第11話 序章3の6 天啓

 千春は茜のむくろを抱きしめ、泣き叫んでいた。

 悲嘆に暮れる少女の身体を、雨粒が容赦なく打ち据える。


「どうして・・・、」


「どうしてこの子が、茜が、死ななきゃならないの!」


 少女の哀哭あいこくが夜の町に木霊こだまする。


「茜が・・・、私達が!いったい何をしたって言うのよ!!」


 千春の中で今まで溜まり、わだかまってきたものが、この瞬間にあふれ、流れ出した。



「ただ幸せになりたかった!茜も、私もそれだけしか望んでいなかったのにッ!」


「故郷に帰りたかった!」


「父さんや母さんに会いたかった!」


「また一緒に遊びたかった!」

 

 感情が怨嗟となって紡がれた。


「ただそれだけを望んで、夢見て、待ち焦がれて・・・。

 あの地獄を我慢し続けて、耐え抜いてきたのにッ!」


 己の無力さを、怨んだ。


「その果ての仕打ちが、コレか!」


 誰もが憎かった。


「それとも、コレは報いだって言うのッ!」


 世界が恨めしかった。


「ただ一つの幸せを願うことすら、私達にとっては許されない罪なの!」

 

 神が忌まわしかった


「何が・・・、神だッ!」


「何が・・・、全てを救うだッ!」


 怒りも、悲しみも、悔しさも、何もかもが溶け合い、混ざり合っていく。

 やがてそれは、一つのより強い恨みの感情へと昇華しょうかされていった。

 昇華された感情は、灼熱に燃え盛る溶岩のように鈍くうねりを上げる憎悪となった。

 真っ黒に燃え上がった怨恨が、身体の隅々まで満ち満ちて支配していく。


「・・・絶対に、許さない!」


 それが、何に対して向けられた怨憎なのか、千春にも最早、判断付かなかった。

 この時の彼女はそれほどまでに、この世全てのモノを怨讐おんしゅうし、呪っていた。

 そしてその呪いの対象として、周りの通行人を選んだ。

 

「壊してやる、何もかも。」


 その囁きは、少女の声とは思えないほど恐ろしく低いものだった。

 尋常でないほどの殺意をたぎらせた少女の姿は、抜き身の刀身その物がであり、分かる者には即座にその異常性を察知し、逃げ出すであろう程に危険なモノへと変貌していた。

 しかしここにいる者達は今も猶、皆が千春の存在を己の頭の中から抹消し、存在しないモノとし扱っていた。

 故に誰もがその異常性に気が付くことができない。

 誰も彼もが自身の作り上げた平穏げんそうを、現実のものとして疑っていなかった。

 その姿の全てに、薄ら寒い演技めいたものを感じた。

 その浮かべる笑みの全てが、道化の仮面を貼り付けているかのように見えた。

 そんな周りの者達のいびつさが、千春の殺意を余計にたかぶらせた。


(ソンナニモ、)


「そんなにも、幻想ソレが大事かよ・・・。」


(ナラバ、イイサ。私ガ・・・、)


「私が、ソレを粉と砕いてやろう。」


(ソシテ、オ前ラモ、コノ私ガ、)


「喜びのうちに、滅ぼしてやる。」

 

 千春を捕らえた憎悪と殺意は、その感情をどす黒く染め上げる。

 そして漆黒に燃焼する感情のままに、目に着くモノを引き裂いてやろうと、腰を上げたようとした。

 その刹那・・・、

  

「そこまでだ。早まってはいけないよ。」


 優しげな声が、背後から聞こえた。


「・・・!?」


 その瞬間に何が起こったのか、全く理解できなかった。


 千春の視界に映る総てのモノが、停止していた。

 文字通り止まっていた。

 人間の群れが、只の一人たりとも微動だにしない。

 振り続く雨までもが、凍り付いたかのように止んだ。

 無数の小さな雨粒が、空中で静止する。

 あれだけの喧騒が、嘘のように静まり返っていた。

 そして当然、千春もその縛鎖ばくさに囚われていた。

 意識は有る。だが千春の身体はピクリとも微動だにしない。指先を動かすことも、首を捻ることも叶わず、瞬きすらも出来ない。

 時間が停まったかのような世界。

 しかしただ一つ。いや、正確にはただ一人。

 耳が痛くなる程の静寂の世界の中で、唯一、背後から近付いてくる足音だけが、この世界に存在する音だった。


 背後の足音は段々と大きくなる。

 そして茜の亡骸を抱えて座り込んだまま、ピクリとも動けずにいる千春の横を抜けた。

 千春の視界の端から現れたソレは、次第にその中央へと移動していく。


「んん、実に凄まじい殺気だ。

 君のような少女が、それほどまでに憎悪を滾らせ、殺意をばら撒くとは、およそ並大抵の悲劇ではあるまい。

 さぞかし筆舌に尽くし難い程の苦難を味わったのだろうね。

 心中をお察しするよ。」


 千春から少し離れた所で立ち止まったそれは、軽快な調子で述べた。


(心中を察する、だと。

 知った風な口をくなッ!

