あなたらしくありません。―5

 お父様が魔物に襲われた――。


 全身から血の気が引きました。くらりと目まいがし、何だか世界が少し暗くなったようです。


「今、巫女のお母さんのところに人が来てたんだ。嘘とかじゃないぞ」


 ソラさんは真剣な顔で言い足しました。どうやら……わたくしを驚かせるためのいたずらではなさそうです。


「け、怪我の具合は?」


 問うと、ソラさんは重々しい声で、


「よく分からないらしい」

 と答えました。「とにかく……大けがだ、って」


「―――」


 話を聞けば、町の公舎を出たところを襲われたとのこと。出血がひどいのであまり動かせず、たまたま近くに町議会の人間の家があったので、そちらに運んで治療を行っているそうです。


 今、この町にはハンターがたくさんいます。その中には治療師もたくさんいるのですが……残念ながらほとんどが出払っているようで、父の怪我のために集まれたのは三人。


 その三人が必死の治癒にあたってくれているのです。


「お父様――」


 わたくしは手を震わせました。

 今すぐにでも飛んでいきたい。でも、今外出するのは――。


「外へ出てはなりませんよ」


 唐突に母の声がしました。


 はっと振り向くと、母は相変わらず優雅に扇子で口元を隠しながら、こちらへ歩いてくるところでした。


「今、町は厳戒態勢です。下手に出ることはまかりなりません」

「お母様」


 心の奥底がきりりと痛みました。

 母の言うことが正しいのは分かっています。でも、でも――!


「――どうしてそんなに冷静でいられるんですか……!?」


 わたくしは声を張りました。

 正論を守りたくない瞬間ぐらいある。こうしている間にも、父は苦しんでいるのに!


