第20話 序章4の4 ナハツェーラー

「リーザさん・・・、その姿は一体?」


 その変貌を目の当たりにしていたレオンも、ハイジ同様に驚きと、そして恐れを隠すことは出来なかった。


「数年ぶりぐらいかな?

 でも、あなた達に見せるのは今日が初めてね。」


 リーザは、いつの間にかヴォルターから離れて子供達の傍に立っていた。


「はあ・・・。あんまりこの姿に成りたくないんだけどね。肩が凝るし、それに元に戻るのにも数日はかかっちゃうから。」


 元の面影の殆どが消え去ってしまっても猶、彼女の普段の軽口は健在だった。


「お母さま、どういうことなの?」


 うーん、とリーザ考え込んだ後に、


「本気モード、みたいな? とにかく後はママ達に任せなさい。今の私はちょっと強いよ。」


 そう言って、フフン、と鼻を鳴らした。


「でも・・・。」


 ハイジは不安が拭えなかった。

 あんなにも恐ろしい怪物が3体もいるのに、母一人でどうにかできるとは、どうしても思えなかった。

 ヴォルタ―の方に目を向ける。

 ハイジの視線と意図に気付いた彼は、


「大丈夫だハイジ。母さんがああなれば、何の問題ない。」


 彼女の懸念を払拭するかのように、アッサリ断言した。


「さーて、それじゃあ反撃といきましょうか。」


「ああ、今度はこちらの番だな。」


 ヴォルターは不敵に笑う。

 そしてリーザも、いつものように悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 しかしソレはひどく獰猛で、無垢な残忍さを孕んでいた。

 ハイジがリーザの笑顔を恐ろしいと感じたのは、この時が初めてだった。


「あなた達はここで待ってて。すぐに終わらせて来るから。」


 リーザが言い終わると共にヴォルターは、疾風の如くの迅さで駆け出す。

 その彼に追従する形でリーザは、宙を舞う。

 彼女は、黒煙やら藁やら布切れなどが混ざり合ったような奇怪な姿へと変容していた。

 一人の人間と、黒煙の如き不定形の物体が、恐ろしい速さで木々の間を縫い進んでいく。

 あっという間に二人は、ハイジとレオンの視界から消え去ってしまった。

 そして、


「レオン、行くよ。」


「え、でも待ってろって、」


「いいから、早く!」


 ハイジは墓地に向かって駆け出す。

 最早、父と母を案じてはいなかった。

 もっと別の気持ちがハイジの中に浮かんだのだった。

 あえてソレを例えるなら、好奇心とでも言うべきか。


 これから何が起こるのか。

 一体、どんな結末を見せられるのか。


 一種、抗い難い感情にハイジは駆り立てられ、突き動かされたのだった。


    ※


 二人はすぐに森の出口に着いた。

 木々の隙間から、墓地の様子がハッキリと窺える。

 呪文を唱えているリーザと、彼女の前方で3体の吸血鬼に対峙しているヴォルターの姿があった。

 墓地の中では、既に戦闘が始まっていた。

 だがしかしそれは既に一方的な展開となっていた。


 吸血鬼ヴァンピールは時間差で相手の隙を突き、または同時に相手に襲い掛かり、そして後方のリーザに狙いを向ける。

 協力とまではいかずとも3体の吸血鬼は、明らかに戦略の意図を持って強襲を掛けていた。

 しかしそれらの何一つが、ヴォルターには通じなかった。

 先刻よりも明らかに、そして比べるべくも無くヴォルターの動きが、段違いに変化していた。


 そして彼が獅子奮迅の殺陣たてを繰り広げている間にも、リーザは準備を進めていく。


「”Der Mond ist aufgegangen, Die goldenen Sternlein prangen am Himmel hell und klar.”(月は昇り、金色の星々も煌々こうこうと輝く、まばゆいばかりに澄んだ空。)」


 一体の吸血鬼が恐ろしい速さで、リーザに迫った。

 しかし、その速度を遙かに上回る速度でヴォルターが回り込み、ソレを切り伏せる。


「”Der Wald steht schwarz und schweiget, Und aus den Wiesen steiget, Der weiße Nebel wunderbar.”(森は黒々と黙して眠り、野原より立ち込める霧は白々と妖しくさまよう。)」


 更にもう1体。

 今度はヴォルター目掛けて、剛腕を叩き付けた。

 彼は、その振るわれた一撃を真正面から受け止めた。

 驚愕するべきは、彼が相手の力を利用した受け流したりなどせず、真っ向から膂力りょりょくで対抗したことだった。

 そしてあろうことか、吸血鬼相手にヴォルターは己が腕力でソレを弾き返し、生じた隙を突いて剣を振るう。


「”So legt euch denn, ihr Brüder, In Gottes Namen nieder! Kalt ist der Abendhauch.”(さあ諸君、神の名の下にその身を横たえよ。夜風は冷たく心地よい。)」


