、艦内の医務室に運んだ方が良いと判断した為だった。
港へ到着すると留守番の船員を起こして、即座に少年と佐藤を医務室まで運んだ。
運び込まれてしばらくした後に佐藤は目を覚ました。
その後彼に、事の次第を説明した。
そして結局、少年が目を覚ますのは次の日の朝の事だった。
※
目覚めた少年は当然の如く初めは警戒していたが、2人は昨夜の
少年もまた警戒こそすれど、昨晩のような強攻手段に出ることは無く、大人しく彼らの話を聞いていた。
その後に、艦内の浴室、食堂へと少年を連れて行き、彼に今一番必要なものを与えた。
身体を洗って汚れを落とし、新品の清潔な服を与え、飢餓を十分に癒すだけのもてなしをした。
そうして少年の警戒心が大分溶けた頃を見計らって、彼を艦内のある一室に招いた。
「私の名は、
昨夜はあのような形の出会いとなってしまったが、今改めて君に挨拶をしたい。
そして、君が何故あのようなことしたのか、聞かせてほしい。」
初老の男は自らの名を名乗り、少年にそう問いかけた。
少年は、しばらくの間、うつむいたまま黙っていた。
その後、度々何かを言いたげに顔を上げるも、話し出すには至らなかった。
相手が子供なだけに、無理やりに問い
(さて、どうしたものか。)
と思案していると、そこで司令官室の扉が開き、佐藤が入って来た。
「ああ、司令官殿・・・、もう始めてしまっていたのですか。これは失礼を致しました。」
「いや構わんよ。こちらもあまり進展はなかったからな。」
言葉を交わした後に、佐藤は少年に近付き、
「俺は佐藤。
司令官の補佐と下士官候補生達の教官をやっている。
まあ、昨日はなんかいろいろとあったが、改めてよろしくな。」
と朗らかに自己紹介をして、港で買って来たであろう菓子と飲み物を手渡した。
「あんまり子供を怖がらせちゃあ、いけませんよ、司令官殿。
誠実で、真面目なのが司令官殿の良い処なんですが、そんな堅い表情だと、この子も怯えて固くなっちまいます。
もっとリラックスした笑顔でいきましょうよ。」
そう悪戯っぽく言って、鈴木にも買って来たものを手渡した。
「むう、そうか。
少年よ、すまなかった。この通りだ。」
そう言った鈴木は、少年に向かって深々と頭を下げて謝った。
「全然固いですって。
そこまで改まられると、逆に困ってしまいますから。」
佐藤は呆れたように言った。
そんな二人のやりとりを見ていた少年はクスリと笑った。
「おじさんたちは、面白い人たちですね。それに、とても優しい人たちです。」
初めて二人に見せる純粋な笑顔だった。
※
「僕は、アマネと言います。
アマネ・リベルタ・サクラメントです。
昨晩は本当にごめんなさい。」
そんな言葉に対して、
「まあ、そんなに気にするなよ。」
「彼の言う通りだ。何はともあれ、今こうして我々は、五体満足でいるのだからな。」
2人は特に気にしていない風に言った。
いや、実際に本心から気にしていないようだった。
「ありがとうございます。」
そんな彼らの反応に、少年の罪悪感も幾分か軽くなった。
「それでは改めて、君の事を教えてはくれないだろうか。」
「はい、わかりました。」
そして少年は、自らの身の上を語り始める。
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