 何様のつもりだッ!)


 しかしその怒りを声に出すことすら叶わない。

 千春の感情は、突如現れた目の前の不快な者へと向けられ、殺到した。

 

「ああ、怖いねえ。

 そんな目で睨まないでおくれ。

 そんなにも激烈な憤怒を浴びせられては、か弱い僕はもう気が気でないよ。」

 

 両目を閉じ、怖がる素振そぶりを見せながらもソレの軽口は続く。


「だが、先ほど述べた通りだ。短気は良くない。

 ああ、確かに一時の狂気に身を委ねるもの悪くはないのだろう。」


「だが、君の場合はタイミングが悪い。」


 ソレは千春から視線を外し、凍り付いた世界へと向ける。


「こうして動かぬ彼らを見ると、実によく分かる。

 今この瞬間ですら猶、我は知らぬ存ぜぬ、か。

 ここまで来ると、最早滑稽だね。」


 彼は肩を竦ませ、嘲笑した。


「それで仮にここで、そこらの人間を、狂気のままに己が牙に懸けたとしよう。

 今の君ならば、連中の十や二十いとも容易くほふることもできるだろう。」


「だが、それが何となる?」


 再びソレは千春を覗き込む。


「いずれは惨状を聞き、駆け付けた警察か、憲兵か・・・、まあどちらでも良いがね。

 彼らに囚われて、儚く無駄にその命を散らすことに変わりはない。」


「最後の散り際を盛大に彩りたいというのが君の本心ならば・・・、まあ、僕個人としては余り賢い選択とは思えないが、無理に止めはしない。」


 実に下らない、と言わんばかりに呆れるような苦笑を交えて呟いた。


「さて、どうかな?

 君は本当に、その様な終わりを望むか?

 そんな終焉を良しとするのが、君の本懐か?」


「そして君が今猶、大切に抱えている今は亡き少女も、そんな結末を望んでいただろうか?」


 ソレの言葉はそこで区切られた。

 だがその目は、ハッキリと言外に千春に告げている。


 ”そんな訳がないよなあ”、と。


(そうだ!そんなもの、私の望みじゃない。

 高が、連中の十や二十を殺したところじゃ、何の価値も無い。

 何も成せずに犬死になど、絶対に嫌だ!)


 声に出せずとも憎悪に滾る千春の目もまた、言葉以上にその意志を訴えていた。

 

「フフ・・・、」


 ソレは、笑う。

 新しい玩具を見つけた子供のような純粋さで、おぞましく破顔はがんした。


「ああ、君の意志は十分に理解した。」


 了承の合図とばかりに、被っていた帽子を脱ぎ、それを胸に当てて軽くお辞儀をするように頭を下げた。そして千春の元へ歩み寄る。、


「これで動けるようになった筈だよ。」


 千春の頭を軽く撫でると、凍り付いたように微動だに出来なかった身体は、再び自由を取り戻した。

 解き放たれた千春は、改めて彼を注視した。

 

 しかし、彼を見れば見るほど、千春は混乱していった。

 背格好については、何ら不思議なところは無い。

 その身体はその辺の人間と大差無く、服装もスーツにネクタイに帽子という有り触れたものだ。

 

 だがその容姿に、大きな違和感を覚えた。

 ひどく印象の薄く、彼の容貌の特徴を掴むことが困難な顔立ち。

 顔全体のバランスとしては、整った顔立ちではあるようだった。

 しかし水面越しに覗いているかのように茫漠ばうばくとしており、あたかも顔の輪郭が絶えず揺蕩たゆたい、変化しているというような錯覚を受ける不明瞭さだった。

 貌の特徴を捉えようにも、見た記憶は、片端からすぐにかすみのように不鮮明で曖昧模糊あいまいもこなものへ転じてしまう。

 耳へと入り込むその声も、脳で言葉を理解していく端から、その声の特徴も即座に霧散むさん霧消むしょうし、声質を覚えることも出来ない。

 

