氷上の記憶2

「へえ。これはまた凄いな。あのご婦人はよっぽどお前の事を気に入ったと見える」


 後ろからトランクを覗き込みながら、アルべリヒさんが感嘆の声を漏らす。

 こんな大金を目の前にしても取り乱した様子は無い。一体どういう神経をしているんだ。

 反対にわたしはうろたえてしまう。


「ま、まさか。こんな大金、きっと何かの間違いですよ……」

「だが、あのご婦人は、その大金は自分にはもう必要ないと言ってたじゃないか。だったら、お前に渡すつもりだったんだろう」


 確かに言った。もう必要のないものだからって。でも、わたしにはなんとなくその言葉が引っ掛かった。


「ねえ、アルベリヒさん。こんな大金をもう必要ないなんて思える人って、一体どんな人だと思いますか?」

「そうだな……よっぽどの大金持ちか、よっぽどの大間抜け。他に何が考えられるっていうんだ?」

「ええと、それは……もう何もかもいらないと思っている人、とか」

「何もかも?」

「ええ。お金を含めた全てのものを」


 アルベリヒさんが眉を顰める。


「コーデリア。お前、何が言いたいんだ? あの人がその『何もかもいらないと思っている人』だっていうのか?」

「だって、ソフィアさん、帰る前に言ってたんですよ。『に素晴らしいものも思い出させてもらった』って。それに、旅に出るって言ってたのに荷物も持たずに、こんな大金まで置いていって。ソフィアさんの言ってた『旅』って、もしかして……」

「……まさか」


 その先の事を口に出せずにいるわたしに対して、アルベリヒさんも何かを感じ取ったようだ。一転してその場の空気が緊張で張り詰めたような気がした。


 最後。その言葉の意味を考えて、ぞっとするような思いに襲われる。

 もしかして、ソフィアさんは最後に旦那さんとの記憶を思い出したくてここを訪れたのかもしれない。

 そして一番見たかった思い出を見て満足した彼女は、もう何もかも必要ないと思ったのでは? お金も、もしかすると生に対する執着さえも。彼女の言っていた『旅』というのはこの世界からの旅立ち。だから、不要になったあのトランクをわたしに託して……。

 わたしはよろよろと立ち上がって、アルベリヒさんの腕に縋りつく。


「どうしよう……どうしようアルベリヒさん……! もしかして、わたしの魔法がソフィアさんにそれを決断させてしまったんじゃ……!」

「おい、落ち着け。まだそうと決まったわけじゃない」

 

 アルベリヒさんがわたしの肩を掴んで揺さぶる。


「だが、もしもお前の言うとおりだとしたら、俺達はなんとしてもあの人を止めなけりゃならない」

「でも、どうやって……」

「彼女がここにきた理由を考えろ。彼女が最後に思い出したかった記憶。おそらく彼女にとってその記憶は特別だったはずだ。それなら今も、その記憶に関係のある場所に向かっているかもしれない」

「それって、あのスケート場……?」

「どこだ? 俺はその記憶を見ていないからわからない。コーデリア、お前が見た光景だけが頼りなんだ」

「で、でも、わたしも王都のことは詳しく知っているわけじゃないし……」

「何でもいい。お前が見たものを教えてくれ。俺が考える」


 わたしは懸命に記憶を探ろうと、口元に手を当てて考える。


「ええと……どこかの大きな池で、冬にスケートができる場所で……公園みたいに木に囲まれてました」

「そんな公園、王都にはいくつもある……他には? 近くに何か特徴的な建物だとかはなかったか?」


 問われて思い出した。


「あ! そういえば、池から時計台が見えました。木よりも高い位置に見えたから、結構な大きさかも」


 それを聞いてアルベリヒさんははっとしたように顔を上げた。


「シンクレア公園……たしか時計台が近くにあったはずだ。大きな池もある。条件に合う」


 わたしたちは頷き合うと同時に家を飛び出した。

 暗くなり始めた道を必死に走って、アルベリヒさんの背中を追いかける。

 わたしはシンクレア公園の場所を知らないのだ。見失わないようにしなければ。

 精一杯走っていると息が上がってくる。呼吸が苦しい。心臓は早鐘を打っているようだ。でも、こうしている間にもソフィアさんは……。そう考えると足を止めるわけにはいかなかった。


 どれくらい走ったか。不意に鐘の音が耳に飛び込んできた。

 はっとして顔を上げると、大きな時計台が見える。

 あれだ。記憶の中で見た時計台。それじゃあ、シンクレア公園は近くにある……?

 そう考えた瞬間、目の前が開けた。青々とした芝に覆われた地面。時折生えた木々の隙間に遊歩道が伸びている。記憶の中の雪景色の公園とは随分印象が違うが、おそらくここがシンクレア公園なのだろう。

 わたしたちはすっかり人の気配のなくなった公園内を駆けながら辺りを見回す。


「ソフィアさーん!」


 息を切らしながらも必死にソフィアさんの名を呼ぶも、返事はない。

 それでなくとも、あたりは徐々に夜の闇に侵食されつつあるせいで、どんどん視界が悪くなって行く。

 焦りを感じ始めたその時、遠くで何かが微かに光ったような気がした。

 目を凝らすと、水の表面が揺れて光を反射しているようだった。

 池があるのだ。それなら……と、あたりを見回すと、池のほとりに佇む一つの影を見つけた。

 ソフィアさん……?

 大きな帽子のシルエット。間違いない。ソフィアさんだ。彼女は池のほとりに頼りなげに佇み、今にもその身は崩折れそうだ。


「アルベリヒさん、あれ!」


 ソフィアさんを指差すと、アルベリヒさんは頷いて駆け出す。


「ソフィアさん! 待って! 待ってください!」


 叫ぶわたしの声が聞こえないのか、ソフィアさんは池を覗き込むように、その身を乗り出す。まるでその身を池に投げ出すかのように。


 だめ! やめて!