 吸血鬼ヴァンピールは、斬られた手足を即座に拾い上げると切り口に癒着させる。ソレはものの数秒もせずに、その切断された箇所と結合し、即座に機能を取り戻す。

 そして再生する片っ端から、吸血鬼は彼らに襲い掛かっていった。


 だがそのことごとくが、ヴォルターただ一人に撃退されていくのだった。そして、


「”Verschon uns, Gott, mit Strafen und laß uns ruhig schlafen. Und unsern kranken Nachbar auch!”(ああ神よ、我らの罪を許し、その安息の中に沈めてほしい。そして病めるともがらには、安らかなる眠りを与え給え。)」


 今ここにリーザの詠唱が完了した。

 それと同時に、その細身からは想像も及ばないほどの強大で濃密な気配が、リーザから発散されていた。


「はーいお父さん、ご苦労様でした。それじゃあ、いっくよー。」


 そして異変は起きる。

 月光によって生じていたリーザの影が揺蕩い、膨らむ。

 数秒間の蠢動と膨張の後に、ソレは爆発した。

 リーザを中心に、何百本もの地を這う影の触手が放射状に生じた。ソレは即座に向きを変え、吸血鬼の方へと殺到して行く。

 そしてその中の一本が、吸血鬼の足に触れた。

 その途端、あれだけ恐るべき速さで駆け回っていた吸血鬼が、ピタリと、その動きを止める。

 まるで縫い止められたかのように、吸血鬼は停止させられた。


「はい、つっかまーえたー。」


 そんな明るい声の後、


「”Infernoloh!”(業火に焼かれろ。)」


 その磔にされた足下から、巨大な火柱が噴き上がった。

 想像を絶する火力だった。

 火柱が生じたのは精々が数秒程度だったが、火柱が消えた後、そこには既に吸血鬼の姿は無かった。

 例え手足を着られても何度でも再生して攻撃してきた吸血鬼を、リーザはいとも容易く灰すら残さずに抹消してしまった。


「そんな・・・。」


「こんなのって、」


 その始終を見ていたハイジとレオンは息を飲んだ。

 あれほど猛威を振るい、二人を恐怖に染め上げた吸血鬼が、あっさりと、あっけなく葬り去られてしまったのだ。

 残りの吸血鬼も、その影の触手の脅威を理解したらしく、必死でその魔手を回避していた。

 まだ幾分か、吸血鬼たちの方が速いらしく、簡単には捕まらなかった。

 その内の一体が林の側を通り抜けた時、ハイジたちの存在に気付いたようだった。

 そして急激に向きを変え、林の中へと迫っていく。


「くッ!」


「気付かれた!」


 ハイジとレオンは素早く臨戦態勢を取った。


「あら、あの子達来ちゃったの。待ってて、て言ったのに・・・。」


 吸血鬼が今まさに、その剛腕で薙ぎ払わんとばかりに、腕を振り上げる。

 ハイジとレオンは、その一撃を躱さんと、必死の思いで回避する。

 そしてそれと同時に、影の触手の一本が林の影に触れた。


 その次の瞬間、林の総てが凍り付いた。

 振り下ろされた剛腕は宙で静止し、ハイジとレオンの足が地面に貼り付いたまま、微動だに出来なくなった。

 更には夜風に吹かれていた木々のざわめきもピタリと止んだ。


 目は見える、音は聞こえる、呼吸も出来る。

 無意識的な身体機能は、問題なく動いている。

 だがしかし意識的な機能は、指の一本はおろか、まばたきすらも出来なくなっていた。


 そして凍り付いた者達全員が、即座に理解した。

 影で繋がったモノ総てが、その自由を奪われたことを。

 月光星光を遮る木々の影に、リーザの影が触れた瞬間、ソレが全てを侵食してしまったことを。


 皆が理解し、そして誰もが戦慄する。

 目の前で起きたことが、己が身に起こったことがまるで信じられなかった。

 ソレは、たった一滴の墨汁で池沼ちしょうを黒く染め上げようとする行為に等しい、およそ不可能な所業だった。

 だがリーザは、いとも容易くソレをやってのけてしまったのだ。


「もう、何で来ちゃったの? 待っててね、て言ったのに。」


 いつの間にか、リーザが静止した吸血鬼の背後に立っていた。

 凍り付いた世界で只独り、リーザだけが動いていた。


「まったく、帰ったらお説教だよ。」


 彼女は頬を膨らませていた。

 子供の些細な悪戯を窘めるかのような、ひどく場違いな口調だった。

 だからこそ、背筋が震えた。


 リーザは、吸血鬼に手をかざす。

 すると、瞬く間にソレの全身を炎に包まれた。

 ハイジや森のことを考えたのか、先の火柱よりも大分火力は抑えられていた。

 それでも数十秒くらいが経った後に残されていたのは、人間の形をした炭の塊だった。


 そしてリーザの凍り付いた世界は、また動き出す。

 木々の葉鳴りも、再び聞こえ始める。

 だがその炭塊は、ピクリとも動くことは無かった。


「あ、あの・・・、お母さま。」


「ごめんねハイジ、もう少しだけ待ってて。まだ1人、残ってるから。」


 ハイジの言葉に取り合わず、リーザは踵を返した。


『待って!』、とは言えなかった。

 母を呼び止め、何を言おうとしたかったのか。

 ハイジ自身にも分からない。

 そして吸血鬼の脅威が消え去った今も猶、背筋の寒気はハイジを蝕んでいた。 

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