 その服装から、男であることには間違い無いはずだった。

 そんな男に、千春が懐いた印象は、ただただ薄気味悪いだった。


「そんなにまじまじと凝視しないでほしい。流石に僕も照れる。」


「黙れ。」


 そして、ただただ不快だった。


「これは失礼。ちょっとした冗談だよ。。」


 千春は憎悪と殺意の宿った視線で一段と強く、不愉快な男を睨みつけた。

 そして、その男に感情をぶつけて叫ぶ。


「でもならば、私はどうすればいいのッ!」


「茜を殺したこの町が、世界が、何もかもが憎い。

 絶対に許せないッ。それなのにッ!」


「復讐する力すら、今の私には無い!」


「ねえ、どうしてッ!神は、私に復讐する権利すら与えてくれないの!」


「それとも、コレが・・・、このざまが、私の運命だとでも言うのッ!」


「何も出来ず、何も得られず、何もかも奪われて。

 惨めに哀れにひしゃげてつぶれて逝けって・・・。

 ソレがお前に相応ふさわしい未来だって、言うのかッ!」


 無我夢中で叫び、呪いを吐き出し続けた。

 少女は憎かった、恨めしかった。

 この世の理不尽が、不条理な運命が、ソレを定めた何者かが・・・。

 

「ウゥ・・・、ヒック・・・。」


 爆発させた感情が、涙となって流れ出す。


 その男は、ただ黙して少女の慟哭を聞き入れた。

 その怒りも悲しみも憎しみも、ひたすらに一身に浴び続けた。

 そして目の前の少女が涙を流し、崩れ落ちると、その小さい頭を優しくいつくしむように撫でる。


「確かに運命とは、斯くも無情で残酷なものだ。

 運命に抗え、運命を覆せ・・・、言葉にするのは容易よういだが、それをげられる者はごく少数だ。」


「まして、人一人の身で持ち得る力など僅かであり、運命の強大さの前では、所詮は風前の灯。」

 

「だが・・・、」


 そこで、男は口角を釣り上げ、残忍に、獰猛に微笑む。


「それはあくまで、人のことわりの中であればの話だ。

 その道理から外れれば、或いは・・・、」


 含みのある言い方だった。。


「理を・・・、道理を、外れる・・・?」


 千春はその言葉を復唱する。


「そう、道理を捨てる、外道に堕ちるということだよ。

 運命というのは、結局は人間の理の中で論ぜられるものであって、その埒外らちがいに在るモノには意味を成さない。」


「そして、僕は君に協力する為に来たのだよ。

 君は今、力が無いと嘆いたね。ならば、僕がその力を君に与えよう。

 君の意志は、思いは、先に十分過ぎる程に受け取った。

 そして君には、それを受け取るに足る権利も資質も持ち合わせている。」


 諸手もろてを広げ、大仰おおぎょうな芝居掛かった口調で告げる。


「外道に、堕ちる・・・。」


 千春がその言葉を吟味する。


「そうだ。人間であることを辞め、化物として生まれ変わるということだ。

 まあ正確には、化物に変貌するのではなく、魔道に身を委ねる訳だが。

 おおよそ人間を超越するという本質には変わりない。」


 淡々と、しかしどこか楽しそうにソレは言葉を並べる。


「人の身を超越し、定められた己が命運めいうんを破壊し、新たな運命うんめいを切り開く。

 そしてその果てに幸福を掴み取る・・・、コレが君の願いだったね。」


「私の・・・、幸せ。」


 ああ、それは私達が恋い焦がれたもの・・・。


「そう、君の幸せだ。なあに、誰にはばかることがあろうか。

 君達は今まで、数え切れないほどの苦汁を舐めてきた。

 それが今まさに報われようとしているのだよ。

 それをはばむ権利など、誰にも有りはしない。」


 その言葉は蜜のように甘ったるく、魅力的だった。

 魅惑の蜜は、千春の脳髄へと浸み渡っていく。


「君が抱える愛おしく心優しい少女もまた、最後の瞬間まで君の幸福を願っていたはずだ。」


「あ・・か・・・ね、」


(そうだ、この子もあの時、笑って、私の幸せを願って・・・。)