 

 わたしが心の中で叫んだ時、


「くっ……!」


 という声と共にアルベリヒさんが腕を振り上げた。

 次の瞬間、池の表面が白いもので覆われる。

 びきびきびき……という音と共に、たちまち水面が凍りついて行く。真っ白い冷気を発しながら、池の表面はあっというまに氷で覆われてしまった。

 そうか、水が凍ってしまえば身を投げることはできない。


 突然の出来事に、ソフィアさんは混乱しているようだったが、その間にアルベリヒさんが駆け寄り、彼女の腕を掴む。

 その事にびくりとしたようにアルベリヒさんに顔を向けたソフィアさんだったが、呆然としたように


「アルベール……?」


 と呟いた。

 アルベール……確かソフィアさんの旦那さんの名前だ。アルベリヒさんに少し似ていたという。薄暗いこの場所で似た人の顔を見て、思わずその名を呼んでしまったのかもしれない。


「あなたは……! なんて馬鹿なことを……!」


 アルベリヒさんが声を荒げると、ソフィアさんは顔を両手で覆い、その場に座り込んでしまった。


「ごめんなさい、ごめんなさい……だって、わたし、寂しかったの……アルベールが亡くなって、ひとりぼっちで、もう一緒にスケートをしてくれる人もいない。そんな人生が、もう嫌になったの……ごめんなさい」


 ソフィアさんは少女のように泣きじゃくる。その姿に痛ましいものを感じた。この人は、愛する人を失ってから、ずっと孤独に過ごしてきたのかもしれない。それに耐えきれなくなってこんなことを……。

 ソフィアさんの想いには遠く及ばないだろうが、わたしだってアルベリヒさんが突然いなくなったら、きっと苦しくて泣いてしまうだろう。だから、その気持ちは多少なりとも理解できた。

 わたしはソフィアさんの傍に腰を落とすと、その背中をさする。この人が少しでも安らぐようにと。


 やがて落ち着いたのか、ソフィアさんは立ち上がる。


「二人とも、ごめんなさいね。私なんかのためにこんなことまで……もう大丈夫だから」


 けれど、その姿は弱々しい。大丈夫とは言うが、立ち直ったとは到底思えない。また同じ過ちを繰り返してしまうのではという考えが頭を掠めた。

 どうしたら良いんだろう。わたしに何かできる事があれば良いのに。


 と、そのとき、何を思ったのか、アルベリヒさんが凍った水面に降り立った。が、次の瞬間足元が滑って膝をついてしまう。


「くっ……」


 そこから慎重に立ち上がると、ソフィアさんに向き合う。


「さっき、言いましたよね。一緒にスケートをしてくれる人もいないって。俺はスケートが下手です。でも、練習して、冬の間にはなんとか滑れるようにしてみせます。だから、その時は、その……」


 アルベリヒさんは自身の胸に手をあて、もう片方の手をソフィアさんに差し出す。


「……もしよろしければ、俺と一緒に滑って頂けませんか?」


 あの台詞だ。記憶の中でアルベールさんがソフィアさんに言った台詞。

 でも、どうして? あの記憶を見たのはわたしとソフィアさんだけだったはず。

 ソフィアさんは目を見張る。と、その瞳に涙が浮かんだ。


「ええ、よろこんで」



 ◆ ◆ ◆ ◆



 結局その後で、ソフィアさんを自宅まで送り、トランクとその中身は後日返却する事になった。

 ソフィアさん、落ち着いたみたいで良かった。アルベリヒさんとの約束を守るまでは馬鹿な事はできないと言っていたし。この分なら安心していいみたいだ。

 自宅までの道を歩きながらふと、先ほどのアルベリヒさんの行動を思い出した。


「アルベリヒさん」

「うん?」

「さっきはどうしてアルベールさんと同じ台詞で同じ仕草ができたんですか? アルベリヒさんはソフィアさんの記憶を見ていないはずなのに」

「あの後、お前が実演して見せてたじゃないか。『あんな事言われてみたい』だとか言って。忘れたのか?」


 ああ、そういえばそうだった。アルベリヒさん、覚えてたのか。恥ずかしい……。


「そういえばお前、スケートは得意か?」

「え? ええ、まあ、人並みには」

「それなら頼む。教えてくれ。さっきも言った通り、俺はスケートが苦手なんだ。でもソフィアさんと約束してしまったし……」

「えー、どうしようかなー」

「なんだその言い方は。何が目的なんだ! まさか特別手当が欲しいのか!?」

「そうじゃなくて」


 アルベリヒさんが不思議そうにこちらを見るのでわたしは説明する。


「女性をスケートに誘うときにはそれなりのやり方というものがあると思うんですが。わたしも言いましたよね? 『あんな事言われてみたい』って」


 それを聞いたアルベリヒさんが慌てたように「は?」と声をあげる。


「嘘だろ? まさかあの恥ずかしい台詞をもう一度言えっていうのか? お前は悪魔か?」

「できないんですか? それじゃあスケートを教える話は無かったことで」

「お、おい、待て。わかった、わかったから……! この悪魔」


 アルベリヒさんが立ち止まったので、わたしも足を止めてお互い向き合う。

 何度か咳払いをしたり、所在なさげに髪をかきあげていたアルベリヒさんだったが、やがて意を決したように自身の胸に手をあてると、もう片方の手をこちらに差し出す。


「……よろしければ、俺と一緒に滑っていただけませんか?」


 わたしは笑顔を浮かべながら答えた。


「もちろん。よろこんで」



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