 母はパチンと扇子を閉じ、ふうとため息をつきました。


「お父様が、駆けつけてもらいたがっているとでも?」

「―――」

「もし本気でそう思うなら――お前は愚かですよ、アルテナ」


 母はわたくしをじっと見つめました。わたくしと同じ色の瞳でした。

 そしてそれを最後に、ふいと背中を向けてどこかへ行ってしまいました。


「……お母様」


 わたくしはがくりとその場に両膝をつきました。


 足が震えます。両手で顔を覆い、ため息を殺し、必死に呼吸をします。


 父は来てほしいとは思っていない――。


 そう、そうなのでしょう。わたくしも父とはどんな人かをよく知っています。きっと父はそれを望まない。


 でも、それでも――。


「………」


 うつむくわたくしの隣に、ソラさんがちょこんと座り込む気配がしました。


 何も言わず、そのまましばらく。

 彼女のほうに顔を向けることさえできないわたくしのそばで、じっとしていた彼女は、


「巫女」

 ふいに、ぱっと立ち上がりました。「私は行くから」


「……? ソラさん?」


 わたくしは顔から手を放しました。

 ソラさんは部屋から出ていこうとしているところでした。


「ま、待って! どこへ行くの……!」

「外。町長のところ」

「駄目ですよ! 話を聞いていたでしょう、今外に出ては……!」

「平気。私は魔術師だもの」


 ドアを開けながら、ソラさんは強い声で言いました。「魔術師は魔物の位置が分かるから」


 珍しく素に戻っている彼女の口調。それはソラさんのどんな感情を表しているのでしょうか。


「魔物の位置が分かる……?」


 わたくしは信じられない思いでその言葉を繰り返します。

 ソラさんはドアのところで半身をこちらに向け、主張するように拳を振り回しました。


「そういう魔術の使い方もあるっていう話。見習いだからって馬鹿にするな、魔物からぐらい逃げられる!」


「あ、待って!」


 言うなり行ってしまおうとするソラさん。

 わたくしはとっさに立ち上がり、追いかけました。まるで体がそうするのを待ち構えていたかのように、足はもつれませんでした。


 廊下でソラさんに追いつき、肩に手を触れて、


「駄目、本当に危ないの……!」


「巫女の意気地なし!」


 振り向くなり、ソラさんは怒鳴りました。


 ――わたくしの心に叩きつけるように。


「大切な人のところに駆けつけることもできないなら、町長の娘なんかやめちゃえ!」


 そうして――

 わずか十歳の女の子は、盛大に泣き出しました。


 呆然とその様子を見つめていたわたくしの耳に、「ママ、ママ」と嗚咽混じりの声が届きます。


 ――ソラさんは魔物に母を殺されている――


「ソラさん!」


 わたくしはソラさんを抱きしめました。


 ソラさんはわたくしの腕の中で顔を上げました。泣きはらした顔で、わたくしを見つめました。

 紡がれた言葉は千々に乱れていました。


「ま、ママは大けがした後、私たちに会いに戻ってこようとしたんだ。でもみんなが、治療が先だって、ママを連れていっちゃって、それで、それで、ママはもう帰ってこなか……っ」


 言の葉。そのどれもがわたくしの胸を刺すように痛ませ、どうしようもないくらい心が揺さぶられて。


 ――ソラさんはまだ子ども。父の都合や町の都合、周りに及ぼす影響、そういったものすべてが頭にないのです。


 でも……


「……分かりました。でも一人で行っちゃ駄目です」


 わたくしはソラさんの目を見つめました。


 自分でも驚くほど冷静でした。冷静に、そう口にしたのです。


「わたくしも行きます。ね?」


 ――なんてことを。


 頭の片隅で、そう叫ぶ自分がいます。

 町長の娘としての責任や体面は決して忘れたわけではありません。

 もちろん、父の思いも。けれど、


「ほんと?」


 涙に濡れたソラさんの目が徐々にきらきら輝き出す。その光を見ていると、これでいいのだと――思えてしまって。



 たぶん、この決断はソラさんのためではないのでしょう。

 まして父のためではありません。すべてはわたくし自身のために。


(お父様、お母様、ごめんなさい)


「下の階に行きましょう。薬草をたくさん持っていかなくては」


 わたくしは立ち上がりました。足に力がよみがえっていました。



 ソラさんと二人で家を抜けだし、こそこそと走る町中――。


 夕方から夜にさしかかったところで、町はそろそろ暗くなろうとしています。ヨーハン様の瞳の色と違って、今夜は不安になる暗澹あんたん色です。


 町は厳戒態勢。母の言葉通り、あちこちに自警団やハンターらしき姿がありました。彼らは火をたくさん持っているので、町は平時より明るいくらいです。正直助かります。


 途中で人々の話を盗み聞きしたところ、「どこからか魔物が数匹逃げ出したらしい」とのこと。


――? それは)


 つまり。それも町の中に!


(ヨーハン様が言っていた『取引』?)


 わたくしはぐっと奥歯を噛み締めました。


 この町に戻ってほんの少しですが、町長の娘として扱われれば思い出します。町への責任――町をふみにじられることへの憤り。


 許せない、と言っていたヨーハン様。


(わたくしも許せない)


 なるほど、わたくしたちは似ているところがあるようです。そんなことを思ってちょっと笑います。


「何を笑っているんだ巫女? こっちだ」


 ソラさんに引っ張られ、足をもつれさせながら進む道。


「巫女、運動不足じゃないか?」

「そ、そうね。家に引きこもっているから……」

「お兄ちゃんは引きこもりは嫌いだぞ」

「騎士のために生活してるわけじゃないのよ」


 今このときに町長の娘がほいほい町を歩いているところを見られては具合が悪いので、わたくしたちはできるだけ裏道を歩きました。


「裏道はいいぞ。色んな発見がある! ネズミも多いし」


 ソラさんは意気揚々としています。この数日の滞在の間、彼女はこの町を探検していたようです。


「この間この町のネズミと我のネズミを戦わせたのだ。結果は圧勝だった! やられたネズミを作り直すのが面倒だったけど」

「それは最初から戦わせなければいいんじゃ……」

「馬鹿を言え。性能を確認するのが大事だ」


 私の魔力は増してきているんだぞ、とソラさんは嬉しげに言いました。


「………」


 ソラさんの魔力が増すことに恐怖を感じるのはわたくしだけでしょうか。


 ちなみにソラさんは袋をかつぎ、手には藁人形を持っています。袋の中には当然ネズミ人形が詰まっているわけで、想像するとちょっと卒倒したくなります。


 道中、幸いなことに魔物に遭遇することもなく、順調に進みました。


 わたくしは腕に抱いた薬草袋の感触をたしかめました。もとより父の元には山ほど薬草が集まってきているのでしょうが、気休めでもないよりましです。


(もう少し)