 ソレは、抗い難い程心地よい甘言。

 契約書に判を押せと、囁き掛ける悪魔の甘言。


「そして、魔道の力は奥深い。

 君がそれを極めた暁には、むくろとなった少女も再びその瞳を開き、君らが渇望した理想へと至れるだろう。」


 ソレが最後の一押しとなった。

 千春はその差し伸べられた手に・・・、悪魔の約定やくじょうに腕を伸ばし、ソレを掴み取った。


「これにて契約は成立した。」


 男は優しく残酷に告げた。


「僕の力を君に分け与えよう。そして君は、その力を存分に振るうが良い。」


 そしてそれは起こった。

 茜の身体から流れ落ちる血が、蠢き、宙を舞った。

 その血は、千春と男を中心として真円の陣を地面に敷き、それに追従するように幾つもの見たことも無い文字や幾何学的な紋様を、瞬時に描いていった。

 円陣は描き終わると同時に、妖しく黒く輝いた。

 千春が足元の陣に釘付けになると、突如、視界の端・・・、男の袖口から黒く細く蠢くモノが五本見えた。

 そして思わず、息を飲む。

 黒いソレは、男の皮膚の薄皮一枚下を蠢き、徐々に降りて来た。

 手首、掌、指・・・、そして指先と来た瞬間、千春の全身に怖気おぞけが走る。

 ソレが手の中滑り込んできたのだと、直観した。

 痛みは無い。

 だがソレが、手の中を、腕の中をなまめかしく這いずり回っている淫靡いんびな感触が、身体の内側からせり上がって来る。

 男共になぶられているような恐怖と耐え難い不快感に、千春はその男を睨む。

 

「ああ、済まないね。こいつらいは、女性が好みだから。」


 悪びれもせず他人事のように、その原因おとこは告げた。

 

 ソレいが腕を抜けると、枝分かれし、身体の中に広がっていく。

 水のように臓腑はらわたを満たし、油のように骨髄こつずいへと浸み渡る。

 頭に達した呪いは脳髄を侵し、腹部に達した呪いは子宮を犯した。


「あ、ああ・・・、ぐ・・、ハ、ア・・・、」


 眼球の奥深くをむしる激痛と、腹中から沸き上がる淫楽いんらくに、叫びとも喘ぎとも付かない声を漏らした。

 全身の隅々、あらゆる箇所に、力を、呪いを流し込まれ続けた。

 身体中が痙攣けいれんし、既に意識は薄らぎつつある。

 千春の髪が色を失い、真っ白に染まっていく。

 そして再び、足下の魔法陣を描いた血が淡く輝いたまま浮かび上がり蠢くと、それは千春の中へと殺到していった。

 その全てが、千春の中へ吸収されると、千春を襲っていた感覚も嘘のように霧散した。

 そして魔法陣も既に消え去っていた。


「ハア・・・、ハア・・・、」


 あらゆる感覚から解放された直後、新たに一つの衝動が鎌首かまくびもたげた。

 それと同時に、胃に鈍い痛みが走る。

 

 アア、オ腹ガ、空イタ・・・。


 その衝動は、強烈な飢餓感だった。


 真ッ白デ、何モ、見エナイ・・・。何カ、早ク食ベナイト・・・、

 オ腹ガ・・・、痛イ、痛イ、痛イィィィィ!

 食ベタイ、食ベタイ食ベタイ食ベタイ食ベタイ食ベタイ食ベタイ・・・。


 そして、己が抱えているモノに気付く。


 コレハ、何ダロウ。

 コレヲ、食ベレバ、イインジャナイカ?

 イヤ、コレハ、何カ大切ナ・・・、モノ・・・?ダッタヨウナ・・・。

 イヤイヤ、今コノ飢エヲ満タス以上ニ、大切ナコトナンテ、無イ・・・。

 本当ニ?

 本当ダトモ。

 デモ、何カ忘レテイルヨウナ・・・。


「何も忘れていないとも、先ずはその飢えを満たして、それから考えようよ。」


 ジャア・・・。


「そう・・・、ならば、」


 先ズハ、コレヲ・・・、


 そして千春は・・・、


 食べた。

 食べた。

 食べた・・・・。


「く・・・、くく・・・、くはは・・・、ははははは、アーッハハハハハハハハハハハハハハハハッ!」


 一心不乱に少女が少女に喰らい付き、その臓腑を咀嚼そしゃくし、その血をすする。

 己の飢餓感を満たすことに耽溺たんできする少女の姿が、目の前で繰り広げられていた。


 男は、心の底から眼前の少女を称賛し、侮蔑し、祝福し、嘲弄し、礼賛し、嗤笑する。


「アーッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!」


 哄笑こうしょうは、何処どこまでも、何処どこまでも響き渡り、夜空の下に木霊こだましていた。

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