 父が運び込まれた家まであと五分ほど。


 この分なら無事につけそうです。ほっとして、ソラさんと二人、角をひとつ曲がりました。


 そこは酒場のある通りでした。この時間帯、酒場は盛況です。中から聞こえる賑やかな声が、わたくしを妙な気持ちにさせました。町が危険というこのときに、しかもこの近くで町長が怪我の治療をしているというのに、いつも通り平和に飲んでいる人たちがいる……


「………?」


 ふと見ると、酒場の横の道から人の足が飛び出しています。


「あ――」


(倒れてる……?)


「何だ、行き倒れか?」


 ソラさんが額に手を当てます。わたくしの見間違いではなさそうです。


 わたくしは急いで駆け寄りました。


 倒れていたのは、老年の男性でした。肩を叩くと反応があります。怪我もしていなさそうです。


「って、うわあただの酒飲み!」


 ソラさんが悲鳴を上げて離れていきました。


 たしかにすごいお酒の臭いです。きっと酒場でお昼から飲んでいたのでしょう。わたくしは声をかけ、ご老人を助け起こしました。


 老人とは言いますが、なかなか立派な体つきをしています。現役で働いている人に違いありません。今日はお休みの日だったのでしょうか――。


 すまんすまんとご老人はにこやかに言いました。


「ついうっかり飲み過ぎてのう」


 お酒臭いですがいい人です。わたくしは微笑して返しました。


「お薬はいりますか?」

「おお……少しもらおうかな」


 薬なら今山ほどあります。わたくしは袋の中から役に立ちそうなものを渡しました。


「ありがとう。優しいお嬢さんじゃ」

「そうだろう。巫女は優しいんだ」


 ソラさんが離れたところからわざわざ声を張りました。そこまでして言うことじゃないと思うんですが。

 妹さんかねとご老人は訊きました。


「未来の妹だ!」

「違います」


 ソラさんの即答をこちらも即座に否定。これだけは譲れません。


「ほうほう。何だか面白いの」


 ご老人はわたくしの肩を借りて立ち上がり、愉快そうに笑いました。


「のうお嬢さん、こんなジジイからだが、ひとつ忠告しておくぞ」

「まだお若いですよ。何でしょう?」

「あまり簡単に人を信用してはいかんよ」

「―――?」


 ご老人はわたくしから手を放しました。そして、ふらふらした足取りでどこかへ行ってしまいました。


「何だ、変なじいちゃんだな。――うわっ!」


 戻ってきたソラさんが、わたくしに近づくなり即座に飛び退きました。「巫女、お酒臭いっ!」


「え、あ、ほんと……」


 どうやらご老人のものが移ってしまったようです。

 困りました、このままで父の元へ行ってもよいものか――。


「ふ、服を着替えたほうがいいんじゃないか?」

「――いえ。きっと説明したら分かってもらえます」


 着替えに戻る時間が惜しい。一刻も早く父の元へ行きたい。せっかく魔物に遭遇せずにここまで来たのです、きっとこれは神のお導き――。




 住宅街の裏道や小道ばかりを通ってきた先。

 ようやく目的の家の裏側が見えてきました。


 窓から灯りが見えます。人がたくさん集まっている気配。

 わたくしは唾を飲み込みました。もう少しで父の様子が分かる――。


「あれ……」


 ソラさんが足を止めました。


「ソラさん?」


 勢いで数歩先に行ってから、わたくしも止まりました。

 振り返りソラさんを呼ぶと、


「……なんで?」

 ソラさんの顔色がみるみる悪くなっていきます。「そんな馬鹿な! どうして」


「ど、どうしたの?」


 ソラさんは突然わたくしの手を取り、走り出しました。


 いきなり引っ張られ、わたくしは足をもつれさせました。「ま、待って!」転びそうになりながら何とか訴えると、ソラさんは振り向きもせず答えました。


「待ってる場合じゃない、魔物だ! 。こっちへ――こっちへまっすぐ向かってる!」

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